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「王太子殿下とクレハお嬢様が屋敷にお着きになられました」
ひとりの女性使用人がルーイ先生の部屋まで知らせに来てくれた。彼女の名前は確か『モニカ・ブレッサ』だったな。美しい所作に毅然とした態度……さすが公爵家の侍女だ。ほんの少し見ただけで優秀な人材なのだと分かる。
しかし、そんな優秀なモニカさんでも抑えることが出来なかったもよう。佇まいは完璧だが、声が僅かに弾んでいる。全身から喜びの感情が漏れ出ているのを俺は見逃さなかった。
そうか……モニカさんはクレハ様付きだったな。リズさんから聞いた事前情報が役に立った。クレハ様と特に近しい使用人の名前は予め把握していたので、モニカさんの様子にもすぐに気付くことができた。彼女は嬉しいのだ。久しぶりにお仕えしているお嬢様の元気な姿を見ることができたのだから。
「分かりました。知らせてくれてありがとう」
モニカさんは会釈をして部屋を後にした。彼女の気配が完全に無くなると、待ちかねていたかのように先生が会話を始める。
「ようやくご到着だね。俺も行った方がいいかな?」
「ですから、先生は安静にしていて下さいと何度も……」
「なんか今は大丈夫そう。ちょっとなら良いでしょ」
あれほど大人しくしていろと言っているのに、先生はベッドから抜け出そうとする。医師から処方された痛み止めが効いているのだろう。体が楽になった途端にこれだ。薬の効果は一時的なもの……ここで無理をして悪化したらどうするんだ。
「痛みが引いているのはお薬のおかげです。無理をしたら治りが遅くなりますよ。我慢して下さい……つか、調子に乗るな」
「セディってちょいちょい口悪いよね。最近は俺に対しても容赦なくなっちゃってさ」
「そうさせているのは先生です。それに、あなたはこういう扱いが嫌いではないのでしょう?」
「ちょっとばかし語弊があるけど、まぁいいわ。お前もようやく俺のことが分かってきたじゃないの。うれしーねぇ」
「…………」
そんな幸せそうに笑わないで欲しい。不覚にもときめいてしまうから。せめていつもの他人をおちょくったような笑い方をしてくれよ。あれなら平気だったのに。
俺って奴はどうしようもないな。先生のことをとやかく言える立場ではない。これが惚れた弱味か。今の俺は先生の無茶なわがままでもうっかり通してしまいそうなほどにポンコツだ。先生への恋慕を自覚しただけで単純過ぎるだろ。自分自身が信じられない。この浮ついた思考を引き締めないと業務に支障が出る。レオン様もいらしていることだし、一度喝を入れて貰おうか。
「おふざけはここまでです。本当にじっとしていて下さい。今の状態は痛みを薬でまぎらわせているだけなんですよ。医師だって数日は動き回らないようにと言っていたではないですか」
「分かったよ。でも俺だってレオンやクレハと話がしたいんだけどな」
「先生の怪我の事はおふたり共把握しておられますから、あちらから訪ねてきて下さると思いますよ。それに、クレハ様は今公爵とお会いになっているところでしょう。我々はもうしばらく待ちましょう」
様々な理由で延期になっていたクレハ様の帰宅が実現したのだ。警備上やむを得ずではあったが、久しぶりにご家族と会わせてあげることができたのは良かった。クレハ様は強がっているけど、彼女はまだ8歳だ。親もとから離れて寂しくないはずがない。お父上との再会を邪魔してはいけない。
「さっき部屋に来た侍女がさ……クレハが帰って来たって嬉しそうに伝えてくれたよね。それ見てちょっとだけ安心したんだ。リズちゃんの他にも味方がちゃんといるんだなって」
先生もモニカ・ブレッサの様子に気付いていたのか。
我々近衛兵はクレハ様をお守りする為、常に周囲を警戒して疑いの目を向けている。ニコラ・イーストンの件で更に拍車がかかることとなった。クレハ様にとってご自宅が安心して過ごせる場所ではなくなってしまったのが気の毒でならない。
ジェムラート家の人間は、リズさんやジェフェリーさんを除いて全てフィオナ様側に付いているのではないかと考えてしまう時があった。クレハ様の自己評価の低さは、常に姉君と比較されて育ったからではないかとも。
公爵夫妻は娘の扱いに差を付けるようなお方ではないが、無意識に言葉や態度にそれが現れていたとしたら? 使用人たちが心無い言葉を口にしていたかもしれない。そんな想像を膨らませて勝手に憐れんでしまう。
だからこそ、先ほどのモニカさんの隠しきれていないクレハ様への好意が嬉しかった。俺の妄想は的外れであったのだと分かり安堵した。
「理不尽かもしれないけどさ、こういうのって分かりやすく気の毒に見えるほうに情が集まっちゃうものなんだよ。ただでさえクレハの姉さんはシンパが多いんだろ? 四面楚歌……は言い過ぎだけど、クレハより姉さんの方に感情移入しやすい土壌が既に出来上がってたら、捜査をするにしても結構やりにくいだろうからね」
クレハ様はフィオナ様に対して全く疑いを持っていない。俺たちが結託して情報を隠蔽していたせいもあるが、そもそも公爵家が箝口令を敷いている。そうまでしてフィオナ様の体裁を保とうとしているのだ。それなのに彼女の侍女が襲撃事件に関わっているかもしれないだなんて……そんな状況を受け入れることができるのだろうか。
事件の真相を明らかにするためにはジェムラート家の協力が不可欠。公爵にそれとなく釘は刺しておいたがどうなるか……
「なあ、セディ。レオンがクレハを諦めるって選択肢はあると思う?」
「ないですね」
「即答かよ」
それだけは絶対に無いと言い切れる。例え世界中を敵に回したとしても、レオン様はクレハ様を手放さないだろう。そんな当たり前なこと。俺の答えなど分かりきっていた癖に、先生は敢えて口にさせた。
「今回の騒動の結末がどんなものになるかは分からないけど、クレハとあいつの家族との関係性は間違いなく変化するだろうね」
「はい。クレハ様のお心に与える負担を想像すると……今から心配でなりません」
我々が最も危惧していることだ。まだ幼いクレハ様がそれに耐えられるか……
「さっきの侍女しかり、思った以上にクレハの味方は多そうだ。こっちは何も悪いことしてないんだから堂々としていればいい。クレハも守られるだけの弱い子ではないよ」
相変わらずの説得力。この人が言うと大丈夫な気がしてくるんだよな。不安な感情がゆっくりと溶けて無くなっていくような気分だった。
「でも精一杯のサポートはしてやろうな。しっかりしているようで、ふたり共まだまだガキなんだから」
「はい、もちろんです」