テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
卒業式 ―― もう一度、兄様と呼べたなら
季節は巡り、貴族院の卒業式の日が訪れた。
ローゼマインは、卒業式で何かをやらかしてしまう可能性があるというアウブ・エーレンフェストの判断により、出席を見送ることになった。
そのため、アーティは領主一族や側近たちと並んで、卒業式を見守っていた。
隣にはハルトムートがいる。
少し離れたところには、アウブ・エーレンフェストとフロレンツィア、ヴィルフリート。周囲には、貴族院で親しくなった側近仲間たちもいた。
いつもと変わらない顔ぶれ。
いつもと変わらない、安心できる場所。
それなのに、アーティの胸は、式が進むにつれて苦しくなっていった。
卒業式が終われば、アナスタージウスは貴族院を去る。
もう、昼休みに東屋へ行っても、彼はいない。
今日あった面白いことを話して、教師への不満をこぼして、焼き菓子を分け合って。
ときには何も話さず、ただ一緒にお茶を飲む。
あの穏やかな時間が、もう二度と訪れないかもしれない。
アーティは、そっと手を握り締めた。
自分から会いに行けばいい。
手紙を出すことだってできるかもしれない。
それでも、今までのように、何の約束もなく当たり前に会えるわけではない。
王族には王族の生活がある。
アナスタージウスには、これから歩んでいく人生がある。
自分は、彼にとって何なのだろう。
その問いに答えを出すことだけは、ずっと避けてきた。
わかっていたからだ。
答えを口にしたら、きっと今の自分ではいられなくなる。
だから、アーティは何も言わなかった。
何も尋ねなかった。
ただ、昼休みのたびに東屋へ通い続けた。
そして今日、その時間が終わろうとしている。
卒業式も終盤に差しかかった頃。
アナスタージウスとエグランティーヌによる奉納舞が始まった。
二人が並び立つ姿は、あまりにも美しかった。
王族にふさわしい気品をまとったアナスタージウス。
その隣で、柔らかな微笑みを浮かべるエグランティーヌ。
二人が音楽に合わせて舞い始めると、会場中の視線が自然と集まった。
アーティは、瞬きさえ忘れたように二人を見つめていた。
アナスタージウスは、いつものお茶の席で見せる顔とは違っていた。
堂々としていて、凛々しくて、誰もが目を奪われる王族そのものだった。
けれど、アーティにはわかる。
彼がどれほど真剣に舞っているのか。
一つ一つの動きに、どれほど力を込めているのか。
その姿を見ているうちに、アーティの胸に、これまで知らなかった感情が生まれた。
兄様。
心の中で、そう呼んだ。
自分の兄。
ずっと大好きだった人。
その人が今、こんなにも立派な姿で舞っている。
アナスタージウスは、舞いながら一瞬だけ観覧席へ視線を向けた。
その先に、アーティがいた。
彼女が見ている。
そう思った瞬間、彼の胸に力が湧いた。
見ていてくれ。
そんな気持ちが、言葉になる前に身体を動かしていた。
今日という日を、彼女の記憶に残るものにしたかった。
王族としての自分を。
立派に成長した自分を。
そして、彼女がもう一度会いたいと思えるような自分を。
アナスタージウスは、いつも以上に全力で舞った。
指先まで神経を行き渡らせ、姿勢を崩さず、最後の一歩まで力を抜かない。
やがて、奉納舞の終わりが近づく。
二人の動きが揃い、音楽が高らかに響いた。
その瞬間、祝福の光が舞い手たちを包み込んだ。
きらきらと、無数の光が降り注ぐ。
光に照らされたアナスタージウスとエグランティーヌは、まるで絵画の中から現れたかのようだった。
会場から、感嘆の声が漏れる。
アーティは、その光景を見つめながら、唇を噛んだ。
美しい。
本当に、美しい。
そして、二人は幸せそうだった。
舞い終えたアナスタージウスが、エグランティーヌと目を合わせる。
彼の表情が、ふっと和らいだ。
エグランティーヌもまた、彼を見つめて微笑む。
その眼差しには、互いを大切に思う気持ちが溢れていた。
アナスタージウスは幸せなのだ。
これから人生を共にする女性がいて、その女性と祝福の光の中で舞うことができた。
きっと、これから先も二人は隣に立ち、互いを支え合っていくのだろう。
そのことが、アーティにはどうしようもなく羨ましかった。
自分も、あの隣に立ちたかったわけではない。
エグランティーヌの場所を奪いたいわけでもない。
ただ。
自分も、あの人と家族として、当たり前に一緒にいたかった。
幼い頃のように。
何も考えず、名前を呼んで。
「兄様」と呼んで、振り向いてもらいたかった。
そして、これから先も。
あの東屋で、お茶を飲みながら、何でもない話をしたかった。
