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閉店後、片付けを終えた柔太朗が、奥の倉庫から酒瓶を運び出そうとした、その時だった。
「柔太朗さん、ちょっと」
呼び止められて振り返った瞬間、視界が陰った。舜太の腕が、柔太朗の顔の横、壁に沿って伸びている。逃げ場を塞ぐように、体ごと壁際に追い詰められる格好になった。
「──何、いきなり」
いつもの余裕たっぷりな声のはずが、わずかに掠れていた。舜太はその変化を、面白がるように見つめる。
「この前、俺の余裕を崩すのが得意やって、自分で言うてましたよね」
「……言ったっけ」
「言いました。俺も、たまにはその余裕、崩したいなって思って」
至近距離で見下ろされ、柔太朗は珍しく、視線の置き場に困っていた。壁と腕の間に閉じ込められる格好で、逃げるにも逃げられない。そのことに、これまで感じたことのない種類の緊張感を覚えている自分に、柔太朗自身、戸惑いを隠せずにいた。
「──こういうの、卑怯やと思います?」
「思うけど」
「思うだけで、やめてほしいとは言わへんのですね」
指摘されて、柔太朗は言葉に詰まった。実際、拒む言葉が、うまく出てこない。壁に囲われたこの体勢に、恐怖よりも、もっと違う種類の感情が湧き上がってきていることに、柔太朗自身、動揺していた。
舜太はそんな柔太朗の顔を、まじまじと覗き込んだ。
「今の顔、めちゃくちゃ良かったです」
「何の話」
「戸惑ってる顔。柔太朗さんの、そういう素の表情、初めて見たかもしれん」
からかうような口調だったが、その目には、確かな熱がこもっていた。柔太朗は、自分がどれほど無防備な表情を晒しているのか、正確には把握できずにいた。ただ、いつもの余裕という鎧が、今この瞬間、綺麗に剥がれ落ちてしまっていることだけは、はっきりと自覚している。
「──舜太くん、案外、強引だよね」
「柔太朗さんが、隙だらけやっただけです」
「やり返された感じ、するね、これ」
「だから、たまにはこっちも主導権握らせてもらわんと。──割に合わないでしょう、俺ばっかり振り回されるの」
そう言いながら、舜太は壁につけた腕の位置を、少しだけ柔太朗との距離を詰めるように動かした。互いの吐息が触れ合うほどの近さに、柔太朗の鼓動が、静かに速まっていく。
「──キス、してもいいですか」
囁くように尋ねられ、ふいっと思わず視線を外して柔太朗はしばらく黙り込んだ。答えを渋っているわけではなかった。ただ、こうして問われること自体に、慣れていなかった。いつも誘う側だったはずの自分が、今、誘われる側に回っている。その事実に、まだ順応できずにいる。
「返事、ないんですけど」
「勝手にすればいいでしょ」
そっけない返事だったが、それは拒絶の言葉ではなかった。舜太はその許可を受け取り、ゆっくりと顔を近づけていく。壁際に追い詰められたまま、柔太朗は目を閉じ、その口づけを受け入れた。
触れるだけの、けれど確かな熱を持ったキスだった。唇が離れた後、柔太朗はしばらく、瞼を開けられずにいた。
「──満足した?」
「めちゃくちゃ満足しました。柔太朗さんの、あの戸惑った顔、一生忘れられへん気がします」
得意げに笑う舜太を前に、柔太朗はようやく体の力を抜いた。壁に押し付けられていた背中が、じんわりと熱を持っている。
「次は、油断しないから」
「油断してるうちが、一番可愛いのに」
「可愛いって言うな」
珍しく本気で拗ねたような声を出す柔太朗に、舜太は声を上げて笑った。誘惑する側とされる側という、これまでの関係の境界線が、この夜、また一つ、静かに溶けていく。