一艘の舟が川を遡っていた。舟そのものには特別なところが一切ない。渡しに使うような、あるいはちょっとした川遊びに使うような、平凡な構造とありふれたおまじないのささやかな小舟だ。
ただし櫂を操り、ちっぽけな舟を果敢に推し進めているのは熊だった。より正確にいえば熊の毛皮に乗り移った不可思議な存在、渡す者だ。
そして小舟は不思議な操り手によって遥かに尋常ではない状況にある。流された大岩を容易く砕く、呑み込まれれば二度と浮かび上がってこないだろう激しい急流を小舟は遡っていた。獰猛な水流は急な斜面を流れ落ち、白波の牙を剥き出しに早瀬は身の程知らずの小舟に飛び掛かる。聖山ヴィンゴロも連なる山系の急峻な山岳が生み出す猛獣の如き渓流を、しかし小舟はものともせずに遡る。
張り切り勇む夏の陽光が急流の慌ただしい水面を煌めかせ、暑い季節の勢力も及ばない深い森の涼やかな木々は爽やかな香りを立ち昇らせていた。人外めいた手業で櫂を巧みに操り、舟を支配する熊ベグテールは大量の水を叩きつけられるように浴びながらも少しも怯まず、青空から降り注ぐ熱と森の漂わせる涼に風情を感じることもなく、一心不乱に突き進む。
身の程知らずの小舟に怒りを示すように流れは激しく轟いているが、次第に辺りは王たる獣の唸りの如き低くて重い揺るぎない轟音に包まれる。滝だ。
舟の行く手は滝壺に舞い上がる水滴で煙っているが、その偉容は隠されることがない。歴戦の兵士をも拒む堅固な盾の如き垂直の崖の、雲にも手の届きかねない落差から世の全ての水の源とさえ思える水量が鉄槌の如く放たれる様は滝の荘厳さを如実に表している。
しかし小舟の操り手ベグテールは少しも速度を落とさないばかりか、渓流を上ってきた時と同様かそれ以上の速度で滝壺を滝へ向かって突進する。
そしてあえなく沈没した。
「熊って確か食えたよな。食ったことないが試してみるか」
どこかから聞こえる呑気な声色の不吉な台詞でベグテールは気を取り戻す。溺死などしない身の上だが、水流に揉みくちゃにされて気を失ったようだった。
「待て。皮しかないぞ。早まるな」と言ってベグテールは素早く身を起こす。
男が素っ頓狂な声を上げて尻もちをつき、後ずさる。慌てて構える立派な斧を見るに、どうやら樵らしいと分かる。
「熊が喋った! 熊って喋るのか!?」
「熊じゃない。ベグテールだ。この体は借り物で、俺様が何者なのかは俺様にも分からん」
ずぶ濡れのベグテールは水をぼたぼたと滴らせながら立ち上がるとその巨体の頂から辺りを見渡す。どこまで流されたのか、ベグテールは川辺で倒れていた。日は高く蒸し暑い。まだ大して時は過ぎておらず、少なくともまだ急流と呼べる程度の上流にいることは分かる。
ベグテールは円らな瞳で男を見下ろす。樵に相応しい偉丈夫だが、熊ほどの大男ではない。
「貴様は? 見たところ樵のようだが」
男は斧をしっかり握りしめ、熊を刺激しないようにか慎重に立ち上がる。
「ああ、その通り。俺は樵の竜骨だ。お前は、えーっと、何だ。お前のような不思議な奴はがきの頃以来見ていない。何から聞いたものか。熊、の毛皮が一体何をしている?」
「俺様も何から話せばいいのか分からんな。とりあえず今、俺様は滝を登りたいのだ」
「そうか」と言ってマーゴロンは上流の方を見上げる。「何か山の上に用があるのか? あそこは台形状になっていてな。登るとなると難しい。どこを攻めるにしても難攻不落の城壁のような崖だぞ」
ここからでも勇壮な滝の姿が見え、その戦場の佳境の鯨波の如き轟音が聞こえる。
「いや、そうじゃない。俺様は滝を登りたいのだ。舟で」
マーゴロンは首を傾げ、幽かに頷く。「うん、そうか。いや、何を言っているのかまるで分からないな。ともかく俺には関わりのないことのようだ」
「ふん。俺様とて樵に用などない。まずは壊れた舟の代わりに新たな舟を手に入れねばならんからな。滝をも登れる舟だ。しばらく滝とはおさらばだ」
ベグテールは「がはは」と陽気に笑いながら二足歩行で下流へ向かう。
「待て。壊れた舟だと? お前、ここまで舟で来たのか? この急流を?」
熊は才無き王のようにふんぞり返って言う。「当たり前だ。でなければ滝など夢のまた夢ではないか。俺様は初めからどのような川も制覇しているのだ。聞きたいことはそれだけか? それじゃあな」
「いや、まだだ。お前、蓄えはあるのか? 稼ぎは?」
「なぜそんなことを知りたがる。蓄えくらい、多少はある。無くとも稼ぐ手などいくらでもあるに決まっているだろう。俺の操船技術を知っていれば決して出て来ん台詞だ」
