夜もすっかり更け
喫茶 桜の静けさが
寝室にまで染み渡る頃――
時也とアリアは
いつも通り二人きりの時間を過ごしていた。
灯りを落とし
淡い橙の明かりだけが壁を優しく照らす。
ふと
時也は記憶の隅に
引っかかっていた感覚に
突き動かされるように
箪笥の引き出しから
昨日着ていた着物を取り出した。
広げたその布地に、彼は眉を顰める。
薄布の随所に走る、細く鋭い裂け目。
それはまるで
微細な刃物――
あるいは鋭利な糸に
引っ掛けられたかのようだった。
さらに布地の一部は
黒ずんだ染みで硬くなっている。
乾いた血だった。
「⋯⋯ふむ⋯⋯」
声を漏らすわけでも無く
ただただ思案の沼に沈んでいくように
時也はその着物を見下ろしていた。
床に広げ、膝を折り
そこにある無惨な痕跡を
睨みつけるその表情は
冷静な分析と拭えぬ疑念
そしてどこか焦燥の色を帯びていた。
そんな時也の姿を
アリアは静かに鏡越しに見つめていた。
鏡面台に腰掛け
緩やかに金の髪を梳きながら
彼の横顔を――
その沈んだ目を――
じっと見ていた。
やがて
音もなく立ち上がったアリアは
床に膝をつくと
背後から時也の身体をそっと抱きしめた。
その腕は、氷のように冷たく
それでいて彼だけを暖める
炎のように確かだった。
「⋯⋯アリアさん?」
驚いたように振り向こうとした時也の頬を
アリアの白い指が静かに撫でる。
時也は
そのまま彼女の腕を軽く取り
自分の前にアリアを座らせるように導くと
互いの身体を正面から抱きしめた。
肩越しに
アリアは床にある着物を見下ろした。
――そこには⋯⋯確かにあった。
誰かが彼を傷つけた痕跡。
それも
時也が一切気付かぬほど巧妙に、確実に。
無言の激情が、アリアの胸に広がる。
怒り、憎悪
そして――
恐れ。
再び彼が奪われるかもしれないという
決して誰にも知られたくないほどの
ひそやかな⋯⋯恐れ。
アリアは時也の背に腕を回したまま
もう片方の手でそっと着物の裾に触れた。
微かに、燃え上がる音。
一瞬で
着物は炎に包まれ、塵となって床に舞った。
「⋯⋯っ!」
時也がその異変に気付いて
顔をそちらに向けようとするが――
アリアはそれを許さず
両手で彼の頬を覆い
再び正面に向かせる。
氷のような手が
けれど強く、真っ直ぐに時也を捉えた。
「⋯⋯お前は、私が⋯⋯護る」
その一言は、静かで
それでいて確かな決意の声だった。
「アリアさん⋯⋯ふふ。
僕は貴女の夫ですよ?
護るのは、僕でなければ困ります」
その言葉が
すべてを壊してしまいそうで――
アリアは時也の唇に
容赦なく、自らの唇を重ねた。
唇は熱を帯び
感情を、想いを、叫びを
すべて沈黙のまま伝えていく。
静けさの中にただ
心と心のぶつかる音があった。
アリアの指は震え
時也の背を強く抱き締める。
まるで
それを離してしまえば
またあの悪夢の日々ように――
彼が消えてしまうかのように。
時也はその全てを、言葉なく受け止める。
アリアが語らぬ想いも
張り詰めた温もりも
彼女の全てを、その胸の奥に刻むように。
静かな夜に
二人の影だけが
長くひとつに重なっていた。
⸻
静まり返った夜の寝室に
二人の乱れた呼吸だけが
ゆっくりと落ち着いていく。
しっとりと火照った身体を
時也とアリアは裸身のまま
互いに抱きしめていた。
重なった胸の鼓動が
ようやく静寂と調和し始めた頃――
時也が、ふっと息を吐いた。
「⋯⋯もう、アリアさん⋯⋯
あんな恥ずかしい発言は
人前では控えてください⋯⋯
僕の心臓が持ちませんよ」
彼女を胸に抱きながら
穏やかに笑みを浮かべてそう囁く。
アリアはその腕の中
目を伏せながらも、僅かに首を傾げる。
表情は相変わらず無表情にも見えるが
瞳だけが僅かに揺れていた。
ほんのりと紅潮した頬と
まだ熱を宿す肌。
そして何より
その仕草――
小首を傾げたその微かな動きが
彼女なりの照れの現れであることを
時也は知っていた。
「ふふ⋯⋯。
本音を言えば、嬉しかったんですよ。
アリアさんが皆の前で
僕に向けてくれた言葉⋯⋯」
掌が、アリアの背をゆっくりと撫でる。
「⋯⋯おかげで
今夜はぐっすり眠れそうです」
そう告げながら
時也はゆっくりと身体を起こし
アリアをそっと抱き上げるように
引き寄せた。
そして
目を閉じ、重なるように
そっと――
だが深く、彼女の唇を奪う。
唇と唇が重なった瞬間
アリアの身体が僅かに震える。
舌が触れ合い
唇の端から吐息が漏れ出す。
その呼吸すら飲み込むように
時也は濃密に
心を込めてキスを交わした。
この時間が、永遠であってほしい――
そんな想いを秘めて
唇を離すことなく
何度も角度を変えながら
深く口づけを続ける。
指先はそっとアリアの腰を撫で上げ
やがて彼女の頬へ
耳元へと移動する。
彼女の、まだ熱を孕んだ耳に飾られた
紅のピアスがほんの微かに揺れた。
チリ⋯⋯と微かな音が
時也の指先の中で鳴る。
(⋯⋯僕が、貴女を必ず護ります)
指先は再び頬へと戻り
時也はもう一度
深く、ゆっくりと唇を重ねた。
言葉も何も介さず
ただ想いだけが触れ合うキスだった。
彼の愛と、祈りと、願いをすべて込めた
沈黙の口づけ。
アリアの長い睫毛が揺れ
腕がぎゅっと時也の背を抱きしめる。
唇を離した時
二人の額がそっと触れ合った。
夜はまだ静かで、深くて――
愛し合った後のその温もりの中で
二人は寄り添い
微睡むように瞳を閉じた。
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