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パンケーキの
香ばしい香りが満ちる喫茶 桜の午後
穏やかに流れる空気の中で――
時也の視線だけが
ある一点に釘付けにされていた。
絆創膏に大きく広がり、滲んだ紅。
「⋯⋯絆創膏、取り替えましょうか?」
不意に放たれたその言葉に
ソーレンがパンケーキを切る手を止め
もぐもぐと口を動かしながら
目線だけで時也を見上げた。
「⋯⋯あ?おう、サンキュー」
気怠げな声とは裏腹に
彼の声には少しだけ
照れくさそうな響きが混じっていた。
時也は戸棚から救急箱を取り出すと
パンケーキを口いっぱいに頬張る
ソーレンの隣に腰を落とす。
そして
そっと彼のこめかみに貼られた
絆創膏に指先を添えた。
柔らかく、優しく。
まるで子供の傷に触れるかのように
慎重に剥がしていく。
「ちょ⋯⋯!
いっぺんに剥がせよ!
くすぐったいっつーの」
ぶつぶつと文句を言いながらも
ソーレンは黙って任せていた。
やがて露わになった傷口に
時也の手がふと止まる。
そこには
紅く腫れた皮膚に
深く刻まれた裂傷が走っていた。
乾いた血の縁には
傷の深さを物語るかのような
痛ましさがある。
(⋯⋯いったい、どれだけ派手に転んだら
こんな傷に⋯⋯)
胸に小さな違和感が芽生える。
時也は消毒綿を取り出し
傷口にそっと押し当てる。
「くぅ⋯⋯!しみるな⋯っ!」
小さく呻くソーレンに
時也は僅かに微笑みながら
消毒を施していく。
一枚では足りず
もう一枚新しいものをと
汚れた消毒綿を捨てようとした
瞬間――
チリッと光る何かが
血の滲んだ白い綿に紛れて見えた。
(⋯⋯ガラス片?)
小さな破片。
それは明らかに
路面の砂利や石ではない
人工物の煌めきだった。
(街中とはいえ⋯⋯
落ちていた瓶でも踏んだんでしょうか?
いや、それにしても⋯⋯)
不審な思考が頭をもたげてくる。
ソーレンほどの戦闘経験者であれば
たとえバナナの皮を踏んだとしても
無意識に受け身を取るはず――
それが出来ないほどの
何かがあった⋯⋯?
「レイチェルさん⋯⋯」
時也の声が
思案の色を含んで低く落ちた。
「⋯なぁに?時也さん」
ふわりと笑って
レイチェルが振り返る。
「ソーレンさんが転んだ時の様子を
教えてください。
出来れば⋯⋯事細かに、お願いします」
「おい!揶揄う気かよ!」
ソーレンが声を荒げるのを他所に
レイチェルはけらけらと笑いながら答えた。
「えっとね
あれはお店を出て
少し歩いたときだったの!
新作アクセ見た帰りで
テンション高く話してたら
ソーレンが前を歩いてて――
で、いきなり『うおっ!?』って叫んで
足元で何かがぬるっと滑って
重心崩して⋯⋯ドカン!って!」
「お前、俺は爆弾かよ⋯⋯」
「でも本当に派手だったんだから!
そしたら頭ぶつけちゃって
あっという間に絆創膏コースよ!
私も慌てちゃったし
結構心配したんだからね?」
(⋯⋯本当に?)
話に齟齬はない。
表情も声色も
普段のレイチェルそのものだった。
だが――
傷の場所は
まるでボトルの角のような直線的な切創。
皮膚が裂かれた形は
ただ転んだだけではできない。
しかも
混じっていたのはガラス片のみ。
砂利はない。
(⋯⋯まるで、誰かに殴られたような――)
そこまで考えた時
ふと過ぎるのは、先ほどの自分の失態。
脚立代わりに持ち上げたソーレンが
自分に振り落とされ
何の抵抗もなく落ちてきたあの瞬間。
彼は、完全に身を預けていた。
――信じていたのだ。
ー時也が落とさないとー
(⋯⋯信頼していたから、無防備でいた)
それがもし
この傷も同じだったとしたら⋯⋯?
「おい⋯⋯おい!
