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――亡き妹に似た少女
貴族院で、アナスタージウスは偶然、ローゼマインの姿を見かけた。
いつものように側近たちに囲まれているはずの彼女が、その日は厨房へ向かっていた。しかも、その隣には一人の少女がいる。
ローゼマインの側近である、アーティだ。
二人は楽しそうに菓子を作っていた。
「マイン、これくらい入れても大丈夫かな?」
「駄目よ、アーティ! それでは甘くなりすぎるわ!」
「えー、でも甘いほうがおいしいよ?」
「程度というものがあるでしょう!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その瞬間、アナスタージウスの足が止まった。
少女が、ふと顔を上げる。
その笑い方。その目元。何気なく首を傾げる仕草。
そして、無邪気に笑ったときの顔。
「……アタナシア?」
口から、忘れたはずの名前がこぼれ落ちた。
アタナシア。
かつて王族に生まれた、彼の妹。
莫大な魔力量を持っていたがゆえに、王位争いの中で邪魔な存在と見なされた少女。洗礼式を迎える前に姿を消し、二度と戻ってこなかった妹。
洗礼式前の子供が誘拐され、そのまま生きているはずがない。
アナスタージウスは、それを理解していた。
理解していたからこそ、長い年月をかけて妹の死を受け入れようとしてきたのだ。
それなのに。
「……なぜ、あの子が」
目の前の少女は、亡き妹にあまりにもよく似ていた。
別人だ。そんなことはわかっている。
髪の色も、身分も、育った環境も違う。何より、妹はもうこの世にいない。
それでも、目を離すことができなかった。
アナスタージウスはその場を離れた。
その日から、彼は側近に命じてアーティについて調べさせた。
「ローゼマインの側近、アーティについて調べろ。出自、家族構成、洗礼式以前の記録も含めて、可能な限り詳しく」
「かしこまりました」
返答を聞きながらも、アナスタージウスの視線は遠くを向いていた。
もし、あの少女が本当に妹だったら。
あり得ない。
そんなことは、あり得ないのだ。
それでも、調べずにはいられなかった。
1.調査報告
数日後。
アナスタージウスの執務室に、調査を命じられた側近がやってきた。
「アーティについて、判明したことをご報告いたします」
「聞こう」
「アーティは、レーベレヒト家のハルトムートの妹です。現在は上級貴族として扱われており、ローゼマイン様の側近を務めております」
「ハルトムートの妹……?」
予想していなかった名前に、アナスタージウスは眉を寄せた。
「はい。ただし、彼女の幼少期については不明な点が多く、通常の貴族の子供とは異なる経歴を持っております」
「具体的には?」
「幼い頃に誘拐された経験があり、その後、神殿で過ごしていた時期があるようです。洗礼式以前の記録も乏しく、どのような経緯で現在の家族のもとへ戻ったのか、詳細は確認できておりません」
アナスタージウスは、手元の書類を見つめた。
幼少期の誘拐。
神殿で過ごした日々。
洗礼式以前の記録の欠落。
そして、常人離れした魔力量。
「……魔力量は?」
「非常に多いと考えられます。詳細な測定結果は入手できておりませんが、ローゼマイン様の側近として特別な配慮を受けていることからも、相当なものかと」
アナスタージウスの指が、書類の端を強く押さえた。
「洗礼式前に誘拐された子供が……生きている?」
声が、かすかに震えた。
「殿下?」
「いや。続けろ」
世利里🗝️🫧🖤
112
#🐢超えて🐌超えて🦥投稿
アイリス🌙
3,255
「現在のアーティは、ローゼマイン様と非常に親しい関係にあります。神殿にいた頃からの付き合いらしく、二人きりになると、主従関係を忘れたように親しく振る舞うこともあるそうです」
あの日、厨房で見た光景が脳裏によみがえる。
楽しそうに笑う少女。
あの表情は、記憶の中の妹と同じだった。
「……もうよい」
「殿下?」
「下がれ」
側近が退室すると、アナスタージウスは一人、書類を見つめ続けた。
アーティ。
ハルトムートの妹。
洗礼式前に誘拐された子供。
莫大な魔力量。
そして、妹にそっくりな顔。
偶然だと考えるには、あまりにも重なりすぎていた。
しかし、確かめる方法がない。
もし本人だったとして、なぜ生きているのか。
なぜ王族のもとへ戻ってこなかったのか。
そして、なぜ妹は自分のことを何も知らないように、ローゼマインの隣で笑っているのか。
「……アタナシア」
アナスタージウスは、誰もいない部屋でその名を呼んだ。
返事はなかった。
2.逃げる少女
数日後。
アーティは一人で廊下を歩いていた。
ローゼマインは講義の準備があり、ほかの側近たちもそれぞれの用事で離れている。
いつもなら誰かが近くにいるが、今は珍しく一人だった。
そこへ、複数の足音が近づいてきた。
顔を上げると、廊下の向こうから王族の一団がやってくる。
先頭にいるのは、アナスタージウス王子。
その後ろには護衛騎士が何人も続き、さらに側近たちが控えていた。
アーティの足が止まった。
王族。
護衛騎士。
大勢の大人。
自分に向かって、まっすぐ歩いてくる。
頭の中が、真っ白になった。
「アーティ嬢」
アナスタージウスが声をかける。
「少し、話をしたい」
アーティは返事ができなかった。
どうして自分に。
何か失礼なことをしたのだろうか。
ローゼマイン様に迷惑をかけてしまったのだろうか。
それとも、自分の過去が知られてしまったのだろうか。
