アマリリス・フロルディアが初めて自分の存在を疑問に思ったのは、まだ幼い頃だった。記憶の奥にこびりついているのは、母と呼ぶべき女の冷たい声だ。
「お前の本当の親は私たちじゃない。生まれてすぐに渡されたんだ。」
その言葉は何の感情もなく放たれ、ただ事実を突きつけるためだけにあった。理由を尋ねても答えは返ってこない。幼い彼は理解できないまま、その一言に全てを呑み込まれた。血のつながりがないという現実は、愛情を受けることを拒まれている理由のように感じられた。いや、実際そうだったのだろう。フロルディア家におけるアマリリスは、愛される存在ではなく、ただ利用されるために置かれた「部品」に過ぎなかった。
義父は冷徹で厳格な男だった。地方において名の知れた企業を経営しており、その後継者を必要としていた。アマリリスはその「後継者候補」として道具のように扱われ、朝から晩まで勉強漬けにされた。朝起きれば問題集が目の前に置かれ、食事の間にも単語帳を手に持たされた。眠る直前まで公式や歴史の年代を暗記させられ、夢の中にまで数字や文字が出てくるほどだった。もしも答えを一つでも間違えれば、義父の怒声と拳が飛んできた。
「なぜできない…道具にもなれんのか!!」
罵声が飛ぶたびに拳が頬を叩き、時には蹴りで床に転がされた。義母は止めもしなかった。ただ黙って見ているだけだった。助ける素振りすら見せないその無関心さが、かえってアマリリスの心を冷やした。
義理の姉と弟もまた、彼を仲間としては扱わなかった。むしろ、彼が殴られ、泣き声をあげる姿を面白がって笑った。テストで悪い点を取ったとき、義父に殴り倒されるアマリリスを見て、二人は影でくすくすと笑った。その笑い声は拳の痛みよりも深く彼を傷つけた。自分は家族ではない。愛されることなどありえない。そう理解させるには十分だった。
死にかけた夜もあった。暗記した公式を一つ間違えただけで義父の怒りが爆発したことがあった。殴るだけでは足りず、床に押し倒され、背中を靴で踏みつけられ、息ができなくなった。視界が白く霞み、肺が悲鳴を上げる。呼吸が途切れ、胸が裂けるような苦しさの中で、彼は「これで終わるのか」と思った。恐怖と同時に、妙な安堵があった。このまま死んでしまえば、こんな地獄から解放されるのではないか。しかし義父は吐き捨てるように言った。
「死なれては困る。まだ使えるんだからな。」
その一言で彼は理解した。自分は生かされているのではない。使うために維持されているだけなのだ。
学校に通うようになっても状況は変わらなかった。家庭での抑圧と暴力を抱えたまま教室に座り、彼はひたすら勉強に没頭した。他の生徒と遊ぶこともなく、休み時間は机に向かい続けた。話しかけられても返事をせず、目だけで追い払うように睨みつける。その姿は周囲から「怖い」「感じ悪い」と囁かれるようになり、自然と孤立していった。子供らしい笑顔もなく、ただ機械のように課題をこなす少年に、友達と呼べる者はほとんどいなかった。
ただ一人の例外がいた。アスデム・グリードという少年だ。彼は周囲の空気に流されず、自分のペースを崩さない、不思議な雰囲気を持っていた。成績は中の上、スポーツもそれなりにできる。特別優れてはいないが、憎めない性格で誰とでも自然に話すことができた。そんなアスデムはある日、アマリリスに声をかけた。
「なあ、アマリリス。昼、一緒に食おうぜ。」
最初は無視した。だがアスデムは諦めず、何度も話しかけてきた。気づけば彼の隣に座り、弁当を広げるのが日常になっていた。能天気とも思える彼の明るさは、アマリリスの張り詰めた心を少しずつ緩めた。
「お前、頭いいよな。でもそれだけじゃつまんないだろ?たまには遊ぼうぜ。」
そう笑った。その瞬間、アマリリスの口元がほんのわずかに動いた。自分でも気づかないほど小さな、しかし確かに笑みに似たものだった。彼にとって初めての、そして唯一の友達がアスデムだった。だがその存在を家庭で語ることは決してなかった。知られれば「無駄な時間」としてまた暴力が飛んでくるのは目に見えていたからだ。
