テラーノベル
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咲人が一歳の誕生日を迎え、季節は巡って夏。
目前には、雅の誕生日が控えていた。
生後半年を過ぎたあたりから、咲人の夜寝る時間が少しずつ長くなっていった。それに合わせるように雅も職場復帰をしている。
今日はたまたま、雅が颯くんに呼び出され「昼から少し出てくる」という言葉を見送った瞬間を狙い、私は咲人を抱っこ紐で固定して家を出た。
目的は、雅への誕生日プレゼント。
何にしようか悩みつつも、まずは街へ出ようと電車に揺られて駅まで向かう。車内では咲人がぐずることもなく、ホームに降り立ったときには「泣かなくてよかった……」と大きなため息が漏れた。
だけど、改札を出た瞬間に後悔が襲う。最近の移動はもっぱら車だったから、人混みを歩くだけで体力が削られていく。おまけに今日は土曜日。どこを見渡しても人で溢れかえっていた。
早く買って帰らなきゃ、雅に「どこに行ってた?」と根掘り葉掘り探られる。帰りは贅沢にタクシーを使おうと、そう心に決め、目星をつけていた店をきょろきょろと探し回る。
「あー」
「人多いね。もう少し我慢してね」
小さな声を上げた咲人の頭をそっと撫でる。
一歳になり、少しなら歩けるようにはなったけれど、この人混みの中で歩かせるわけにもいかず、立ち往生を避けるために選んだ抱っこ紐だったが、夏場にはこれが仇となる。
保冷剤を忍ばせ、クールビズを意識した格好をさせていても、密着している部分がじりじりと熱い。咲人も苦しいのか、時折手足をバタバタとさせて不快感を露わにする。
一刻も早くプレゼントを選んで、この熱気から咲人を連れ出してあげたかった。
香水ショップで雅に似合いそうな香りと、それから服を数着選び終えると、私は逃げるように駅前へと戻ってきた。
咲人のぐずり具合も限界に近い。一刻も早く帰らなければ、とタクシー乗り場を求めて周囲を見渡した、その時だった。視界の端に、見覚えのある後ろ姿を捉えた。
「……え?」
今日、颯くんに呼び出されたと言って出て行ったはずの、雅だった。
だけど、彼の隣に颯くんの姿はない。代わりにいたのは、雅の腕にぴったりと自分の腕を絡め、親密そうに雅を見上げ話し掛ける女性だった。
雅も笑顔を向け、何かを話すと、女性がそれに応えて笑顔になる。
(……え? 誰?)
浮気、という言葉が脳裏をよぎるけれど、私と再会してからこれまでの彼のことを考えれば、裏切るなんてあり得ないはず。ましてや、咲人が生まれてから今に至るまで、あんなに過保護だった彼が、そんな事をするとは思えなかった。
問い詰めたい。今すぐ説明を求めたい。
だけど、抱っこ紐の中の咲人がついに本格的な泣き声を上げ始めた。
今は、この子を優先しなければならない。私は震える手でスマートフォンを取り出すと、証拠を残すようにその背中を写真に収め、タクシー乗り場へと急いだ。
何で? 颯くんは?
不安と怒りが渦巻く。
帰宅した雅に、一体どんな顔をして、どんな言葉を投げつければいいのか、今の私には何も考えられなかった。
まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
帰宅した咲人はよほど眠かったのか、着替えさせる間もなく深い眠りに落ちた。
寝かしつけを終えた私は、キッチンの椅子に座り考え込んでいた。
目の前のテーブルにはスマートフォン。
画面には、先ほど撮ったばかりの、あの女性と雅の姿が映し出されている。
咲人のことは今も変わらず可愛がってくれているし、子供に恥じる父親になりたくないという過去の発言に嘘があるようには見えない。私に対する執着だって相変わらず重め。そんな人が、この期に及んで浮気をするなんて、普通に考えればあり得ない。
だとしたら、颯くんではなくあの女性と親密そうにしていたのは、一体なぜ?
雅は今日、あのままバーの仕事に行くと連絡があった。だから、夜中まで帰ってこない。
あの目撃した時間なら、すでに颯くんと合流していてもおかしくないはずなのに、隣にいたのは、知らない綺麗な女性。
信じているはずなのに、最悪のパターンが頭をかすめる。
もし、本当に浮気だったら?
あんな人通りの多い場所で立ち止まって話なんてする?
そもそも、雅が浮気をする理由なんて……。
そこまで考えを巡らせて、一つの結論に辿り着いた。
「……あ。最後にしたの、いつだっけ」
ここ最近、雅と夜の営みを持った記憶が、綺麗さっぱり抜け落ちている。
あの性欲の塊のような男と、まともにシていなかったから…?
