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「フラミンゴって、食べたものによって色が変わるんだって」 突然クラゲは言った。朝の光がだんだんと窓の向こうから差し込んできた。クラゲの何もかもを吸い寄せるような黒い眼。まるで深海で光る、魚の鱗みたいに。ひっそりと佇む宝石みたいに。孤独の中で疑うこともせず純粋に光る月みたいに。決して太陽みたいなんかではなくて、暗いところでひっそりとただそこにいる。水下はクラゲが美しいとそう思っていた。
「フラミンゴ?なんでそんな話」
「優しいと思っていた人に与えられた食事を食べてたらその色になってしまった」
クラゲは水下の質問に食い気味に答えた。
冷たい声が耳に染みた。
「真っ白なまま生きていたかったのに、他人の手で自分の色を赤色にされてしまった」
水下は何が言いたいんだと言いたげにクラゲの口がまたいつ動くかを真剣に見つめていた。
「僕といたら君だって」
やっと口を開いたと思えば、妙に簡単な話。なんだ、そんなことかなんて言ったようにラクダはクラゲの口を押さえた。
「そんな風にされるくらいなら、自分からでていきます」
水下はみくびるなとでも言うように下り階段の先を眺める。それを横目に、クラゲはそっと言い放った。
「僕は染めようともしたくない」
ある夏の日だった。どこかもとうに覚えていない。とあるところの廃墟。そこに彼はいた。何も言わずに白く細い体で
水下の頭を撫でた。屋上でのことだ。水下の体重はフェ ンスにかかっていた。何も思えなかった。何も感じなかった。ただ、強いて言えば、彼の撫でた手だけが冷たく感じた。彼は言った。「みんな悲しむよ」ありきたりな言葉ばかり、彼は言った。虫唾が走った。彼の四肢をもぎ取って捨てて胴を刻んで捻って焼いてやりたかった。そんなこと言われなくてもわかっている。常套句をとめどなく吐き続ける、彼の口を鷲掴みにするくらいには。ミシミシと音を立てていた。ような気がした。感情的になって逃げられなかった。
彼はただ、そこにいて、でも諦めたのか、「ここでは飛ばないで」とだけ。それだけの言葉で意味はわかった。ここで飛ばれたら警察が調べに来る。そしたらここに来られなくなるから。それはとても困るから。それがわかった。それがわかった途端に怒りと憎悪と、あと、悔しさが、なぜか込み上げてきたのだ。鮮明に覚えている。覚えている。でも、彼の眼は、水下を否定するから、水下はきっと言い返せなかったのだ。
それから毎日そこに通った。友達の誘いには行かなくなった。最低限の授業を受けて、毎日彼に会いに行った。屋上の一・五階下の踊り場。
「今日も来たの。何しに来るの?」
彼は毎日そう聞き、水下は毎日無視した。彼はまるで、自分の家だというように、廃墟に来る水下をもてなした。水下は腹が立っていた。何に対しても腹が立っていた。
「こんなとこで毎日毎日何してるんです?」
ある日水下は彼にそう聞いた。
「君みたいな人を止めてんの」
そうやって、彼は冗談じみて答えた。水下はそんな彼を随分と羨ましく思っていた。一人でひっそりと、読書なんかして、タイトルは「五分で泣ける!心温まる愛の物語」。ひんやりしたこの廃墟で、可愛らしい女の子が描かれた表紙を開いていると、あまりのミスマッチさに笑える。人目を気にせずダラダラと。なんて羨ましいんだろう。好きな事をして、好きな場所にいて、恋なんてせず、一人で。
「感動するなぁ。傑作だ」
信じられない。彼のどこをどう見て感動している一人間として観られるだろうか。
「常套句で宥めるくらいの価値しかないですか?」
水下が呟いた。