周囲を見ても、逃げ道がないように思えた。
「……あ、あの」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
アナスタージウスは、できるだけ穏やかな表情を作った。
「怖がらなくてよい。君を罰しようというわけではないのだ」
その言葉が、かえって恐ろしかった。
大勢を引き連れた王族が、わざわざ自分を呼び止めている。
怖がるなと言われても、どうすればいいのかわからない。
「少し、君のことを聞きたいだけだ」
「……っ」
アーティは一歩後ずさった。
アナスタージウスも、思わず足を止める。
「アーティ嬢?」
「ご、ごめんなさい……!」
次の瞬間、アーティは走り出した。
「待ちなさい!」
側近の声が響く。
しかし、アーティは止まらなかった。
逃げなければ。
とにかく、この場から離れなければ。
王族に呼び止められた理由も、何を聞かれるのかもわからない。
ただ、恐ろしかった。
背後から足音が追ってくる気がして、息が詰まる。
そして、廊下の角を曲がったところで。
「……ローゼマイン様!」
見慣れた姿が目に入った。
アーティはほとんど駆け込むように、ローゼマインのそばへ行った。
「アーティ? どうしたのですか?」
ローゼマインが驚いて振り返る。
アーティは震える手で、ローゼマインの袖をつかんだ。
「た、助けてください……!」
「え?」
「王族の方が……大勢で、私を……!」
その言葉の途中で、アナスタージウスたちが姿を現した。
ローゼマインの表情が変わる。
アーティはローゼマインの後ろへ隠れるように立ち、袖を握りしめていた。
その様子を見たアナスタージウスは、ようやく自分の行動が彼女を怯えさせてしまったことに気づいた。
「ローゼマイン。誤解しないでほしい。私はただ、アーティ嬢と話をしたかっただけなのだ」
「……お話、ですか?」
ローゼマインの声は静かだった。
「そうだ。彼女のことについて、少し聞きたいことがあってな」
「それでしたら、なぜこれほど大勢の方々をお連れになったのですか?」
アナスタージウスは言葉に詰まった。
「それは……」
「アーティは、王族の方々に囲まれて、とても怖がっておりますわ」
ローゼマインは背後のアーティを振り返った。
「アーティ、大丈夫ですか?」
アーティは答えようとしたが、うまく声が出なかった。
ただ、ローゼマインの袖を握る手に力がこもる。
それだけで、ローゼマインには十分だった。
彼女は再びアナスタージウスへ向き直った。
「殿下。わたくしの大切な側近をいじめるのはやめてくださいませ」
その場の空気が凍りついた。
王族に対する言葉としては、あまりにも強い。
後ろに控えていた側近たちが、一斉に息をのむ。
「ローゼマイン様!」
リヒャルダが思わず声を上げたが、ローゼマインは引かなかった。
「アーティが何か失礼をしたのであれば、わたくしから注意いたします。ですが、理由も説明せず、大勢で取り囲むようなことをなさる必要はございませんでしょう?」
「私は彼女を取り囲んで脅すつもりなど……」
「そのおつもりがなくても、アーティは怯えております」
ローゼマインは、アーティを背にかばったまま続けた。
「わたくしの側近にお話があるのでしたら、まずはわたくしにお申し出くださいませ。アーティが一人でいるところへ突然大勢で押しかけるなど、あまりに配慮に欠けておりますわ」
アナスタージウスは、何も言えなかった。
彼はただ、妹に似た少女に会いたかった。
自分の目で確かめたかった。
本当に妹なのか。
もしそうなら、どこで何があったのか。
けれど、その気持ちを確かめたい一心で、彼女の恐怖を考えていなかった。
そして今、少女は自分から逃げ、ローゼマインの背後に隠れている。
かつて失った妹と、目の前の少女が重なった。
幼い妹も、こんなふうに自分を怖がっていただろうか。
いや。
彼女が最後にどんな顔をしていたのかさえ、アナスタージウスは知らない。
「……ローゼマイン」
「はい、殿下」
「私は、彼女を傷つけるつもりはなかった」
「でしたら、どうか今はお引き取りくださいませ」
ローゼマインの声は揺らがなかった。
「アーティが落ち着いてから、必要であれば、わたくしを通してお話しくださいませ」
長い沈黙のあと、アナスタージウスはゆっくりとうなずいた。
「……わかった。今日は退こう」
側近たちが道を開ける。
アナスタージウスは去り際に、一度だけアーティを見た。
少女はローゼマインの背後に隠れたまま、こちらを見ようともしなかった。
その姿に、胸の奥がひどく痛んだ。
「失礼する、ローゼマイン」
「ごきげんよう、殿下」
ローゼマインは礼をした。
アナスタージウスたちが去っていくまで、彼女はその場を動かなかった。
3.「もう大丈夫よ」
足音が完全に遠ざかると、ローゼマインはゆっくりと振り返った。
「アーティ」
「……はい」
「もう大丈夫よ。殿下方は行かれました」
アーティはようやく顔を上げた。
けれど、その顔は青ざめたままだった。
「……ごめんなさい、ローゼマイン様。私、王族の方から逃げてしまって……」
「謝る必要はありません」
ローゼマインはきっぱりと言った。
「怖かったのでしょう?」
アーティは少しだけ唇をかみ、うなずいた。
「……どうして私だったんでしょう。何か、悪いことをしたのかなって……」
「理由もわからないまま、大勢に囲まれたのですもの。怖くなるのは当然ですわ」
ローゼマインは、アーティの手をそっと握った。
「わたくしは、アーティが何か悪いことをしたとは思っておりません」