そこまで考えてハッとしたけれど、いくらなんでもそんな理由で裏切るようなクズには、最近の彼は成り下がっていないはずだと、そう信じたい。
私は大きく首を横に振り、重い溜息を吐き出した。
もし本当に雅が浮気をしていたら、私はどうするのだろう。
きっと、即座に実家へ帰って荷物を整理し、養育費も慰謝料もいらないと言い放って離婚を叩きつける 咲人にそんな人を父親だなんて思わせたくない、というプライドを盾にして、実家を頼りながら二人で生きていく道を選ぶはず。
頑固な私なら、きっと、そう行動してしまう。
行動は固まっているけれど、その時、私の感情はどうなるのだろう。
やっぱり好きだと許してしまう気もするし、咲人のためだと言い聞かせ、意地になって彼と向き合うことを拒絶し続けるような気もする。
もちろん、浮気を確信したわけじゃない。仕事の時もそうだが、まず最悪のケースを想像しておくことで、いざという時のダメージを最小限に抑えようとしている。
まだ信じているから、どうかただの勘違いであってほしいと願っている。
雅のLINE画面を呼び出してみたが、新着メッセージは一通も入っていない。颯くんの連絡先も知らないから、外側から探りを入れる術もない。
考えても答えが出ない思考に、重い溜息が漏れる。
そのまま私はダイニングテーブルに力なく突っ伏した。
結婚すれば安泰だなんて思っていたわけじゃないけれど。
こんな面倒な思いを、まだ繰り返さなきゃいけないなんて聞いていない。
結局、一睡もできなかった。
咲人を寝かしつけた後も、暗いリビングでスマートフォンで昼間の写真を見ながら、ぐるぐると同じことばかりを考え続けていた。
午前二時。玄関先のセンサーライトが反応し明かりが点く。
固まったまま玄関の方を見ていると、手を洗ってリビングに入ってきた雅が、暗闇に座る私の姿を見て目を見開いた。
「びっ、くり。何してんの。電気も点けないで。起きてんの珍し」
雅が壁のスイッチを押し、リビングに煌々と明かりが灯る。
眩しさに目を細めている間に、雅が不審げな顔でこちらに近づいてきた。
その瞬間、私は椅子から立ち上がり、雅の胸元に飛び込むようにして抱きついた。匂いはいつもの煙草の残り香と、雅が愛用している洗剤の匂い。知らないシャンプーの匂いもしなければ、女の香水の残り香もしない。
雅は私の行動を拒みはしなかったが、眉間に深い皺を寄せて私を見下ろした。
「は? 何なの、夏帆。何か喋れよ。気持ち悪」
「……昨日、本当に颯くんだった?」
私の問い掛けに更に眉間の皺を寄せて首を傾げている。
「何その質問。疑われる様な事した覚えはねぇけど」
「本当に無い?」
「何が言いてぇの。颯に電話しなきゃダメ? こんな時間にわざわざたたき起こして、証言させようか?」
雅は苛立ったようにスマートフォンを取り出し、画面をタップし始める。その手を掴んで止めると、雅の視線が、いつになく冷たく私を射抜く。視線がぶつかり合い、気が重くなる様な沈黙が流れた。
答えを聞くのが、怖い。だけど、ここで引くわけにはいかなかった。
「……疲れたんだけど。話なら早くして。俺も何か知らねぇけど疑われたままなの気持ち悪いし。マジで何」
「……言いたくなかったけど、今日咲人と用事があって出掛けたの」
「は? そんな事言ってなかったじゃん。何しに」
「ほら、そうなるから言いたくなかったんだってば!」
あんたの誕生日プレゼントを買いに、なんて口が裂けても言いたくない。
せっかく完璧なサプライズを用意していたのに。
こんな形で、自分の手で台無しにするなんて最悪だ。
だけど、この状況でサプライズが…なんて、悠長なことを言っている場合でもなく、私はもどかしさに唸った。
「ま、いいや。で?」
「あの時間ならとっくに颯くんと集合して会っているはずなのに、あんたの隣に駅前で居たの、女の人だった」
突きつけた事実に、雅は最初ピンと来ていない様子だった。
眉間に皺を寄せ、口元を開け数秒思考を巡らせた後、何かに思い当たると、溜息を吐き出した。
「あー、わかった。颯、あいつ待ち合わせに来たのがそもそも二時間後だったんだよ」
「え?」
「大寝坊の末待たされて、駅前に行ったらバーの常連に会って絡まれた。見たのそれだったんじゃね?」
そう説明されても、はいそうですかと納得できるほど私はおめでたくない。
まだ何も納得できる情報がないからだ。