彼はその本をパタンと閉じては、水下を見て、ため息をついた。まるで、理解できない物体であるかのように、水下を上から下までまじまじと見つめた。表情は微笑んでいるものの、視線が水下を突き刺していた。
「宥めてあげようか、僕の言葉で」
彼の言葉に水下はまた黙って床のシミを見つめた。こんなところ、彼がいなければ来ない。全部彼のせいだ。彼が心の底から止めてくれていれば、こんな汚い廃墟に毎日毎日来なくて済むのに。……信じられないくらいの我儘なのは水下にだってわかっている。
「いいです」
あげようか、なんて言われて宥められて、誰が嬉しいもんか。それを見透かしたように彼は顔をまた本の方に戻して、眺めた。
「知ってる」
彼はそう言ってまた水下の感情を逆撫でする。だが、こんな奴も、水下には美しく見えた。儚げで、今にでも消えてしまいそうな、細い細い氷を触っているような気さえした。やはり水下は我儘すぎる。矛盾しすぎている。それはこの世があまりにも頑丈で冷徹だからかもしれない。
彼の読んでいるページは五十分立っても変わらなかった。
「今日も来たの。何しに来るの?」
水下はそれを無視した。何を話すでもなく、二人は個々でいる。水下は窓から地に咲いている白い花の育ちを眺め、彼はいささか眠たそうに本を眺めた。今日の本は「美しい愛」などと言う、詩がいくつも入っているシンプルなものだ。本というよりも詩集だった。
「名前」
不意に、水下がぽつりと言った。彼は振り向きもせず、「なあに?」とだけ返事をした。
「名前聞いてない」
彼は返事をせず本をパタンと閉じた。そして水下のそばまで行き、細い指を口に添えた。
「内緒。君は?」
腹が立つ。ここ最近何にでも腹が立つ。その頼りない指をバキバキにしてやりたい。……やりすぎか。
「言わないなら教えません」
水下は彼の真似事をして反発した。彼は少しばかり残念そうに小さく頷いた。彼が教えないと言ったのだ。そんな反応はずるい。だがすぐそんな反応も消え、「じゃあ」と言ってある提案をした。
「君の名前をラクダとしよう」
水下は目を見開いて彼に向けた。腑に落ちない。ラクダっぽく見えるだろうか。水下の二十一年間のうちに呼ばれたことのないあだ名だった。
「なんで」
水下のその言葉を待っていたと言うように説明を始めた。
「ラクダっていうのは粘り強さの象徴でね。君にピッタリでしょ。僕の言葉が聞きたくて、グダグダ通ってるお子ちゃまに」
彼の首はどれくらいの力で潰れるだろう。ああこんなにも腹が立つ。腹が立つ。言い返してやりたい。水下は二分程考えて彼に言った。
「なら、アンタはクラゲだ!」
彼は「ふうん」と言って首を傾げた。クラゲ、脳みそも感情もなく、死ぬ時は溶けてなくなる。誰にも気づかれずに。ぴったりですね。なんて嘲笑ってやったら、彼は驚いたように笑った。
「そうならいいね。何も感じないんだものね。誰からも綺麗に思われたまま、消えられるんだ」
それに、と彼は話を続けた。
「君にそんな綺麗な生き物だと思われてたんだ」
その日から、彼の名はクラゲとなった。
「また来たの」
今日は何しに来るのとは言わなかった。今日の本は「幾つもの苦難を乗り越えた二人の愛」という本だった。いつもいつも、キラキラとした表紙で、子供が読みやすいようにされた本を読んでいる。意外とそっちの趣味なのだろうか。
「クラゲ、それ何」
水下はクラゲの右側にあった小説を指差した。クラゲが読みそうにない。字が小さく書いていそうな、いわば難しそうな本だ。題名は本が背中を向けているせいでわからなかった。
「僕が書いたの」
「なんだ、フリーターかと思ったのに……。なんの小説書いてるんです?」
