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<第1章:やさしさの罠>
高校一年の春。
新しい制服の袖を、
まだ少し不器用に通していた季節。
校舎に差し込む光はやわらかくて、
でも心の中にはまだ、冬の名残が残っていた。
当時、
私は大好きだった人との別れを引きずって
毎日が退屈で、少し色あせて見えていた。
そんなときだった。
「元気ないね。」
そう声をかけてくれたのが、彼だった。
整った顔立ちに不良っぽい雰囲気。
どこか危うくて
でも、目だけはまっすぐな人だった。
そんな彼と連絡先を交換して
最初は他愛のないやり取りばかりだったけれど
それがいつの間にか
わたしの中で当たり前の日常になっていた。
「今、何してるの?」
「会いたい」
夜遅くに届くそんな一言が、心をくすぐった。
その気持ちだけで十分だった。
恋をするのが
また少し怖くなっていたわたしにとって
彼の存在は、最初からどこか
“救い”みたいに思えてしまった。
放課後は毎日のように彼に会うようになった。
自転車の後ろに乗って
風を切る感覚が好きだった。
コンビニで買ったジュースを分け合ったり、
誰もいない夜の公園で話したり。
ひとつひとつが
映画のワンシーンみたいだった。
気づけば、自然な流れで
「付き合おうか」という言葉が交わされ、
私たちは恋人同士になった。
彼の隣にいるだけで、強くなれた気がした。
何もかもが新鮮で、刺激的で。
彼が私の世界を変えてくれた。
だけど、
わたしはまだ知らなかった。
そのやさしさの裏に、
どこか“危うさ”が潜んでいることを――。
それが恋の罠だと気づくには、
もう少し時間が必要だった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<第2章:好きの中で、溺れていく音がした>
恋はいつも順風満帆じゃない。
いちばん近くにいたいと思った人ほど
いちばん遠い存在になってしまうことがある。
ある日、彼は唐突に言った。
「ごめん。やっぱり俺、元カノが忘れられない。」
頭では理解しても、心がついてこなかった。
まるで胸の奥に
冷たいナイフを突き刺されたみたいだった。
苦しくて、惨めで、情けなくて。
でも、それでも彼を嫌いにはなれなかった。
「……友達でもいい、そばにいたいよ。」
そう口にしたとき、
自分がどれだけ浅はかだったか
わかっていたはずだった。
でも、離れる勇気よりも、
そばにいる甘えのほうが強かった。
それはきっと、
私の弱さだったのかもしれない。
彼に呼ばれれば、
いつでも、どんな時間でも飛んで行った。
「ほんと、私って都合のいい女…。」
そう思っても、彼の手が頬に触れるだけで
すべてがどうでもよくなった。
彼の声、体温、吐息――
それだけで、私の世界は満たされた。
けれどその幸せは、
いつも片側しか灯っていなかった。
それからの数年間、私たちはずっと
“曖昧な関係”を続けた。
彼には、いつのまにか新しい恋人ができていた。
それでも、ふとした瞬間に届くメッセージ。
「今から会える?」
その一言で、何度も何度も
私は彼のもとに戻ってしまった。
付き合っているわけじゃない。
でも、心は完全に彼に縛られていた。
会えば嬉しくて、帰れば空っぽで。
それでもまた、会いたくて――
まるで、
溺れたまま目を開けているみたいだった。
水の中で息をするみたいに。
少しずつ、感覚が麻痺していった。
きっと、これは恋じゃない。
でも、信じたかった。
彼にとってわたしが、
“特別”であると、どこかで期待していた。
期待しては傷ついて、傷ついてはまた期待して。
終わらないループの中にいた。
気づけば、私はもう20歳になっていた。
大人の入り口に立っていたけど、
心はまだ、彼にすがる子どものままだった。
ふとした瞬間に彼からの連絡が来れば、
私はまた彼の元へ行ってしまう。
会えば嬉しくて、
帰れば虚しくて、
でも会いたくて――
まるで、長い夢から覚められないでいるようだった。
そんな関係が続いたある日、
彼は何かに巻き込まれ 突然、連絡が途絶えた。
「ごめん、今、ちょっと色々あって…」
