「そのツルツル頭は……。あー、やっぱり同期のー、同期の……、同期……」
澄んだ空気が、草と土の匂いを彼らに運ぶ。
マリアーヌ段丘は海と山に挟まれているため、その日その日で空気の気配が変わるのだが、今朝のそれは乾燥気味だ。体にまとわりつくことはなく、すっと通り過ぎては消えていく。
緑色とわずかな茶色で構成された世界。イダンリネア王国の門から一望出来る、平和な風景だ。
そこへ、一人の傭兵が現れる。まるで散歩のように、その足取りはマリアーヌ段丘を目指している。
一見するとおかっぱのような髪型だが、こじゃれたこれはボブヘアーだ。茶色い髪を顎下で揺らしつつ、背中の大剣をカチャカチャと鳴らしながら歩いている。
肌着のような黒い服の上にスチールアーマーを重ね着でまとい、魔物からの攻撃に備える一方、下半身は丈の長いスカートで済ませている。
「その声は……、エルディアか。信じられん……、また同期の名前忘れやがったのか」
「ごめんごめん。今日も磨きがかかってるねー」
その軍人は門の右側に立っていた。嫌そうな表情を浮かべながら、声の方へ振り向く。
「うるせー。ちなみにサウロだからな。まぁ、傭兵に成り下がった奴に覚えられても得はしねーけどよ」
男の名はサウロ。エルディアの発言通り、頭はスキンヘッドだ。左頬には、魔物に斬られた際の傷痕が残っている。その場に回復魔法の使い手がいなかったがゆえの古傷だ。
門番らしく、戦闘を想定した軍人用の軽鎧をまとっている。グレーの装甲は見た目ほど分厚くなく、鍛えられている彼らならこのまま走ることも容易い。
エルディアとサウロ。二人は彼女が軍に所属していた際の同期だ。特に仲が良かったわけではないが、機会と話題があれば多少なりとも言葉を交わす間柄だった。
「前から思ってたんだけど……、この仕事っておもしろいの?」
「んなわけねーだろ……。任務だから仕方なく、だ」
エルディアからの問いかけに、サウロは小さく落ち込む。変わらぬ風景をずっと見続けるだけの仕事。退屈に決まっている。
「そっかー。がんばってね」
「傭兵様はお気楽でうらやましいぜ。お、そうだ。急ぎじゃないなら、あれどうにかしてくれねーか」
歩き始めようとしたエルディアだったが、元同僚が何かを指さしたため、視線をそちらへ向ける。
見飽きた草原だ。小さな丘や緩やかなくぼみがあちこちに点在しており、平原とはほど遠い。
サウロの人差し指は門から見て左前方を示しており、そちらはどこまでも続くなだらかな下り坂だ。
「あ」
天候にも優れ、空からは朝陽がやさしく降り注ぐ。いつもと変わらぬ、平和なマリアーヌ段丘そのものだ。
だからこそなのか、小さな異物は目立ってしまう。
彼女らから少し離れた場所で、高そうな服を着た少年が死体のように横たわって眠っている。
「言っておくけど死んでないからな」
サウロは念のため補足する。視界内で死なれてしまっては、門番として立つ瀬がない。
「わかってるよー。素振りして、そのまま寝ちゃったんだろうねー」
「なんだ、知り合いか?」
「うん。昨日、草原で拾った」
寝ている少年はウイルだ。エルディアは事情をわかっているからこそ、さほど驚かずに歩き始める。
「おまえ、とんでもないガキを拾いやがったな」
「どゆことー?」
話は終わっていない。そう言いたげに、軍人は話を続ける。
「短剣の扱いに慣れるよう言ったのはおまえか?」
「うん」
「前々から思ってたけど、ほんと常識ないよな。あんなガキに無茶させんなよ」
まさかの説教に、彼女としても困惑せざるをえない。
アドバイスをしたことは事実だ。とは言え、無茶をさせたつもりもなく、何を責められているのか理解出来ない。
「どゆことー?」
「あのガキ、ついさっきまでずっとやってたぞ。休み休みだったけど、少なくとも寝ないで、だ」
その説明がエルディアの思考を凍らせる。
素振り千回を、夜まで。
そう言ったはずだが、実際には徹夜までして素振りを続けたということになる。
「……ずっと?」