それだけだった。
それだけなのに。
奉納舞は、終わってしまった。
アーティは、必死に涙をこらえていた。
俯いてはいけない。
泣いてはいけない。
ここには、領主一族も、王族も、他領の領主たちもいる。
自分は上級貴族の娘で、ハルトムートの妹で、ローゼマインの側近なのだから。
こんなところで取り乱してはいけない。
何度も、何度も、自分に言い聞かせた。
けれど、視界が滲んでいく。
先ほどまで舞台にいたアナスタージウスの姿が、もう見えない。
エグランティーヌに手を引かれ、二人で退場してしまったのだ。
もう、いない。
アーティは、ゆっくりと息を吸おうとした。
うまく吸えなかった。
胸が痛い。
喉が詰まる。
どうして、こんなにも苦しいのだろう。
だって、ずっとわかっていたはずなのに。
いつかは終わると。
いつまでも、あの時間が続くわけではないと。
それなのに、いざ終わりを目の前にすると、どうしても受け入れられなかった。
「アーティ?」
隣から、ハルトムートの声がした。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
アーティは、慌てて顔を上げた。
「……大丈夫、です」
いつものように笑おうとした。
心配をかけたくなかった。
ハルトムートに余計な気を遣わせたくなかった。
「少し、疲れただけで……」
最後まで言葉にできなかった。
ぽたり、と。
頬を伝った涙が、ドレスの上に落ちた。
アーティ自身が、それに気づいて目を見開いた。
「……あ」
止めなければ。
そう思ったのに、次から次へと涙が溢れてきた。
「アーティ?」
ハルトムートが驚いて身を屈める。
「おい、どうした。何があった?」
「ちが……っ」
違うの。
何でもないの。
そう言いたかった。
けれど、言葉が出てこない。
胸が苦しくて、息がうまくできなくて、目の前が滲んで。
アーティは片手で口元を押さえた。
それでも、涙は止まらなかった。
「っ、う……」
小さな嗚咽が漏れる。
一度声が出てしまうと、もう駄目だった。
今まで必死に押さえ込んでいたものが、一気に溢れ出す。
「う、ぁ……っ、あ……っ」
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
涙が頬を濡らし、肩が震えた。
「アーティ!」
ハルトムートが彼女の肩を支えた。
「どうしたんだ。何があった? 私に話してくれ」
アーティは首を横に振った。
話せない。
言えない。
だって、言ってしまったら。
自分が誰を失いたくなかったのか、知られてしまう。
あの人が、自分にとってどんな存在なのか。
どうして、こんなにも苦しいのか。
何もかも、言えなかった。
「ごめ、なさ……っ」
謝ろうとした。
心配をかけてごめんなさい。
こんなところで泣いてしまってごめんなさい。
けれど、その言葉さえ最後まで続かなかった。
アーティは、両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
その頃、退場しようとしていたアナスタージウスは、エグランティーヌに手を引かれながら、最後にもう一度だけ観覧席を振り返った。
妹が見てくれていた。
自分の舞を。
自分が、今日という日のために精一杯舞った姿を。
それだけで、胸がいっぱいだった。
亡くしたと思っていた妹が、生きている。
今はまだ、何も言葉にしていない。
公にすることも、彼女を自分の妹として迎えることもできていない。
それでも、確かにここにいる。
自分と同じ空の下で暮らし、同じ貴族院で学び、時には東屋で一緒にお茶を飲んでくれる。
そして、今日、自分の舞を見てくれた。
その喜びは、言葉では表せないほどだった。
「アナスタージウス様?」
エグランティーヌが、彼の視線を追うように振り返った。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
そう答えかけた、そのときだった。
観覧席の一角に、人だかりができているのが目に入った。
何かあったのだろうか。
最初はそう思った。
しかし、周囲の人々の動きの中に、見覚えのある髪色があった。
アーティ。
その姿が、ひどく小さく見えた。
隣にいるハルトムートが、必死に何かを話しかけている。
けれど、アーティは顔を覆い、肩を震わせていた。
泣いている。
それも、いつものように少し涙を浮かべる程度ではない。
まるで、ずっと耐えていた何かが壊れてしまったかのように。
アナスタージウスの足が止まった。
「……アーティ?」
声には出さなかった。
けれど、彼の中で何かが弾けた。
なぜ泣いている?
何があった?