慣れない嫌味を言いながらも水下はさりげなく聞いた。すると、少し躊躇いがちにクラゲは答えた。
「風鈴来たりってやつだよ」
「え」と、水下の口から漏れ出した。風鈴来たりは友達が熱弁していた本だ。
ある少女がある男に愛を囁やく魔法の風鈴を送る。他の女達も、男に美しいと言って風鈴を送るがその女たちは少女に殺されてしまう。そうして少女の気持ちはどんどん深くなる。だが、風鈴は気持ちが強くなるほど呪いを囁くようになる呪いの風鈴だった。日に日に蝕まれていく男を見た少女は彼を忘れるために努力するが出来ない。風鈴も壊せない。そこで少女は死を選ぶ。それを知った男は少女と一緒に死ぬ。口頭で聞いた内容だから、何故呪いになるのか、何故風鈴が壊せないか、そもそもなぜ風鈴なのかなど、ところどころあやふやで、よくわからないところはあるが、本好きの友達の本棚には大体並んでいる。少し共感できない話だと思いながらも友達の話に頷きながら聞いていた。少し刺激的な内容であるゆえ、なぜみんなが置いているか不思議なところではある。友達に“風鈴来たり”の話を聞いてから二、三人に「なんで持ってるの」と聞いたら、みんな「なんでだろう」と答えるのだった。魅力的なものがあったのだろうか。
「これは友達に売りにいく用」
だからこんなところにずっといて生活できるのか。水下はすぐにスマホを開いて「風鈴来たり 作者」と調べた。作者の名前は相打江尾……。あいうえお。適当につけた名前としか思えなかった。
「ラクダ」
「なに」
クラゲは少しの間を置いて、それから水下を見て、自分語りを始めた。
「僕ね、会話が苦手だよ。だから小説にするんだ」
水下は首を傾げながら頷いた。会話が苦手なのは語彙力に難があるからではないらしい。
「物語にすれば、自分の一番深いところを曝け出せる」
それは本音というものだろう。自分の本音は物語でなくては出せない。と言いたいのだろうか。クラゲは「つまり」というと眼を細めて訴えかけた。
「見ないでね」
何故か怯えた子猫みたいな彼に、何も言えない。クラゲはまだクラゲではないのかもしれない。彼の持っている詩集が逆さなのは、クラゲがクラゲではないからかもしれない。
「また来たの」
今日のクラゲは疲れていた。何故か今回はキラキラした少女用小説じゃなく、愛なんて単語も入っていないような、渋い時代小説を読んでいた。
「何かありました?」
水下の問いにクラゲは乾いた笑顔で言った。
「猿の求愛行動を見ただけだよ。激しめのね」
クラゲの目はこちらを向いているものの多分目は合っていない。合っていない。遠回しにことを言う。まるで人間みたいに落ち込んでいる。忘れていたものを抉り起こされたように落ち込んでいる。それは水下でもわかった。
「やはり曖《あい》は美しいね」
今までなんの話をしていたんだ。愛を見て吐き気がしていたんじゃないのか。はっきりしろと、水下は考えながらも、少しわかるような気がしたから言えなかった。
「愛なんて」
水下がやっと絞り出した言葉は喉を焼くように嘘が全ての本音だった。
「僕は愛を愛している」
クラゲは水下のそばまで来て、「でも」と続けた。
「曖なんてなくなればいいとも思う」
愛していると豪語するならあったほうがいいじゃないか。クラゲの声の冷たさに、水下は顔を伏せた。クラゲの考えていることが全くわからない。窓の外には、蝶々がヒラヒラと羽ばたくのを神は知らないのか、風に吹かれて飛んでいってしまう姿が見えた。でも、すぐに戻ってきてまた挑む。馬鹿らしい。
「君は僕を綺麗だと思う?」
突然水下の伏せていた顔を覗き込んで、クラゲはまた馬鹿らしい質問をした。だが、不覚にも耳の先の方が熱くなったのは確かである。
