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脱走する方法を模索する日々は、実験動物として弄ばれる日々でもあった。いくつかの魔法をかけられて苦しむ。嘘つきを焙り出す呪術。盗人を改心させる魔術。人殺しに命乞いさせる呪い。痛みに痒み、熱さや冷たさ、様々な苦しみを感じさせられる。初めは冬の静電気よりましだった苦しみも、悪童を懲らしめる折檻のような苦しみへと変わる。まだ鞭を振るわれるよりましだったが、いずれそこへたどり着く。
しかしレモニカと人生を共にしている呪い自体はびくともしなかった。もしも呪いが解けるならこの苦しみも何ほどのものでもないだろう、とレモニカは思っている。しかしそのような光明の兆しもない。
数日の内のレモニカの収穫は、壁にかけられた鍵の内のどれが檻の鍵なのか分かったことくらいだ。
ある日空腹に耐えかねたレモニカはとうとう乾酪を食べた。何やら小さな痒みを指先に感じたくらいのもので、意固地になるのはやめにした。そしてある事実に気づいた。クオルは乾酪しか与えてくれないのだ。それは何度か探りを入れて確信も得た。だとすればあの時、一度だけ鳥籠の中に現れた林檎は何なのだろう。
そうしてレモニカの昼はクオルの実験に苦しめられ、夜はビビッキの騒音と時折聞こえる謎の声に煩わされた。
一方、クオルの生活はレモニカへの実験と何かの魔法の研究に費やされている。
シグニカから信仰を携えてやってきた傲慢な風が窓蓋を揺らすある夕暮れのこと、クオルは鼻歌と独り言を繰り返しながら机に向かって書き物をしていた。ビビッキはレモニカの頭上、鳥籠の上で丸くなって眠っている。
レモニカはできる限りクオルの魔法の研究を端から観察していたが、その内容を推し量ることはできなかった。その独り言からクオルが何か新しい魔術を作っているらしいことはレモニカにも分かった。しかし具体的にどのような魔術なのかまでは分からなかった。
レモニカがぼんやりとクオルの後姿を見つめていると、ぽつりぽつりと囁くような雨音が聞こえ始めた。
待ってましたと言わんばかりにクオルは飛び上がり、工房馬車を出て行った。どこかで見たような光景だ。魔法使いはいつも雨を求めているとでもいうのだろうか。
レモニカの方は唐突に訪れた好機に飛び上がりそうになって、堪える。そして蜥蜴の呪いの呪文を囁く。紫蜥蜴はぱたぱたと這って行き、鳥籠の格子を登っていくとビビッキに触れ、溶けるように消えた。
次にレモニカは乾酪に触れて尻尾の呪いを唱える。途端にビビッキが目を覚まし、しゅうしゅうと吐息を漏らしながら必死に格子の間から指を差し込む。どうしても乾酪が欲しいらしい。
レモニカは乾酪を持ち上げ、ビビッキに尋ねる。「この乾酪が欲しいのですか?」
ビビッキは何度も頷きながら、鳥籠の格子を広げようとしたり、錠を外そうとしたりしたが手に負えなかった。
「その錠を開けるには鍵が必要なのですよ?」そう言ってレモニカは壁にかかった鍵を指さす。「ほら、あれ。あれを使って開錠しなくては、この乾酪は決して手に入りませんよ?」
ビビッキは慌てて鳥籠を飛び降りて、壁にかかった鍵を取りに行く。
「そう、それ、じゃない。その鍵じゃなくて、そっちです。それも違います! ああ! 落ちた! その落ちたやつですわ! そう、それです。いいわ。さあ、開けなさい。え? 開かない? ああ、それも違いますわ。形がよく似ている鍵があったでしょう? 一回り小さい。どうかしら? 試してみて? 違いますの? でも近いですわ。急いで! 早く! 落ち着きなさい。乾酪は逃げませんわ。それはさっきのやつでしょう!?」
その時、工房馬車の外で何かが強烈に光った。それは工房馬車の壁をも貫通して届く魔法の光だ。一つは馬車のすぐそばで、もう一つは真南から大きく西にずれている。ユカリたちが十五個目の元型文字を完成させたのだ。
それは幸運であると共に不運でもあった。氷雨に濡れて慌てて二階に飛び込んできたクオルは床に散らばった鍵を漁るビビッキを見咎めると、一言も声をかけずにその猿蜥蜴を蹴り飛ばした。哀れビビッキは机の下まで転がっていき、伸びてしまった。クオルは鍵を二つ拾って片方は懐に、もう片方を使って御者台へと移動する。工房馬車は大きく軋み、動き出す。
レモニカは小さな手で小さな顔を覆い、小さな胸が罪悪感に押し潰されるのを堪える。
