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私が、二人分のお茶を出して戻って来ると、カーテンの向こうから、「可愛らしいお嬢様ね」という京子の声が聞こえてきたので、勇吾の肩をバンバン叩きながら、「聞いた?可愛らしいお嬢様って言われたよ」と囁くと、勇吾が、「あのお婆ちゃん、角膜が剥がれているんだよ」と言ったので、強烈な前蹴りを鳩尾(みぞおち)にお見舞いしてやった。
しかし、次に京子の発した、「時雨は、白川家に戻る気はないのですか?」という言葉に、二人は急いで耳をそば立てる。
すると、いつになく真剣な白川先生の声が聞こえてきた。
「はい。父様から勘当されていますし、戻るつもりはありません」
しばらく沈黙した後に、京子が、「これは、内緒の話ですけれど…」と前置きしてから、
「アナタのお父様、白川流宗家、白川驟雨(しゅうう)はアナタを許すと思います。
アナタが、白川流霊枢治療の禁を破って、雨祓いの外道である邪法を用いたのは、妹の雨音(あまね)を救うために止むを得ずやったこと…
だからお父様も、その一回限りの法度破りに関しては目を瞑るとおっしゃっているのです。
ただ、邪法を使い続けることは罷りなりません。
アナタが邪法を封印して、お父様にお詫びをすれば白川家に戻れるのですよ」
返事を渋る白川先生に業を煮やした京子は、「弟の翠雨(すいう)は、毎日苦しんでいます」と、別の方向からの説得を試みる。
「それはそうでしょう。
白川家の歴史は古く、医道によって朝廷に仕えた半家と呼ばれる家柄で、現在も、白川流霊枢治療を用いて世界中の上流階級から絶大な信頼を得ているのです。
そんな白川家を、急に継げと言われても困惑するばかりだと思いますよ。
しかも翠雨には、始祖の再来と謳われたアナタほどの才能はありません。
苦しむのは当然です。
それでも、アナタは雨祓いの外道である邪法を使い続けるというのですか?」
それまで、沈黙を守り続けていた白川先生が、やっと重い口を開いた。
「母様は先ほどから、ことさら雨祓いの外道を強調されていますが、僕の治療は本当に外道なのでしょうか?」
京子の困惑した声が、「どういう意味ですか?」と疑問を投げ掛けてきたので、白川先生が話を続ける。
「人間の肉体を治療する現在の鍼灸治療は、漢方治療に並んで東洋医学の根幹を成しています。
それに比べれば、人間の魂魄を治療するという白川流霊枢治療は、東洋医学から見れば、正に外道ではないでしょうか」
すると、先ほどまで冷静だった京子の口調が急に強いものになった。
「何を言うのです。
現在の東洋医学は、中国最古の医学書、黄帝内経(こうていだいけい)を基に作られました。
しかし、それはあくまでも後の王冰(おうひょう)が編纂(へんさん)した霊枢と素問(すもん)のみですが、白川家には、失われたはずの霊枢九巻と素問九巻の全てが揃っており、この世に出てはならない門外不出の秘伝を、数多く保有しているのですよ。
本来、本流であるべき白川流霊枢治療が、肉体の治療のみに偏った東洋医学から、外道などと呼ばれる筋合いは有りません。
しかも肉体の健康は、そのもといとなる魂魄が司っているのです」
白川先生の大きなため息が聞こえてくる。
「だから僕は、外道であるか正道であるかは、人の見方によると言いたいのです。
僕にとっての鍼供養は、雨祓いの外道ではなく正道なのですよ」
京子が不思議そうな声で、「鍼供養?」と聞いてきたので、白川先生が少し笑いながら、「僕の治療を、患者さん達が勝手にそう呼んでいるのです」と説明を加える。
「確かに、雨祓いという治療は理に適っていると思います。
危険な魂魄の痼りには触れず、増え過ぎた邪気のみを焼き祓っていれば、患者は一年間に何度も治療を受ける必要に迫られ、霊枢治療師は莫大な利益と共に自らの安全も確保できる。
しかも、門外不出の治療なので多額の治療費が請求できます。
しかし、それが本当に正しい道なのでしょうか?