「それが愛とかいう話と関係あります?」
水下はすぐに目を逸らした。クラゲの目はどこか、裏切られたような、わかっていたと言ったようなそんな目だった。
「自意識過剰ですね」
水下が言うと、少し声を出して笑ってそして窓を大きく開けた。その窓の淵を跨いで水下の方を向いて座った。
「落ちちゃいますよ」
「落ちても誰も気が付かないんでしょ」
クラゲは水下を抱き寄せて、それから耳元で囁いた。
「僕はクラゲなんだから」
水下はクラゲを抱き返した。水下がもし本当のことを言ったら、細く肉のない体に少しだけ、大きな羽が見えたかもしれない。
そもそも、美しいという三文字を愛した男をラクダは存じているだろうか。
美しいはその男の母の口癖だったという。彼の家はタバコと酒と女物の強い香水の匂いに溺れ、鼻が捻じ曲がりそうだった。因みに、香水の匂いは色々なメーカーのものが入り混じった匂いだ。その中に、母のものは一つだけ。母は気に入ったものをとことん使う人であった。母は彼に言い続けた。美しくいろと。まるで認められることに飢えた死人である。
「……ママ、僕のこと好き?」
母は振り向いて、返事した。本当の顔がまるでわからないほどの厚化粧をした母が、にっこりと笑い、彼の頬にキスをする、
「だぁいすきよ」
彼は嬉しそうに母の元へ駆け寄った。母も嬉しそうに子を抱きしめて、一言付け足した。
「貴方は美しいんだから」
彼は幸せそうだった。幸せそうだった。
「あの子の目は黒真珠みたいだった」
つまり真っ黒だったと言う意味だ。彼の大切な人はそう言って、茶の乾いた葉っぱを撫でた。
「幸せ?まさか」
許せないと言うように、男は彼の話をした。
クラゲの目が雨《さめ》た。クラゲの目を伝う雫が床に落ちる音で目が覚めた。水下は、クラゲの額を撫でた。風の音がうるさい。
「ラクダ、また来たの」
夕日か朝日かわからない、それでもその日は太陽が、マッチに火をつけたぐらい、小さく感じた。
「なんで、泣いてるの」
水下はクラゲを気にかけてハンカチを渡した。クラゲはそれを断ったかと思うと、勢いよく起き上がって、水下の頬にキスをした。腕を首に巻き付けて、甘く軽い子供みたいなキス。水下は動かなかった。何秒か経って、それから水下はクラゲを抱きしめて、首を振った。太陽は空気を読むみたいに薄暗かった。
「ありがとう」
クラゲはそう言ったものの、わかっていた。水下の腕が、何分もクラゲを離さない理由を。
「また来たの」
今日のクラゲはいつもと同じようにキラキラした表紙の本を読んでいた。
「クラゲっていつも馬鹿みたいなこと言う」
水下の言葉にクラゲはキョトンとして、それから上品に笑った。
「じゃあもう一つ馬鹿を言ってあげよう」
窓から差し込む光がクラゲを包むみたいだった。
「美しくありたいっていったら、笑う?」
水下は顔は見せなかったが、ハハっと笑った。それが答えだ。クラゲは少し幸せそうに見えた。見えた。
「昔僕を好きになってくれた子がね、僕の顔を見て不細工だって言ったんだ」
そりゃあ滑稽な話だと、水下も笑った。目を閉じて、誰にも狙われないこの空間でひっそりと。
「確かに」
水下も負けじとクラゲを貶した。クラゲは、嘲笑うように返した。
「最も、彼女は僕に反発したくて言ったわけじゃないけどね」
水下は大きくため息をつくと「そう言うところが不細工だ」とクラゲに言い返す。今度はただ笑うだけで、クラゲが言い返すことはなかった。
「ラクダはお風呂、好き?」
「嫌い」
食い気味に返事をした水下に、クラゲは少し驚いていたが、すぐに理由を聞いた。
