春祭りの翌日、王宮の庭は静けさを取り戻していた。 花冠の残り香が風に乗って漂い、私は紅茶を片手に、レオと並んでベンチに座っていた。
「昨日の君、すごく堂々としてた」
レオが、少し照れたように言った。
「内心はずっとドキドキしてましたけどね」
私は笑って返した。
しばらく沈黙が続いたあと、レオがぽつりと聞いた。
「ねえ、アイリス。君って、どうしてそんなに“食べること”にこだわるの?」
私は、紅茶の渋みを味わいながら、少しだけ遠くを見た。
「…昔、すごく貧しかったんです。 家族は多かったけど、食べ物は少なくて。 ご飯の時間になると、兄弟たちが一斉に手を伸ばして…私はいつも、端っこのパンしか取れなかった」
レオは、静かに耳を傾けていた。
「でも、ある日、母がこっそり小さなパイを焼いてくれたんです。 “アイリスだけの分よ”って。 それが、人生で初めて“自分のために作られた料理”だった」
私は、思い出すように目を閉じた。
「そのパイの味が、忘れられなくて。 バターの香り、ほんのり甘いリンゴ… それ以来、私は“食べること”が、ただの栄養じゃなくて“誰かの気持ち”だと思うようになったんです」
レオは、そっと私の手に触れた。
「それって…すごく素敵なことだね。 君が味見にこだわるのは、料理の“心”を感じたいからなんだ」
私は、少しだけ笑った。
「だから、王妃様の紅茶の渋みも、ちゃんと伝えたくなるんです。 だって、それが“気持ち”だから」
レオは、私の赤毛を見ながら言った。
「君の言葉は、いつもまっすぐだ。 それが、王宮の空気を変える理由なんだと思う」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなった。
その夜、セレナの部屋で紅茶を淹れながら、私は彼女にも話した。
「私、昔は食べ物を奪い合うような生活でした。 でも、母のパイが、私に“味わうこと”の意味を教えてくれたんです」
セレナは、静かにうなずいた。
「だから、あなたの“食いしん坊”は、ただの欲じゃない。 それは、愛を感じる力なのね」
私は、紅茶を一口飲んだ。 渋みは、ちょうどよかった。
王宮の空気は、また少し変わった。 そして私は、自分の過去を話すことで、少しだけ軽くなった気がした。
赤毛のアイリス。 毒を食べたメイドは、今や王族と心を通わせる“話し相手”になった。
そしてその心は―― 一つの小さなパイから始まっていた。
春の終わり、王宮の庭に初夏の風が吹き始めた頃。 私は、セレナの部屋で紅茶を淹れていた。 そのとき、侍女が一通の手紙を持ってきた。
「アイリス様宛です。差出人は“ミーナ”とあります」
私は、手紙を受け取ると、胸がざわついた。 ミーナ――それは、私の妹の名前だった。
封を切ると、震えるような文字でこう書かれていた。
ーーーー
母が倒れました。 病で長くはないと思う。
私だけじゃ耐えられない。会いに来てほしい。アイリス姉さんへ。
ーーーー
私は、手紙を握りしめたまま、言葉を失った。
「アイリス…どうしたの?」
セレナが、心配そうに声をかけてくれた。
私は、震える声で答えた。
「母が…病気だそうです。 すぐにでも帰りたい。でも、王宮を離れるには…」
セレナは、私の手をそっと握った。
「行きましょう。私も、あなたの故郷を見てみたい」
「え…セレナが?」
「ええ。あなたが育った場所を知ることは、あなた自身をもっと理解することになるわ」
そのとき、レオが部屋に入ってきた。
「僕も行くよ。君の大切な人に、ちゃんと会いたい」
私は、涙がこぼれそうになるのをこらえた。
「…ありがとうございます。 でも、王妃様と王子様が一緒に来るなんて、村の人たちが驚きますよ」
レオは笑った。
「驚かせよう。君が王宮でどれだけ大切にされてるか、ちゃんと伝えたい」
旅の準備は、すぐに整えられた。 馬車には、控えめな装飾だけ。 セレナは、王妃の衣を脱ぎ、シンプルなドレスに身を包んでいた。
「今日は、ただの“セレナ”として行くわ」
彼女の笑顔は、どこか少女のようだった。
道中、レオは私に尋ねた。
「君の故郷って、どんな場所?」
「小さな村です。畑と、風と、焼きたてのパンの匂いがする場所。 貧しかったけど、母の笑顔があれば、それで十分でした」
レオは、静かにうなずいた。
「君の“食いしん坊”は、そこから来てるんだね」
村に着いたのは、夕暮れ時だった。 空は赤く染まり、私の赤毛と同じ色に包まれていた。
家の前で、ミーナが待っていた。 私を見るなり、涙をこぼしながら抱きついてきた。
「姉さん…来てくれて、ありがとう」
私は妹の背をそっと撫でた。
「母は…?」
「奥の部屋に。意識はあるけど、苦しそうで」
私はセレナとレオに一礼してから、母の部屋へ向かった。
そこには、痩せた母が横たわっていた。 でも、私の顔を見ると、微笑んだ。
「…アイリス。赤毛が、夕焼けみたいね」
私は母の手を握った。
「母さん、私…王宮で“話し相手”になったの。 王妃様と王子様が、私を見舞いに来てくれたの」
母は、目を細めて言った。
「それは…すごいことね。 でも、私にとっては、パイを美味しそうに食べるあなたが、いちばん誇らしい」
私は涙が止まらなかった。
その夜、セレナは母の枕元に座り、静かに話していた。
レオは、ミーナと庭で果実を摘んでいた。貴族様と平民である私達が二人のすぐ近くにいる。それはとても温かいもので……言葉にできない優しさを感じた
王宮の人々が、私の故郷で、私の大切な人たちと過ごしている。 それが、夢のようで、でも確かに現実だった。
そしてその夜、母がぽつりと言った。
「アイリス、あなたは…王宮に風を運んだのね」
私は、母の手を握り返しながら答えた。
「母さんが、私に“味”を教えてくれたから。 だから私は、誰かの心を感じられるようになったんだと思う」
そう伝えると母は嬉しそうに微笑んだ。
「お母さん?」
「ス~ス~」
私の声を聞いて母は安心したみたいに寝息を立てる。私も安心して母の隣で眠りについた。