「……ローゼマイン様」
「それに、わたくしの側近を守るのは、主であるわたくしの役目ですもの」
その言葉に、アーティの目に涙が浮かんだ。
ローゼマインは少しだけ表情を和らげた。
「今日は、わたくしと一緒にいましょう。何か聞かれても、無理に答える必要はありません。まずは落ち着いてから考えましょうね」
アーティは小さくうなずいた。
「……ありがとうございます」
「ええ。さあ、こちらへ」
ローゼマインが手を差し出す。
アーティはその手を取った。
二人は側仕えたちとともに、その場を離れていった。
その間、ローゼマインは一度もアーティの手を離さなかった。
そして、誰もいなくなった廊下の向こうで。
アナスタージウスは、足を止めていた。
「殿下、いかがなさいましたか?」
側近の問いに、彼は答えなかった。
ただ、先ほど少女がローゼマインの背後に隠れた姿を思い返していた。
あの少女は、妹にそっくりだった。
しかし、自分は妹のことを何も知らない。
どこで暮らし、何を恐れ、誰を信じ、誰に助けを求めるのか。
そんな当たり前のことさえ、知らなかった。
「……調査は続けろ」
アナスタージウスは低く告げた。
「だが、今後は本人を突然訪ねるな。彼女を怯えさせることも禁ずる」
「かしこまりました」
「それから……」
アナスタージウスは一度、言葉を切った。
「彼女の幼少期について、もっと詳しく調べろ。誘拐された後、誰が彼女を保護したのか。なぜ神殿にいたのか。そして、なぜハルトムートの妹として生きているのか」
「承知いたしました」
側近が去ったあとも、アナスタージウスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
亡くしたはずの妹。
その妹にそっくりな少女。
そして、彼女が助けを求めた相手は、自分ではなくローゼマインだった。
「……アタナシア」
その名を口にしても、答える者はいない。
それでもアナスタージウスは、今度こそ目をそらすことができなかった。
貴族院の一室に、アナスタージウスの声が響いた。
「ローゼマイン。アーティと話す機会を設けたい。どうすれば彼女と話せるのか、そなたの知ることを教えろ」
突然の呼び出しに、ローゼマインはわずかに眉を寄せた。
「……殿下。なぜ、アーティとお話しになりたいのですか?」
「理由をそなたに説明する必要があるか?」
「それは……」
「これは王族からの命令だ。答えよ」
ローゼマインは唇を引き結んだ。
命令と言われてしまえば、立場上、これ以上問いただすことは難しい。
けれど、アーティの怯えた顔が脳裏に浮かんだ。
あの日、王族の側近や護衛を大勢引き連れたアナスタージウスに声をかけられたアーティは、明らかに怯えていた。そして、ローゼマインのもとへ逃げてきた。
ローゼマインは、あのときのアーティの様子を思い出すだけで胸が痛んだ。
嫌がっているアーティを、無理やり殿下の前に連れていく。
そんなことだけは、絶対にしたくなかった。
しかし。
ローゼマインは、目の前のアナスタージウスを静かに観察した。
彼は苛立っているようにも見える。けれど、その目にはアーティを傷つけようとする者の冷たさはなかった。
むしろ、どうすれば彼女と話せるのか、本気で困っているように見える。
「……殿下は、アーティに危害を加えるおつもりはないのですね?」
「当然だ。私はただ、彼女と話がしたいだけだ」
「本当に、それだけですか?」
「何度も言わせるな」
少し不機嫌そうな返答だったが、ローゼマインはようやく小さく息を吐いた。
「……わかりました。わたくしの知っているアーティのことをお話しいたします。ただし、これはあくまでわたくしの見たアーティです。殿下がお考えになっている彼女と同じとは限りません」
「構わぬ。話せ」
ローゼマインは姿勢を正した。
「まず、アーティは権力を持つ方々とお話しすることを、少し恐れているように見えます」
「恐れている?」
「はい。わたくしの憶測にすぎませんが、過去に権力を持つ方々に振り回された経験があるのではないかと。特に、相手が大勢の側近や護衛を伴っていると、ひどく緊張するようです」
アナスタージウスの表情がわずかに変わった。
「……私が大勢を連れていたから、逃げたということか」
「それも理由の一つだと思います。ですが、アーティは殿下だけでなく、権力を持つ方そのものに対して警戒しているように感じます」
ローゼマインは、神殿にいた頃のアーティを思い返した。
「神殿にいた頃のアーティは、とても自由な子でした。わたくしと一緒にお菓子を作ったり、いたずらをしたり、神官長に叱られそうになって二人で逃げたり……」
「逃げた?」
「……そちらは今、重要ではありません」
「いや、少し気になるのだが」
「殿下」
「……続けよ」
ローゼマインは咳払いを一つして、話を戻した。
「アーティは、身分や立場を忘れてしまうほど親しくなった相手には、とても人懐こいのです。人の懐に入るのが上手で、本人にその自覚があるのかはわかりませんが、気がつけば相手の心をつかんでしまいます」
「人たらし、ということか」
「……はい。少々、そういうところがございます」
ローゼマインは苦笑した。
「ただ、誰に対してもそうというわけではありません。相手をよく見ていますし、警戒している相手にはなかなか心を開きません」
「では、どうすればよい?」
アナスタージウスは、先ほどよりも身を乗り出していた。
「大勢で囲まないことです。それから、できることなら一対一で、落ち着いて話すこと。アーティは、きちんと話を聞いてくださる方だとわかれば、逃げずに話してくれると思います」
