第3話 「帰りたい場所」
土曜の午前、窓を叩く雨音で目が覚めた。
昨日は仕事が長引いて、帰ってきたのは日付が変わる少し前。
ほとけは眠そうな目のまま出迎えてくれて、俺がシャワーを浴びてる間に温かいスープまで用意してくれた。
――優しすぎる。
そんな気持ちを引きずったまま眠ったせいか、朝起きても心がふわふわしている。
「……ん」
隣を見ると、ほとけが俺の腕に抱きついたまま眠っていた。
髪がふわっと額にかかって、時々ひくひく動く眉尻。
寝顔は子どもみたいで、守りたくなる顔や。
「……お前はほんま、どこでそんな愛嬌覚えてきたんや」
思わず小さくつぶやく。
もちろん返事は返ってこない。
ほとけは寝返りを打って、俺の胸にぴたりとくっついてきた。
「……あぁもう、くっつき虫かお前は」
でも、嫌やと思ったことは一度もない。
むしろ、ほとけが近くにおらんと落ち着かへん。
そう気づいたのはいつからやったんやろう。
◆
しばらくして、ほとけが小さく目を開けた。
「……いふくん……?」
「おはようさん。雨やで外」
「……うそ……あ、ほんとだ……」
ほとけはまだ寝ぼけて俺の胸に顔をこすりつけてくる。
「……もうちょっと寝よ……?」
「さっき起きたばっかや」
「じゃあ……起きたばっかのいふくんを抱きしめる時間……」
「理由つけんでええ。甘えたいだけやろ」
「うん、甘えたい」
素直。
こういうとこがずるい。
ほとけは俺の胸に顔を埋めながら、ぽつりと呟いた。
「いふくんの匂い……好き……」
「はいはい」
俺は照れ隠しにほとけの頭を軽く叩いた。
「いってぇ。優しくしてよ」
「甘えさせたるだけありがたく思え」
「嬉しい……」
幸せって、こういう静かな朝のことを言うんやろう。
◆
午前は雨で外に出る気もせず、ふたりでのんびり過ごすことになった。
ほとけはソファの上で膝にクッションを抱えて座り、俺は床に座ってテレビの配線をいじっていた。
「いふくーん。何してるの?」
「HDDの調子が悪いねん。録画飛んどったやろ」
「ああ、あれか……もう壊れちゃったのかな?」
「いや、接触不良なだけや思う」
「ふーん」
ほとけがうとうとしながら俺の背中にもたれかかってくる。
「ほとけ、俺作業してんのわかっとる?」
「わかってる……でも……」
「でも?」
「後ろから抱きつきたい」
「俺は道具ちゃう!」
「道具じゃないよ。大好きな恋人だよ?」
「余計たち悪いわ!」
言ってもどかん。
ほとけはそのまま俺の背中に頬を押しつけて、完全に甘える体勢。
ほんま自由なやつや。
「なぁ、いふくん」
「なんや」
「今日……ずっと一緒にいたいな」
「まあ、今日は休みやし」
「違うよ。そういう意味じゃなくて……」
ほとけは少しだけ声のトーンを落とした。
「いふくんの“隣”から動きたくないってこと」
「…………」
心臓が軽く跳ねた。
「……お前、急にそんなこと言うな」
「ダメ?」
「ダメやないけど……」
「ならいいじゃん。へへ……」
ほとけは嬉しそうに俺の背中に腕を回した。
その温もりが背中越しに伝わって、雨音と溶け合う。
こんな静かな休日、何年ぶりやろう。
◆
昼前、雨が少し強くなったころ。
俺たちは遅めのブランチを作ることにした。
「いふくん、卵お願い」
「はいはい。割ったらええんか?」
「そう、四つね」
「四つも?そんな食うん?」
「今日はオムライスだから」
「……あぁ、お前の得意なやつか」
ほとけはフライパンを温めながら、ふふんと胸を張る。
「いふくん好きでしょ、僕のオムライス」
「うまいけど……それにしても量多ない?」
「いふくんがいっぱい食べるかなと思って。昨日遅かったし、疲れてるときはいっぱい食べてほしいじゃん?」
少し頬を膨らませて、真剣に言ってくる。
「…………」
なんでこの人は、俺が言わんでも欲しいこと全部わかるんやろう。
思わず、ほとけの頭を撫でた。
「……ありがとな」
「へっ!?い、いきなりどうしたの!?なで……なで……」
「嫌やった?」
「ううん……嬉しい……」
耳まで真っ赤になってる。
ほんまわかりやすい。
俺が皿を取っている間も、ほとけはずっと顔をニヤニヤさせていた。
「……何わろてんねん」
「いふくんが優しいの、好きなんだよ」
「っ……!」
そういうこと言うのやめろや。
心臓痛なるわ。
◆
昼食後、雨はさらに激しくなった。
外に出る予定もなくなり、俺たちはソファで映画を観ることにした。
「ホラーにする?恋愛?それともコメディ?」
「なんでもええで」
「じゃあ……恋愛」
「なんでや」
「いふくんと観たいから」
理由がストレート。
映画が始まると、ほとけはすぐに俺の肩に頭をのせてきた。
「おい。まだ五分も経ってへんぞ」
「だって……こうしたいんだもん」
「……勝手にせぇや」
「うん」
画面の中で恋人同士が手をつなぐシーンが流れると、ほとけの指が俺の指にそっと触れてくる。
「……つなぎたいの?」
「……つないでほしい」
俺は無言でその手を握った。
