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吐息が白く染まる夜。吐き出された白い煙は、冷たい空気に溶けてすぐに消えていく。
その瞬間、僕はなぜか胸が締め付けられるような感覚に襲われた。君の手をそっと包み込むと、かすかに震えているのがわかった。指先の冷たさが心の奥に染み渡る。
「もうすぐだね。」
君が唐突に口を開いた。まるで、自分の手の震えを隠すかのように。
「そうだね。ここまで長かったよね。ほんとに。」
僕は強く君の手を握り返した。冷えきった君の手が少しでも温まるように。いや、本当はそうじゃない。僕のほうが、この手を離してしまいそうで怖かったんだ。
1歩…2歩…3歩…
雪がうっすらと積もった道を、君はゆっくりと歩みを進める。ペースは遅いはずなのに、足取りには迷いがない。君の背中に、これまで抱えてきた決意がはっきりと見えるようだった。
一方で、僕の足はまるで鉛のように重い。いや、それだけじゃない。足元が崩れていくような、そんな感覚すらあった。
「なんでこんなに怖いんだろう。」
心の中で何度もつぶやき、何度も答えを探す。それでも、答えなんて見つかるはずがない。
ふいに、君が鼻をすすった。少し恥ずかしそうな仕草に、僕はハッとした。
「私ね、ずっと楽しみにしてたんだよ。今日のこと。」
君の声は少し震えていたけど、それでも笑顔が浮かんでいるのが分かった。
「え?どうしてだい?」
咄嗟に聞き返してしまう。僕の悪い癖だ。
「ひっどい。ずっと見たかった景色を久しぶりに見れるんだよ?また来ようねって言って何年経ったと思ってんのよ…」
君は少しふくれっ面をして、左手でピアスを触った。昔からそうだ。君が拗ねたとき、必ずその仕草をする。
本当は分かっている。君がこの日をどれだけ待ち望んでいたのか。どれだけの想いを抱えてここまでやって来たのか。
でも、それを考えるたびに、僕の胸は締め付けられ、足元の重さがさらに増していく。
「ねえ。」
突然、君が立ち止まった。振り返ったその顔は、少し赤らんでいるように見えた。寒さのせいなのか、それとも…?
「どうしたの?」
僕がそう問いかけると、君は少し言葉を詰まらせた後、静かに呟いた。
「私ね、ここに来るのが怖かったんだ。」
その言葉に、一瞬息が詰まる。
「怖かった?」
僕の声は、気づかないうちに震えていた。
「うん。でも、君が一緒なら大丈夫だって思ったの。」
君の言葉が、冷たい空気に溶けていく。
僕には分からない。この言葉が君の本心の全てなのか、それとも僕を安心させるためのものなのか。
ただ一つ分かるのは、君がどれだけの重圧を抱えているかだ。
『大丈夫。いつだって君となら、どんなことでも乗り越えてこれたじゃないか。』
自分にそう言い聞かせ、心の中で繰り返す。
もう一度、君の手を握り締めた。その手が少しでも温かさを取り戻すように。そして、自分の震えをごまかすために。
「あと少しだよね。」
君がそう言うと、僕はただ小さく頷いた。
あと少し。この道を進んだ先で、僕らは何を見るのだろう。
「それにしても、本当にいいのかい?よりにもよってここでだなんて…」
僕の言葉に、君がピタッと立ち止まる。振り返ったその顔には、少しムッとした表情が浮かんでいる。
「よりにもよって…って何よ。私はここがよかったの。」
君は少し頬を膨らませ、子供のように僕を睨む。何度目だろう、君を怒らせるのは。長い時間を一緒に過ごしてきたはずなのに、こういうところは一向に学習できないままだ。
「だってね、私が人生でいっちばん好きな場所なんだよ。」
「へぇ〜、そうなんだ。」
また適当な相槌をしてしまう。言葉の中身よりも、君がこれほどまでにこの場所に思い入れを持っていることが意外で、つい気のない返事になったのだ。
君は呆れたように溜め息をつくと、歩みを再開しながら小さな声で続けた。
「私ね、思い出の場所ってここしか残ってないんだ。」
その言葉に、僕は思わず足を止める。
「え?どういうこと?」
少し間を置いて、君が振り返った。肩越しに見える表情は、どこか遠い記憶に触れているようで、少しだけ寂しげだった。
「私の思い出の場所はね、おばあちゃんちと、おばあちゃんとよく行った遊園地だったの。でも、もう随分と前になくなっちゃった。」
「遊園地?」
「そう。子供の頃、いつもおばあちゃんが連れて行ってくれた場所。観覧車に乗ったり、お菓子を買ってもらったり…本当に楽しかったんだ。でも、私が大人になる前に閉園しちゃって。それから、おばあちゃんもいなくなった。」
君の声は静かで、それでも確かに揺れていた。僕はどう返事をしたらいいのか分からず、ただ君の話に耳を傾け続けた。
「ここが好きな理由、分かる?」
君はふいに微笑む。それはどこか、諦めと愛しさが入り混じったような笑顔だった。
「ここだけなんだよね、私の思い出がまだ残ってる場所って。」
「あれ、君ってそんなにおばあちゃんっ子だったっけ?」
ふとした疑問が口をついて出た。そういえば、君の家族の話をこんなふうにちゃんと聞いたのは初めてかもしれない。
君は小さく笑うと、肩をすくめた。
「そうだね。おばあちゃんっ子っていうより、おばあちゃんが私の全てだったのかも。」
その言葉に、胸の奥がざわついた。今まで気づけなかった君の姿が、ぼんやりと形を成し始める。
「今日だけ、私の話聞いてもらってもいい?」
君が少し不安そうに僕を見つめる。言葉にしなくても、君の気持ちが痛いほど伝わる瞬間だった。
「もちろんだよ。聞かせて。君の話。」
僕がそう答えると、君は小さく頷き、ゆっくりと微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、僕の胸が一気に熱くなった。
どれくらいぶりだろう。君がこんなふうに笑う姿を見るのは―――。