「ああ、そうだ。見たところ、ただの子供じゃねーか。いや、貴族っぽいな。まぁ、俺達のような戦える連中……、とは明らかに違う。普通の子供だ。いや、根性だけはとんでもねーけど。まぁ、そんなことはどうでもいい。おまえ、どんだけスパルタなんだよ。さっさと介抱してこい」
「……うん」
サウロから突き付けられた事実。それに驚愕しながらも責任を感じ、エルディアは再度、ウイルの元へ向かい始める。
もしかしたら厳しく言ってしまったのかもしれない。
回数に無茶があったのかもしれない。
そういった予想が脳裏をよぎり、彼女を一瞬だけ落ち込ませる。
だが、一瞬だった。
(な……⁉)
男は、その横顔を見逃さなかった。
エルディアが横を通り過ぎるその刹那、その表情は新たな感情を反映させていた。
不敵な笑み。
サウロには理解出来ない。反省を促したのだから泣きはしないにせよ、しょぼくれたまま歩き始めるのだろうと思っていた。
だが、どうだ。
彼女にとっても無意識なのだろうが、不適切な表情を少年に向けて歩き始めた。
エルディアの思考など、この軍人には全くもって理解できないが、それでも脳裏にはとある単語がぱっと浮かぶ。
魔女。
イダンリネア王国の脅威は魔物だけではない。魔女と呼ばれる彼女らもまた、千年にもわたる因縁の敵だ。
魔女とは、姿かたちが人間と瓜二つの魔物だ。見た目においてもある一点を覗いて人間と大差なく、自分達を油断させるために、そう進化したのだろうと考えられている。
魔女は紛れもなく魔物だ。そう断言出来る理由は、なぜかその全てが、見た目だけなのかもしれないが女性の姿をしている。魔物にも性別は存在するのだが、魔女は文字通り女しか見当たらず、そういった背景からも、何より長年にわたる魔女との戦争によって、王国の人達は魔女を巨人族同様、ひどく恐れている。
エルディアは人間だ。それは間違いない。魔女特融の身体的特徴が見当たらないのだから、そういった事実からも断言出来る。
にも関わらず、この軍人は同期でありながら、彼女に魔女という存在を重ねてしまう。
それほどに、今の笑顔が不気味だった。
そもそもなぜ笑うのかがわからない。
いっそ問いただせば、謎は解けてすっきりと軍務に励めたのかもしれない。
だが、声をかけられなかった。
その後ろ姿を見届けることしか出来なかった。
それほどまでに、エルディアの横顔に言い知れぬ何かを感じ取ってしまった。
(だからあいつのことが……、傭兵は気にくわなねーんだ。何考えてるのかさっぱりわからん。はー、やめやめ。任務に集中集中。今日も良い天気だ)
サウロは大地の広さと空の青さを満喫しつつ、思考を停止させる。
傭兵を毛嫌いしているわけではないのだが、軍人とは根底からその在り方が異なっている。それをわかっているからこそ、やはり相容れないと思えてしまう。
ましてや彼女は何年も前からの知人だ。
そうであっても、行動方針や信念の類が全く読めない。共感すら不可能だ。
ゆえに、そのことについて予想することはもうしない。答えに辿り着けない上に、そもそも答え合わせが出来ないのだから、無意味な行為に他ならない。
今は仕事中だ。祖国を守り、国民を守るため、門番らしく、マリアーヌ段丘をじっと見守り続ける。
視界の隅で倒れている、正確には寝ている子供についても、もはや心配はいらない。傭兵に任せたのだから、それがエルディアであっても子供の介抱くらいは出来るはずだ。
そう自分に言い聞かせ、サウロは大きく息を吐く。
(お、着いたか。どうせ当分起きやしねー、一旦連れて帰るしかないだろうな……。あ、いかんいかん。気にするな俺! 無視だ無視)
男はまぶたを閉じる。完全に仕事放棄だが、彼女らの動向が気になってしまう以上、仕方のない処置だ。
軍人には軍人の、傭兵には傭兵の使命がある。共通している部分と言えば、魔物の排除を担っているということだ。
だが、それについても完全な一致とは程遠い。
傭兵はイダンリネア王国の近隣および、指定された魔物を自分らで選び、討伐する。
一方、軍人は巨人族の掃討が専門だ。
