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◇ ◇
慶太の声を聞いて、沙羅の不安だった心が、落ち着きを取り戻した。萌咲が教えてくれた縁談の話しは、慶太を信じて、余計な心配はしない事にした。
それよりも、美幸の受験が終わるまでは、会えないと思っていたのに、今月末に会えるのは、沙羅の気分を上げるのには十分な理由だった。
藤井の家で、もっふもふのハタキを掛けている間も、慶太とのデートプランを考えてしまい、自然と顔がにやけてしまう。
そのハタキを狙って、「のりたま」がコッソリと近づき、体をフルフルさせている。ハンターの態勢だ。
パシッとハタキに猫パンチが入る。
「こらっ、やったな。よしよし、こっちだよー♪ フフフン♪」
「沙羅さん、鼻歌なんてご機嫌じゃない」
「えっ、やだ、鼻歌なんて歌ってました?」
「ふふっ、何か良いことがあったのね」
「な、なにもないですよ、ホント……」
最後の方は、もにょもにょと口ごもる。
すると、藤井は何かを思い付いたのか、ニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「そうそう、月末の金曜日の夜。わたしと一緒に出掛けましょう。紹介したい人がいるのよ」
「ごめんなさい。私、夜は美幸と一緒に居たいので、出かけるのはちょっと無理なんです」
いくら聞き分けが良いとはいえ、小学生の美幸。夜ひとりに部屋に残るのは、不安があるはず。美幸がお友達の家にお泊りの時以外は、夜の外出は控えたいと沙羅は考えている。
「大丈夫、美幸ちゃんにはママを借りる許可をもらっているの。その日は、教員免許のあるシッターさんをお願いするわ。実は、わたしの甥っ子が東京に来るのよ。沙羅さんにとって親戚になるから紹介しようかと思ってね」
美幸とメッセージのやり取りをしている藤井は、ふたりでコッソリ打ち合わせをしていたようだ。シッターまで手配されているとなると断り難い。
それに親戚に会えるかと思うと、心が弾む。
◇ ◇ ◇
11月末の金曜日。
午後3時と指定された時間に藤井の家に着いた沙羅を、手ぐすね引いて待って居た藤井は、あれよあれよと言う間に大きな鏡の前に立たせた。
あーでもない、こーでもないと言いながら、たくさんのドレスを、着せ替え人形よろしく沙羅にあてがう。
上質な生地、丁寧な細工をされたドレスは、どのデザインも着るのがもったいないぐらいに素敵だ。お姫様願望がない沙羅でもこんなに素敵なドレスが着れると思うとテンションが上がる。
ただ、置かれた状況は、まったく理解できない。
沙羅の頭の中はハテナマークでいっぱいだ。
「うん!これが、良さそうね」
納得顔の藤井が選んだドレスは、肩や袖の部分は透け感のある素材で、胸から裾までは総レースが施されているネイビーブルーのチュールドレスだ。
「さあ、これに着替えて」
と、藤井に言われ、沙羅はハッと我に返る。
親戚に会うからと、一応それなりに気を使った服装をしている。今日着ているライトブラウンのスーツは、初対面の方にも失礼に当たらないはずだ。
しかし、着替えてと渡されたのは、総レースのチュールドレス。まるで、どこかの結婚式かパーティーにでも行くみたい。
沙羅は、ドレスを手にしたまま首を傾げた。
「あの、親類の方にお会いするのに、こんなに凄いオシャレをするんですか?」
「そうなの。Hotel coucher de soleilで、開かれるパーティーに甥っ子が出席するって言うから、沙羅さんと一緒に行こうかと思ったのよ。たまにはシンデレラ気分もいいでしょう?」
そう言いいながら、いたずらっ子のように「ふふっ」と笑う藤井も、光沢のあるグレーのカクテルドレスを着ている。上品なデザインは藤井に良く似合っていた。
ドレスを着た沙羅を鏡の前に座らせ、藤井は楽し気に微笑む。
「たまには、おしゃれするのも良いものでしょう。口紅もグロス入りのにしましょうね」
藤井の手によって、いつもより綺麗になった沙羅は、Hotel coucher de soleil のロビーホールに敷かれた毛足の長い絨毯の上を慎重な足取りで進む。
天井には華やかなシャンデリアが揺らめき、2階へ続くR階段の手すりの装飾も美しい。
訪れている人達の服やアクセサリーも、このホテルの格式に沿ったハイブランドの物だ。
こんなに豪奢な場所に、庶民の自分が浮いていないかと、沙羅は不安になり、ガラス窓へ視線を移す。
編み込まれた髪、艷やかな唇、総レースのドレス。慣れない装いに少し緊張しつつ、ガラス窓に映り込んだ自分の姿は別人のようでドキリとしてしまう。
格段に綺麗になった姿は、さしずめ魔法使いのおばあさんに魔法をかけられたシンデレラのようだ。
「沙羅さん、せっかくオシャレしているんだから、胸を張って。自信を持って微笑んでね。甥っ子だって、沙羅さんと同世代なんだから気にすることはないわ」