アマリリスにはもう一つ大切なものがあった。こっそりアルバイトをして買ったパソコンだ。家族に知られないよう必死に隠し通し、部屋に置いた黒い箱は、彼にとって外の世界への扉だった。画面の光は、家庭の暗闇をわずかに照らした。ネットの中では誰も彼を「道具」とは呼ばない。冷静な意見を言う存在として、あるいは知識豊富な人物として評価されることもあった。自分を正しく見てくれる人間が確かにいる。そのことが彼にとってどれほどの救いだったか、言葉にはできなかった。彼は心の奥で確信した。信頼できる者は、自分を正しく評価してくれる者だけだと。
そうして彼は成長していった。外の世界では無表情で、冷たく、愛想がなく、誰も近づけない存在として周囲に映った。だが内側には抑え込まれた感情が渦巻いていた。怒り、悲しみ、憎しみ、孤独。それらを誰にも見せず、ただ硬い仮面を被って生き続けた。彼は道具として育てられた少年だった。しかし確かに心はあり、その心はいつか彼を救うのか、あるいは破滅へ導くのか、その答えを知る者はまだいなかった。
アマリリス・フロルディアの学校生活は、基本的に孤独で満たされていた。授業中は教師の声を機械のように記憶し、休み時間は誰とも話さずに机に向かい、帰宅すれば再び勉強漬けの日々に戻る。笑うこともなく、誰かと肩を並べて歩くこともない。ただ時計の針の音だけが、彼の生活を刻んでいた。そんな彼の日常に、唐突に割り込むように現れたのがセリナ・コルヴィアだった。彼女は他の生徒たちと違って、最初から彼を避けようとしなかった。むしろその逆で、彼の周りを歩き回るようにして、しつこいほどに話しかけてきた。
「ねえ、どうしていつも一人なの?」
彼女が最初にかけた言葉は、それだった。教室の隅で静かにノートを取っていたアマリリスは、顔を上げることなく沈黙を守った。だがセリナは構わず椅子を引き、隣に腰掛けると勝手に弁当を広げて食べ始めた。無視をしても退く気配がない。アマリリスは心のどこかで「鬱陶しい」と思ったが、それ以上に奇妙な感覚を覚えていた。誰かが自分にここまで近づいてくることなど、今までなかったからだ。
セリナはいつも笑っていた。友達が多いわけではなかったが、その人懐っこい笑顔は周囲の空気を柔らかくする力を持っていた。授業の合間、廊下で、帰り道で、彼女は当たり前のようにアマリリスの隣に立ち、どうでもいいことを話した。
「今日の給食のパン、硬すぎない?」
「あの先生、板書が下手だよね。」
彼女の言葉はどれも他愛もない。だがアマリリスにとっては、まるで異国の言語のように新鮮だった。彼は頷きもせず、表情一つ変えなかったが、心の奥底ではその声を拒絶しきれていない自分に気づいていた。
日が経つにつれ、セリナの存在はますます彼にまとわりつくようになった。最初は反射的に避けていたアマリリスも、やがてその行動を止めることがなくなった。避けても避けても彼女は戻ってくる。それならば追い払うだけ無駄だと悟ったのだ。だが同時に、心の奥では微かな安らぎを覚えていた。彼女の笑顔を見ていると、なぜか家庭の重苦しさを一瞬だけ忘れられるような気がした。
ある日の放課後、教室の窓から差し込む夕陽に照らされながら、セリナは唐突に切り出した。
「アマリリスくん、私ね、あなたが好き。」
アマリリスは心臓が跳ね上がるのを感じたが、すぐには言葉が出てこなかった。あまりに突然で、理解が追いつかない。しかしセリナは続けた。
「最初はね、ただ気になっただけだったの。授業のときも休み時間も、いつも一人で静かにしてるでしょう? 周りがざわざわしてるのに、あなただけ空気が違うみたいで。まるで別の世界にいるみたいで……なんだか放っておけなかったの。」
彼女の声は夕暮れに溶けるように柔らかく、だが確かな熱を帯びていた。アマリリスは無表情のまま彼女を見つめた。