傭兵も巨人と戦うことはあるのだが、遭遇戦ゆえのやむを得ないパターンか、受注した依頼のため、そして等級を上げるために討伐する程度だ。
巨人については軍隊に任せておけば良い。傭兵全員の共通した見解だ。
軍人には軍人のやるべきことが、傭兵にも傭兵にしか出来ないことがある。
今回なら、エルディアがその少年に手を差し伸べることがそうなのかもしれない。
家なり宿なりへ連れ帰るだけなら誰にでも可能なはずだ。叩き起こしてから目的地まで同行すればよい。
だが、そうはしない。この傭兵にそのような選択肢はなく、目的は明白なのだから、それに向かってまい進するつもりだ。
「おー、寝てる寝てる」
そして辿り着く。
疲れ切っているのか、足音がどれほど近づこうと、それこそ茶色いスカートの裾が彼の髪にかかろうと、ピクリとも反応しない。左肩を下にして、横向きにぐっすりと熟睡中だ。
エルディアは腰を折り、ウイルの寝顔を覗き込む。
(きっとがんばったんだね。それとも、私が追い詰めちゃった? 時間にすると……、十二時間以上はやってたみたいだし……、この子は……)
育つはずだ。
女の感なのか、傭兵としての経験則か、それは彼女自身にもわからないが、何にせよ、少年はアドバイス以上に努力してみせた。その強い意志が何を原動力に発生したのかまではわからずとも、エルディアの心を震わせるには十分だった。
ふと気づく。素振りに使ったはずのブロンズダガーが、少年の手のひらに見当たらない。
(あ、落ちてる)
姿勢を正し、歩き始めればすぐに辿り着く。
ウイルの足元に、茶色の短剣がわかりやすく落ちている。意識を失う際に手のひらから零れ落ちた結果だ。
エルディアはそれを拾い上げる。その瞬間、彼女はその事実に目を見開き、驚かされる。
ぬめりとした感触。柄本来の手触りではないと、すぐに気づかされた。
(血? なぜ? あ、もしかして……)
短剣を握ったまま、その手を確認する。柄も、そして自身の手のひらも赤く汚れている。
その理由は明白だが、念のため、確認せざるをえない。
エルディアは腰を落とし、ウイルの小さな右手を凝視する。
幼いその手はわずかに開いたまま、何も掴めていない。この道を選んだ際に何を手放したのか、それは彼女にもわからないが、今後この手が何を掴み取るのか、想像すると胸の鼓動が高まっていく。
ゆっくりと、やさしく、少年の手を開くためにその指をずらしていく。
(やっぱり……)
無茶をした結果がこれだ。ウイルの右手、正しくは手のひらが真っ赤に染まっている。初めての素振りがマメを作り、それらが全て潰れ、出血してしまった。
短剣を握ったことすらない、無垢な少年。ゆえに、こうなることは必然であり、とは言え、本来ならばそうなる前に挫折するはずだが、ウイルは憑りつかれたように短剣を振り続け、手のマメが潰れてもなお決して離さなかった。
普通じゃない。
正常じゃない。
傭兵でさえ、自分を棚に上げてそう思ってしまう。
だからこそなのか、エルディアは微笑みながら腰を落とし、自身の太ももを少年の枕として提供する。
子を守る母親のように。
もしくは、買ってもらえた玩具を眺める子供のように。
今はじっと、その寝顔を見守り続ける。
ウルフィエナ。広大なこの世界で、二人はついに巡り会った。
ここは、魔物が蔓延る地獄なのか。
人間が人間らしく生きていける楽園なのか。
答えは一人ひとりが決めればよい。
少年は選んだ。新たな生き方を。
女は選んだ。己の思うがままな生き方を。
その結果が、この出会いだ。
体力を使い果たし、死んだように眠るウイル・ヴィエン。
心意気とやる気に感化され、手伝うことを決めたエルディア・リンゼー。
道を踏み外した者同士、もはや立ち止まることはない。
しかし、今は休息の時だ。いかに傭兵とは言え、食事と睡眠は欠かせない。ましてやこの少年は、ただの子供だ。
昇りたての太陽が、大地と二人を照らす。降り注ぐ朝陽は暖かく、眩しくはないのだが、安眠を妨げるかもしれない。
だからなのか、エルディアはウイルの顔を自身へ向けて膝枕をしている。
(……これ、向き逆じゃない? 私、間違えた?)