場慣れをしている藤井は事もなげに言う。
しかし、沙羅は急に連れてこられたパーティーに、マナーは大丈夫だろうか、上手く話せるだろうか、と頭の中は大忙しだ。
できるだけ、会場の端っこで大人しくしていようと、安全な作戦を立てていた。
「あっ、ちょうど良い所で会ったわ」
藤井が笑顔で手招いたのは、黒いタキシードを着た男性だ。
身長は沙羅より頭一つ分高く、太く直線的な眉に少したれ目の優しそうな瞳。
「紹介するわね。わたしの甥っ子で浅田貴之。貴之、こちらは電話でお話した瑞穂さんのお嬢さんで、わたしの従妹姪にあたる佐藤沙羅さん。ふたりの間柄は何になるのかしら……」
藤井は、「うーん」と顎に手を当て悩む。その横で、貴之が「ははっ」と笑っている。親子のようなふたりのやり取りを見て、沙羅は緊張がほぐれる。
「紀美子さん、ややこしい事は抜きにして、親戚でいいじゃないですか。沙羅さん、はじめまして、浅田貴之です」
「はじめまして、佐藤沙羅です」
「沙羅さんとは、はとこ?になるのかな?まあ、親戚なのは間違いなさそうだ」
と貴之は人懐っこい笑顔を向ける。大型犬みたいな印象だ。
聞けば、今話題のMattina cafeをチェーン展開しているそうだ。年齢は36歳で沙羅より一つ上だという。
「貴之さんと一つ違いだなんて、母がきちんと親戚付き合いをしていたら、お正月やお盆に親戚が集まった時、一緒に遊んでいたかもしれないんですね」
「そうだね。祭事のたびに会っては一緒に遊んでいただろうな。沙羅さんが小さい頃は、絶対に可愛かったと思う。”お兄ちゃん”とか呼ばれたりして、いっぱい可愛いがっていたはずだよ。もしかして”お兄ちゃんと結婚する”って、言ってもらえたりして……ちょっと惜しかったな」
「そうですね。あはは」
貴之の妄想に沙羅が愛想笑いをしていると、渋い顔をした藤井が割って入る。
「沙羅さん、ごめんね。悪い子じゃないのよ」
「いえ、おかげさまで緊張しなくてすみました。すごく楽しいです」
「では、美女ふたりをエスコートさせて頂いて、会場入りしますか」
と、貴之は両手に花の状態でご満悦の様子だ。
防音の効いた厚みのあるドアの向こうは、約200坪ほどの大宴会場、天井高は6メートルでかなりの広さ。
昔、芸能人の結婚式のテレビ中継でしか見たことがない光景だ。
立食バイキング形式のパーティー会場には、華やかな生花が所々に飾られている。
そして、既に200人以上居そうな招待客の中に、テレビや雑誌で見た顔もあった。
沙羅は、その雰囲気に圧倒される。
「すごい……」
そして、会場全体を見回していると人垣の先にダークグレーのフォーマルスーツを着た慶太を見つけ、思わず視線が追いかける。
「あっ……」
と、小さく声があがり、沙羅は慌てて口を押さえた。
慶太の横には黒いカクテルドレスの女性が寄り添っていたのだ。
「なんだ、TAKARAグループの息子と立華商事の令嬢との結婚の話、本当だったんだ」
横から貴之のつぶやきが聞こえてきた。沙羅は、ハッとして貴之を見上げる。
慶太の事で何かを知っているなら、教えて欲しいと思った。でも、口に出せるはずも無く、聞き耳を立ててしまう。
「あら、TAKARAグループの慶太さんとは知り合いだけど、縁談を持ち込まれてもお受けしないって有名よ。ましてや、結婚の話しなんて初耳だわ」
藤井は不思議そうに首を傾げたが、貴之の意見は違う。
「ウチは立華と付き合いがあるから、そっちサイドから聞いたんだよ。TAKARAで扱う物販を立華商事が引き受けるとかって、話しだよ」
「だとしたら政略結婚なのかしら?」
「そうみたいだ。世襲制の会社だと、未だ政略結婚とかあるんだな」
藤井と貴之の会話を聞いて、沙羅は胸の奥がキュッと痛む。
萌咲に会った時、言っていた「大きな縁談が持ち込まれていて、高良の父がいつになく乗り気になっているの」という話しが、具体的に進んでいるのかもしれない。
沙耶は、人垣の先に居る慶太へ視線を戻した。
慶太は、初老の男性と穏やかな表情で談笑をしている。そして、その横には綺麗なカクテルドレスを着た立華商事の令嬢が慶太に腕を添え、微笑んでいた。
このような公の場所で、慶太のパートナーとして活躍が出来る女性なのだ。
その様子を見て、沙羅の気持ちがみるみる萎んでゆく。
今、沙羅がここに居ることに慶太が気付き、声を掛けられたなら、人目を憚らず泣き出してしまいそうだ。
そんな事になったら、慶太にも藤井にも迷惑をかけてしまうだろう。
「逃げ出したい」と、沙羅は小さなバッグを握りしめた。
「あの……。私、人に酔ってしまったみたい。ちょっと廊下で涼んできます」
メールのやり取りも続いている。明日も、デートの約束をしている。連絡を取り合っているのに、慶太からお見合いの話をされていない。