最後のメッセージを最後に、彼は姿を消した。
心に、ぽっかりと穴があいた。
涙も出なかった。
ただ、しんと静まり返るような喪失感があった。
でも、不思議だった。
私は少しだけ、前を向けていた。
「ああ、やっと、忘れられる。」
そう思った。
彼がいない世界でも、呼吸はできる。
ひとりで眠る夜も、もう怖くない。
私の時間が、
ようやく動き出したような気がした。
――だけど、
運命はまた、私たちを交差させた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<第3章:離れて、交わって>
――もう二度と会わない。
そう思ってた。
あの別れがすべてだった。
私の青春で、傷で、そして終わり。
そのはずだった。
数年が過ぎて、私も大人になった。
あの時の彼のことは、
「思い出」という引き出しにしまって
鍵をかけて。見ないふりをしていた。
けれど――
運命は、ときどき意地悪だ。
23歳、春。友人の告別式。
冷たい空気の中、深く頭を下げる人々。
遺影の前で
胸がぎゅっと締めつけられたそのとき。
不意に感じた視線。
目を上げた先にいたのは
懐かしくて、苦しくて
もう触れてはいけないはずの人が、
変わらぬ瞳で私を見つめていた。
風が止まったように
場の音がすべて遠くなった。
「……また、会えたな。」
変わらない声音。
変わったはずの時間が、一瞬で巻き戻される。
胸が高鳴って、呼吸が浅くなって。
それでも
懐かしい感情が溢れて止まらなかった。
会いたかったわけじゃない。
でも、会ってしまったその瞬間
心臓が馬鹿みたいに跳ねた。
“終わった”はずの気持ちが
体の奥で暴れ出す。
心が、勝手に走り出していた。
「元気だった?」
そんな当たり前の言葉でさえ、刺さる。
彼の視線が
少しだけ懐かしさを滲ませていて、
私はその優しさに
また甘えてしまいそうになった。
「……また、連絡先、教えてくれる?」
たった一言で、引き出しの鍵が外れてしまった。
もう戻らないと思っていたページが、
ふたたびめくられていく。
携帯を差し出しながら、心のどこかが
「また同じことになるかもしれない」
…と叫んでいた。
けれど、その不安よりも――
“もう一度彼と話せる”という喜びのほうが
ずっとずっと大きかった。
あの頃とは違う。
私たちは、もうとっくに大人になっていた。
けれど、
彼の一言で笑えてしまう自分も、
すれ違っただけで胸が鳴るこの感情も――
何も変わっていなかった。
あの日々が一瞬で蘇った。心臓が痛いほど鳴った。
交差点のようなこの瞬間、
わたしはまた、彼という名前の運命に
足を踏み入れていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<第4章:再会は、黒い記憶の扉>
再会から、すべてが始まった。
彼があの夜、泣きそうな顔で私に言った。
「…もう一度やり直したい。」
心が震えた。
その言葉を聞いた瞬間、
時間が止まった気がした。
胸の奥にしまっていた感情が
一気にあふれ出す。
8年。
あれほど忘れようとしても
忘れられなかった人。
やっと、やっと、叶った恋だった。
過去の痛みも、孤独な夜も。
全部が意味を持ったように思えた。
彼の腕の中で息をするだけで、
もう寂しくないと錯覚できた。
「また一緒にいられるなんて、夢みたいだな。」
そう笑った彼の横顔が、懐かしくて、
あたたかかった。
10代の頃のように笑い合って、
「好きだよ。」
なんて言葉も、あの頃のように無邪気で、
ちゃんと真っ直ぐだった。
ずっと夢見てた彼との時間が
やっと戻ってきた。
だけど――
ふとした瞬間。
彼の目が笑っていないことに気づいた。
心に小さな違和感が、
泡のように浮かんでは消えていく。
それでも、私は見ないふりをした。
「また壊れるのが怖かった」
――そう、心のどこかで分かっていたのに。
ふたりでいる時間はたしかに幸せだった。
でもその幸せの裏で、
あの頃とは違う
“別の何か”が静かに私を締めつけていた。
再会は、優しさだけじゃなかった。
一緒に戻ってきたのは、
彼の奥に潜んだ黒くて重たい記憶の扉――
