午後の授業が終わり、私たちはもう少し音合わせをした後、病院へ向かう道を歩いていた。夕焼けが空を染め、オレンジ色の光が私たちの足元を照らしている。こうして並んで歩いていると、私たちが普通の女子高生であるかのような錯覚を覚える。だが、実際にはそうではない。私たちは、それぞれが特異な病を抱え、普通の日常から少し外れた人生を歩んでいる。それでも、この一瞬だけは普通に戻れた気がした。
「そういえばみんな、進路はどうするの?」
唐突に口をついた私の問いに、少しの沈黙が生まれた。
「あたしは家業を継ぐかな。」
真っ先に答えたのは真希だった。
「家が定食屋でさ。調理師の資格を取るために専門学校に行くつもりなんだ。」
彼女の声には迷いがなく、どこか誇らしげな響きがあった。小さな体でも、大きな夢を抱いているように見える。
「私はお父さんの会社に入るつもりだから、大学に行くんだー!」
二葉はにこにこしながら続けた。
「会社をもっともっと良くする方法を学んでみたいんだよね。」
屈託のない笑顔で語る彼女の姿は、眩しいほどだった。夢への道筋が明確な二人の言葉を聞いて、私も少しだけ羨ましくなった。
しかし、桜と奏は何も言わなかった。奏と桜は共に両親はいない。もちろん、私も同じだ。それでも、奏はコウタ先生に大学進学の希望を伝えていることを知っていた。ただ、彼女がどこの大学に行く予定なのかまでは知らない。
「桜は?」
私は桜に視線を向けた。
「……あたしは……」
桜は俯いて、言葉を詰まらせた。まるでこれ以上言葉を紡ぐことが禁じられているかのようだった。その一瞬の空気は、私だけでなく、ほかの誰もが敏感に感じ取った。
「桜……?」
と問いかけたとき、不意に聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「おかえり、みんな。」
「アキラ先生!」
いつの間にか病院に着いていたらしく、玄関ではアキラ先生が笑顔で出迎えてくれていた。先生の明るい声に、自然と私たちの表情もほころぶ。
「ねぇ、アキラ先生。私、明日退院なんだよね!?」
二葉が少し跳ねるようにして聞く。
「そうだな。明日からは家に帰れるぞ。」
二葉と真希は、明日退院する予定だ。二人の症状は安定し、病院の助けがなくても日常生活を送れると判断されたらしい。私や桜、奏はまだ病院の孤児院にいるため、高校卒業までは病院と学校を往復する生活が続く。それでも、友達の新しい門出を祝福する気持ちは心からのものだ。
「ねぇ、星歌ちゃん、桜ちゃん、奏ちゃん!私たちが退院してもずっと一緒だからね!」
「うん、もちろんだよ、二葉。」
二葉は無邪気な笑顔を浮かべながら、私に勢いよく抱きついてきた。その仕草はまるで手のかかる妹のようで、思わず笑みがこぼれる。どれだけ元気で明るい彼女でも、時々見せる無防備な一面が愛おしく感じられる瞬間だった。この子と友達になれたことを、心から良かったと思う。
「さぁ、みんな。手を洗っておいで。すぐにご飯にしよう。」
「はーい!」
私たちは病院の奥に向かいながら、それぞれ思い思いに動き出す。だが、その中で周囲を警戒するように辺りを見回す桜の姿が目に留まった。小さな体に背負っているものが、彼女の無言の振る舞いから伝わってくる。どうしても、私はそんな彼女を放っておけない気持ちに駆られてしまうのだった。
その夜、ふと目を覚ますと喉が渇いていることに気づいた。そっとベッドを抜け出し、静まり返った病院の廊下を歩いて一階へ向かった。普段はにぎやかな病棟も夜になると不思議なくらい静寂に包まれている。その中で、ひとつだけ灯りがともる部屋に目が留まった。
扉が少し開いていて、中を覗くと、コウタ先生が机の上に山積みされた大量の書類とにらめっこしていた。目元には深い隈があり、その表情から疲れが見て取れる。何度も書類をめくり直す手の動きは、いつものぶっきらぼうな態度からは想像できないほど繊細で真剣だった。
「コウタ先生?」
思わず声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。
「どうした、星歌。眠れないのか。」
「ちょっと喉が渇いて……」
「用意するから待っていろ。」
そう言うと、コウタ先生は立ち上がり、無言で厨房の方へ向かった。その背中はどこか頼りがいがあり、同時に重荷を背負っているようにも見える。彼のそういうところが、私たちが信頼している理由のひとつだ。
しばらくすると、彼が白湯を差し出してくれた。
「ほら。」
「ありがとうございます。」
受け取った白湯はちょうどいい温かさで、冷えた体の芯まで染み渡るようだった。
温かい白湯を飲みながら、私は無意識にコウタ先生の作業する姿を見つめていた。机の上にはびっしりと埋め尽くされた書類の山。それを前にしても、彼の動きには一切の迷いがない。ただ、その目の下の隈を見ると、彼がどれだけ私たちのために働いているのかがひしひしと伝わってきた。
「そういえば、君は桜と友達だったな。」
不意にコウタ先生が口を開く。
「は、はい。」
突然名前を出されたことに驚きながらも、私は答えた。
「あの子はちゃんとご飯を食べているか?」
彼の声は低く、だがどこか心配そうだった。
「……今日もお昼を抜こうとしていました。」
私は今日あった出来事をそのまま正直に話すことにした。
「やはりか。」
コウタ先生は軽く息をつきながら、資料の一部を整理しつつ続けた。
「そう思って奏にパンを持たせておいたんだ。看護師からも今日は弁当を持たずに出て行ったと報告があったからな。」
「そうでしたか……」
私は驚きながらも感心した。コウタ先生は、誰よりも私たちをよく見ているのだ。
「いつも悪いな。」
彼はふと私を見て、少し申し訳なさそうに言った。
「いえいえ!桜は大事な仲間ですから!」
私は即座に答える。その言葉に嘘はなかった。
コウタ先生は一瞬だけ笑みを浮かべると、
「あの子を頼む。」
と短くつぶやき、再び書類に目を落とした。書類を手に立ち上がり、忙しそうに足早に部屋を出ていく。その背中はどこか寂しげで、けれども彼らしい凛とした強さを感じさせた。
「あの子を頼む。」その言葉に込められた深い意味は、このときの私にはまだ理解できなかった。ただ、胸の奥に小さな重石のような感情が残り、それがずっと取れないままだった。
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