誰かに何かを言われたのか。
何か、嫌なことがあったのか。
考えるより先に、身体が動いていた。
「アナスタージウス様?」
エグランティーヌが驚いて手を離す。
「どうされたのですか?」
しかし、彼は答えなかった。
ただ、アーティのもとへ向かっていた。
周囲の視線が集まる。
王族が突然、退場の列を離れたのだ。
護衛が慌てて後を追う。
ハルトムートが何かを言うより早く、アナスタージウスはアーティの前に辿り着いた。
「アーティ」
その声を聞いた瞬間、アーティの肩が大きく震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、目の前の彼を捉えた。
アナスタージウスは、そこで初めて気づいた。
彼女は、自分を見て泣いていたのだ。
自分が舞台から去った、そのあとに。
「……っ、でん、か……」
アーティは、震える声で彼を呼んだ。
いつものように、丁寧に。
王族に対する距離を保って。
けれど、その声はあまりにも弱々しかった。
アナスタージウスは、もう何も考えられなかった。
彼女を安心させたい。
ただ、それだけだった。
「アーティ」
もう一度名前を呼び、彼はそっと腕を伸ばした。
抱きしめてもよいか。
そう尋ねる余裕すらなかった。
けれど、アーティが身を引かなかったことだけはわかった。
アナスタージウスは、彼女を抱きしめた。
温かかった。
アーティが最初に感じたのは、それだった。
大きな腕に包まれる。
背中に回された手。
自分を支える、確かな体温。
その瞬間、張り詰めていたものが、すべて崩れ落ちた。
「……っ、あ……!」
アーティは、縋るようにアナスタージウスの衣服を掴んだ。
「兄、さ……っ」
声にならなかった。
呼びたかった名前。
ずっと胸の中に閉じ込めていた呼び方。
それが、涙と一緒に溢れそうになった。
けれど、最後の一線だけは越えられなかった。
「……っ、うぅ……っ、ああ……っ」
アーティは、彼の胸に顔を押しつけて泣いた。
もう、周囲の目などどうでもよかった。
ここがどこなのかも。
誰が見ているのかも。
自分がどんな立場にいるのかも。
何も考えられなかった。
ただ、離れたくなかった。
もう一度、この温かさを失いたくなかった。
アナスタージウスは、彼女を抱きしめたまま、背中をゆっくりと撫でた。
「……大丈夫だ」
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
「大丈夫だから、今は何も言わなくていい」
アーティは、さらに強く彼の衣服を掴んだ。
「……っ、や……っ」
「うん?」
「……いか、ないで……っ」
その言葉に、アナスタージウスの呼吸が止まった。
アーティは、泣きながら何度も首を振った。
「やだ……っ、やだ、です……っ」
何が嫌なのか。
どこへ行かないでほしいのか。
それを、彼女は説明できなかった。
けれど、アナスタージウスにはわかってしまった。
今日、卒業式が終わった。
自分は貴族院を去る。
いつもの東屋で、いつものようにお茶を飲む日々が終わる。
彼女は、そのことをわかっていたのだ。
「……アーティ」
アナスタージウスは、彼女の頭にそっと手を添えた。
「私は、ここにいる」
それは、今この瞬間についての言葉だった。
明日も会えると約束することはできない。
これからも同じように過ごせると、簡単に言い切ることもできない。
それでも、今は。
彼女が自分を必要としている、この瞬間だけは。
「だから、泣いてもいい」
その言葉を聞いた途端、アーティは再び大きく泣き出した。
今まで誰にも見せなかった顔で。
誰にも聞かせなかった声で。
アナスタージウスに縋りつき、幼い子どものように泣いた。
アナスタージウスは、何も尋ねなかった。
どうして泣いているのか。
なぜ、自分にこんなにも縋るのか。
なぜ、今日に限って。
聞きたいことは山ほどあった。
けれど、今は何一つ尋ねなかった。
ただ、彼女が泣き止むまで、腕を緩めなかった。
会場は、騒然としていた。
卒業式に出席していた生徒たち。
各領地の領主候補生たち。
領主や領主夫人、側近たち。
そして、王族。
その全員が、目の前の光景に言葉を失っていた。
王族であるアナスタージウスが、一人の上級貴族の少女を抱きしめている。
しかも、その少女は彼の胸に縋りつき、声を上げて泣いている。
誰もが、何が起きているのかわからなかった。
エグランティーヌも、驚いた表情で二人を見つめていた。
彼女は、アナスタージウスがアーティを気にかけていることを知っていた。
けれど、これほどまでに強く抱きしめる姿を見たことはなかった。
ハルトムートは、妹と王子を交互に見つめ、完全に困惑していた。
「……アーティ?」
呼びかけても、返事はない。
アーティは、アナスタージウスの腕の中で泣き続けている。
ハルトムートは、妹が自分にも話してくれなかった何かを抱えていたのだと、初めて思い知らされた。
一方、アナスタージウスは周囲の視線を一切気にしていなかった。
王族として、今の行動がどれほど異例なのか。
後でどれほどの説明を求められるのか。
そんなことは、今はどうでもよかった。
彼の腕の中にいるのは、ずっと失われたと思っていた妹だった。
本当は、もっと早く気づいていた。
もっと早く、手を伸ばしたかった。
けれど、彼女が逃げるのを見て、無理に追いかけることはできなかった。
だから待った。
彼女が話してくれることを。
彼女が笑ってくれることを。
そして今日、彼女は泣きながら、自分に縋っている。
その理由を、彼はまだすべて理解しているわけではない。
それでも、今だけは。
自分の腕の中にいる彼女を、誰にも引き離させたくなかった。
「……アーティ」
