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宮野家は代々呉服屋を営んできた。
その三百年の歴史は輝かしく、あっという間に大手会社に成長した。
宮野いとは、その宮野呉服屋十代目当主雅経の長女として生を受けた。
晴れやかな空の下、いとは広い広い庭を散歩していた。
水のせせらぎ、風に揺られる草木、鳥のさえずり。
そんな音しか聞こえない。
庭は静かだ。
と、一羽の雀がいとの周りを飛ぶ。
小さいながらも風を切る褐色の翼に、いとはふっと笑みをこぼした。
そして、お前はいいね、と内心呟いた。
すると、一人の使用人がいとに近づいてくる。
いとは振り返った。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」
何か冷たいものがいとの胸をひやりと撫でる。
しかし、いとは構わずその美しい顔に笑みを貼り付ける。
「そう。わかったわ」
そうしていとと使用人は庭を後にした。
「お呼びでしょうか」
部屋の外でいとは声をかける。
「入れ」
許可の低い声がした後、いとは、失礼します、と障子を開けた。
そこには、卓袱台を挟んで中年の男が座っていた。
いとの父、雅経である。
いとは部屋に入り、障子を閉め、卓袱台を挟んで雅経の向かいに座った。
「お前に縁談が来たぞ」
「…………はい?」
雅経の一言に、いとは思わず驚く。
その言葉を飲み込むのに数秒かかった。
「恐れながら、尚早ではございませんか」
「お前ももう十五だろう。尚早ではない」
だとしても心の準備ができていなかったといとは内心呟く。
「相手は九条質屋のご令息貴時殿だ」
「……まあ」
九条質屋と言うと、これまた歴史のある家だ。
創業してから何百年と時を経て今や大企業だ。
だが、いとは九条家とは一切面識がない。
雅経も元々は面識がなかっただろう。
大方、互いの利益のための婚姻と言ったところか、といとは思った。
「従うな?」
雅経の目が鋭くなる。
この家では家長である雅経が絶対だ。
逆らえばどうなるか、いとはその身を以って知っている。
「はい」
いとは迷わず答えた。
「二週間後に顔合わせがある」
雅経はそう言って立ち上がった。
「かしこまりました」
いとは部屋を出ていく雅経に頭を下げる。
雅経が部屋から離れたのを確認すると、頭を上げた。
と、若い男が部屋に入ってきた。
いとの兄、雅邦である。
いととは四歳差だ。
雅邦はいとを一瞥し、口を開いた。
「ここで来客がある。お前は早く出ろ」
「……申し訳ございません」
いとは一礼をし、速やかに部屋を出た。
雅経と雅邦は本当によく似た親子だといとは思った。
二週間後、その日は来た。
いとは使用人の手によってめかしこまれた。
胸の上ほどまである黒髪をくしけずられ、顔には淡い化粧が乗せられ、雅やかな着物を着せられた。
宮野家の応接間で待つこと数分、若い男と中年の男が来た。
いとと雅経は立ち上がり、一礼する。
「ご足労頂き、感謝申し上げます。九条殿」
雅経がそう言うと、中年の男はやわらかく笑む。
「いえ、話を持ち込んだのは我々ですから。そちらが?」
三名の男の視線がいとに向けられる。
いとは美貌に笑みを浮かべた。
「お初に御目文字仕ります。いとと申します 」
「……ほう」
中年の男は驚いたように息を呑むが、 すぐに笑んだ。
「私は九条貴保と申します。こちらが息子の貴時です」
中年の男、もとい貴保はそう言った。
隣の貴時は浅く頭を下げる。
ここでいとは初めて貴時の顔をしっかりと見た。
歳は二十程だろうか。
艶やかな黒髪、白磁のような肌、凛々しい眉、切れ長の目、髪と同じ色の瞳、整った目鼻立ち、薄い唇。背はすらりと高い。
美しい男だった。
「立ち話もなんですから、どうぞお掛けください」
雅経のその声で四人は長椅子に腰掛けた。
そして、父親同士が話し始めて数十分が経った頃。
貴保はふと言う。
「せっかくなんだから、ふたりで少し話しなさい」
そうして父親二人は出ていき、部屋にふたりきりにされた。
しばし沈黙がふたりの間を埋めたが、いとが口を開く。
「……今日は、お天気がよろしゅうございますね」
「……そうだな」
いとは低い声の返事が聞こえたことに安堵した。
またしばらくして、今度は貴時が口を開く。
「……そちらはこれでいいのか」
「え?」
いとは質問の意図が分からず聞き返す。
「そちらは、この婚姻が成ってもいいのか」
いとは予想だにしていなかった言葉に目を見開く。
が、すぐににっこりと笑った。
「ええ。お家のためですから」
貴時は少し眉をひそめ、立ち上がった。
いとは首を傾げる。
貴時はいとの隣に来ると、彼女の華奢な両手首を握り、押し倒した。
視界が急に変わり、いとは動揺した。
いとの目の前には、あの男の麗しい顔があった。
「この婚姻が成ると言うことは、俺とこういうことをしなくてはならないのだぞ」
……ああなるほど。
確かに、相手からすると昨日まで面識のなかった娘とこういうことをするのは嫌に決まっているだろう。
いとは貴時の視線から逃れる。
「……お家のためですから」
いとの言葉に、貴時はさらにむっとした顔になり、いとから離れた。
その日のいとと貴時の会話はそれきりになってしまった。
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