蹴り飛ばされたビビッキは机の下の暗がりで身動き一つ取らなかった。黄色い目は閉じたままで、赤い舌を覗かせることもなかった。
そうしてその夜は地上の悲劇を覆い隠すように更ける。クオルは御者台から戻って来ず、レモニカは少しも動かないビビッキから目を離せなかった。
ふと誰かの呼ぶ声が聞こえた。夜ごとビビッキの暴れる騒音の陰に聞こえた何者かの声だ。
「レモニカ! どの! レモニカどの!」と呼ばれ、声の降ってきた方を見上げると、鳥籠の上に二匹の鼠がいることに気づいた。一匹は後ろ足で立って、レモニカを見下ろし、もう一匹は少し後ろに控えて鼻をひくひくとさせ、こちらを探る様に見つめている。
毛長馬に変身した時にユビスの言葉を聞けたことをレモニカは思い出す。同じ生き物になれば意思疎通ができるという単純な話らしい。人間とは勝手が違うようだ。
「貴方がたは?」とレモニカは尋ねる。どのような返事を期待すればいいのかもよく分からなかった。
後ろに控えていた鼠が大きく息を吸うと話し始める。「この方は、かの黄金の鼠王の雲孫、マグラガは粉ひき風車三号の王、茸砦の台所及び地下室の王、馬宿温泉及び倉庫並びに白き聖堂の屋根裏の王、征伐城の六つの台所及び十二の寝所並びに宝物庫に付け加え二つの馬小屋かつまた壁龕のひび奥のみならず鐘楼の王にして、クオルの工房馬車の転主にして」
そこで鼠はもう一度大きく息を吸う。
「ケゲンネスク・メルビオの両古井戸の領主、南港町の廃屋の領主、暗き森地下水道の領主にして、澱み川下流の司、夕暮れ谷の司、雨ヶ原の司、粉雪山地の君主たる東氷の峰の司、硫黄諸洞の司にして、黄金王である犇めき騎士団総長にあらせられる毛艶一世陛下です」息を切らせて最後に付け加える。「そして、我はその第一の家臣、金切声」
見た目にはほとんど区別がつかない。少しばかりゲッパの方が大きくて毛並みに艶があるだろうか。ブーカは朗々とゲッパを紹介し、自らも名乗ったが、レモニカの頭にはほとんど入って来なかった。
「ゲッパさまとブーカさま」とレモニカはなんとか口に出す。「ゲッパさまは鼠の、王様ですのね?」
「うむ」ゲッパはゆっくりと頷く。「彼の王ではないが、予は王である。しかし彼の王の雲孫であり、ゆくゆくは並びなき地上の正当なる支配者となるであろう。そうよな?」
ゲッパはブーカの方を少し振り返る。
「己の宿命を疑ってはなりません。陛下」とブーカは囁く。
「そうなのだ。そうなることに決まっているのだ」
そのやり取りの後、鼠たちはレモニカを見下ろして何かを待つ。何を待っているのか気づいて慌ててレモニカも名乗る。
「わたくしはレモニカ。旅の者ですわ。今は囚われの身ですが」そう言って、いま気づいたかのように尋ねる。「しかしわたくしの名は既にご存知でしたわね?」
ブーカが前歯で格子を噛みながら言う。「ああ、あの青白い人クオルがそう呼んでいるのを何度か聞きましたので。貴女は人の鳴き声を使いこなせるようですね」
レモニカは二匹の鼠を見上げて、神妙に頷く。
「ええ、まあ。でも貴方がたもクオルの言葉が分かるから、わたくしの名を知ることができたのではありませんか?」
ゲッパとブーカは何かひそひそと言葉を交わし、ブーカがこくこくと頷く。
「もちろんです。しかし人の言葉を使いこなすのはまた別でしょう。我々には知るべくもありませんが、きっと難しいに違いありません。さすがです、レモニカどの」
人の言葉を話せることを鼠に褒められることは後にも先にもないだろう、とレモニカは心の中で微笑んだ。
「それで、ここへ何をしにいらしたのですか? よければわたくしの方からも貴方がたにお願いがあるのですが」
ゲッパはきいきいと鳴く。おそらく喜んでいるのだろうとレモニカは推測する。
「ああ、もちろんだ。喜んでレモニカどのの願いを聞きいれよう。というのも予らにとってレモニカどのは恩人であり、英雄だからだ」
レモニカは首を傾げて鼻をひくつかせる。「わたくしが、何を致しましたか?」
「あの巨大蜥蜴ビビッキを妖しき力で打ち倒した偉業を予らは知っておる。その力で奴めを魅了し、順良にせしめ、また青白い人クオルまでもをレモニカどののまにまに操り、同士討ちにさせたところを目にしたものが大勢いる。まさに黄金の鼠王の再来ではないか?」
「彼の王の偉業を引用するのは褒め過ぎです。陛下」とブーカが否む。
「黄金の鼠王の、そうだな、勇猛なる家臣のようだ、な?」とゲッパがちらりとブーカを見ると、ブーカはこくこくと頷く。