アナスタージウスは、もう一度だけ名前を呼んだ。
「ここにいる。だから、安心しなさい」
その声に、アーティは彼の胸元へ顔を埋めた。
そして、かすれた声で、もう一度だけ呟いた。
「……兄、様……」
あまりにも小さな声だった。
周囲の喧騒に紛れてしまいそうなほど。
けれど、アナスタージウスには、確かに聞こえた。
彼の目が、大きく見開かれる。
腕の中の少女は、まだ泣いていた。
彼は何も言わなかった。
ただ、彼女を抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
もう、否定する必要はなかった。
もう、確かめる必要もなかった。
彼女は、ずっと妹だった。
そして自分は、ずっと彼女の兄だった。
二人の間には、長い空白がある。
取り戻せない時間も、知らないまま過ぎてしまった日々もある。
それでも、今ここに、彼女がいる。
アーティが泣き止むまで、アナスタージウスは彼女を離さなかった。
周囲の誰もが、その意味を理解できずにいた。
けれど、二人にとっては、もう何もかもが明らかだった。
卒業式の会場に、王族も、領主も、貴族も、側近もいる。
誰もが二人を見ている。
それなのに、二人の世界には、たった二人しかいなかった。
失われた妹と、妹を失った兄。
長い時間を経て、ようやく触れられた温もり。
そして、もう二度と離れたくないという、言葉にならない願い。
アーティは、アナスタージウスの胸に縋りついたまま、泣き続けた。
彼もまた、彼女の背中を撫で続けた。
卒業式の終わりを告げる鐘の音が、遠くから響いていた。
卒業式の終わりに、失われた妹
アーティの泣き声は、少しずつ小さくなっていった。
アナスタージウスの衣服を握り締めていた指から力が抜け、彼の胸に預けられた小さな頭が、かすかに傾く。
「……アーティ?」
返事はなかった。
泣き疲れたのだろう。涙の跡を頬に残したまま、アーティは眠ってしまっていた。
アナスタージウスは、しばらく動けなかった。
腕の中にいる少女は、あまりにも軽かった。
こんなに小さな身体で、いったいどれほどのものを抱えていたのだろう。
ずっと自分を兄だと知っていたのか。
それとも、今日になって初めて、もう会えなくなるのだと実感したのか。
聞きたいことは山ほどあった。
けれど、眠っている彼女に尋ねることはできない。
「……殿下」
側近が、慎重に声をかけた。
「恐れながら、そろそろ状況の整理を。各領地の方々も、説明を求めておられます」
アナスタージウスは、返事をしなかった。
腕の中のアーティを見下ろす。
このまま連れて帰りたい。
自分の部屋で休ませて、目が覚めたら温かいお茶を出してやりたい。
そして、今度こそきちんと話をしたい。
妹だと。
ずっと探していたと。
もう二度と、失いたくないと。
そう告げたかった。
しかし、アーティが望んでいるのは、王族の妹として暮らす未来ではない。
一年近く、二人でお茶をしてきた。
彼女はエーレンフェストの話をするとき、いつも穏やかな顔をしていた。
ハルトムートの愚痴をこぼしながらも、兄を大切に思っていた。
ローゼマインの話になると、声が弾んだ。
神殿で過ごした日々にも、彼女にとってかけがえのない思い出がある。
そして、何より。
アーティは、今の暮らしを幸せだと言った。
アナスタージウスは、それを覚えていた。
自分の妹だからといって、彼女の人生を奪ってよいはずがない。
かつて守れなかった妹を、今度こそ守りたい。
その願いが、彼女の望まない未来を押しつける理由になってはいけないのだ。
「……ハルトムートを呼べ」
「かしこまりました」
やがて、ハルトムートが駆け寄ってきた。
彼はアーティの顔を見るなり、表情を強張らせた。
「アーティ……!」
呼びかけても、妹は目を覚まさない。
「殿下、妹に何があったのですか?」
声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
アナスタージウスは、アーティの身体を支え直した。
渡したくない。
その感情が、胸の奥から湧き上がる。
この腕の中にいるのは、自分の妹だ。
ずっと会いたかった。
もう一度、抱きしめられる日が来るとは思っていなかった。
それでも。
「……泣き疲れて眠っただけだ。身体に異常があるようには見えない」
「なぜ、あれほど泣いていたのですか?」
「それについては、私にもすべてはわからない」
嘘ではなかった。
アナスタージウスは、ゆっくりとハルトムートへ向き直った。
「妹を頼む」
その言葉を口にすることが、ひどく苦しかった。
「……はい?」
「アーティを、そなたに預ける。落ち着ける場所で休ませてやってくれ」
ハルトムートは、困惑したようにアナスタージウスとアーティを見比べた。
なぜ王子が、妹をこれほど大切そうに抱いているのか。
なぜ妹は、王子に縋りついて泣いていたのか。
なぜ、卒業式の会場がこれほど異様な空気に包まれているのか。
わからないことばかりだった。
しかし、今は問い詰めるよりも、妹を休ませることが先だった。
「……お渡しください」
ハルトムートが腕を伸ばす。
アナスタージウスは、一瞬だけ躊躇した。
眠っているアーティの顔を見つめる。
その頬には、まだ涙の跡が残っていた。
「……アーティ」
誰にも聞こえないほど小さな声で、彼は名前を呼んだ。
そして、ゆっくりとハルトムートへ妹を預けた。
アーティの指先が、アナスタージウスの衣服から離れる。
その瞬間、彼は自分の手が空になったことを、ひどく寂しく感じた。
けれど、何も言わなかった。
ハルトムートは妹を慎重に抱き直し、アナスタージウスに深く一礼した。
「妹をお預かりいたします」
その言葉を聞き、アナスタージウスは目を伏せた。