「……本当にか?」
「はい。アーティは、実は人と話すことが大好きなのです」
その言葉には、ローゼマインの確かな実感がこもっていた。
「これは、わたくしとアーティがまだ親しくなかった頃に知ったことです」
「そなたたちが、まだ親しくなかった頃?」
「ええ。初めの頃、アーティはわたくしに対しても、どこか距離を置いていました。けれど、少しずつ話をするようになって……わたくしが思っていた以上に、おしゃべりが好きな子なのだとわかったのです」
ローゼマインの表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「今では、二人きりになると話が尽きません。わたくしが何かを話せば、アーティも自分の考えを話してくれますし、時にはわたくしが驚くようなことまで教えてくれます」
「……そうか」
アナスタージウスは静かに頷いた。
ローゼマインは、もう一つだけ情報を付け加えた。
「それから、アーティは昼休みになると、一人でお茶をしていることがよくあります」
「一人で?」
「はい。人と話すことは好きですが、一人で過ごす時間も大切にしているようです。昼休みには、静かな場所でお茶を飲んでいることが多いので、もしお話しになりたいのでしたら、その時間がよろしいかもしれません」
アナスタージウスは考え込んだ。
一人でお茶を飲む少女。
大勢に囲まれると怯える少女。
けれど、信頼した相手にはよく話し、笑い、いたずらまで仕掛ける少女。
彼がこれまで見てきたアーティは、いつもどこか緊張していて、こちらを避けようとしていた。
その姿しか知らなかった彼にとって、ローゼマインの語るアーティは、まるで別人のようだった。
「ローゼマイン」
「はい、殿下」
「そなたは、彼女をよく理解しているのだな」
「……大切な友人ですから」
ローゼマインは、迷いなく答えた。
アナスタージウスは、その言葉を聞いて少しだけ目を伏せた。
そして、静かに尋ねた。
「彼女は……私と話すこと自体が嫌なのだろうか」
ローゼマインは、すぐには答えなかった。
アーティが逃げてきたときの顔を思い出す。あれは、単に嫌がっている顔ではなかった。何かをひどく恐れているような、どうしていいかわからず混乱しているような顔だった。
けれど、その理由をローゼマインは知らない。
アーティは、自分の過去についてほとんど語らないからだ。
「それは、わたくしにもわかりません」
ローゼマインは正直に答えた。
「ただ、一つだけ申し上げます。殿下が本当にアーティと話したいのであれば、どうか彼女が安心できるようにしてくださいませ。王族として命令すれば、彼女は表面上は従うかもしれません。けれど、それではアーティの本当の言葉は聞けないと思います」
「……命令ではなく、私自身の言葉で話せということか」
「はい」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて、アナスタージウスは頷いた。
「わかった。次は一人で行く。護衛も、必要最低限にする」
「それがよろしいかと存じます」
「それから……」
アナスタージウスは、何かを思い出すように視線を落とした。
「彼女が一人で茶を飲んでいる場所を、教えてくれ」
ローゼマインは一瞬だけ迷った。
アーティが望んでいないかもしれない。
けれど、目の前の王子は、少なくとも今は彼女を無理やり連れてこようとはしていない。
「……場所をお伝えすることはできます。ただし、殿下。もしアーティが話したくないと申し上げたら、そのときは引いてくださいませ」
「わかっている」
そう答えたアナスタージウスの声は、先ほどよりもずっと静かだった。
ローゼマインは、ようやく一礼した。
「では、お伝えいたします」
その日、ローゼマインはアナスタージウスに、アーティが昼休みに一人でお茶を飲む場所を教えた。
けれど、アーティ本人には何も伝えなかった。
彼女がようやく見つけた、安心して過ごせる日常。
それを守りたいという気持ちは、今も変わらなかったからだ。
一方、アナスタージウスはローゼマインから聞いた話を、何度も頭の中で繰り返していた。
人と話すことが好き。
親しくなれば、よく笑う。
一人でお茶を飲む時間を大切にしている。
そして、権力を持つ者を恐れている。
彼女がなぜそこまで怯えるのか、彼にはまだわからない。
ただ一つ、確かなことがあった。
次に会うときは、王族として彼女を呼びつけるのではなく、自分自身の言葉で話しかけよう。
彼女が逃げずにいられるように。
そして、もし話してくれるのならば、今度こそ最後まで、その声に耳を傾けよう。
そう、アナスタージウスは心に決めた。
昼休み。
貴族院の一角にある、あまり人の訪れない中庭。木々に囲まれたその場所には、小さな東屋があり、午後の柔らかな日差しが差し込んでいた。
アーティは、いつものように一人でお茶を楽しんでいた。
お気に入りの焼き菓子を一つ摘まみ、ゆっくりと紅茶を口に運ぶ。誰にも気を遣わず、誰かの顔色を窺う必要もない。
アーティにとって、ここは貴族院で数少ない、心から落ち着ける場所だった。
だからこそ。
「……っ」
東屋へ続く小道に人影を見つけた瞬間、アーティの顔から血の気が引いた。
金色の髪。整った顔立ち。王族の身にまとう、独特の威厳。
アナスタージウス王子。
どうして。
どうして、ここに。
思考が一瞬で止まる。
アーティは反射的に立ち上がった。椅子が小さく音を立てる。
逃げなければ。
そう思ったのに、足がうまく動かない。
