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次は——
停車駅を告げるアナウンスの声。
ああ、まだ。
まだ時間はある。
「今日も疲れたね」
いつもの路線。演劇部の練習の帰り道。
大道具担当の綾は最後の仕上げに忙しくて、役者仲間の慎二は、友達の家に泊まるらしい。
それで帰りは、私と陸の2人きりになった。
疲れた、と大げさな動作で手すりに寄りかかる陸の顔を、こっそり盗み見る。
細く筋の通った鼻、マスクをしていて今は見えない、薄い唇。
黒くて長い前髪は、憂いを帯びた黒い瞳を半分隠している。
やっぱ整ってるなあ。お客さんにきゃーきゃー言われるだけある。
そんなことをぼんやり考えていると、ふと目があって、慌ててそらす。
車内アナウンスが耳に入る。まだ一駅しか進んでいない。
「で、藍香はどうなの?」
急に話しかけられると、頭が混乱する。
「え? 私?」
「うん。慎二との夫婦役。だいぶ苦戦してるみたいだけど」
「えー、そりゃそうじゃん。だってあんなやつが旦那だなんて」
「あんなやつって。慎二が聞いたら泣くぞ」
「いいよ。むしろ泣かせてやりたいよ」
「ひどいなあ」
ひどいと言いながら、全くそう思っていないような笑い声。
アンニュイな雰囲気の割に、笑い方は年相応だ。
それから少し沈黙が流れる。
うーん、なんだか今日は、うまく話を続けられない。
告げられる駅名。別れるのはまだ先だ。
別に気まずい訳じゃないのに、沈黙に耐えられなくなって、スマホの電源をつける。
インスタグラムを開くと、ストーリーの通知。
慎二の投稿が目に入る。泊まった先の友達にちょっかいを出している。くだらない動画だ。
くだらないけど、なんだか面白くて、つい笑いがこぼれる。
「なにそれ」
突然、顔のすぐ近くに気配を感じる。
陸が隣で、私のスマホを覗きこんでいる。
髪が頬に触れる。彼のワイシャツから洗剤のにおいがする。
無意識に、息をひそめてしまう。
細い指が私のスマホに伸びてきて、動画を巻き戻す。
動画を見終わった陸が、ふふふ、と小さく笑う。
「おもろ」
「ほんと馬鹿だよね」
目を見合わせて、2人でもう一度笑う。
いつもは温度の低い彼の瞳は、こういう時だけとても温かい。
今の停車駅で、折り返し地点。
「夫婦役って本当に難しいなって、痛感してるんだよね」
「まあ、まだ高校生の俺たちじゃ、想像してもしきれないよな」
「結婚もまだだもんね」
「ね……あれ、でも藍香は結構、恋愛経験豊富じゃなかったっけ」
「はあ?」
「だってほら、この前の文化祭で」
「いや、あれは告白されただけだし、恋愛経験とかじゃないじゃん」
「まあそっか。あれって結局、断ったんだっけ」
「そりゃそうだよ。だって好きか分かんなかったんだもん」
次の言葉を言おうとして、急によろける。
急カーブに差し掛かった電車が、大きく揺れたのだ。
背の低い私は吊り革を握っていなくて、背中側に大きくよろめいた。
とっさに伸ばされた手が、私の腕を掴む。
倒れかけた体は、間一髪のところで止まった。
「うわあぶな、ありがと陸」
「お前ほんと危ないわ。吊り革持てよ」
「だから届かないんだって。喧嘩売ってる?」
「あーあーごめんごめん。じゃあ、俺のカバン吊り革代わりにしな」
陸はそう言って、肩にかけられた通学カバンを示した。
「じゃ、遠慮なく」
わざと体重をかけてカバンを引っ張ると、おい! と笑いを含んだ咎める声が降ってきた。
すぐそばの手すりを持てばいいのに。
なんて、どちらも言わないんだよな。
「……で、陸はどうなの」
ちょっとだけ声色が変わってしまう。
ん? と陸がこちらを見る。
「どうって何が」
「恋愛経験的な」
「恋愛経験」
「ね、なんかさ、誰かいないの?」
好きな、人、とか
急に、返事が返ってこなくなる。
前髪越しの目が、細められている。
何かを誤魔化すように。こらえるように。
無意識に自分も、目を細めていた。
急に顔が熱くなって、それ以上言えなくなる。
「ま、なんでもいいんだけどさ」
逃げるように息を吐く。
なんでもよくは、ない。
次は——
停車駅を告げる、アナウンスの声。
もう、降りなくてはいけない。
「じゃあ、私はここで」
足早にホームへ出る。
そこで振り返って、またね、と声をかける。
また明日、と返ってくる声。
それからドアが閉まるまでの間、
ほんの少しだけ長く、目が合った。
ああ。
あと一駅あれば、
好きって言えたのに。