本当は、自分がそう言いたかった。
自分の妹だと。
自分が守るのだと。
けれど、今はまだ、それを口にすることはできなかった。
エーレンフェストの混乱
アーティを抱いたハルトムートが戻ってくると、エーレンフェストの一団は騒然となった。
最初に駆け寄ったのは、フロレンツィアだった。
「ハルトムート、その子は……アーティは大丈夫なのですか?」
「泣き疲れて眠ってしまったようです。殿下のお話では、身体に異常はないとのことですが……」
ハルトムートは、腕の中の妹を見下ろした。
普段のアーティなら、こんな場所で眠ってしまうことはない。
どれほど眠くても、周囲に人がいれば姿勢を正す。
ましてや卒業式の最中に、王族の前で大泣きするなど、彼女自身が最も避けたがることだろう。
それなのに、今日の妹は違った。
あれほど泣いていた。
王族の胸に縋りつき、周囲の視線を一切気にせず、まるで幼い子どものように。
ハルトムートには、それが理解できなかった。
「……アーティが、あのように泣くなんて」
ぽつりと呟いた声は、いつもの理知的な響きを失っていた。
彼は妹を大切にしている。
アーティが神殿で過ごした頃のことも、彼女が人に対して慎重なことも知っている。
無理に聞き出そうとすれば、かえって心を閉ざしてしまうことも。
だから、これまで彼女が話さないことについては、無理に尋ねなかった。
しかし、今日ばかりは違った。
妹は何かを抱えていた。
自分にも言えないほど、大きな何かを。
そして、その何かに関係しているのが、王族のアナスタージウスだということだけは明らかだった。
「ハルトムート」
アウブ・エーレンフェストの低い声がした。
「こちらへ来なさい」
ハルトムートは妹を抱いたまま、アウブの前へ進んだ。
ジルヴェスターは、いつものように軽口を叩く様子もなく、険しい顔でアーティを見ていた。
「何があった?」
「私にも、わかりません」
「殿下に何かされたのか?」
「そのようには見えませんでした。むしろ……」
ハルトムートは言葉を切った。
むしろ、アナスタージウスはアーティを抱きしめ、彼女が泣き止むまで離そうとしなかった。
それは、ただの王族と上級貴族の関係では説明できない光景だった。
しかし、だからといって、何があったのかはわからない。
「……殿下は、妹をとても気にかけておられるようでした」
ジルヴェスターは眉を寄せた。
「それは見ればわかる。問題は、なぜだということだ」
「はい」
「フロレンツィア。アーティの様子を見てやってくれ。目を覚ましたら、本人が話せる範囲で事情を聞こう。無理に問い詰めるな」
「わかりました」
フロレンツィアは心配そうにアーティの頬へ手を伸ばしかけ、そっと引っ込めた。
眠っている少女の顔は、涙で濡れていた。
普段は明るく、時にはいたずら好きで、周囲の人間を振り回すこともあるアーティ。
その彼女が、これほどまでに感情を抑えられなくなった。
何が彼女をそこまで追い詰めたのだろう。
フロレンツィアには、それがわからなかった。
ヴィルフリートも、落ち着かない様子で妹分を見ていた。
「……あの王子と、何かあったのか?」
「今はわからぬ」
ジルヴェスターは短く答えた。
「だが、あの様子を見れば、何もなかったとは思えん」
そして、彼はアーティの顔を見つめた。
「……あの子は、我々に何も言わずに、何を抱えていたのだろうな」
誰も答えられなかった。
その場にいたエーレンフェストの者たちは、皆、アーティを心配していた。
しかし同時に、王族との関係が領地にどのような影響を及ぼすのか、考えずにはいられなかった。
アナスタージウスは王族だ。
その王族が、一人の少女を人目も憚らず抱きしめた。
それも、卒業式という、各領地の重要人物が一堂に会する場で。
単なる気まぐれで済ませられることではない。
けれど、アーティを政治の道具として扱うことも、エーレンフェストの者たちにはできなかった。
彼女は、彼らにとって大切な仲間なのだから。
問い詰められる王子
一方、アナスタージウスは会場の一室へ移されていた。
卒業式の進行は終わったものの、会場にいた者たちの動揺は収まっていない。
王族が上級貴族の少女を抱きしめ、その少女が王子に縋りついて泣いた。
誰もが、その意味を知りたがっていた。
「アナスタージウス」
父王からの使者に続き、王族や側近たちが集まった。
「先ほどの件について、説明してもらおう」
アナスタージウスは、静かに頷いた。
こうなることは、予想していた。
あの場でアーティを抱きしめれば、必ず説明を求められる。
そして、自分の言葉がどのように受け取られるかも。
「私は、以前からアーティと二人でお茶をしていた」
「二人で?」
「そうだ。昼休みに、静かな場所でな」
その場にいた者たちの間に、ざわめきが広がった。
「なぜ、そのようなことを?」
「彼女と話をしたかったからだ」
「それだけか?」
アナスタージウスは、一瞬だけ目を伏せた。
それから、静かに答えた。
「最初は、そうだった。だが、話を重ねるうちに、お互いを愛おしく思うようになった」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
「……愛おしく?」
「そうだ」
アナスタージウスは、表情を変えなかった。
「彼女は、エーレンフェストから離れたくないと言っていた。今の暮らしを大切にしている。だから、貴族院を卒業すれば、今までのように会うことはやめようと考えていた」
嘘ではない。
アーティは、エーレンフェストにいたいのだ。
ハルトムートの妹として。
ローゼマインの側近として。
自分の大切な人たちに囲まれた暮らしを続けたいのだ。
アナスタージウスは、それを知っていた。
「だが、今日、彼女は泣いた。……私も、あの姿を見て、どうしても放っておけなかった」