決して開けてはいけない、過去だった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<第5章:傷つくたび、愛を信じた>
幸せな時間は、本当に夢みたいに儚かった。
一瞬のぬくもりに
私はすべてを預けてしまっていた。
ある日、些細な言い合いの末に
彼の手が私の腕を掴んだ。
冷たくて、強くて、容赦のない力だった。
「…痛いよ。」
そう言った声は、
自分のものとは思えないくらいか細くて。
初めての暴力だった。
痛みよりも、心が裂けるような衝撃だった。
それでも私は
「きっと一時のものだ。」
と、自分に言い聞かせた。
彼も疲れてるだけ、ストレスがたまってるんだ。
――本当は、もうわかってたのに。
少しずつ、彼の様子が変わっていった。
怒ると当たり前のように手が出るようになり、
言葉も荒くなった。
怒鳴る声が増えた。
無視される時間が長くなった。
壁に物が投げつけられ、
私の名前が罵声と共に呼ばれる。
でも、そんな日々のあとに見せる
彼の涙はずるかった。
「ごめん、俺、こんなことしたくなかった。」
そう言って、
壊れそうなほど優しく私を抱きしめる。
わかってる。
これは、普通じゃない。
だけど私は、またその腕に甘えてしまった。
彼が怖かった。
でも、離れるのはもっと怖かった。
「やっと手に入った恋なのに」
――そんな気持ちばかりが、私を縛り付けた。
いつからか、私は傷つくことでしか
愛を感じられなくなっていた。
殴られた夜も、叱られた日も。
「それでも私は、必要とされてる。」
そう、思い込みたかった。
それでも幸せだった。
…馬鹿だね、私。
彼の感情は、ジェットコースターのようだった。
昨日の笑顔が、今日の怒号に変わる。
朝にくれた
「好きだよ」が、
夜には
「お前なんかいなくなればいい」に変わる。
彼の中の暴力はどんどん形を変えていった。
私の身体には、
隠しきれない痣が増えていった。
だけど、誰にも言えなかった。
怖かった。ただ怖くて仕方なかった。
そして、あの日――
彼は私の髪に手を伸ばした。
涙も怒りも何もない顔で、
バリカンのスイッチを入れた。
「もう、お前に“女”なんて必要ないだろ?」
振動と音と、髪が落ちていく感覚だけが、
やけに鮮明だった。
鏡の中には、
知らない顔をした、私がいた。
目は死んでいて、
心はとっくに置き去りだった。
でも、それでも私は彼のことを――
まだ、愛していた。
どこで間違えたのか。
何を信じていたのか。
それすら、もう思い出せなくなっていた。
生きている心地が、しなかった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<第6章:冷たい街で輝く>
髪を切られた夜。
私はやっと、彼との別れを決心した。
音もなく落ちていった髪の束は、
それまで信じてきた“愛”の亡骸だった。
何かが完全に壊れた。
ようやく、目が覚めた。
こんなの、愛なんかじゃない。
優しさを装った支配。
涙のあとにくる「ごめんね。」は
次の暴力の前触れだった。
心も身体も、もう限界だった。
殴られた頬より、
何も感じなくなっていた自分の心が怖かった。
心も身体も、ボロボロだった。
震える手でウィッグを被った。
それは仮面だった。
「傷ついた女」から
「何も知らないふりをした女」へ。
自分を塗り替える作業だった。
それは、私を守る殻になった。
「このままじゃ終われない。」
静かな炎が わたしの中に、確かに灯っていた。
すべてを失ったような夜。
冷たい風が頬を打つ街角に立ち尽くしながら、
私はひとり、覚悟を決めた。
水のように冷たい空気と、
ネオンが滲む街。
夢も希望も見失ったようなあの夜。
心を削られ、私は深い闇の中にいた。
だけど、
それでも立ち止まってはいられなかった。
傷だらけの心を抱えて、
それでも前を向くと決めた。
「今、私にできることをやる。」
ただその思いだけを胸に、
夜の世界の扉を、自分の手で開けた。
ネオンが滲んで見えた。
水のように冷たい空気のなかで、
笑顔だけを武器に生きる日々が始まった。
名前も、声のトーンも、笑い方も
すべてつくりものだった。
