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その日の店には、珍しく顔なじみの客が多かった。柔太朗は普段と変わらぬ調子でカウンターをこなしながら、舜太が隅の席で、常連の一人と楽しそうに話し込んでいるのを視界の端で捉えていた。
相手は、この店に長く通う客だった。お店の雰囲気をよく理解していて、程よく楽しめる品のいい大人の女性だった。舜太は誰に対しても分け隔てなく愛想がよく、初対面の相手ともすぐに打ち解けてしまう。その気安さは美点のはずだった。少なくとも、これまでの柔太朗にとっては。
「舜太くんって、面白いね。彼女さん、幸せ者じゃない?」
その一言に、舜太はほんの一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの調子で笑って躱した。
「いやいや、今はいないですよ、ひとりです」
その会話が、なぜか柔太朗の耳に妙に長く残った。グラスを磨く手は止まらない。声のトーンも変わらない。
──今は、いない
その言葉に安堵している自分に気づいて、柔太朗は密かに戸惑う。
安堵する理由などないはずだった。舜太が誰かと付き合っていようが、柔太朗にとっては本来どうでもいいことのはずだ。人間との関わりは、いつだって一時的なもの。これまで過ごしてきた長い時の中で、深追いしないことこそが、これまでの流儀だった。
「柔太朗くんも、こっち来て話そうよ」
そのままどこまでも深く落ちていきそうな思考を、女性客に呼ばれ、柔太朗は普段通りの微笑みを浮かべてそちらに向かった。だが、意識せずとも視線は何度も舜太の方へ流れる。舜太が彼女の肩に軽く手を置いて笑う仕草。何気ない仕草のはずなのに、柔太朗の中で何かがざらつく。
それが何なのか自分でもわからないのに。
「柔太朗さん?」
気づけば、舜太がこちらを見ていた。柔太朗は慌てて視線を逸らし、何でもないふうを装う。だが、その一瞬の狼狽を、舜太が見逃すはずもなかった。
閉店後、客が引けた店内で、舜太はカウンターに頬杖をつきながら、面白がるような目でこちらを見ていた。
「柔太朗さん、俺、何かしました?」
「そう?」
舜太は自分の眉間を指差して、意地悪く笑った。
「さっき、眉間に皺寄ってましたよ。気づいてました?」
「気のせいだと思うけど」
「またそれですか。──便利な言葉やな、それ」
柔太朗は答えに詰まった。実際、あの瞬間に何を感じていたのか、自分でも正確な言葉を持てずにいる。
ただ、あの光景を見た時、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚があったことだけは、否定しようがなかった。
「なぁ、柔太朗さんって、俺のこと──」
舜太が言いかけた言葉を、最後まで紡がれる前に静かに遮った。
「遊びの延長でしょ、これは」
自分に言い聞かせるように、柔太朗はそう言った。声は平静を装っていたが、いつもの余裕とは少し違う響きが混じっている。舜太はそれを聞いて、少しの間黙り込んだ。それから、ゆっくりとカウンター越しに身を乗り出した。
「──遊び、じゃなかったんですか」
その問いは、まっすぐに柔太朗の急所を突いた。
遊びのはずだった。少し危うい言葉と態度で、反応を楽しんで、それだけの関係のはずだった。今、楽しければそれでいいはずだった。
「……何が言いたいの」
「柔太朗さんが、俺に妬いてるみたいに見えたから。──それって、ただの遊びじゃ、起きひん感情なんじゃない?」
柔太朗は言葉を返せなかった。
長い沈黙の後、ようやく絞り出したのは、答えにも言い訳にもならない一言だった。
「……分からない」
その正直な呟きに、舜太は驚いたように目を見開き、それからくしゃりと相好を崩した。勝ち誇るような、それでいてどこか安堵したような笑みだった。
「分からへんくらいには、気になってるってことですよね」
柔太朗は反論できなかった。嗾けて振り回して反応を楽しむ側だったはずの自分が、いつの間にか相手の一挙一動に振り回されている。遊んであげているつもりが、いつの間にか、君以外見えなくさせられていた。
その事実を認めることは、これまで築いてきた人間との距離の取り方、自分の在り方を、少しだけ壊すことに等しかった。
「今日はもう、帰って」
柔太朗はそう言って、逃げるようにグラスの片付けに戻った。舜太はそれ以上追及せず、素直にコートを羽織って店を出て行く。だが去り際、扉に手をかけたまま、舜太は振り返って言った。
「──次来る時までに、ちゃんと分かっといてくださいね。俺のこと、どう思ってるか」
扉が閉まった後の店内は、いつもより静かだった。柔太朗はしばらくの間、動けずにいた。窓の外に滲む夜の灯りを見つめながら、自分がすでに、どうしようもなく罠にハマっていることを、ようやく認めざるを得なかった。