安心した様子でゲッパは続ける。「是非とも礼を言い、恩に報いるべく馳せ参じたのだ」
ゲッパの一言一句に同意するようにブーカはこくこくこくと頷いている。
ゲッパがブーカに囁く。「頭を下げてよいのか? 王としての威厳、損なわれぬか?」
二匹の会話はレモニカに筒抜けだ。
「大丈夫でございます、陛下。我らの英雄に対してであれば、むしろ器の大きさを示せましょう」
ゲッパは初めて前足を下ろして、鳥籠の上から礼を言った。「うむ。どうも、ありがとう。レモニカどの」
レモニカは慎ましく首を横に振る。
「そのような大それたものではありませんわ。確かにわたくしが彼を死に追いやった張本人ですが、わたくしは決してそのようなことを望んでいたわけではありません」
二匹の鼠は再びひそひそときいきいと鳴き交わす。
「然様ですか。ではあくまで事故だったということで」とブーカは言い、レモニカが肯ずるのを待って続ける。「しかし、ではなにゆえにビビッキを魅了したのでしょうか?」
「この籠の錠を開ける鍵を取らせようとしていたのですわ。そしてご覧の通り、その策は失敗し、鍵はクオルの懐にしまわれてしまったというわけです」
「では予らがレモニカどのを助けよう!」とゲッパは気勢を上げ、そして小さく囁く。「まさに王に相応しい慈悲と思わぬか? ブーカよ」
「どのように助けるか次第です。陛下。安請け合いで臣民に血を流させれば反感を得ますよ」
「しかし、予らの恩深き者をみすみす鳥籠に閉じ込めたままでは、それこそ王に相応しいとは言えぬだろう。ビビッキの腹の中から臣民どもの恨めしき怨嗟が聞こえるわ」
「それもまた事実です。出過ぎた真似を致しました、ご容赦を」とブーカは声を潜めて、謝る。
「えっと、助けて下さるのですか?」とレモニカは確認する。
「うむ。事故でも何でも予らの宿敵を打ち倒したのは事実だからな。その檻から出して進ぜよう」
レモニカもまた頭を下げて感謝する。「ありがとうございます。まさにそのことをお願い申し上げようと思っていました。しかし、とても危険な相手です。あるいはビビッキよりも」
「あの人間がですか?」と言ってブーカは笑う。「あれは我々の怖ろしい姿を見ただけで泡を吹く人間ですよ?」
もしかしてクオルが鼠嫌いになったのは彼らが原因なのだろうか。
しかしレモニカは否定するように首を振って言う。「でも最近はどうですか? 私が前に彼女に会った時、この鼠の体を握りしめても気絶はしませんでした。克服とまではいかなくとも己の恐怖に打ち勝とうとしています。それにボーニスというクオルよりも怖ろしい剣士が再びやってきます」
三度、二匹の鼠の相談が始まり、三度目の結論が下される。
「そうだとしても、予らにも誇りがある」とゲッパがふんぞり返って言った。「大恩あるレモニカどのをここにこうして閉じ込めたままにはしておけん。どうか予らを信じたまえ」
一人では脱出できないことはレモニカにも分かっていた。
「では、この籠から脱出する手助けをしていただけますか?」
「否やのあろうはずもございません」とブーカは即座に答えた。「如何ようにも我々をお使いくださいませ」
「ありがとう。わたくしの方こそ恩に着ますわ」
喜ぶゲッパが言う。「ところでレモニカどのは林檎が嫌いなのかな?」
唐突な問いかけに少し驚きつつもレモニカは答える。「いえ、そのようなことは」
「ではなぜ林檎を捨てたのだ? そのように報告があったが?」と言ってゲッパはちらりとブーカを見る。ブーカはこくこくと頷いている。
ようやくゲッパの言いたいことと、頭の片隅に引っかかっていた疑問の答えが分かった。
「あの林檎はゲッパさんたちがくれたものだったのですね?」
ゲッパは自慢げに頷く。「うむ、お近づきの印というやつだ、な?」
「陛下のお慈悲です」とブーカ。
「そう、慈悲だ」とゲッパは言い直す。「同じ族が鳥籠に捕まっているのだから当然だろう」
「それは申し訳ありません。決して嫌いなんかじゃありませんのよ? 良ければまたくださると嬉しく存じます」
「くるしゅうない。すぐに取って参らせよう」
そう言ってゲッパたちはとても嬉しそうに楽しそうにきいきい言いながら鳥籠を吊るす鎖を登って行った。
鎖の吊るされた天井の天窓は小さな夜空を湛えている。夜天に座する悲劇の娘バニクミアが何かを愛しそうに見つめ、溜息を漏らす。
レモニカは何か新たな発見をしたような、不思議な気分に包まれた。