アナスタージウスは、彼女の反応を見て足を止めた。
以前のように、護衛や側近を大勢引き連れてはいない。彼の近くにいるのは彼一人だけだった。護衛たちは離れた場所で待機しているのだろう。
それでも、アーティにとっては十分すぎるほどの存在だった。
「待て」
アナスタージウスが口を開いた。
アーティの肩がびくりと震える。
その反応を目にした彼は、すぐに声の調子を落とした。
「……いや、すまない。無理に引き止めるつもりはない」
アナスタージウスは少しだけ間を置いてから、東屋にある空席へ視線を向けた。
「私はただ、静かな場所で茶がしたいだけだ」
アーティは動きを止めた。
「……え?」
思わず漏れた声は、普段の彼女からは想像できないほど小さかった。
「そなたがよければ、茶の相手になってはくれないか?」
王族が、そんなふうに頼む。
命令するのでもなく、当然のように隣へ座るのでもなく。
まるで、断られる可能性を初めから受け入れているかのように。
アナスタージウスは、静かに彼女の返事を待っていた。
アーティは彼の顔を見つめた。
何か裏があるのだろうか。
断ったら、怒られるのだろうか。
それとも、今度こそ自分を王族のもとへ連れていくつもりなのだろうか。
いくつもの考えが頭を巡る。
けれど、目の前の彼は、それ以上何も言わなかった。
やがてアーティは、ゆっくりと椅子を引いた。
そして、黙って元の席に座り直した。
それを見たアナスタージウスは、わずかに表情を緩めた。
「……感謝する」
彼は向かい側の席に腰を下ろした。
しばらくして、離れた場所に控えていた側仕えが二人分の茶器を運んできた。アナスタージウスは必要なものを受け取ると、側仕えを下がらせた。
再び、二人きりになる。
アーティは膝の上でそっと手を組んでいた。
アナスタージウスは、彼女の様子を窺いながら口を開いた。
「好きな食べ物は何だ?」
あまりにも唐突な質問だった。
アーティは、ほんの少しだけ目を瞬かせた。
「……甘いもの、です」
「甘いものなら何でも好きなのか?」
「いいえ。特に焼き菓子が好きです。クリームを使ったものも好きですし、果物が入っているものも」
そこまで答えてから、アーティは口を閉じた。
少し話しすぎただろうか。
そんな不安が浮かび、視線をカップへ落とす。
しかし、アナスタージウスは彼女の答えを咎めることも、余計な反応を示すこともなかった。
「そうか。嫌いな食べ物は?」
「……特にありません」
「苦手なものも?」
「強いて言うなら、苦味の強いものは少し」
「なるほど」
アナスタージウスは、まるで大切な報告を聞くかのように頷いた。
会話は淡々と続いた。
好きな食べ物。
嫌いな食べ物。
好きな季節。
貴族院での授業は難しくないか。
エーレンフェストはどのような場所なのか。
「エーレンフェストは、どのような領地なのだ?」
「……穏やかな場所だと思います。もちろん、領地の中でもいろいろありますけれど」
「そなたにとっては、よい場所か?」
「はい」
その返事だけは、ほんの少し早かった。
アナスタージウスは、それを聞き逃さなかった。
「何がよい?」
アーティは考えるように目を伏せた。
「……大切な方々が、たくさんいらっしゃいますから」
「大切な者がいるのだな」
「はい」
アーティの声に、かすかな柔らかさが戻る。
「兄様もいらっしゃいますし、ローゼマイン様も……」
そこで、アーティは言葉を止めた。
今、ローゼマインの名前を出してしまった。
けれど、アナスタージウスは何も指摘しなかった。
「ローゼマインとは親しいのだな」
「……はい。とても」
「そうか」
彼はそれ以上、踏み込まなかった。
次に尋ねたのは、神殿での暮らしについてだった。
「神殿では、どのように過ごしていた?」
アーティの指が、カップの取っ手をそっと握り直した。
「……神官のお仕事を手伝ったり、勉強をしたりしていました。あとは、親しい方々とお菓子を作ることもありました」
「楽しかったか?」
「……はい」
「苦労もあったのではないか?」
「それは、もちろん」
アーティは曖昧に微笑んだ。
「けれど、楽しいこともたくさんありました」
それは嘘ではなかった。
神殿で過ごした日々には、苦しいことも、思い出したくないこともあった。
けれど、マインと出会い、二人で笑い合った時間も確かにそこにあった。
アナスタージウスは、彼女の言葉を遮らずに聞いていた。
「神殿にいた頃から、今のように一人で茶を飲むのが好きだったのか?」
「……そうですね。一人で過ごす時間は好きです」
「だが、人と話すことも嫌いではない?」
アーティの視線が、ぴくりと動いた。
ローゼマインから聞いたのだろうか。
そう考えた途端、また少し警戒心が戻る。
「……相手によります」
「それは当然だな」
意外にも、アナスタージウスはあっさりと頷いた。
「誰とでも話したいわけではないだろう」
アーティは返事をしなかった。
ただ、彼の言葉を頭の中で繰り返した。
誰とでも話したいわけではない。
そうだ。
本当は、人と話すことが好きだ。
好きなものの話をすることも、知らないことを教えてもらうことも、親しい人とくだらないことで笑い合うことも。
けれど、相手が誰であっても同じように話せるわけではない。
ましてや、王族相手なら。
アナスタージウスは、しばらく紅茶を飲んでから、再び口を開いた。
「そなたは、今、幸せか?」
その質問だけは、それまでのものとは少し違っていた。
アーティの手が止まる。
カップの中で、紅茶の表面が小さく揺れた。
幸せか。