「それにね……あなたって、怖い人みたいに見えるのに、実はすごく真面目に勉強してるでしょう? 私、何度か隣の席から見てたの。授業の板書も、誰よりもきれいに取ってて。そんなに頑張ってるのに、誰もそれを褒めてない。誰も気づいてない。それが悔しくて……気づいてあげたいって思ったの。」
セリナは言葉を探すように、一度視線を伏せてからまた彼を見た。
「それに……たまに、すごく寂しそうな顔をするの。声に出さなくても、誰にも分からなくても、私には分かったの。私も昔、一人ぼっちだったことがあるから。あのときの私と同じ目をしてた。だから気になって、気づいたら……目で追ってて。気づいたら、好きになってた。」
アマリリスの喉がひくりと震えた。自分を「分かった」と言う者など今まで一人もいなかった。彼女の言葉は、心の奥底に隠していた痛みを直接撫でるように触れてきた。だが、だからこそ言葉にするのが怖かった。家庭のことを話すわけにはいかない。自分の現実を知られてしまえば、彼女の笑顔を曇らせることになる。彼女を悲しませたくない。その思いが胸を支配し、結局アマリリスは声を発することができず、ただ口を閉ざした。沈黙が数秒続いた。だがセリナは気まずそうに笑い、少しだけ視線を逸らした。
「……返事は、いつでもいいから。」
その笑顔は寂しげでありながらも優しく、アマリリスの胸に深く焼き付いた。彼は初めて、自分の心が揺らいでいるのをはっきりと自覚した。厳格で冷たい仮面の裏で、ほんの小さな温もりが芽生えていた。
その後もセリナは彼に変わらず接した。告白をなかったことのように扱うのではなく、ただ日常の中に溶け込ませるように自然に振る舞った。彼女の無邪気な笑い声は、アマリリスにとってこれまで経験したことのない音だった。それは勉強や暴力に塗りつぶされた彼の世界を、わずかにだが確かに変えていった。
セリナ・コルヴィア。
彼女の存在は、アマリリスの人生にとって異物であり、同時に唯一の光だった。彼はその光をどう扱えばいいのか分からなかった。触れれば壊れてしまいそうで、拒絶すれば消えてしまいそうで、ただ黙って彼女を見つめるしかなかった。けれどそのとき彼はまだ知らなかった。その光が、やがて彼にとって取り返しのつかないものへと変わってしまうことを。
セリナがアマリリスに告白してから、数日が過ぎていた。彼女は彼の沈黙を気にする素振りを見せなかった。いつも通りに明るく話しかけ、笑い、彼の隣に居続けた。だがその笑顔の奥には、ほんの小さな不安が隠れていた。返事を待つ時間が長くなるほど、心は揺れ、胸の奥に疑問が積み重なっていく。
「どうして答えてくれないんだろう?」
「私のこと、迷惑に思ってるのかな?」
それでもセリナは諦めなかった。彼の沈黙の裏には何か理由がある、と信じていたからだ。
ある日、彼女はふと思った。
「もしかしたら家族に反対されてるのかもしれない。」
アマリリスがどこか陰を背負っている理由を、彼女は家庭にあるのではないかと直感していた。だが彼は決して自分の家庭について話そうとしない。ならば直接確かめるしかない。彼女の胸には、若さゆえの真っ直ぐな衝動が燃えていた。
放課後、セリナは一人でアマリリスの家を訪れた。門構えは立派で、外見だけを見れば裕福で整った家庭のように見えた。チャイムを押すと、扉を開けたのはアマリリスの父だった。冷たい目をした男は、初対面の少女を値踏みするように見下ろした。
「誰だ?」
セリナは勇気を振り絞り、まっすぐに答えた。
「セリナ・コルヴィアといいます。アマリリスくんと同じ学校の者です。……私、アマリリスくんのことが好きなんです。だから……彼を大切に思っているって、家族の方にも知ってほしくて。」
その言葉を聞いた瞬間、父親の目が冷笑で細められた。
「……大切に、だと?」
彼の口元には歪んだ笑みが浮かび、目の奥には明確な悪意が宿っていた。
「お前のような小娘が、あの出来損ないに何を見出したというのだ?」
父親の声は低く、重く響いた。
「あれはただの道具だ。勉強して、会社を継げばそれでいい。それ以外の価値などない。お前ごときが勝手に情を持つなど、許されるはずがない。」
