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江戸の裏長屋の一室で目覚めた僕は、呆然と天井を見つめた。質素な布団と古びた畳が視界に入る。
頭が混乱していた。昨夜の記憶が曖昧だ。僕はポツリと呟く。
「そうか……僕は死んだんだった」
大学を卒業後、商社に勤めながら経済学を独学していた日々。最後の記憶は雨の日の交差点で大型トラックが突っ込んできた光景だ。まさか本当に過去に転生するなんて……。
体を起こすと、鏡台に映る姿に息を呑む。そこには若くして亡くなった父にそっくりな男がいた。着ていたのは、粗末な木綿の着物。手足も細く頼りない。
「僕は誰だ?いや、今は何年なんだ?」
壁に掛けられた暦を見て凍りついた。「慶長八年」。西暦1603年。徳川家康が征夷大将軍に就任したばかりの江戸時代初期だ。
部屋の隅には古ぼけた帳面が落ちていた。それを開くと、拙い文字で日記らしきものが書かれている。
『九郎兵衛日誌』
『今日も銭が尽きた。このままでは飢え死にじゃ……』
どうやら僕は「吉田九郎兵衛」という商家の跡取りとして生き返ったらしい。しかし商売は不振で多額の借金を抱えているようだ。
「経済学を専攻しておいて良かった……」
思わず口に出た言葉に自分でも苦笑した。現代の経済理論が通用するとは限らないが、何かできることがあるはずだ。あさげを取りに階下へ降りると、
「あら、九郎坊ちゃん。今日は早いね」
隣のおばさんが声をかけてくる。
「おはようございます。あの……町で最近変わったことはありますか?」と尋ねてみる。
「そうさねえ……昨日、家康様が御殿様のお供で通りがかったとか。でも何ともご立派な御武家様で……」
彼女は少し顔を赤らめた。
「徳川様が!?」
驚きに飛び上がった拍子に、茶碗をひっくり返してしまう。
「すみません!」
慌てて謝る僕を見て、おばさんはクスリと笑った。
「落ち着いて。これから何をするつもりだい?」
「商人として……新しい商売を始めたいんです」
食事を終えて帳場に戻ると、早速商売プランを練り始めた。
まずは金融をどうにかしなくてはならない。だから金貸しから始めた。問題は金利だ。この時代の高利貸しは月に5割も取っていた。そんな利息では借りた相手が破産するのは目に見えている。
そこで僕は思い切って月2分(約6%)という当時としては破格の低金利を打ち出したのだ。
もちろんすぐに儲かるわけではない。だが資金を必要とする庶民たちからは好評を得て、少しずつ名前が知られるようになった。
半年ほど経ったある日。
「おい、九郎!大事なお方がお前に用があるそうだよ」
番頭の重次郎が店先で叫んでいる。駆けつけると、そこには身なりのいい侍数人が立っていた。真ん中には恰幅の良い壮年の男性がいる。
「吉田九郎兵衛殿とお見受けする」
低い声で呼びかけられ、咄嗟に膝をつく。
「は、はい。私めに何か……」
「わしは本多正信と申す。家康様より貴方の商才について聞き及びましてな」
本多正信。史実では家康の腹心の一人。まさかこんな形で歴史上の大人物と出会うことになるとは。
「九郎殿の事業手法が他とは異なるとの噂を耳にしましたぞ。是非一度、御殿にお招きしたいとお考えでござる」
これは予期せぬ転機だった。
迎えの籠に乗せられてしばらく進むと、「江戸城」と看板のかかった大きな門が現れた。想像以上に規模が小さい。
案内されるまま廊下を歩いていると、
「そちらにいらっしゃいますのが御主君です」
襖の前で本多正信が立ち止まる。深呼吸をして腰を落とした。
「吉田九郎兵衛にございます」
「入れ」
威厳のある声に促され、静かに敷居を跨ぐ。
薄暗い部屋の中で待っていたのは、六十がらみの老人だった。白髪まじりの髷を結い、品のよい藍染の小袖を纏っている。その鋭いまなざしと穏やかな佇まいが絶妙に調和していて、ただ座っているだけで圧倒的な存在感があった。
「よく来たな。噂には聞いておったぞ」
「恐れ入り奉ります」
「堅苦しい挨拶は無用。遠慮なく申すがよい」
老人はゆったりと扇子を開いた。
「我が徳川家が天下を治めて間もないが、困窮しておる者は多い。税収も思うように上がらず、新体制のもとでは領民への配慮も求められる。そこで貴様のような若い商人の知恵を借りたいと考えたわけよ」
直接家康本人から話を聞くことになり、全身に緊張が走る。同時に頭の中では様々なアイデアが駆け巡った。
「恐れながら申し上げます。まずは流通を整備することをお勧めいたします。特に米相場の安定と道路網の拡充が必要かと……」
話し始めてすぐ気づく。この人は単なる武家ではない。人の話を吸収しようとする柔軟さを持っている。そして僕の話す内容の意味を即座に理解していることも、表情から察せられた。
「ほう……面白い。続けてみよ」
家康は初めて興味を示すような目つきになる。
この出会いが、僕の江戸の経済改革への第一歩となった。