そんなことを、なぜ彼に尋ねられなければならないのだろう。
そう思った。
けれど、答えはすぐに浮かんだ。
ハルトムートがいる。
ローゼマインがいる。
神殿で過ごした時間を知る人たちがいる。
一緒に笑って、お菓子を食べて、時には叱られて。
貴族院では気を張ることも多いけれど、今の自分には帰る場所がある。
「……はい」
アーティは、静かに答えた。
「幸せです」
その声は、先ほどまでよりもはっきりしていた。
アナスタージウスは、彼女を見つめた。
「そうか」
それだけだった。
彼は、どうして幸せなのかと尋ねなかった。
誰のおかげなのかとも。
何か不満はないのかとも。
ただ、その答えを受け止めた。
アーティは不思議に思った。
王族というものは、もっと多くを求めるものではないのだろうか。
答えを聞けば、さらに問い詰め、納得するまで相手を逃がさない。
少なくとも、アーティが知る権力者はそうだった。
けれど、アナスタージウスは違った。
彼はただ、アーティの話を聞いていた。
質問をして、答えを聞き、時折短く頷く。
その態度は、どこか不器用だった。
会話を盛り上げようとするわけでもない。
無理に笑わせようとするわけでもない。
ただ、彼女が何を好きで、どこで暮らし、どんな時間を過ごし、今をどう感じているのか。
それを一つずつ確かめている。
まるで、ずっと知らなかった誰かのことを、少しずつ知ろうとしているように。
「……殿下は」
アーティは、気づけば口を開いていた。
アナスタージウスが顔を上げる。
「何だ?」
「どうして、そのようなことをお尋ねになるのですか?」
初めて、アーティのほうから質問をした。
アナスタージウスは、ほんのわずかに目を見開いた。
けれど、すぐに表情を整える。
「そなたのことを知りたいと思ったからだ」
「……わたくしのことを?」
「ああ」
彼は迷わず答えた。
「そなたが何を好み、何を嫌い、どのような場所で過ごしてきたのか。何を大切にしているのか。そういうことを知りたいと思った」
アーティの胸が、きゅっと締めつけられた。
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
だからこそ、苦しかった。
本当は、もっと聞きたいことがある。
もっと話したいことがある。
どうして今まで気づいてくれなかったのか。
あの日の庭で、自分に何と呼びかけたのか。
自分のことを覚えているのか。
聞きたいことなら、いくらでもある。
けれど、それを口にすることはできなかった。
アーティはカップを持ち上げ、紅茶を一口飲んだ。
「……そう、ですか」
それだけ答えた。
アナスタージウスは、それ以上何も尋ねなかった。
二人の間に、再び静かな時間が流れる。
やがて昼休みの終わりが近づくと、アーティはカップを置いた。
「そろそろ、戻らなければなりませんので」
「ああ。引き止めてすまなかった」
「……いいえ」
アーティは立ち上がり、礼儀正しく一礼した。
「お茶のお相手をさせていただき、ありがとうございました」
「こちらこそ、感謝する」
アナスタージウスも静かに答えた。
アーティはそのまま東屋を離れていく。
一度も振り返らなかった。
アナスタージウスは、彼女の姿が木々の向こうへ消えるまで、席を立たずに見送っていた。
今日、彼が知ったことは、決して多くはない。
甘いものが好きなこと。
焼き菓子が好きなこと。
エーレンフェストを穏やかな場所だと思っていること。
神殿での日々にも、楽しい思い出があること。
そして、今は幸せだということ。
それだけだ。
それだけなのに、胸の奥が不思議と満たされていた。
もっと知りたい。
好きな菓子を作るとき、どんな顔をするのか。
兄と呼ぶ相手とは、どんな話をするのか。
ローゼマインと一緒にいるとき、どうしてあんなにも自然に笑えるのか。
どんなことで怒り、何をすれば喜ぶのか。
知りたいことが、次から次へと浮かんでくる。
それは、王族として情報を集めたいという気持ちとは、明らかに違っていた。
ただ、彼女のことを知りたい。
彼女が歩んできた日々を。
彼女が大切にしているものを。
そして、彼女が今、幸せだと言った、その生活を。
アナスタージウスは空になったカップを見つめ、静かに息を吐いた。
今日、アーティは自分から逃げなかった。
最後まで話をしてくれた。
ほんの少しだけれど、自分のほうから質問もしてくれた。
それを思い返すと、彼の口元には自然と小さな笑みが浮かんだ。
次も、こうして話せるだろうか。
そのときは、今日聞けなかったことを、もう少しだけ尋ねてみよう。
急ぐ必要はない。
少なくとも、今日の彼にはそう思えた。
彼女が今、幸せなのなら。
その幸せを壊さずに、少しずつ近づいていけばいい。
アナスタージウスは、そう考えていた。
彼がまだ知らないのは、アーティが今日、彼の前で口にしなかった言葉のほうが、ずっと多いということだった。
それから、アナスタージウスとアーティは、定期的に二人でお茶をするようになった。
最初は、昼休みのほんの短い時間だった。
アナスタージウスが東屋を訪れ、アーティが席に着いていれば、向かい合ってお茶を飲む。アーティが来ていなければ、その日は諦めて帰る。彼は決して、彼女を探し回ったり、来るように命じたりはしなかった。
そうして何度か顔を合わせるうちに、二人の間にあった緊張は、少しずつ薄れていった。
会話の内容も変わっていった。
初めの頃は、アナスタージウスが質問し、アーティがそれに答えるばかりだった。
好きな食べ物。苦手な授業。エーレンフェストのこと。神殿での生活。