「服脱ぐのが面倒」
クラゲは「あらら」と笑った。かなりのめんどくさがりだと言うように本を眺めながら笑った。
「僕は好きなんだ。浸かると息がしづらくなるでしょう?」
「それが嫌だよ」
二人はお互いの感覚の違いに笑い合った。何分も笑った。
「最近夢を見るんだ。昔の夢」
また突然話し出して、そう、先の見えない話題を話した。
「見る?夢」
「見ないな、夢」
クラゲはそれ以上何を言うわけでもなく、そっかそっかと頷きながら、ニコニコ笑った。ニコニコ笑った。
「また来たの?」
何回めのセリフだろう。嬉しそうに、今日は自分の隣をポンポンと叩いた。ここに座れと言っているのだろう。
「何かいいことあったの?」
「んーん、蝶々が花の蜜を吸ってるところを見れたから」
彼の感性がわからない。特別虫が好きなわけでもないだろうに。うっとりとした様子で子供みたいにはしゃいでいる。
「今日の本は?」
クラゲの手にはいつものような本はなく、代わりに国語の教科書を持っていた。開いているところは“大阿蘇”。
「友達の友達から借りたんだ。今日から春休みらしいから」
大阿蘇なんて覚えていない。どんな内容だったろうか。少なくとも面白いと思って読んだ覚えはない。
「文が苦手だからさ、大体国語嫌いだったんだ」
水下が言うと、クラゲは意外だと言うように返事をした。
「ラクダは本が好きだと思ってた。僕は漢字以外なら好き」
最近色々と彼のことがわかってきた。嬉しいような、面白いような。
「面白い?」
「まだ見てない」
ニコニコと幸せそうに笑う彼を横目に、水下も楽しそうに笑った。
「本当に」
幸せだ。
「ねえ、葉っぱが窓を渡ってる。君が初めてきた時は見えてすらなかったのに」
何日通っただろう。これからも通うだろう。物語は終わらないだろう。続くだろう。クラゲは笑いながらカラスのような色の目を、少しだけ、水下にやった。水下は少しだけ愛を感じたような気がした。クラゲは曖を送っていただろう。
また来たの、とも言わなくなった。当たり前になった。クラゲとの毎日が楽しかった。遊んで恋してフラれて恋して、そんなことをしているより、よっぽど有意義で楽しかった。水下は眼を瞑って瞼の裏を見た。万華鏡のように光の粒が動き回った。この世の有象無象が今ここに集まって、世界は空っぽで、自分とクラゲだけがいるような気がした。でも外からは軽トラックのクラクションが怒鳴り声を上げる。
愛してる、ポツリと水下はそう言った。何でもない、ふらっと言った言葉だった。水下の気持ちは嘘じゃなかった。クラゲが好きだった。愛していた。お互い同じ気持ちだと思った。だってクラゲは水下に曖を送っていたのだから。でもそれは勘違いだったようだ。
「なんで……」
裏切られたような、そんな顔だった。「信じていたのに」と言いたげだ。
「驚いた。」
静かに、でも大いに心を抉られたと言わんばかりのクラゲの声に、建物中が後押しする。もっと、言え、アイツが裏切ったのだ。と言わんばかりの轟ように水下も後退りせずにはいられなかった。
「私はまた怪物と会話していたのか。そう思うと鳥肌が立つ。」
クラゲが何を言っているかわからなかった。ただ、クラゲがとてつもない不快感を覚えているのは確かだった。誰のことを言って「また」なんだろう。水下は彼をまだ知らずにいた。
「貴方はきっと、私の憎悪を向ける価値もない。」
水下の愛は、クラゲにとっては軽率で、水下にとってはとても大切だった。クラゲの手は自らを壊そうとするみたいに強く頭を抑えていた。自分の言ったことを後悔していた。違う、こんなことが言いたいんじゃないんだと言うように、クラゲは空の虚無を見つめていた。