ほとけは一瞬息を呑んで、それからゆっくりと身体を預けてくる。
◆
映画が終わるころには、ほとけは俺の膝の上で丸くなって寝てしまっていた。
「……可愛いな、お前」
つい漏らしてしまう。
さっきまであんなにはしゃいでたくせに、寝るときはやたら静かで、顔も穏やかになる。
俺は髪をそっと撫でた。
「……ほとけ。お前ほんま、俺の人生変えてもうたな」
昔の俺は、誰かと生きるなんて想像できんかった。
ひとりでいいと思ってたし、他人に依存するなんて弱い人間がすることやと思ってた。
でも――今は違う。
「お前がおるから、俺は仕事も続けられんねん」
ひとりでは無理やったことも、いまはできる。
帰りたい場所ができると、人って強くなれるんやって初めて知った。
「……ありがとな」
寝てるのに言ってしまうのは卑怯やけど。
起きてるときに言ったら照れるし逃げるし、こいつすぐ泣くし。
だから今だけ。
◆
夕方。
ほとけが目を覚ますと、外は真っ暗。でも雨音は優しくなっていた。
「……いふくん……寝てた?」
「せやな。爆睡しとった」
「ごめん……起きてた?」
「別にええ」
ほとけはぼんやりしながら、俺の胸に手を添えた。
「……いふくん。あのね」
「ん?」
「今日さ、ずっと思ってたんだけど」
ほとけは少し照れた顔で言った。
「……いふくんが隣にいるだけで……僕すごく安心するんだよ」
胸が締めつけられる。
「……俺もや」
「ほんと?」
「嘘ついてどうすんねん」
「……いふくん」
ほとけは俺の服の裾をきゅっと掴んだ。
「仕事で疲れたときも、嫌なことあったときも……
僕、もっといふくんを癒したいし……支えたい」
「…………」
目がまっすぐで、逃げられへんほど真剣で。
「僕……いふくんの帰ってくる“場所”でいたい」
その言葉があまりに重くて、でも優しくて。
心の奥に深く沈んでいく。
「……ほとけ」
「なぁに……?」
「……もう、とっくになっとるわ」
ほとけの目が見開かれた。
「……え」
「お前は……俺の帰る場所や。もうずっと前から」
ほとけの表情が崩れていく。
目尻が震え、唇がきゅっと噛みしめられた。
「……いふくん、ずるいよ……」
「なんでやねん」
「そんなこと言ったら……泣いちゃう……」
「泣け泣け」
「泣かない……泣かないけど……っ」
声が震えてる時点でもう泣いてる。
「ほら、抱いたるから来い」
「……うん……」
ほとけは俺に抱きついて、ぎゅっとしがみついた。
肩が震えているのがわかった。
「……僕、これからもずっと……いふくんの隣にいるから……」
「知っとるわ」
「逃げても、連れ戻すから」
「怖いこと言うな」
「だっていふくん……僕の全部なんだもん……」
「…………」
そんなこと言われたら、こっちも泣きそうになるやろ。
けど――
「……俺の全部も、お前や」
ほとけの呼吸が止まった。
「……いふく……くん……?」
俺はほとけの背中を撫でながら、できるだけ優しく言った。
「お前がおらん世界なんて、もう考えられへんわ」
「……っ……!」
ほとけが俺の胸に顔を押しつけてむせび泣く。
「……好き……大好き……ほんとに大好き……」
「わかったから、落ち着け」
「無理……だって……幸せすぎて……」
雨の音が静かに響く部屋で、
俺たちはしばらく抱き合ったまま動かなかった。
その温もりだけで、世界全部が満たされるような気がした。
◆
夜。
雨は止み、窓の外には静かな街の灯り。
風呂上がり、俺たちはベッドに並んで横になった。
ほとけはタオルで髪を拭きながら、少し照れたように笑った。
「ねぇ、いふくん」
「ん?」
「こうして寝る前に隣にいるの……なんか落ち着くね」
「そら恋人やし」
「恋人っていいね」
「せやな」
ほとけはタオルを置いて、俺の手をそっと握った。
「……いふくんの手……好き」
「なんでや」
「安心する。包まれてるみたいで……」
「ようわからんやつやな」
「でもね……」
ほとけは俺を見つめる。
「今日も……“帰ってきてくれて”ありがとう」
「…………」
「生きて帰ってきてくれて……ほんとに、それだけでいいんだよ」
その言葉に胸が強く掴まれた。
「……ほとけ」
「なぁに……?」
「明日も帰ってくるから」
「……うん」
「その次も、そのまた次も」
「……うん……」
「お前が待ってる限り、俺は帰ってくる」
ほとけの目が優しく潤み、
俺たちはそっと額を合わせた。
「……いふくん」
「ん」
「好き。ほんとに、だいすき」
「俺もや」
その言葉を最後に、灯りを消した。
暗闇の中、俺の手を握るほとけの指が微かに震えている。
それが嬉しさの震えなのか、安心の震えなのかはわからん。
でも――
そんなことどうでもよくなるくらい、
互いが互いを必要としている確かさがそこにあった。
雨上がりの夜の静けさの中、
俺たちはそっと寄り添いながら眠りについた。
次回最終回です
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