でも、それでよかった。
仮面の奥にある、本当の私は
まだ、誰にも見せられなかったから。
毎晩、お客様の言葉一つひとつに耳を傾けた。
慣れないお酒に酔い、朝まで働いて
数時間だけ眠る毎日。
だけど、不思議と苦しくはなかった。
それは、私が「自分の足で立っていた」から。
自分を支えるために
生きている証を残すために
必死だったから。
少しずつ、
笑い方を覚えた。
沈黙の間を読むコツを知った。
お客様の目を見て、
言葉の奥を読むこともできるようになった。
そして、誰よりもお客様を大切にした。
それは、過去の私が一番欲しかった
「誰かに大切にされる」
ということの裏返しだったのかもしれない。
「ウィッグ、似合ってるね。」
そんな言葉が来るたびに、
私は少しだけ笑って、うまくごまかした。
過去は語らない。
それがわたしのルールだった。
心の奥にはまだ、癒えない傷がたくさんあった。
でも、見せない。
もう誰にも、それを利用されたくなかった。
私の過去は、私だけのものだから。
「なにがあっても、この世界で輝く」
それだけを胸に、夜の街で光を探し続けた。
気づけば、いつしか
「ナンバーワン」と呼ばれるようになっていた。
でも、その称号が欲しかったわけじゃない。
ただ、生きたかった。
誰かの影に怯えながらじゃなく、
自分の光で照らせる道を、歩きたかったんだ。
まだ消えない涙の跡を抱えながら、
それでも私は、冷たい夜の街で
確かに、自分の人生を取り戻し始めていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<第7章:運命が、扉を叩いた日>
あれから、2年の月日が流れていた。
切り落とされた髪はもう肩を超え、
ウィッグは押入れの奥で静かに眠っていた。
夜の街での暮らしは
今も変わらず続いていたけれど
あの頃とは違う、
確かな強さがわたしの中に根づいていた。
過去の傷跡はまだ薄く残るけれど、
それすらも自分の一部だと
少しずつ思えるようになっていた。
そんなある夜。
1人の男性が、わたしの前に現れた。
スーツ姿に明るい笑顔。
第一印象は、「うるさいくらい陽気な人」
だけどその明るさはどこか無理のない、
まるで春の陽だまりのような、
自然な温もりを持っていた。
彼はよく喋り、よく笑い、
そして、何より私をよく笑わせた。
一緒にいると、不思議と心が和んだ。
最初はただの“お客様”のひとり
だったはずなのに、
気づけば、彼の来店が待ち遠しくなっていた。
彼と過ごす夜は、
以前のような苦しさを
連想させるものではなかった。
優しさの裏に怯えることも、
言葉の棘を探す必要もなかった。
彼は、わたしの「強がり」
に気づいていないふりをしてくれた。
でも、ふとした沈黙の中に
そっと優しさを置いていくような人だった。
「ねえ、今日も頑張ったね。」
そんな一言で、
すっと心がほどけていくのを感じた。
やがて彼は、
お店の外でも私に会いたいと言った。
最初は戸惑った。
夜の顔を脱ぐことに、少しだけ怖さがあった。
でもそれ以上に――
彼ともう少し、一緒にいたいと
心が願っていた。
ランチの時間。
映画館の暗がり。
夜景の見えるドライブコース。
そのどれもが、“普通”だった。
だけど、わたしにとっては
宝石みたいにキラキラ眩しかった。
誰かと手を繋いで歩く道が、
こんなにもあたたかいと知らなかった。
帰り道、いつものように
他愛もない会話をしていたとき
彼がふと呟いた。
「もし君と一緒にいたら、
俺はずっと笑っていられると思うんだよね。」
その言葉に、私は泣きそうになった。
いや、ほんとうはもう
目の奥が熱くて仕方がなかった。
心がふわりと軽くなった気がした。
今まで背負ってきた重たい荷物を、
そっと下ろしてもいいのかもしれない。
そう、思えた。
それは恋のはじまりではなかった。
「救い」のような、
「再生」のような、
わたしの人生が、また違うページを開こうとする
ほんの少し前の静かな鼓動だった。
それが、わたしと彼との――
ほんとうの運命の幕開けだった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<第8章:春の中で、まっすぐに>