けれど、いつしか質問をされる前に、アーティのほうから話し始めるようになった。
「殿下、聞いてくださいませ」
ある日の昼休み。
アナスタージウスが東屋に着くなり、アーティが少し身を乗り出した。
「どうした?」
「今日、教師の方がとんでもないことをおっしゃったのです」
「ほう?」
「わたくしが提出した課題について、内容ではなく、文字の大きさが気に入らないとおっしゃったのですよ。しかも、ほかの方には何もおっしゃらなかったのです」
アナスタージウスは、手にしていたカップを静かに置いた。
「文字の大きさか。それはまた、ずいぶんと細かいところを指摘されたものだな」
「そうでしょう? もちろん、決まりがあるのでしたら従います。でも、そのような決まりはなかったのです。わたくし、課題の内容についてなら、いくらでも改善いたします。けれど、後から基準を変えられては困りますわ」
「それは確かに、納得しがたいな」
「でしょう?」
アーティは少しだけ頬を膨らませた。
「しかも、最後には『次から気をつけるように』とだけ。何に気をつければよいのか、具体的には教えてくださらないのです」
「次は文字を大きくすればよいのではないか?」
「殿下!」
思わず声を上げたアーティに、アナスタージウスは小さく笑った。
「冗談だ。そう怒るな」
「……もう。殿下までわたくしを困らせるのですか」
口では不満を言いながらも、アーティの表情は柔らかかった。
以前の彼女なら、王族に対してこのような愚痴をこぼすことなど考えられなかっただろう。
相手が不機嫌になったらどうしよう。
失礼だと思われたらどうしよう。
そんな不安ばかりが先に立っていた。
けれど今は、アナスタージウスが自分の話を聞いてくれることを知っている。
多少口が滑っても、少しくらい不満を漏らしても、彼は彼女を責めたりしない。
だから、アーティは安心して話せるようになっていた。
「それで、課題はどうしたのだ?」
「もちろん、きちんと仕上げました。次は同じことを言わせないようにいたしますわ」
「そうか。ならば問題ないな」
「はい。……でも、やはり納得はしておりません」
「それは仕方がない」
アナスタージウスは穏やかに頷いた。
「理不尽だと思ったことまで、無理に納得する必要はないだろう。ただし、そなたが損をしないよう、どう対処するかは考えておくとよい」
「……はい」
アーティは紅茶を口に運んだ。
その顔には、先ほどまでの不満が少しだけ残っていたが、もう声を荒らげることはなかった。
アナスタージウスは、それを見て静かに微笑んだ。
彼女は、よく話すようになった。
最近あった面白い出来事。
貴族院で出されたお菓子が思いのほか美味しかったこと。
ローゼマインがまた何かを思いついて、側近たちを困らせていたこと。
ハルトムートが妹を心配するあまり、少々過保護になっていること。
時には、何の役にも立たないような、本当に些細な話まで。
「それで、ハルトムート兄様がですね」
「また兄の話か」
「だって、聞いてくださいませ。わたくしが少しお菓子を食べただけで、夕食が入らなくなるのではないかと心配なさるのですよ?」
「……そなたの兄らしいな」
「もう少し、わたくしを信用してくださってもよいと思いませんか?」
「そなたが食事の前に菓子を食べすぎるからではないのか?」
「殿下まで!」
アーティは抗議するように彼を見た。
けれど、すぐに二人の間に小さな笑いが生まれた。
ハルトムートと過ごす時間は、もっと賑やかだった。
兄は何かと世話を焼き、アーティはそれを鬱陶しがりながらも、結局は甘えてしまう。二人で言い合いになることもあれば、アーティのいたずらにハルトムートが頭を抱えることもある。
家族らしい、遠慮のないやり取りだった。
一方、アナスタージウスとの時間は違った。
彼は、アーティを笑わせようと躍起になるわけではなかった。
何かを教え込もうとするわけでも、彼女の考えを正そうとするわけでもない。
アーティが話せば聞く。
話したくなさそうなときには、無理に尋ねない。
彼女が愚痴をこぼせば、まずはその言葉を受け止める。
時折、的外れな冗談を言ってアーティを呆れさせることはあったが、それさえも二人にとっては心地よいものになっていた。
二人の会話は、いつも特別に面白いわけではない。
大笑いすることも、夢中になって時間を忘れることも、そう多くはなかった。
ただ、話し終える頃には、二人とも少しだけ気持ちが軽くなっていた。
アーティは、誰にも言えなかった小さな不満を口にすることで、胸の中に溜まっていたものを整理できた。
アナスタージウスは、彼女の話を聞くことで、知らなかった日常の一つ一つを知っていった。
そして、彼女が穏やかな表情でお茶を飲んでいるのを見ると、不思議と自分まで落ち着くのだった。
ある日、アナスタージウスが尋ねた。
「今日は、何か話すことはないのか?」
アーティは、焼き菓子を手にしたまま首を傾げた。
「……特には」
「そうか」
「殿下は?」
「私も、特にはないな」
二人は顔を見合わせた。
それから、どちらからともなく紅茶に口をつけた。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が東屋に届く。
しばらく、会話はなかった。
けれど、アーティは席を立たなかった。
アナスタージウスも、沈黙を埋めようとはしなかった。
以前のアーティなら、何か話さなければならないと思っただろう。
王族と二人きりでいるのに、黙っているなど失礼なのではないか。
相手を退屈させているのではないか。