逆と言えば逆だ。おかげで陽ざしは遮られているものの、弊害として彼女の体臭を吸い続けている。寝ている方は気にしないが、している方からすればただただ恥ずかしい。
(まぁ、いいかー)
現状を受け入れる。言い換えるなら、諦める。
今更ウイルを反転させるのも気が引ける上、彼女自身が反対側に移動するのはさらに億劫だ。
ゆえに、恋人同士でもめったにしないようなこの状況を継続する。
そもそもこの少年は、彼女よりも七歳も若い。恥ずかしがる必要はないのかもしれない。
(今日中にこの子を傭兵にして、明日からは……、どう遊ぼうかなー)
エルディアは空を仰ぐ。
青と白と丸い太陽。いつもと変わらぬ光景だ。
さわさわと風が吹けば、青臭い香りが鼻腔に運ばれる。これもマリアーヌ段丘の当たり前であり、そこに傭兵がいてもなんら不思議ではない。
子を守る母猫のように。
乳を吸う子猫のように。
エルディアとウイル。二人は一旦休息を選ぶ。
時間に縛られない生き方は、彼らの特権だ。自由な生き方を手に入れるため、自分達の命を担保にしたのだから、文句を言われる筋合いはない。
人間の脅威である魔物。そんな存在と殺しあう彼らに明日などないのかもしれない。それでもなお、そんな生き方を選んでしまった理由は何なのか?
魅力的に映ったのか。
他に選択肢がなかったのか。
そこに活路を見出したのか。
理由はそれぞれだろう。この二人に関しても全くの別だ。
ウイル・ヴィエン。
年齢は十二歳、背の低さが原因で実際はもっと幼く見える。他人のせいにすべきではないが、ふっくらと肥えている理由は親の過保護に起因している。
薄いグレーの髪は横にすぱっと整えられており、質素とはほど遠い衣服もこの場には不釣り合いだ。
エルディアは気にも留めていないが、門番を務める軍人達は首をかしげる。
裕福な家に生まれたであろうこの子供が、何故に魔物討伐へ出向いている?
そんなことは金を払って軍人を雇えばよい。イダンリネア王国のれっきとした制度の一つだ。
それをせず、力を持たない子供が自ら短剣を握り、魔物へ切りかかる。
ありえない。
あってはならない。
単なる自殺行為に他ならず、傭兵がその場に居合わさなければ確実に殺されていた。
何がこの少年をそうさせたのか?
それを知るには、時を二日遡る必要がある。
たったの二日。
されど、運命の二日前。
その日は少年にとって最悪の一日だった。
道を踏み外したきっかけ。
別の生き方を選んだ理由。
全ては、その本との出会いに起因する。
白紙大典。純白のそれは長い年月をえて、ついに巡り会う。
偶然か。
運命か。
それを知るためにも、轟々と燃えるその炎は、天高くから少年を見定め続ける。
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