彼は、私の過去を
無理に聞こうとはしなかった。
そのことが、どこまでも優しく感じた。
それでも、私は少しずつ
自分のことを話すようになった。
その全てを話すことは出来なかったけれど、
それが信頼の証だと思ったから。
選ぶ言葉は慎重で、慎ましくて、
時には途中で
喉が詰まってしまうこともあったけれど、
彼は急かすことなく
ただ静かに耳を傾けてくれた。
驚くことも、引くこともせず
最後まで優しい目で見ていてくれた。
「辛かったね、でも、もう大丈夫。」
彼のそんな言葉に
胸の奥がじんわり温かくなった。
心の奥の氷がゆっくり溶けていくような、
そんなあたたかさを持っていた。
これまで
私は何かを隠しながら生きていた。
笑顔も、言葉も、仕草さえも。
過去がバレるのが怖くて、
知られた瞬間に
全てを失うような気がしていた。
でも彼は、
わたしの傷の深さに立ち入ろうとせず、
「今ここにいる私」だけを見てくれた。
それが、どれほど嬉しかったか。
どれほど救われたか――
言葉には、できなかった。
彼はときどき、
何でもないような一言で、
私の心にそっと触れてきた。
苦しくて張り詰めていた心が、
すっとゆるんでいった。
「無理しなくていいよ。」
「お疲れさま、頑張ったね。」
そんな言葉のひとつひとつが、
固く結ばれていた心の糸を
優しく解いていった。
思わず涙がこぼれそうになった。
「ありがとう。」
たったそれだけを伝えるのに
時間がかかった。
だけど、そんな私を見ても
彼はただ笑って「うん」と頷くだけだった。
不器用なわたしを、
責めることもなく、焦らせることもなく
――ただそばに、いてくれた。
ふと気付けば、
笑顔を取り戻していく自分がいた。
信じるという感覚を
少しずつ思い出していく。
そして、彼のいる日々が「普通」になっていた。
「普通」――
それは、私がずっと欲しかったもの。
傷つくことのない関係。
ありのままの私を認めてくれる時間。
背伸びしなくていい場所。
そしてその「普通」は、
彼と出会って、初めて手に入ったのだった。
季節は、春から夏へ。
桜の花びらは風に舞い、
代わりに新緑が街を彩りはじめた。
私たちの関係もまた、
目に見えない小さな芽を育てるように、
ゆっくり、でも確かに変わり始めていた。
このままずっと、
こんなふうに、
まっすぐに彼と歩いていけたら――
そう願える日が来るなんて、
あの頃のわたしは、想像もしていなかった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<最終章:あなたと笑う、この未来のために>
たくさんの傷と、涙と、
そして、数えきれない選択を越えて――
私はいま、穏やかな日々の中にいる。
あの頃の私は
何かになりたかったわけじゃない。
ただ、
生きたかっただけ。
それだけだった。
痛みを抱えながらも、
信じることを手放さなかった
あの頃の私がいたから、
いま、私はここにいる。
「生きててよかった。」
と思える日が来るなんて――
そんな未来を、
あの夜、夢の中でさえ想像できなかった。
でもいま、
私の名前を優しく呼んでくれる人がいる。
その声が
心のすべてをふわりと包み込んでくれる。
彼と出会って、
少しずつ言葉を交わして、
たくさん笑って――
ある日、彼がまっすぐ私を見つめて言った。
「俺と一緒にいてくれないかな。
君のこれからの時間を、
少しでも多く隣で過ごしたい。」
私は頷いた。
迷いはなかった。
過去の痛みも、傷も、
彼の優しさの前では静かに溶けていった。
その日から、
私たちは恋人として歩き始めた。
他愛ない会話、平凡な一日。
全てが愛おしいものに変わっていった。
そんな彼と過ごす毎日が、
私の「普通」になっていった。
そして今。
彼と結婚した私は、
やっと穏やかな毎日を手に入れた。
お腹には新しい命が宿っている。
あの日、絶望の中で見上げた空を
もう一度見上げる日が来るなんて、
あの頃の私は想像もできなかった。
どんな過去があっても
どれだけ傷ついても
人はやり直せる。
本当の愛は、嘘を塗り重ねた夜の底から
静かに芽吹くものだった。