不服そうな私の表情を見て、雅のイラつきが最高潮に達し「これはたたき起こす権利あるな俺」と言いながら雅は迷わずスマートフォンを操作し、電話をかけた。
静かなリビングに、呼び出し音が響く。やがて繋がったのか、受話器の向こうから男性の声が漏れてきた。
「俺だけど。お前のせいで面倒な事になってるから弁明してくんね?」
そう言いながら私の方をちらっと見て、先程の事情を話している。
雅から差し出されたスマートフォンを、私は困惑しながら受け取り、耳に当てた。
「も、もしもし?」
『たいっっっっへん申し訳ございませんでした』
「へ?」
『まさか俺の大寝坊のせいで雅さんが浮気疑惑なんて事態になっているなんて……。起きたら待ち合わせの一時間半後で、それに帰らず待っててくれただけなんです。雅さん』
電話の向こうで悲鳴のような謝罪を繰り返す颯くんの声を聞きながら、私は雅の方を見た。当の本人は、呑気に自分の爪を眺めており、私の視線に気付くと、小首を傾げていた。
「あ、いや……。こんなことに巻き込んで本当にごめんね。そんなつもりでも無かったというか……」
『後日ぜひお詫びに行かせてください……』
「いやいや、良いから」
苦笑いして電話を切ると、雅は私の腰をぐいと強引に抱き寄せ「気は済んだ?」と至近距離で問いかけられる。
浮気じゃなかったという安堵と、疑ってしまった申し訳なさはある。だけど、あんなに親密な距離感を誰にでも許してしまう雅へのモヤモヤは残っていた。
「……ごめん」
「謝らなくて良いから、吐けよ。あんな人多い場所に夏帆は咲人を連れて何をしてたわけ?」
その話がまだ終わっていないことを、私は今の今まで忘れていた。
気まずさに雅から顔を逸らすが、すぐに顎を掴んでこちらを向かせられる。
逃げ場を完全に塞がれ、私が必死に黙り込んでいても、雅は黒い笑みを浮かべ、離してくれない。
「夏帆ちゃん? 隠し事は無し、じゃね?」
その言い方に圧があって恐ろしく、私は必死に目を逸らす。
どうしても言いたくない私と、どうしても吐かせたい雅の攻防。
そしてそんな事が起きているとも知らずに呑気に寝室で眠っている咲人。
今は起きて、泣いて私を助けてほしい。
「……いえない」
「何で?」
「だから……! 言いたくない事だってある!」
雅の胸元をぐっと押し返すが、びくともしない。
普段ならこれくらいの距離で見つめ合っても平気なのに、今日は顔が火照って仕方がない。
「……いつか、答え合わせ。ちゃんとするから、今は待って」
必死に絞り出した言葉に、雅は少しだけ不満そうな表情を浮かべた。
そのまま仕返しのつもりか、額へ、そして頬や耳元へと、キスを降らせる。擽ったくて、無意識に「ん…」と声が漏れてしまい、慌てて口元を押さえた。
その反応を見た雅の唇が、意地悪く弧を描くと、そのまま私の耳たぶを甘噛みする。
「……ね、ねえ! シャワー! 先に浴びてきたら!?」
なんとか逃れたくて、必死に話題を逸らそうとするけれど、雅はもう逃がす気なんてなさそうだった。
「何? お預け? そういうの逆に燃えるけど。起きててくれんだよね?」
「ね、寝る! 咲人の起床時間早いし……」
「無理、寝んな。起きて待ってて」
そんな甘い言い方ずるい。
久しぶりに跳ね上がった体温が、指先まで痺れさせていった。
「変な疑い掛けた罰。起きてろ」
頬へ口付けを残すと、雅はそのまま浴室へと向かっていった。
なんの心の準備も、覚悟もできていない。
静まり返ったリビングで、私はただ早鐘を打つ鼓動を落ち着かせることしか出来なかった。
雅がシャワーを浴びている間、私はそわそわと落ち着かないまま、ソファの上で体育座りをして両手で頬を押さえていた。顔の熱がちっとも引かない。
咲人が生まれてからというもの、こういう雰囲気の夜は目に見えて減っていた。
実際、睡眠不足でそれどころではなかったし、最近は早起きの咲人に合わせて、休日の前夜でも早々に眠りにつくのが当たり前になっていた。
こんな時間に起きていること自体が珍しくて、いざ意識してしまうと、どうしようもなく緊張してしまう。
抱き合うのも、キスをするのだって、いつ以来かわからない。
先ほどまでの甘い感触を思い出しては、また火照りが強くなる。
ガチャ、とリビングのドアが開く音がして、過敏になっていた身体が跳ねた。
髪を乾かし、いつものラフな部屋着姿になった雅と目が合う。
私は恥ずかしさに耐えきれず、すぐに視線を逸らしてしまった。
「夏帆?」
名前を呼ばれても、どうしてもそちらを向けない。
