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涼ちゃんは薬を手に持ったまま、静かに廊下を歩く。
足音がやけに響く気がして、元貴の胸はざわついた。
トイレの前で立ち止まり、涼ちゃんは一度だけ振り返る。
「……最後に見る?」
元貴は首を横に振った。
「見たら、きっと止められなくなる」
涼ちゃんは無言で便器の蓋を開け、薬を落とした。
カラン、と乾いた音がして、すぐに水の中へ沈む。
レバーを下げる音が、やけに重たく感じた。
渦巻く水流が薬を飲み込み、やがて何も残らない。
「……これで終わり」
涼ちゃんは小さく息を吐くと、元貴の肩を軽く叩いた。
部屋に戻った元貴は、ベッドの端に腰を下ろした。
胸の奥がざわつき、落ち着かない。
手のひらはじっとり汗で濡れて、指先が微かに震えている。
「……あー……やばいな」
声に出すと、余計に渇きが増す。
喉が乾くのとは違う――頭の奥が、直接「欲しい」と叫んでいるようだった。
さっきトイレに流された薬の姿が、まぶたの裏に残って離れない。
水の渦に消えていく瞬間が、スローモーションみたいに蘇る。
「くそ……なんでこんな……」
額を押さえて俯いた元貴の視界に、
布団の上で丸まって寝ている若井が映った。
その顔は汗ばんで、少し苦しそう。
起こして頼めば――何とかしてくれるかもしれない。
でも、それをしたら全部終わりだと分かっていた。
だから元貴は、代わりに涼ちゃんを呼んだ。
「……お涼」
「んー? 何?」と眠たそうに目をこすりながら涼ちゃんが顔を出す。
元貴は、少し笑って言った。
「なんか……死ぬほど暇だから、話し相手になってくれ」
涼ちゃんはすぐに察した。
そして何も言わず、隣に腰を下ろした。
二人の間に漂う沈黙が、ほんの少しだけ渇望を薄めてくれた。
「でも、これからが本番だからね」
元貴は頷く。
その瞬間、背後の部屋から若井の寝言が聞こえた。
「……ラーメン……替え玉で……」
思わず二人とも吹き出してしまい、張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。
涼ちゃんと他愛もない話をしていたはずが、元貴の意識はほとんど上の空だった。
笑おうとしても口元が引きつる。
頭の奥で、ずっとひとつの声が響いている。
――探せ。
――まだ残ってるはずだ。
心臓がドクンと強く脈打ち、耳の奥で血の音がざわめく。
涼ちゃんの声も遠くなる。
「……あれ? 元貴、聞いてる?」
「……あ、ごめん」
自分でも、声がかすれているのが分かった。
涼ちゃんの視線を避けるように立ち上がる。
足が勝手に、棚の方へ向かう。
その奥には――
捨てたはずの小瓶が、まだひとつ残っているかもしれない。
指先が引き出しに触れた瞬間、
「元貴」
背後から静かな声が落ちた。
振り返ると、さっきまで寝ていたはずの若井が、半分閉じた目でこちらを見ていた。
その表情は、怒りでも呆れでもない。
ただ、痛みを分かっている人間の目だった。
「……それ、手を出したらまた最初からだぞ」
若井の声はかすれているのに、妙に重かった。
まるで胸の奥に石を落とされたように、元貴は手を止める。
振り返ると、若井はベッドの縁に片肘をつき、まだ眠そうな顔をしている。
だけどその目だけは、鋭く冴えていた。
「俺も昔やった。
……で、地獄を何周もした。
だから、行かせねえ」
その言葉に、元貴の喉がギュッと詰まった。
涼ちゃんも横で、何も言わずに見守っている。
引き出しの中の小瓶が、急に毒々しいものに見えて、
元貴は震える手でそっと閉じた。