セリナは一歩も引かなかった。
「違います! アマリリスくんは道具なんかじゃありません。とても努力してて、優しくて……! 私は彼をちゃんと見てます!」
必死の訴えは、まるで硝子細工のように脆い希望を守ろうとする叫びだった。
だが父親の冷酷さは微動だにしなかった。むしろその言葉は彼の怒りを煽り、狂気を加速させた。
「愚か者め……」
その言葉のあと、何が起きたのかを誰も正確に知ることはなかった。ただ確かなのは、セリナ・コルヴィアがその日のうちにとても酷い方法で「始末」されたという事実だった。血も、叫びも、やがて屋敷の闇に呑み込まれ、跡形もなく消された。
アマリリスがそのことを知ったのは、翌日のことだった。学校に現れないセリナを不審に思い、下校途中に彼女の友人から「昨日、君の家に行ったらしい」という言葉を耳にした瞬間、彼の心臓は冷たい鉛のように重く沈んだ。その瞬間、身体は勝手に動いていた。全力で駆け出し、息が切れても足を止めなかった。鼓動は乱れ、胸は苦しいほど締め付けられているのに、それでも走ることをやめられなかった。家の門が視界に飛び込んできたとき、彼の手は震え、指先は冷え切っていた。
玄関の扉を開けると、重苦しい沈黙が彼を迎えた。屋敷の中は異様に静かで、まるで時間そのものが凍りついたかのようだった。奥へと足を進めるたび、胸の奥に渦巻く不安が現実の形を帯びていく。
そして――目に入った。
廊下の先、物置部屋の扉がわずかに開いていた。中を覗き込んだ瞬間、彼の視界は赤黒く染まった。そこにあったのは、セリナの冷たい亡骸だった。衣服は裂かれ、皮膚には無数の痕が刻まれていた。その姿はあまりにも惨たらしく、面影を留めながらも、彼女がもう戻らないことを残酷に告げていた。
アマリリスの喉から、声にならぬ声が漏れた。
「……あ、ぁ……」
掠れた息が震え、涙が頬を伝う。叫びたくても叫べない。声帯を誰かに握り潰されたかのように、言葉はただ濁った音に変わり、虚空へと溶けていく。
「セリナ……。」
かろうじて絞り出したその名は、震えに震え、すぐに途切れた。彼は崩れ落ちるように膝をつき、震える手で彼女に触れようとした。しかし指先が届く寸前、恐怖と絶望に飲まれた身体は硬直した。触れれば、本当に彼女が冷たくなっていることを受け入れざるを得なくなる。それが恐ろしかった。
嗚咽とも絶叫ともつかぬ声が、喉の奥で何度もせり上がった。胸の中に溜め込んできた孤独や憎悪が、一瞬で爆発し、彼の精神を引き裂いていく。心臓は焼け付くように痛み、視界は涙で滲んで揺れた。世界が音を失い、ただ自分の荒い呼吸と心の悲鳴だけが耳を打ち続けた。
そのとき、背後で小さな軋む音がした。振り返ると、廊下の暗がりの中から父の影が静かに佇んでいた。冷たい視線を投げかけるその顔には、後悔も同情もなかった。そこにあったのはただ、薄く歪んだ笑みだけ。
アマリリスは理解した。――父がやったのだ。
その夜、彼は机に向かい、一枚の紙を取り出した。震える手で計画を書き始める。日付、時間、方法、順序。彼の中の何かが音を立てて壊れていた。長い間押し殺してきた怒りと憎悪が、形を持って溢れ出し、彼の思考を支配していった。家族を――全員を殺す。これは復讐であり、正義であり、彼女のための鎮魂でもあった。
数日かけて緻密に計画を練ったアマリリスは、決行の日を迎えた。しかしその日、彼の家族は忽然と姿を消していた。屋敷の中はもぬけの殻で、血の気配すら残っていない。なぜ消えたのか、どこへ行ったのか、誰も知らない。彼の憎悪の刃は宙を切り、残されたのは果てしない虚無だけだった。
セリナを失い、家族すら自らの手で罰することができなかったアマリリスは、ただ一人、暗い部屋でうずくまった。彼の傍らには、こっそりと買い集めた一台のパソコンだけが残されていた。それは彼にとって、唯一の逃避先であり、信じられる宝物だった。