そんなことを考えて、無理に言葉を探していたに違いない。
けれど、今は違う。
話すことがなければ、話さなくてもいい。
何も言わずにお茶を飲んでいても、ここにいていい。
そのことを、アーティはいつの間にか知っていた。
「……殿下」
「何だ?」
「このお菓子、召し上がりますか?」
アナスタージウスは、彼女が差し出した小皿を見た。
「そなたの分ではないのか?」
「二つありますから、一つくらい構いませんわ」
「では、いただこう」
彼は焼き菓子を一つ取った。
アーティは満足そうに頷き、自分ももう一つを口に運んだ。
それだけのことだった。
それだけなのに、アナスタージウスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かに菓子を勧められることなど、王族である彼にとって珍しいことではない。
けれど、彼女が何のためらいもなく自分の皿から菓子を分けてくれたことが、妙に嬉しかった。
彼女にとって、自分は少しずつ、警戒しなければならない相手ではなくなっているのだろうか。
そう考えると、彼は自然と目元を和らげた。
二人とも、もう気づいていた。
アーティは、目の前にいる男性が、幼い頃に庭で出会った大好きな兄であることを。
アナスタージウスもまた、彼女が長い間、失われたと思っていた妹なのではないかという疑いを、とうに確信へと変えていた。
声の響き。
ふとした仕草。
何かを考えるときにわずかに伏せられる目。
甘いものを前にしたときの、隠しきれない表情。
そして何より、彼女が自分を恐れながらも、少しずつ心を許してくれていること。
幼い日の記憶と、今、目の前にいる少女の姿が、二人の中で重なっていた。
それでも、二人は何も言わなかった。
アナスタージウスは、妹なのかと尋ねなかった。
アーティも、兄様なのかと確かめなかった。
その言葉を口にした瞬間、何かが変わってしまうような気がしたからだ。
もし自分が妹だと認められたら、アーティはどうなるのだろう。
王族の一員として扱われるのか。
これまでの暮らしを手放さなければならないのか。
大切な人たちとの関係まで変わってしまうのか。
アーティには、それが怖かった。
今の生活が好きだった。
ハルトムートの妹として過ごす日々も、ローゼマインと笑い合う時間も、自分で選んだ場所でお茶を飲む昼休みも。
何一つ、失いたくなかった。
そして、アナスタージウスもまた、彼女が何を恐れているのか、少しずつ理解し始めていた。
彼女が自分を避けていたのは、嫌いだったからではない。
むしろ、何かを抱えたまま、自分の前で必死に平静を保とうとしている。
その理由を、彼はまだ知らない。
けれど、知りたいからといって、無理に聞き出すことはしたくなかった。
彼女が自分の前で笑うようになった。
最近の出来事を話してくれるようになった。
時には、教師への不満を隠さずにこぼすようになった。
今は、それで十分だった。
その日も、二人は並んだ茶器を前に、静かに時間を過ごしていた。
「殿下」
「何だ?」
「明日も、こちらにいらっしゃいますか?」
アナスタージウスは、一瞬だけ動きを止めた。
アーティは、何でもないことのように紅茶を見つめている。
けれど、その問いが彼にとってどれほど嬉しいものだったか、彼女は知らない。
「……そなたが嫌でなければ」
「嫌ではありません」
アーティは、すぐに答えた。
それから、少しだけ言いにくそうに付け加える。
「ただ、明日は新しいお菓子を持ってこようと思っているので。殿下にも召し上がっていただこうかと」
「それは楽しみだな」
アナスタージウスは、穏やかに微笑んだ。
「では、明日も来よう」
「はい」
アーティもまた、ほんの少し笑った。
二人は、それ以上何も言わなかった。
兄妹だということを、確かめる必要はなかった。
言葉にすれば、きっと何かが変わる。
けれど、言葉にしなくても、二人の間には確かに存在していた。
気遣いも、親しさも、互いを大切に思う気持ちも。
向かい合ってお茶を飲む姿は、あまりにも自然だった。
まるで、長い間離れていた兄と妹が、ようやく同じ時間を過ごせるようになったかのように。
誰にも気づかれないまま。
誰にも告げないまま。
二人は今日も、穏やかな午後を分け合っていた。
コメント
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うわっ、この第2話めちゃくちゃ良かった…!アナスタージウスが妹にそっくりなアーティを見かけてから、調査して、そしてお茶を共にするようになるまでの流れがすごく丁寧に描かれてて、心がじんわりしたよ。 特に「話すことがなければ話さなくていい」って空気が二人の間に生まれるところ、あれがもうね…。最初は逃げ出してたアーティが、焼き菓子を「一つくらい構いませんわ」って差し出すシーンで完全にやられたわ。王族相手にそこまで自然体になれるって、信頼の証拠だよね。 それと、ローゼマインが「大切な側近をいじめるのはやめてくださいませ」って王族に啖呵切るとこ、かっこよすぎて声出たわ。アーティを背中に隠して守る姿、最高の主従って感じ。 あとね、アナスタージウスの「今、幸せか?」って質問。あれ、単なる世間話じゃなくて、ずっと気になってた妹の今を知りたくて聞いたんだろうな…って思うと泣ける。二人ともお互いが兄妹だって気づいてるのに、言葉にしないまま穏やかな午後を分け合ってるの、尊すぎる…。この距離感、これからどう変わっていくのかめちゃくちゃ気になる!次話も楽しみにしてる🔥