「クラゲだって、愛は愛おしいとかほざいてたくせに」
酷く後悔した。なんで言い返してしまったんだ。水下は荷物を持って帰った。クラゲは踊り場の隅で目を瞑った。全ての音を遮断して、水下の顔を思い出した。またアイツは死ぬだろうか、そう思うと怖くて仕方がなかった。やはり人は同じ。人は同じ。人は同じ。
美しい声が響いた。世界はゆっくりと夕に近づいていき、やがて、廃墟に西陽が差し込んだ。廃墟は慰めるようにクラゲの声に反響した。クラゲの背に当たる光は容赦なく温度を共有した。民謡みたいな歌だった。ご機嫌ようとやってきたのは、風に吹かれたホコリだ。藍色の声の持ち主は、もうクラゲではなかった。前に進めないホコリを、ただ見つめ、手を貸してやるのは間違いだと風はまたホコリを後ろにやる。全て放棄したような、そんな声だった。それでもホコリは争い続け、最後、風が止まった時、ホコリは元の壁の角に追いやられていた。クラゲになれない自分を、酷く拒んでいるようだった。毎日歌った、歌った。
幾分か経ち、ラクダは来た。水下はラクダだった。水下はもう水下ではなかった。彼がもうクラゲではないように。
「クラゲ、」
ラクダが呼ぶ声は温かく、緩く紐を結んだような声だった。彼はすぐに微笑んだ。そして立ち上がった。走った。踊り場なんてとうに気にしちゃいなかった。彼はラクダを抱きしめた。
「ごめん」
ラクダも彼を抱きしめた。彼はクラゲに戻っていた。
「いいよ、でも、」
ラクダが続けた。ここに水下なんていなかった。水下はラクダになったのだ。窓から差し込んだ光が、まだまだ眩しくて、二人は目を閉じた。眩しかったせいだ。眩しかったせいだ。
「曖してる」
「僕も、」
二人は抱きしめ合った。何者にも邪魔されない。ラクダはクラゲのためだけに生きている。水下はラクダのために生きている。二人は笑い合った。
「曖してる」
クラゲもラクダを曖した。二人は曖し合った。冷たいクラゲの手、温かいラクダの手、二人の手が温和する。
「フラミンゴって、食べたものによって色が変わるんだって」
突然クラゲは言った。朝の光がだんだんと窓の向こうから差し込んできた。クラゲの、光さえをも吸い込むようなその眼は黒く、揺れ、どこまでも続いていた。まるで、カエルを捕らえた山椒魚みたいに。大地に抱きしめられる宝石みたいに。金星と楽しそうに話す月みたいに。決して一人なんかではなくて、明るい光に照らされて、ただそこにいる。ラクダはクラゲが美しいとそう思っている。
「フラミンゴ?ああ、昔そんな事言ってた」
「優しいと思っていた人に与えられた食事を食べてたらその色になってしまった」
クラゲはラクダの言葉を食い気味に遮った。
冷たい声が耳に染みた。
「真っ白なまま生きていたかったのに、他人の手で自分の色を赤色にされてしまった」
ラクダは何を言っても受け入れると言いたげにしていた。クラゲの口がまたいつ動くかを真剣に見つめて。
「僕といたら君だって」
やっと口を開いたと思えば、また同じ簡単な話。ラクダはクラゲを宥めるでも、馬鹿にするでもなく、薄ピンクの唇の上から口を押さえた。
「あんな綺麗なピンクになれるなら、君を曖せる」
そう、うっとりと下り階段の先を眺めるラクダを横目に、クラゲはそっと言い放った。
「僕は染めたくない」
クラゲは小さな声で付け加えた。
「染めたくなかったけど」
二人はずっとずっと曖し合う。この一つの廃墟で。二人は変わらず笑い合う、笑い合う、笑い合う。
「もうどうだっていい」
二人とももうどうだってよかった。
どうだってよかったのだ。二人は変わらず笑い合う。何年も、何年も、皮膚が腐って骨になっても、きっと。