そして彼の心の奥底には、消えない傷が刻まれていた。信じられる者はただ一つ、自分を正しく評価してくれる者だけ。セリナが遺した言葉と眼差しは、もう戻らない光として彼の中で燃え続けていた。
屋敷の中にただ一人、アマリリス・フロルディアが残されていた。セリナ・コルヴィアの亡骸を目の当たりにした絶望が、胸の奥で冷たく広がり、家族が忽然と消えた虚無感がその上から重く覆いかぶさっていた。部屋の窓から差し込む月光は、彼の黒い瞳をわずかに照らすだけで、周囲の闇を払うことはできない。肩を震わせ、膝を抱えてうずくまる少年の姿は、まるで世界から切り離されたかのようだった。
絶望に押し潰されそうになる中で、彼の視線は自然と机の上の黒いパソコンに向かった。誰にも知られずに手に入れ、密かに育ててきた唯一の「自分だけの世界」。その画面の光は、家庭や学校の理不尽さをほんの少しだけ遠ざけてくれる。手を伸ばすと、キーの冷たさが指先に伝わり、現実の痛みをわずかに和らげた。パソコンの中では、誰も彼を「道具」などとは呼ばない。そこでは、彼は正しく評価される存在であり、声を出さずとも理解してくれる人間がいる。孤独の中で唯一、信頼できる世界。
アマリリスはゆっくりと座り直し、手を震わせながらキーボードを打ち始めた。ログイン画面に指を置いた瞬間、胸に渦巻く感情が制御を失い、涙が自然と頬を伝った。嗚咽は出ない。ただ涙だけが、静かに、しかし確かに彼の絶望を証明していた。画面の向こうには、匿名の存在でありながら、自分を理解してくれる誰かがいる。その事実だけが、今の彼にとって唯一の支えだった。
しかし、パソコンの光だけでは、現実の痛みを消すことはできない。セリナの笑顔も、家族の存在も、すでに消えてしまった。彼は一人、過去を思い返す。家庭での暴力、義理の姉弟の嘲笑、そして唯一の友人であったアスデム・グリードとの日常――どれも遠い世界の出来事のように感じられた。頭の中で過去の断片が走馬灯のように流れ、胸の奥で冷たい怒りと深い悲しみが交錯する。
アスデム・グリードのことを思い出す。学校ではいつも自然体で、笑顔を絶やさず、誰とでも等しく接する少年。彼だけは、家庭や学校で受けた理不尽を知らなくても、アマリリスの孤独を理解してくれるかもしれない。けれど、アスデムと向き合うためには、まず自分が何者であるかを知ってもらわなければならない。その勇気を持つためには、まだ心が重すぎる。
アマリリスは膝を抱え、息を整えながら決意する。たとえ世界が残酷で、自分を信じてくれる者が少なくても、失ったものの代わりに、自分を信じてくれる者のために生きることを止めてはいけない、と。パソコンの中で交わす言葉も、アスデムとのやり取りも、どんなに小さなものでも、自分の心の支えになる。孤独を抱えたままでも、前に進むしかない。
そして、アマリリスは初めて自分の胸の奥に生まれた冷たく鋭い感情に気づく。それは怒りでも哀しみでもない、ただ一点に集中した、静かだが強烈な決意だった。消えたものを取り戻すことはできない。だが、未来を自分の手で切り拓くことはできる。セリナの死、家族の消失――全てを心に刻みながらも、彼は自分自身を見失わないことを誓った。
夜が深まり、屋敷には沈黙だけが残った。パソコンの光が彼の顔を照らし、涙で濡れた頬を優しく包む。その光は冷たく、孤独を映し出す鏡のようでもあったが、同時に希望の象徴でもあった。アマリリスは深く息を吸い込み、キーボードに向かって手を動かす。声は出せなくとも、文字に想いを乗せることで、誰かに届くかもしれない。たった一つの光を頼りに、彼は暗闇の中で孤独を抱えながらも生きる決意を固めた。
こうして、世界に取り残された少年は、絶望の底から静かに立ち上がった。信じられるものは、わずかでも確かに存在する。セリナの思い、アスデムとの友情、そしてパソコンの光――それらを胸に、アマリリス・フロルディアは孤独と虚無の中で、自分自身の道を模索し始めるのだった。
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