辛かった過去も、消えるわけじゃない。
今も時々、夢に見ることもある。
でも、私はもう、戻らない。
あの頃の私に、教えてあげたい。
「大丈夫、ちゃんと幸せになれるよ」って。
あの長くて暗い夜の先には、
こんなにもあたたかい朝が待っているって、
知らなかっただけなんだ。
そして今、
新しい朝が、静かに始まっている。
私は、もう、
泣いてばかりいたあの日の私じゃない。
過去を背負いながら、それでも前を向いて、
この小さくて尊い命を守っていく。
あなたと笑う、この未来のために。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
<エピローグ ―光のなかで、あなたと―>
季節は2025年、春。
柔らかい風が
ベランダのカーテンをふわりと揺らし、
どこからか届く鳥のさえずりが
静かな部屋に響いていた。
窓から差し込む朝日が、
白いレースのカーテン越しに淡く光っている。
「え…!動いた?」
彼の声に、私は小さく頷く。
「うん、今、くすぐったいくらいに動いたよ」
彼は嬉しそうに目を細めて、
私のお腹にそっと手を添えた。
そこには、私たちの赤ちゃんがいる。
たくさん泣いて、傷ついて
何度も心が壊れそうになったあの頃。
まさかこうしてあたたかな陽だまりの中で
微笑み合える未来が待っているなんて、
あのときの私は知らなかった。
夜の街で、
過去を隠しながら必死に生きていた日々。
それでも私は、
笑ってくれる彼と出会って、
自分を少しずつ信じられるようになっていった。
あの日、笑わせてくれたスーツ姿の彼が、
今は私の隣で「家族」になっている。
「ねぇ、名前、決めなきゃね」
「そうだね」
彼が笑う。
その笑顔に、私は何度も救われてきた。
生きてきた意味なんて
ずっとわからなかった。
でも今は、
この命に出会うためだったのかも、と思える。
どんなに過去が辛くても、いま私は
——確かに、幸せだ。
心を揺らす風が、そっとささやく。
「よく、ここまで来たね」
私は目を閉じて、ゆっくりと頷いた。
あなたと過ごす穏やかな日々。
この愛が、本物だと胸を張れる今が、
私のすべてです。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
*** あとがき ***
― わたしの、ほんとうの「今」へ ―
これは、かつての私の恋の話です。
ただの若気の至りだったと笑い飛ばせるほど
簡単なものじゃなかった。
あの頃の私は、誰かを愛したくて
でも同じくらい自分のことも愛せなくて。
だから傷ついても、離れられなかった。
何度も泣いたし、
もうダメだと思った夜も
数えきれないほどあった。
でも、心の奥でずっと
「幸せになりたい」と願っていた。
あの夜の世界で、
笑顔をつくって、涙をこらえて。
でもね。今、私はとても幸せです。
過去の私から見たら、
きっと信じられないくらい。
笑わせ上手な彼と出会って、たくさん笑って
心から穏やかで。
その彼が、今の私の旦那さんです。
彼には、過去のこと全ては話していません。
でも、それでいいんです。
彼は「いまの私」を大切にしてくれているから。
そしていま、
私はその彼との間に
新しい命を授かっています。
お腹の赤ちゃんが、毎日少しずつ大きくなって
私は今、また違う“強さ”を育てています。
小さな命がゆっくり育っていくたびに、
「あぁ、ちゃんと生きてきてよかった」
と心から思えるんです。
かつての私は、
自分の未来を想像することが怖かった。
でも、いまの私は違う。
目の前にある小さな幸せを大切にして
明日を楽しみに生きていける。
あの頃の私がいたから、今の私がある。
だから過去を否定せず、
抱きしめて、未来へ進んでいきたい。
だから、この物語は「終わり」ではありません。
きっと、これは「始まり」の章。
優しさを信じられなくなったあの日の私に、
心から言ってあげたい。
「あなたは、ちゃんと幸せになれるよ」って。
―――2025年、梅雨。
幸せなお腹を撫でながら。
同じように傷ついた誰かへ。
大丈夫。
あなたにも、あたたかい春は必ずやってきます。
著者/天使もえ より
愛を込めて。