雅は小さく笑うと、私の隣に座り、肩を抱き寄せてきた。
「その歳になって、何回もこういうことしてんのに、なんなのその初心な反応。まだそんな反応出来るんだ。かわい~」
そのかわい~の言い方は完全に揶揄って来ている。
私がキッと睨み付けると、雅は愛おしくて仕方ないといった瞳で私を見つめ、そのまま額や頬に吸い付くようなキスを落とし、最後に唇を優しく重ね合わせた。
「……今日は、服着たままする? 咲人が夜泣きしたら困るもんな」
「う、うるさいから……!」
「はいはい、てか、二人目そろそろいいんじゃね?」
「……は?」
突然の雅からの二人目宣言に唖然とする。
雅から二人目の話が出るなんて想像もしなくて、思考が止まる。
「咲人の時が間違いとか言わないけどさ、計画性は無かったし、そんでもう一人ぐらい欲しいし、夏帆の仕事で問題がなければ良いんじゃねぇかなって」
雅は唇だけを避け、首筋や鎖骨へと口付けを落としてくる。
そんな甘い行為に、考える余裕なんて一瞬で奪われていく。このまま流されてしまいそうな感覚に抗うように雅の胸を少し押してみたけれど、彼は離れるどころか、私をソファへと押し倒した。
「二人目、欲しいとか、思ってたの?」
「咲人が産まれてからは、もう一人欲しいなとか思ってた。俺に似てるのも可愛いけど、俺はやっぱ子供は夏帆に似た子も欲しいよ」
「それは……、そんなん、わかんないよ……。次も雅に似るかも……?」
「それはそれでいいけど、男だと苦労すんな。偏見で女殴りそうとか言われて」
「ねぇ、笑わせないで」
雅の自虐混じりの冗談に思わず噴き出すと、張り詰めていた緊張がふわりと解けていった。雅も、私の笑顔を見て、優しく微笑みかけてくれる。
私はその顔が、やっぱり好きでたまらない。
自分が今、どれほど穏やかで愛おしそうな表情をしているのか、本人は気付いているのか。
私はそっと手を伸ばし、雅の頬を優しく撫でた。
出会った頃は最低なクズ男だと思っていたのに、こんなにも家族想いの男に変わるなんて、一体どこまでこの男はギャップで私を惚れ直させる気なのか。
大学時代よりも、再会してから交際するまでも、結婚してからの雅のことが、私はずっとずっと、好きになっている。
頬を撫でていた私の手を取り、雅はそのまま自分の頬に密着させた。
「今まで夏帆の仕事の都合とかバカみてぇにうじうじ悩んで言い出せなかったけど、子供ってやっぱいいな。夏帆の一部が入ってるってだけですげぇ可愛い」
「……ってる?」
「最近酒飲んでないの知ってんだろ。」
「あんたが素直な時酔ってる時しかなかったから」
「年取ったんじゃね?」
そんなの、耐えられない。こうして触れ合うたびに降り注ぐ甘さに、胸が苦しくなって、どうしようもなくなる。
雅が私の仕事を尊重して、思いやってくれていたことが、何よりも嬉しかった。
「……女の子がいいな」
「俺もそう思う」
二人で小さく笑い合い、それから、今までずっと堪えていたとでも言うように、雅は深く唇を重ねてきた。
言葉にしなかっただけで、彼はずっと求めてくれていた。
言わなくても伝わってくるその事実が、たまらなく愛おしい。
咲人のために、煙草もアルコールもやめてくれた。初めての育児に戸惑う私を支えるために育休を取ってくれた。
そんな雅だからこそ、私は何の不安もなく、未来を信じていられる。
重なっていた唇が離れ、至近距離で見つめ合う。
私はたまらなくなって彼の首の後ろに腕を回し、精一杯抱きついた。
「大好き」
数秒の、無音の時間が流れた。
雅は何も言わなかったけれど、私を抱きしめる腕の力はより一層強くなる。大きな掌が、優しく撫でた。
照れているのか、言葉としては返ってこない。表情だって見えない。
でも、聞こえなくたって、見えなくたって、彼の気持ちは行動で伝わってきている。
────ずっとずっと、傍に居る。何があっても。
コメント
1件
ひぃ〜〜〜!!!もうね、最初の浮気疑惑で心臓どっか飛んでったかと思ったんだけど!!😱💦 颯くんの大寝坊が原因だってわかってからは「ああもう!!じらすなあ!!」って叫んじゃったよ笑 二人目の話とか、普段酔わないと素直にならない雅が仕事のこと考えてくれてたエピソードとか…もう反則でしょこのギャップ!!❤️🔥 最後の「ずっとずっと、傍に居る」っていう言葉が刺さりすぎて、読み終わったあとしばらく放心しちゃった…😭💕 陽瀬さん、この話も最高でした!!次の展開も楽しみにしてます!✨