「つまり、そなたたちは恋仲だったということか?」
アナスタージウスは、すぐには答えなかった。
彼が口にした言葉は、すべて事実だった。
二人でお茶をした。
お互いを愛おしく思っていた。
アーティはエーレンフェストを離れたくない。
卒業後は、今までのような時間を過ごせなくなる。
そして、彼女は泣いた。
アナスタージウスも、彼女を失いたくなかった。
どれ一つとして、嘘はない。
しかし、彼は意図的に、一番重要なことを語らなかった。
二人が兄妹であること。
アーティが彼を兄と呼んだこと。
そして、彼女が自分の腕の中で泣いた理由。
それを説明すれば、アーティの人生は変わってしまう。
王族の血縁者として扱われ、今までの生活を失う可能性がある。
だから、彼は沈黙を選んだ。
「……彼女は、私にとって大切な存在だ」
アナスタージウスは、そうだけ答えた。
その言葉を聞いた周囲は、勝手に結論を出していった。
王族と上級貴族の少女。
密かに二人で会い、互いに惹かれ合っていた。
しかし少女は十歳。
あまりにも幼い。
王族の恋愛としても、貴族社会の関係としても、問題は多い。
「まさか、十歳の少女と……?」
「卒業後も会おうとしていたのか?」
「エーレンフェストは、この関係を知っていたのか?」
問いが次々に飛び交う。
アナスタージウスは、すべてを聞きながら、反論しなかった。
誤解されることは予想していた。
むしろ、その誤解こそが、アーティを守るための盾になると考えていた。
二人の関係が恋愛だと思われれば、周囲は彼女を王族の妹として調べようとはしないだろう。
彼女がなぜ自分に縋りついたのかも、恋愛感情によるものだと解釈するはずだ。
もちろん、その結果としてエグランティーヌが傷つく可能性もある。
彼女は、自分の大切なパートナーだ。
犠牲にしたくない相手だった。
それでも、アナスタージウスは決めていた。
もう、あのときの後悔を繰り返さない。
守れなかった妹を、今度こそ守る。
そのためなら、自分が悪く思われることも、周囲に誤解されることも受け入れる。
彼は、静かに顔を上げた。
「彼女の意思を無視して、何かを強いたことはない。今後も、本人の望まないことをさせるつもりはない」
それだけは、はっきりと言った。
エグランティーヌの気づき
エグランティーヌは、周囲の騒ぎを静かに聞いていた。
彼女には、アナスタージウスが何かを隠していることがわかった。
しかし、それは自分に対する裏切りではない。
むしろ、誰かを守ろうとしている。
そう感じた。
エグランティーヌは、以前、アナスタージウスとアーティが二人でお茶をしているところを見かけたことがあった。
木々に囲まれた東屋で、二人は向かい合って座っていた。
アナスタージウスが何かを尋ね、アーティが答える。
アーティが話し終えると、彼は穏やかに頷く。
特別に親密な仕草があったわけではない。
けれど、その光景は不思議なほど自然だった。
まるで、長い間一緒に過ごしてきた家族のように。
エグランティーヌは、そのとき微笑ましく思った。
アナスタージウスが、あんなにも穏やかな顔をするのは珍しかったからだ。
今、彼がアーティを抱きしめていた姿を思い返す。
あれは、恋人を慰める姿とは違っていた。
もっと切実で、もっと深い。
まるで、失われたものが戻ってきたときのような。
そこで、エグランティーヌの脳裏に、古い記憶が蘇った。
かつて、王族にはアナスタージウスの妹がいた。
魔力が多く、洗礼式を迎える前に姿を消した少女。
幼すぎたため、エグランティーヌ自身がその子と深く関わったわけではない。
けれど、王族の一員として、その存在は知っていた。
そして、アーティもまた、洗礼式前に行方がわからなくなり、神殿で過ごした過去を持っている。
もちろん、それだけで同一人物だと断定することはできない。
しかし、二人の姿を見た今、エグランティーヌには一つの可能性が浮かんでいた。
――この二人は、兄妹なのではないか。
アナスタージウスが、アーティを見つめるときの眼差し。
アーティが、彼に縋りついて泣いた姿。
そして、彼が彼女を抱きしめたときの、あの迷いのなさ。
すべてが、エグランティーヌの中で一つにつながった。
彼は、恋愛感情だけであのように動いたのではない。
失われた妹を、ようやく見つけたのではないだろうか。
エグランティーヌは、胸の奥が静かに痛むのを感じた。
アナスタージウスが、なぜ真実を語らないのか。
それは、アーティを守るためなのだろう。
彼女が今の生活を望んでいると知っているから。
王族の一員として迎えれば、彼女の人生が大きく変わってしまうから。
そして、彼はかつて守れなかった妹を、もう一度失いたくないのだ。
エグランティーヌは、彼を責めることができなかった。
ただ、彼が一人でその重荷を背負おうとしていることが、少しだけ悲しかった。
目を覚ましたアーティ
しばらくして、アーティは目を覚ました。
知らない天井だった。
柔らかな寝台。
静かな部屋。
窓から差し込む光。
一瞬、どこにいるのかわからず、ぼんやりと周囲を見回した。
それから、記憶が戻ってきた。
卒業式。
奉納舞。
アナスタージウス。
そして、泣きながら彼に縋りついたこと。
「……っ」
アーティは勢いよく起き上がった。
「わ、わたくし……!」
思わず声が漏れる。
何をしてしまったのだろう。
卒業式には、各領地の領主一族がいた。
王族もいた。
その前で、自分はアナスタージウスに抱きついて、大泣きした。
しかも、兄様と呼んでしまった。
「……どうしよう」
顔から血の気が引いた。
あの場にいた人たちは、どう思っただろう。
アナスタージウスは、何と説明したのだろう。
ハルトムートは?