時也!さっきから顔が近ぇんだよ!!」
肘で小突かれ
時也は思考の深みから引き戻された。
「あ⋯⋯あぁ、すみません」
取り繕うように微笑みながら
再び視線を傷口に落とす。
冷静を装いながら
もう一度その形を
色を⋯⋯脳裏に焼きつけた。
そして
新しい絆創膏を丁寧に貼り直す。
「⋯⋯はい、これで大丈夫です」
「ったく。
変なトコで気ぃ遣ってくんだな⋯⋯」
パンケーキに戻る
ソーレンの横顔を見つめながら
時也の心に渦巻く〝違和感〟は
確信へと近付いていく――
だがその先は、まだ霧の中だった。
かすかな焦燥が
喉の奥をひりつかせていく。
喫茶桜の空気は、いつもと変わらない。
窓から差し込む午後の光
甘く香るパンケーキ、笑い声。
それなのに――
時也の胸の奥だけが
しんしんと冷え続けていた。
(あのガラス片⋯⋯あの傷の形⋯⋯)
手元ではアリアのパンケーキを
一口大に切り分けながらも
意識の奥底では
絶えず思考の糸を紡いでいる。
何かが、確かに起きていた。
そして、それは自分の知らない場所で。
自分の知らない時間に。
――いや、思い出せないだけなのか?
「時也さん⋯⋯大丈夫?
アリアさんのパンケーキ、もう細切れよ?」
レイチェルの声が
不安そうに時也を呼び戻した。
「⋯⋯あ!」
はっとして手を止めた時也は
自分がどれだけ同じ箇所を
ナイフで刻んでいたかに気付き
切り分けられ過ぎた
パンケーキを見下ろした。
もはや一口どころか
ふわふわの生地は細かく千切られ
まるでパン粉のようになっている。
アリアは、そんなパンケーキではなく
時也そのものを見つめていた。
深紅の瞳に宿るのは
変わらずの無言――
だが
どこか優しさを孕んでいるようにも見えた。
「すみません⋯⋯。
少しだけ
疲れが溜まっているのかもしれません。
昨夜、あまり眠れなくて⋯⋯」
言い訳がましく
けれど素直にそう呟いた時也に
レイチェルが明るく返す。
「なら、今夜は早めに寝ないとね!」
「⋯⋯はい」
レイチェルは、ふふっと笑いながら
隣のソーレンに目を向ける。
「ソーレンも、無理はダメだからね!
痛かったら、ちゃんと休む事!」
「はいはい。
お気遣い、ありがとうよ。お喋りさん」
軽く頭を搔きながら
ソーレンは残ったパンケーキを
口に放り込んだ。
そのこめかみの絆創膏が、光を反射する。
時也の瞳が、無意識にそこへ向けられた。
(⋯⋯⋯わからない)
だが、何かが決定的に違うとは解る。
そう、胸が叫んでいる。
本能と直感のざわめき⋯⋯
(何かを⋯⋯忘れている。
⋯⋯⋯いや
〝忘れさせられてる〟のだとしたらー⋯)
再び思案の沼に沈みかける時也の頬に
ひんやりとした感触が添えられた。
不意に触れた指先。
まるで白磁のように滑らかで
美しい――
アリアの指だった。
「⋯⋯時也」
アリアはそのまま
そっと彼の顔を自分へ向け
静かに近付く。
深紅の瞳が
鳶色の瞳をまっすぐに見つめた。
時也の鼓動が、一拍大きく高鳴る。
その距離は至近――
呼吸が⋯⋯触れ合いそうなほど。
「⋯⋯お前が良く眠れるよう
今夜は、私が⋯⋯疲れ果てさせてやろう」
その瞬間――
「⋯⋯ぶっはッ!!」
ソーレンが
口に含んでいたコーヒーを
盛大に吹き出した。
同時に
レイチェルが「ふぐっ!」と
奇声を上げながら
パンケーキを喉に詰まらせかけ
慌てて水をがぶ飲みしている。
「っ、アリ⋯⋯アリアさん⋯っ!?
い、い、今、なんと⋯⋯!」
人前で
発言するとは思っていなかった内容に
時也の思考が完全に崩壊する。
顔はみるみる赤く染まり
目は泳ぎ
言葉にならない呟きだけが漏れ続けていた。
「⋯⋯アリアさん、大胆⋯⋯っ!」
レイチェルが頬を真っ赤に染め
手で顔を覆いながら
指の隙間からアリアと時也を覗いている。
その隣で
ソーレンは盛大に息を吐き
椅子の背にもたれて天井を仰いだ。
「はぁ⋯⋯アホくせぇ」
だが⋯⋯内心、彼は思っていた。
(アイツが、何を悩んでるか知らねぇけど
アリアなりの精一杯の⋯ズレた冗談か)
その言葉に感情がこもっていたのか
あるいは
ただ彼女らしい愛情表現だったのか。
誰にも分からなかったが――
その場に流れた空気だけは
確かに優しく、少し照れ臭かった。
違和感と言う名の穴に
片足を掴まれていようと。