その日
空は重い灰色の雲に覆われていた。
静寂が辺りを支配し
風が庭の木々を騷めかせる。
屋敷の奥の寝室では
時也が布団に横たわり
衰弱しきった身体を
微かに震わせていた。
その頬は窶れ
肌は蒼白く
骨ばった腕が
布団の上に投げ出されていた。
元々細身だった体は
今や骨と皮だけになったかのように
痩せこけている。
呼吸は浅く
微かな胸の上下が
彼がまだ生きている証に過ぎなかった。
⸻
「⋯⋯ひゅ⋯っ、ごほっ⋯⋯」
時也の喉から
再び濁った咳が溢れた。
布団に広がった血の赤が
病の深刻さを物語る。
時也は弱々しく片手を持ち上げ
震える指先が虚空を彷徨った。
「⋯⋯アリア⋯さん⋯⋯」
掠れた声で名を呼ぶ。
その声に気付き
アリアは音もなく
時也の傍へ膝をついた。
その瞬間
時也の指が
力なくアリアへと伸ばされた。
伸ばされた時也の手を
アリアはそっと両手で包み込む。
「⋯⋯お前も⋯⋯
私を⋯置いて、いくのか⋯⋯?」
その言葉は
アリアの声とは思えない程
悲しみを滲ませていた。
言葉を発することすら少ない彼女が、声を震わせるほどの苦痛を露わにするのは、時也にとって初めての光景だった。
「申し訳⋯⋯ありません⋯⋯」
時也は息も絶え絶えに
微かに笑みを浮かべた。
「アリアさん⋯⋯」
彼の指は、氷のように冷たかった。
「⋯⋯っ」
アリアの目に、静かに涙が溢れた。
その涙は
彼女の頬を伝い
時也の手の甲にぽたりと落ちた。
涙が伝うその感触は
温かかった。
——けれど
その温かさが布団に落ちると
涙は光り輝く宝石へと
姿を変えていく。
幾つもの光が
深紅の瞳から時也に降り注ぐ。
「⋯⋯あぁ⋯⋯」
時也の目が、細められた。
「⋯⋯本当に⋯⋯」
——私が死の間際に見たかった光景を。
——どうして、お前が先に見るんだ。
その言葉は
アリアの心の奥に
強く封じ込められた。
アリアは瞳を強く伏せ
時也の手を頬に押し当て
頬擦りする。
「⋯⋯僕の妻は⋯⋯
本当に⋯綺麗ですね⋯⋯」
時也は
まるで夢でも見ているような
微笑みを浮かべた。
「⋯⋯貴女に出逢えて⋯⋯
本当に良かったと⋯⋯
心から⋯思ってますよ⋯⋯」
その言葉に
アリアは一瞬、目を見開くと
また静かに目を閉じた。
彼の冷たくなりつつある唇に
そっと自らの唇を重ねた。
短い、けれど深い口づけだった。
ー逝かないでー
そう叫べたのなら
どれ程、良かったろうか。
だが、それは時也にとって
呪いの言葉でしかない。
お互いに絶望を
噛み締めてしまう事になるだろう。
同じ呪いならば⋯⋯
「⋯⋯お前を⋯⋯愛している⋯時也
私の命と同じく⋯⋯永遠に⋯⋯」
もし⋯もし、いつか
ー転生しても⋯⋯ 私だけを、愛せー
ー私も、お前だけを⋯⋯愛そうー
「⋯⋯僕も⋯⋯誰よりも⋯⋯
愛して⋯います⋯よ⋯⋯」
時也の声は
もう今にも
消えてしまいそうな程、儚かった。
「⋯⋯貴女⋯だけを⋯⋯永遠に⋯⋯」
不意に、時也の鳶色の瞳が
開いたままの襖の向こうに向けられた。
「⋯⋯⋯⋯」
アリアが目線を追うと
庭の向こうに
小さな三つの影が見えた。
エリスと、ルナリアだった。
二人は幼いながらも
しっかりと立ち
静かに両親を見つめていた。
その傍らには、青龍がいた。
青龍は、地に伏し
両手を突き、深々と頭を下げる。
青龍の小さな背は震え
頭を地に擦り付けていた。
「⋯⋯青龍⋯⋯」
時也は微かに笑い
穏やかな目で双子を見つめた。
「⋯⋯ありが⋯とう⋯⋯」
その言葉と共に
時也の手がするりと力を失い
アリアの手から滑り落ちた。
「⋯⋯⋯っ」
アリアは無言のまま
落ちたその手を再び包み込んだ。
その手の温もりは⋯⋯
どんどん失われ、冷えていく。
時也の唇は青ざめ
微かに開いた口元は
苦しみの名残を留めることなく
穏やかだった。
アリアは、そっと再びその唇に口づけた。
「⋯⋯良き、眠りを⋯時也⋯⋯」
アリアは
ゆっくりと立ち上がると
双子の方へ顔を向けた。
エリスとルナリアは
涙を堪えながら
何度も母に向かって手を振っていた。
アリアは静かに微笑み
ゆっくりと頭を下げた。
青龍が顔をぐしゃぐしゃにしながら
深く一礼する。
そして、双子の手を引きながら
背を向けて歩き出した。
何度も、何度も振り返りながら⋯⋯
やがて
エリスとルナリアの姿が
見えなくなった。
その瞬間——。
アリアの顔から
全ての感情が消え去った。
「⋯⋯絶望などしてやるものか」
その声は、静かで冷たかった。
「⋯⋯お前の糧には⋯決してならんぞ
⋯⋯不死鳥⋯⋯」
アリアの深紅の瞳が
僅かに燃えるように煌めいた。
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