それは、きっと、TAKARAグループの跡取りである慶太に縁談を持ち込まれるのは、特別な事ではないからだと思う。だから、お見合いの話をしないのは、余計な心配をかけないようにしようと言う慶太なりの気遣いなのだろう。
外野からの雑音に惑わされずに、慶太を信じてついて行くと決めたのだ。
でも、実際に慶太が花嫁候補の女性と一緒に居るのを、目の当たりにしてしまうと、不安が押し寄せどうしようもなく辛い。
化粧室の大きな鏡の前で、気持ちを立て直すように口紅を引いた。
鏡には普段よりも綺麗に着飾った自分が映っている。
でも、見た目がいくら綺麗になっていても、生い立ちは変えようもない。
慶太の結婚相手として相応しくないのは百も承知している。
ただ、慶太を好きなだけだ。
「紀美子さんが、待っているといけないから会場に戻らなきゃ……」
沙羅は細く息を吐き出し、化粧室から出て宴会場まで続く長い廊下を憂鬱な気分で歩いた。
廊下には、休憩用のソファーが置かれている。
その、ソファーにタキシード姿の男性が座っているのが、目隠し代わりに備え付けられた観葉植物の合間から見えた。
沙羅の耳に男性の「ううっ」と言う苦しそうな声が聞こえて、思わず注意深く見てしまう。すると壮年の男性が顔を歪めていた。
「大丈夫ですか? 人を呼びますか?」
「いや、大したことない。低血糖でめまいがするだけだ」
沙羅は駆け寄り、男性を支えた。みれば、男性の額には汗が浮き、肩で息をしている。
バッグからハンカチを取り出した沙羅は、汗が浮いた額をそっと拭い、自分に出来る事を探しながら、懸命に声を掛ける。
「お薬は、お持ちですか?」
低血糖の症状と聞いて、沙羅はふと思いつき、バッグの中から小さな包みを取り出した。
「これ、飴ですが、お口にしても大丈夫ですか?」
男性が小さくうなずき、沙羅は包みを開けて、男性の口に飴を含ませる。それが利いたのか、男性はだんだんと落ち着きを取り戻し、呼吸が一定になってきた。
「はあ、助かった。すまなかったね。やっとめまいが治まった」
「ご回復されたのなら良かったです。お連れ様がいらっしゃるようでしたら、お呼びしましょうか?」
「いや、お手を煩わせずとも電話で迎えに来させるよ。それより、お礼をさせて欲しいのだが、名前を伺っても宜しいかな?」
と、男性が顔を上げた。その男性の顔にどこか見覚えがあるような気がした。
けれど、沙羅には思い出せない。
「お礼をして頂くほどの事はしていませんので、お気になさらずに居てください」
「助けて頂いて、そう言うわけには……」
食い下がられても、飴玉をあげただけで、大したことはしていないのだ。
「それなら、今度、誰か困っている人が居たら手を貸してあげてください。親切は幸福を連れてくるとも言いますから」
人助けをしたことで、沙羅自身も鬱々としていた気持ちが遠退き、落ち着きを取り戻していた。
男性は、沙羅の言葉に驚いたような顔を見せたが、フッと表情が和らぐ。
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
「では、私も連れの者が心配しているといけないので、これで失礼しますね」
沙羅はペコリと頭を下げ、パーティー会場へ足を向けた。
会場の前に戻った沙羅だったが、ドアの向こうに入るのをためらってしまう。
中に入れば、否が応でも慶太の姿を目で追いかけ、立華商事のご令嬢をエスコートしているのを見てしまうのだ。
「明日、慶太とどんな顔をして会ったらいいんだろう……」
会場に入る勇気が出なくて、沙羅は会場から少し離れた窓の傍に佇む。
暗くなった空には、細い三日月が浮かんでいた。ホテルの庭園の植栽がライトアップされている。
それを見た沙羅は、慶太とふたりで過ごした夏の日、あやとりはしで話した事を思い起こす。
TAKARAグループの看板目当ての人とは、結婚したくないと慶太は言っていた。
だから、大丈夫なはず。今日の事は何か大人の事情があったのかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、沙羅は勇気を出して会場のドアに手を掛けた。
しかし、そのタイミングでドアが開き、誰かとぶつかってしまった。
「きゃっ、ごめんなさい」
「あっ、急いでいたもので、すみません。……沙羅?」
「……慶太」
まさか、鉢合わせするとは思っても居なくて、上手く言葉が出てこない。
慶太も目を見開き、戸惑ったような顔をしている。
「どうして、ここに……」と、言いかけた時に慶太のスマホが鳴り出した。
画面を見た慶太は顔をしかめながら、電話に出る。
「はい……大丈夫ですか?……直ぐに向かいます」
通話を終えた慶太は、沙羅へ視線を合わせた。
「ごめん。父の具合が悪いみたいで行かなければならない。明日、ゆっくり話そう」
「うん、私の事はいいから、お父様の所に早く行ってあげて」
「ごめん」
と言って、遠ざかる慶太の背中を沙羅は見送った。