マーゴロンはじっと熊の無垢な瞳を見つめて言う。「一つ提案がある。俺にとっては野心であり、遠大な計画だが、お前にとっては儲け話だ――」
「話を聞いていたか? 小銭稼ぎなど――」
「滝登りの助けにもなろう」
熊は暫し逡巡した後、大きめの岩にどっかと座り込んで言う。「聞くだけ聞いてやろう」
その森の木々は他に類を見ない上質なものだった。確実に良い値がつく。そして木材流送ができそうな川もある、とマーゴロンは踏んでいた。しかし上流にやって来てみれば思いのほか急流で、管流しでは傷つくどころか折れかねない。かといってこの急流を筏流しできるような筏師などいるはずもない、と思っていた。
「つまり俺様に筏師として働けってことか?」とベグテール熊は挑むように言う。
「お前にしかできないんだ。労賃は弾むぞ」マーゴロンは明るい未来を思い描いて答える。「もちろん滝に挑みたければそうすれば良い。稼いだ金で舟を買え。一度や二度では達成できない野望だろう。きちんと働いてくれるなら邪魔はしない。俺にとってもまさにここが拠点になるんだ」
ベグテールは滝を見上げ、暫し考えた後、口を開かずに口をきく。「物は試しだ。やってみるか」
「おお! そう来なくてはな!」
「じゃあ早く木を切ってこい。上質な樹とやらを無傷で運んでやる」とベグテールは豪語する。
「それは良いが、お前、交渉はできるのか?」
「何の話だ? 何の話か分からんが交渉などしたことがない」
「木を売る交渉だよ。まあ、飛び込みで売れるわけもないんだが。事前に下流の街で商談をまとめねばならんな。河川使用の話を通す必要もあるし、忌々しい関税についても何かあるやも。お前は運んで引き渡すだけ、という段取りを組む」
「どれくらいかかるんだ?」
「さあなあ。なんせ商売だ。客次第だよ。とはいえ俺の木を見る目は確かだ。需要はある」
「それで? 貴様の望み、野望は何だ? 木を切って売ることだけなのか?」
「いや、ゆくゆくは家族を持ちたいし、ここに集落を作りたい。植樹しつつ伐採して売る。林業の村を作るんだ」
「俺様がいなくては成り立たんではないか。何百年たっても俺以上の筏師など現れんぞ」
果たして一人の男と熊はお互いの野望を叶えるべく計画の第一歩を踏み出す。
初めはただ二人が住める小屋を建てた。マーゴロンが木を伐り、枝打ちした木々をまとめて筏を作り、それをベグテールが川下まで運んで行く。激しい川も蛇行する川も難なく流し、傷一つない木材を町々で引き渡す。そして必要なものを買って帰る。普段は歩いて帰るが、ベグテールは金が貯まると舟を買い、そのまま舟を漕いで上流へと帰っていき、そして滝に挑み、散る。
そのような生活が何年も続くとマーゴロンの野心は一つずつ満たされていく。ベグテールの代わりになる者はいないが、共に働く者たちが増える。森は必要な分だけ切り拓かれ、集落が生まれる。他里との交流が始まり、交易が始まり、次世代が生まれる。マーゴロンもまた下流の街で妻を娶った。
しかしベグテールの方はただただ滝壺に船の残骸を沈めていくだけだった。集落にマーゴロンの名がつく頃にはベグテールは渡し守としても働くようになった。ベグテールはよく働き、よく稼ぎ、良く舟を買い、よく滝に挑み、よく滝壺に沈んだ。
マーゴロンの生業がその息子に継承された時、二人は久々に語り合った。今や舟殺しと呼ばれる滝のよく見える場所に建てられた最初の小屋は、今や筏流しと渡し守を一手に引き受けるベグテールだけの家になっていた。その稼ぎは全て舟に注がれるため、マーゴロン村を支える柱に相応しいとは言い難い単純素朴な生活をしている。
杯のような半月が上る夜、マーゴロンの携えて来た檸檬酒をベグテールは一息に飲み干す。
「飲めたのか?」とマーゴロンは驚く。
「飲めないと思ったのなら何故持ってきた。血肉にはならんが味は分かる」
数十年を共に生きて知らないことがまだまだあるものだ、とマーゴロンは感心する。そして少しばかり喧嘩越しに思っていたことをぶつける。
「俺の野望はほとんど叶ったぞ。お前はどうなんだ?」
ベグテールは鋭い爪で滝を指さす。
「半分まで行った」
「何!? 本当か!?」
「驚くようなことじゃない。半分まで行ったが、それは滝のないところでもできることだ」
白髪の増えたマーゴロンは酒に蕩けた目で笑って言う。「酔ってるのか? 滝のないところで? 何だって?」
「俺様の腕力で櫂を思い切り水面に叩きつければそれぐらい飛び上がるということだ」
マーゴロンは大口を開けて笑った。笑い転げた。