邪気は、魂魄の痼りから生まれるのです。
それを浄化すれば、患者は何年も苦しまずに済むのですよ。
もっと、患者の苦しみや悲しみに寄り添って、対処療法である雨祓いに頼るのではなく、たとえ、治療師に危険が及んだとしても、より高度な原因療法を追求するのが白川流のあるべき姿ではないでしょうか?
だから、僕は鍼供養を霊枢治療の正道だと考えています」
私は、白川先生の誠実な言葉に涙が出てきた。
隣を見ると、勇吾も静かに涙を流している。
私達二人は、その誠実に救われたのだ。
邪気を生み出す魂魄の痼りを消すために、自らの危険も顧みず、心と身体を傷だらけにしながらも、患者の苦しみに寄り添ってくれている。
そして、私は改めて思った。
やっぱり、白川先生は格が違う。
この人は、間違いなく本物なのだ。
しかし、私達の思いとは裏腹に京子は大きなため息をついた。
「白川流霊枢治療は、現在の東洋医学とはその成り立ちが違うのです。
知識や技術さえ身に付けていれば、誰でも治療師になれる東洋医学とは異なり、白川流霊枢治療には卓越した才能が求められます。
私達が長い歴史の中で、その技を門外不出としてきたのも、それが理由なのです。
何も、無闇矢鱈(むやみやたら)に暴利を貪りたいからではありません。
考えてもごらんなさい。
何百万人もいる東洋医学の治療師と、世界に数人しかいない白川流霊枢治療の治療師が、同じ価格で治療が出来ると思いますか?
それに、治療師の希少性が高いのですから、その治療師に危険が及ぶのであれば、たとえ、それが原因療法だったとしても、禁止するのが当たり前です。
禁止する理由はそれだけではありません。
白川流霊枢治療の患者様は世界の上流階級です。
その中には、政財界など国家権力の中枢に居る方も少なくありません。
もし、その方々の知られてはならない秘密を知ってしまえば、その治療師は、そう長くは生きられないでしょう。
それは、アナタも承知のはずです」
白川先生は母親を説得することを諦めて、大きなため息を吐き出した。
「分かっています。
だから私は、白川流と袂(たもと)を分かつ決心をしたのです」
今度は、京子が大きなため息をつく。
「そうですか。
今日は帰りますが、雨音が会いたがっていましたよ。
白川流に関しては、アナタにも色々と思うところがあるのでしょうが、そのことで兄妹まで断絶する必要はありません。
また、雨音に会ってあげなさい」
そう言った後に京子が少し笑って、「鍼供養とは面白い名前ですね」と呟いた。
「時雨は知っているのですか?」と聞いてきたので、白川先生が「何がですか?」と聞き返すと、京子が質問の意味を説明をしてくれる。
「裁縫で使う針を供養する針供養の起源は、中国の社日(祭日)に針線(針仕事)を止む(休む)、という古い慣わしだと言われていますが、針線(針仕事)には鍼治療も含まれているという説があるのです。
何だか、浅からぬ因縁を感じる名だとは思いませんか…」
そう言って、京子の立ち上がる気配がしたので、私達も兵隊のように急いで立ち上がる。
白川先生が、「母親を外の車まで送ってきます」と言って出て行くのを玄関で見送った。
すると勇吾が、「白川先生の母ちゃんがあんな感じだと、詩織ちゃんは大変だよな」と呟いたので、「何がよ?」と聞き返すと、「もし、白川先生と結婚したら…」と爆弾発言をしたので、私が「はぁ?」と抗議の声をあげると、勇吾が声色を変えて下手な猿芝居を始める。
「詩織さん、ガニ股で歩くのはお下品ですわよ。
ちゃんとお尻を締めて歩かないと、オナラがいっぱい出るざます」
私が無言で勇吾の股間を蹴り上げると、悶絶した勇吾が床の上をのた打ち回っている。
それを無視して、「あれほどの才能を持った白川先生でも、色々な葛藤(かっとう)を抱えて生きているんだなぁ」と、妙な感慨(かんがい)に耽ってしまう。