アウブ・エーレンフェストは?
ローゼマインがあの場にいなかったことが、せめてもの救いだった。
けれど、すぐに別の考えが浮かんだ。
これから、どうなるのだろう。
アナスタージウスと二人でお茶をする時間は、もう終わった。
そう思って泣いたのに。
その最後の日に、あんなことをしてしまった。
これでは、もう二人きりで会うことなどできないかもしれない。
周囲に誤解され、王族との関係を問題にされ、エーレンフェストにも迷惑をかける。
そして何より。
もし、自分がアナスタージウスの妹だと知られてしまったら。
自分は、どうなるのだろう。
王族として暮らすことになるのだろうか。
エーレンフェストから離れることになるのだろうか。
ハルトムートと、ローゼマインと、今までの仲間たちと。
離れなければならなくなるのだろうか。
「……いや」
アーティは、寝台の上で首を振った。
それだけは嫌だった。
アナスタージウスは、大切な人だ。
大好きな兄だ。
もう一度会えたことは、何にも代えがたいほど嬉しい。
けれど、自分はエーレンフェストを離れたくない。
ハルトムートの妹でいたい。
ローゼマインの側近でいたい。
今まで築いてきた暮らしを、失いたくない。
どちらか一方を選ばなければならないのなら。
自分は、どうすればいいのだろう。
アーティは、震える手で顔を覆った。
泣いている場合ではない。
考えなければ。
このままここにいて、誰かに見つかれば、また何かを尋ねられる。
今の自分には、何も答えられない。
だから、逃げるしかなかった。
アーティは寝台から降りると、身支度を整えた。
幸い、部屋の外には誰もいない。
彼女は騎獣を呼び出し、窓から外へ出た。
向かう先は、一つしかなかった。
エーレンフェストの神殿。
自分がかつて過ごした場所。
そして、ローゼマインがいる場所。
アーティは、騎獣を走らせた。
風が頬を打つ。
目の奥が熱い。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
今は、誰にも会いたくない。
誰にも何も聞かれたくない。
ただ、帰りたかった。
自分の居場所へ。
自分が、自分のままでいられる場所へ。
アーティは、神殿へ向かって飛び続けた。
その胸には、二つの願いがあった。
兄と、これからも一緒にいたい。
そして、エーレンフェストから離れたくない。
どちらも、本当の気持ちだった。
だからこそ、アーティには、どうすればいいのかわからなかった。
騒ぎが一段落した頃には、貴族院の空気もようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
けれど、アナスタージウスの心は少しも落ち着いていなかった。
アーティが泣き崩れた理由。 自分を「兄様」と呼んだ声。 そして、眠ってしまった彼女をハルトムートに託したときの、あの小さな手の感触。
何度思い返しても、胸の奥が締めつけられる。
彼女を王族に引き戻さない。
そう決めたのは自分だ。アーティがエーレンフェストで築いてきた暮らしを守るために。自分の都合で、もう一度彼女の人生を奪うわけにはいかなかった。
だからこそ、彼女が目を覚ましたあと、どこで、どんな気持ちで過ごしているのか。それだけでも知りたかった。
アナスタージウスは、ようやく見つけたハルトムートに声をかけた。
「ハルトムート。アーティの様子はどうだ?」
ハルトムートは一瞬、答えに迷ったように視線を揺らした。
「……申し訳ありません。私も、まだ把握できておりません」
「何?」
「騒ぎの後、アーティの側近たちも護衛騎士たちも、それぞれの対応に追われておりました。誰が彼女についているのか、どこで休ませるのか。その連携がうまく取れていなかったようです」
アナスタージウスの表情が変わった。
「それで?」
「先ほど確認したところ、アーティには一人の護衛も側仕えもついていなかったと」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
あれほどの騒ぎを起こした直後の、十歳の少女だ。
大勢の貴族や王族の視線を浴び、泣き疲れて眠ってしまった。そのうえ、目を覚ませば自分の行動がどれほどの問題になったのかと怯えているに違いない。
そんな彼女を、一人きりにしたというのか。
「……どこにいる」
「まだ確認できておりません。急いで探しております」
アナスタージウスは返事を待たずに歩き出した。
「殿下、お待ちください!」
「待てるものか!」
思わず声が荒くなった。
彼女がどこにいるのか分からない。
ただそれだけのことが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
アーティが眠っていた部屋へ向かう。廊下を進む足が、知らず知らずのうちに速くなる。
頼むから、そこにいてくれ。
せめて、誰かのそばにいてくれ。
扉の前に着くと、アナスタージウスは自ら扉を開けた。
「アーティ?」
返事はなかった。
寝台には、彼女が使った形跡が残っている。けれど、そこに小さな姿はなかった。
室内を見回す。
隣の部屋も、窓辺も、衝立の向こうも。
いない。
「……アーティ?」
今度は、先ほどよりも小さな声だった。
もちろん、返事はない。
アナスタージウスの背後で、ハルトムートが息を呑んだ。
「そんな……」
彼は部屋を飛び出すと、廊下に控えていた側近たちを振り返った。