「お前、それは、それで滝の上にたどり着いたとして、舟で滝を登ったと言えるのか?」
「言えんだろうな」酒のせいか数十年に渡る失敗のせいかベグテールの意気まで沈んでいた。
「お互い自分のことばかりだったな。どうしてお前は滝に挑むんだ?」
ベグテールは空の杯を見つめて呟く。「さあなあ、何でだったか」
「俺の野心は単純至極さ」マーゴロンは残りの酒を飲み干す。「ただ自分で何かを手に入れたかったんだ。家業自体は嫌いじゃなかったが、継ぐのは嫌だった。どこか知らない土地に住んで、自分の力の限り生きて、俺が勝ち取ったものだけを俺のものとしたかった。まあ、村作りまで考えていたわけじゃないが」
「だが息子に家業を譲るんだな」
「それだよ! 親になってようやく親心というものが分かってしまってな。倅は気にする様子もなく継いだが、それがまた複雑な気分になって。継いで欲しいような欲しくないような。まあ、もう継いだんだが」
ベグテールは深く頷いて言う。「引き継ぐというのも俺様にはないものだな。俺様がどこまで生きられるのかは俺様にも分からんが、まあ、人間よりは長生きしそうだからな。誰かに引き継ぐ必要性がない」
「死なないかもしれないのか」
「まあ、そうだ」
「ならば忠義物の涙の川も下れないな」
「何だ? それは」
「死出の旅の最後に死者が下る、冥府に続いているという伝説の川だよ。鏡の処地方にあるらしい」
「それは一度行ってみたいな」
マーゴロンはにやにや笑みを浮かべながら言う。「行ってルミスを遡るわけか?」
「当然だ。何なら死者を全部連れて帰って来てやろう」
ベグテールが豪語し、マーゴロンが大笑いした。
笑い止んだ後、マーゴロンが言い。「お前が良ければなんだが……」
「何だ? 言ってみろ。聞くだけ聞いてやろう」
「お前の舟を俺に造らせてくれ」とマーゴロンは意を決した様子で言った。
「舟なんて作れたのか?」
「いや、正直最後に船を造ったのは故郷を出る前だし、最後にこの手でまともに大工仕事をしたのはこの小屋だ。勘を取り戻すのに時間はかかるかもしれないし、もちろんお前の満足な出来でなければ使わなくて良い」
「どうしたのだ? 突然。隠居して暇になったか?」
「色々ある。まず心残りだ。散々俺に付き合わせておいて、俺はお前のために何もしてやれてない」口を挟む隙も無くマーゴロンは続ける。「暇なのも本当だ。いや、倅に教えることはまだまだあるが、俺はまだまだ俺のために何かがしたい」やはりベグテールが何か言おうとしたがマーゴロンは話し続ける。「そして今になって家業を引き継がなかったことを後悔している。いや、違うな。引き継げば良かったなんて思っていない。何といえば良いのか。もちろん家業を引き継ぎつつ林業をやるなど不可能なのだが、そうしなかったことで傷ついた者たちがいるのも確かだ」
「結局は全部自分事じゃないか」とベグテールは揶揄うように言う。
「そうだ」とマーゴロンは深く頷く。「決してお前のためじゃないんだ。だから俺に舟を造らせてくれ」
「自分事なら勝手に造ればいいだろう。俺様は良い物なら何だって使う」
ベグテールは舟を駆る。水飛沫を巻き上げてスウェンギルの滝壺を駆け抜け、数多の――ベグテールの――舟を沈めて来た滝へと挑む。それはマーゴロンの最高傑作。遡上三十四号。急流の荒波に耐え、ベグテールの荒業に耐え、滝に触れれば吸いつき、水流を掻き分け、さながら舞い上がる竜の如く駆け登る。
ベグテールの織り成す手練れの剣士の如き櫂捌きはまるで滝の流れが障りにもならないかのようにカーヴォル三十四号を運び、台形状の山の頂へと至る。最早慣れたものだ。
ベグテール熊は岸へと上がり、マーゴロンの村を一望できる崖際にやってくる。
村はさらに発展し、数条の街道が森の向こうへと続いているが、未だに橋は一つもかかっていない。需要はあるが木材流送の邪魔にならないという条件に加え、地質的地形的な困難さが拍車をかけ、かつ歩いて橋を渡るよりベグテールの舟に乗った方が何倍も早いだろうことが原因だ。それでも問題なく今も村は人口を増やし続けている。
「いつだったか滝に挑む理由を聞かれたな」ベグテールは吹き行く風と流れ去る水に語り掛ける。「今思うに、文字通り、逆らうことを求めていたのかもしれん。俺様もまた何者かに与えられたものしか持っていなかった。圧倒的で限定的な己の才能の外で、何かを勝ち取りたかったのかもしれん」
ベグテールは熊の毛皮の体の中に作った布嚢から一輪の白い牡丹一華を取り出すとただ一基の墓に供える。