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暗い通路を振り返ると、立ち上がった。ここは地下道の入り口。黒々とした闇の通路が、蛇のようにうねりながら奥へ延びている。「出口」ではない。
地下道が続いている。「あの場所」が開かずの修道院なら、私は今湖の下を通っているんだろう。この生臭い臭いはそのせい……。道を下るごとに、湿気と闇が濃くなっていく。
進むと死人門がある。これが生と死の世界を隔ててる……そんな気がした。
「…………」
地下道が続いている。死人門を抜けたこちら側は、さらに闇が濃くなった気がした。闇色の道は緩やかに上がっている。
地上に出るハシゴまできた。それをよじ登る。
目の前には開かずの扉。開かないから、開かずの扉なの。もし、この扉が開いたら……その時、何が起こるんだろう。
「?」
中庭を歩いていると、庭の隅に土が盛り上げられている場所があるのに気づいた。何かしら……。昨夜まで、こんなのなかったよね?気になって近づいた私は、ハッと立ち止まる。
「!」
盛り上がった土の上には、見覚えのあるチョーカーがちょこんと乗せられていた。震える手で、それを取り上げる。血で汚れたそれは、バラのチョーカーだった。リズがおばあさんからもらったもので、お守り代わりにいつもつけてた……。
「…………」
指できつく擦っても、こびりついた血は取れない。それは拭い去れない現実。リズ……。夢じゃ、ないんだ。もうどこにもいない。もう二度と会えない。もう私の太陽は、二度と輝かない……。
しばらく泣いてから、血まみれのチョーカーをポケットにしまった。庭には、おそらくリズのーーお墓がある。フレディがやってくれたのかな……。お墓に備えてあったチョーカーは、今私の手元にある。
扉を入って東の暗い廊下を歩いていると、闇に溶け込んでいく気分になった。閉塞感のある廊下が続く。奥の部屋に入ると、もう馴染みとなった少年が迎え入れた。
「よう、姉ちゃん」
「フレディ……」
その時フレディが見せた曖昧な笑顔には気づいていたが、とりあえず自分の用件を優先させる。
「ねえ、フレディ。私のお母さん、見なかった?」
「姉ちゃんの?」
ちょっと目を丸くした後に、すぐ首を振った。
「さあ?昨日から『人間』には会ってないけど……ここに来てるの?」
「分からないけど。でも多分……」
「…………」
眉間に皺を寄せると、ふと思い出したのかウエストバッグを弄る。
「……これ。見覚えあったりする?」
「!」
彼が見せてくれたのは、お母さんのイヤリングだった。
「お母さんのよ!間違いないわ、お気に入りでいつもしてるもの!!」
「さっき回廊の入り口で拾った」
「!!……じゃ、じゃあ……やっぱりここに!!」
あの悲鳴は夢じゃなかったんだ。それでやっぱりお母さんは!
「……どんな人?」
狼狽える私と対照的に、フレディは冷静だった。言いながら、手帳を取り出す。
「えっ……」
「姉ちゃんのお母さん」
「あ、うん、ええとね……」
頭の中にお母さんを思い浮かべながら、特徴を挙げていった。
「ブロンド、目は青、身長170前後、中肉中背……ね」
彼はすらすらとメモを取る。
「で、美人で仕事ができて優しいと」
「…………」
ひょっとしたら後半の情報は要らなかったのかもしれない。すっとぼけたフレディの顔を見て、ちょっとだけそう思った。
「OK、俺も優先で捜してみるよ。人間を」
「あ、ありがとう!」
お礼を言ったものの、『人間』という限定が引っかかる。もしお母さんが、『人間』でなくなっていたら?そしたらフレディは……。ぎゅっと目を瞑る。考えない、考えない。今は信じて捜すだけ……。
「それで……姉ちゃん」
改まった声に顔を上げると、深刻な目とぶつかった。
「俺からも話があるんだけど」
束の間に、息を止めて見つめ合う。
「……”影”をなんとかしろ」
私は、握り拳をぎゅうと自分の胸に押し当てた。強いグレーの瞳は、まっすぐに私を見つめている。……私には受け止められない強さ。
目を逸らして、床に視線を落とした。
「無理だよ……私には無理……」
「姉ちゃんは冥使のーーそれも央魔のヒナだ。聞いただろ、あいつから。できるはずだ」
「そんなの!私が吸血鬼だなんて、そんなはずないじゃない!」
聞いたわ。アーウィンも私をヒトじゃないって言った。でもどうして?私には頭があって、足があって、手があって、鼻と口が一つずつに目が二つ。ねえ、あなたと何が違うの?人間と何が違うっていうの?
「姉ちゃん、嫌いな人いる?」
「えっ?……い、いないけど……」
唐突な質問に面食らった。戸惑う私にお構いなしに、ちょっと意地悪げに笑う。
「でもあの兄ちゃん……えっと、アーウィンだっけ?……は嫌いになったんじゃない?ずっと騙してたなんてひどいよね?」
「そんな嫌いだなんて……」
どうしたんだろう。なんでいきなりそんな話?
「なんで?あいつ人間じゃないんだよ?化け物なんだよ?」
「そう言われても……」
ただただ困ってしまう。だってアーウィンはアーウィンで……。嫌いかどうかなんて、考えたこともない。
「あんたもあんただ」
急にフレディの声が冷たくなった。私のこと、あんたって言った……。
「あいつの容姿が少しも変わらないことには、気づいてたはずだ。どうして疑わなかった?どうして不思議に思わなかった?」
「だ、だって……別に……そんなの……」
「寝てるところも飯を食ってるところも、見たことないんじゃない?おかしいって思うだろ、普通。なんでそんなことも気づかないわけ?」
「だってっ……!」
畳み掛けられるように責められて、ブワッと涙が溢れる。だけど、言われてみればその通りだ。
家にいる時間、ほとんどの時間アーウィンと過ごした。常に側にいたわけじゃないが、いつでも呼べば応えてくれる距離にいた。今思い返せば、奇妙なことがいくつかある。それなのに、私は不思議に思ったことがない。尋ねてみたことがない。疑ったことがない。そう。あの部屋に入るまで、ただ一度も。
「…………」
ダメ。言い返したいのに、何も出てこない。屁理屈さえ出てこない。涙しか出ない……。
「ーーほらね」
「……え?」
急に明るい声が聞こえて、顔を上げた。その拍子にポロッと涙が溢れる。歪んだ視界の向こうで、フレディがちょっと困った顔をしていた。続いた声はいつものように優しい。
「それが央魔のヒナの特徴。本来一人の人間が構成するはずの自我が、二つに分かれているからね。感情の思考のどこかに『抜け』が出るって言われてる」
抜け……。
「まあ、元々の性格もあると思うけど……姉ちゃんは疑うとか考えるとか苦手みたいね。馬鹿みたいに素直だって言われない?」
不意にリズの声が耳に蘇った。ーーもう、レナは素直なんだから!
「最初から会った時から、予想はしてた」
ふっと息をつく。
「自分じゃ気づいてないと思うけど、姉ちゃんの脈人間にしては遅いんだ」
そう。最初会った時、なぜかフレディは私の脈を取った。そして、痛ましそうな目で見ていた。
「このところ、昼には意識がないんじゃない?食事もとってないはずだ。多分、もう体が固形物を受け付けないようになってきてるんだと思う」
「!」
最後にお日様を見たのはいつ?最後にパンを食べたのはいつ?こんなにも私の体は変化していたのに、ひとかけらの疑問さえ抱かずに暮らしてきた。