「アーティの側近と護衛騎士はどこだ!」
「はっ、現在捜索を――」
「なぜ彼女から目を離した!」
普段の彼なら、怒りをそのまま表に出すことはしない。ましてや、これほど多くの人間の前で声を荒らげるなど、彼らしくなかった。
しかし今は違った。
「殿下の前であれほどの騒ぎがあったのだぞ! 彼女がどれほど動揺しているか、考えなかったのか!」
「申し訳ございません。殿下への対応と、各領地への説明に人員が割かれ、引き継ぎが――」
「言い訳は聞いていない!」
ハルトムートの声が廊下に響いた。
「今さら連携ミスだったと言われても、アーティがいなくなった事実は変わらない!」
護衛騎士は深く頭を下げた。
誰も、反論できなかった。
彼らの説明は間違いではないのだろう。騒ぎが大きすぎた。対応すべきことが多すぎた。誰もが目の前の問題を片づけることに追われ、結果として、一番気にかけるべき少女を一人にしてしまった。
だが、それが分かったところで、何になる。
今、アーティがどこにいるのか。
誰も知らないのだ。
「……騎獣を使った可能性は?」
アナスタージウスが、ようやく口を開いた。
ハルトムートは振り返った。
「アーティの騎獣は速いものです。もし自分の意思で飛び立ったのであれば、すでにかなりの距離を移動しているかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、アナスタージウスの顔から血の気が引いた。
自分の意思で。
つまり、誰にも告げずに。
誰の助けも借りずに。
彼女は、ここからいなくなったのだ。
「……探せ」
アナスタージウスは、絞り出すように命じた。
「貴族院の敷地内だけではない。エーレンフェストの者たちにも連絡しろ。彼女が向かいそうな場所を、一つ残らず確認するんだ」
「承知しました」
人々が慌ただしく動き始める。
ハルトムートもすぐに指示を出し始めた。アーティが親しんでいる場所、普段なら逃げ込む場所、彼女の性格から考えられる行き先。
彼は誰よりも妹を知っているつもりだった。
けれど、今は何も確信が持てなかった。
あの子は、つらいときほど何も言わずに笑おうとする。
助けてほしいときでさえ、誰かの迷惑になることを恐れてしまう。
そして、一度逃げると決めたら、驚くほど大胆な行動に出ることがある。
「アーティ……どこに行ったんだ」
ハルトムートの呟きは、誰にも届かなかった。
一方、アナスタージウスは、空になった部屋から動けずにいた。
彼女の姿がない。
たったそれだけのことなのに、目の前の景色がひどく遠く感じられた。
あの子は、自分の前で初めて泣いた。
大勢の人間が見ていることも忘れて、自分にしがみついた。
そして、確かに呼んだのだ。
兄様、と。
あれほど長い間、もう二度と聞けないと思っていた呼び方を。
幼い頃、庭園で自分を見上げていた少女。
小さな手で自分の袖をつかみ、名前を呼んでほしいとせがんだ少女。
洗礼式を迎える前に、突然いなくなった妹。
あの日から、彼女が生きているという確かな証拠は何もなかった。
生きていてほしいと願いながら、どこかで、もう会えないのだと諦めようとしていた。
それなのに。
ようやく再会できた。
自分の目の前で笑う彼女を見つけた。
一緒にお茶を飲み、くだらない話を聞き、彼女が少しずつ心を開いてくれるのを待つことができた。
もう一度、妹を失わずに済むかもしれない。
そう思っていたのに。
「……また、なのか」
声が掠れた。
指先が冷たくなる。
胸の奥に、忘れたはずの感覚が蘇ってきた。
何をしても届かない。
どこにいるのか分からない。
自分の力では、彼女を守ることも、見つけることもできない。
あの頃と同じだった。
洗礼式の前、アーティがいなくなったと知らされた日のこと。
何度も名前を呼んだ。
どこを探せばいいのか分からず、誰に尋ねても、返ってくるのは曖昧な答えばかりだった。
王族である自分には、何でもできると思っていた。
けれど、たった一人の妹を見つけることすらできなかった。
その無力さを、もう二度と味わいたくなかった。
それなのに、今また。
「殿下……」
側近が慎重に声をかけた。
アナスタージウスは答えなかった。
彼女を王族として取り戻そうとは思っていない。
エーレンフェストでの暮らしを奪うつもりもない。
ただ、無事でいてほしかった。
どこかで泣いているのなら、せめて一人ではいてほしくなかった。
自分から逃げたのだとしても、それで構わない。
自分に会いたくないのなら、無理に会わせようとは思わない。
だから、お願いだから。
無事でいてくれ。
「……アーティ」
誰もいない部屋で、アナスタージウスは妹の名を呼んだ。
返事はなかった。
その静寂が、かつて妹を失った日の絶望を、容赦なく呼び起こしていた。
コメント
1件
うわあ……めちゃくちゃ胸にきました。卒業式でアーティが抑えきれずに泣き崩れるシーン、感情がひしひしと伝わってきてこちらまで切なくなりました。特に「兄様」と呼びたいのに呼べないもどかしさと、アナスタージウスがそれを受け止めて抱きしめる流れが美しくて。身分や立場に縛られた関係だからこそ、あの瞬間の二人は特別だったんだろうなと思います。連載中の最新話という感じですが、ここからの展開が気になって仕方ないです…!
世利里🗝️🫧🖤
112
#🐢超えて🐌超えて🦥投稿
アイリス🌙
3,255