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第三十話 芽吹く願い、余白の家
別れの翌日は、忙しかった。
寂しさに浸る暇がないほど、やることがあった。
願いの畑の巡回。
願録聖堂の監査。
鷺宮玄礼の監視。
ユイとミライの生活訓練。
イリヤの霊基安定化。
メドゥーサとメディアの現界維持術式の調整。
冬木霊脈の変動記録。
そして、衛宮邸の朝食、昼食、夕食。
最後の一つが一番現実的で、一番手を抜けなかった。
誰かがいなくなっても、腹は減る。
寂しくても、米は炊く。
空席があっても、味噌汁は温かい方がいい。
その当たり前を続けることが、今の士郎たちにとって最初の後始末だった。
◆
朝の衛宮邸。
凛は座卓の前に座り、宝石板と紙の予定表を並べていた。
「というわけで、今日から当面は班分けして動くわ」
士郎は味噌汁をよそいながら聞いている。
「班分け?」
「そう。全部を全員で回ってたら効率が悪すぎる」
凛は指を一本立てた。
「第一班、願いの畑。士郎、イリヤ、ユイ、ミライ。ヘラクレスの守護結界と願いの種の状態確認」
イリヤは卵焼きを切り分けながら頷く。
「バーサーカーにも挨拶する」
ユイも真似して頷いた。
「寝てる願いを起こさない」
ミライが記録帳へ書き込む。
「第一班任務、願望種休眠確認、ヘラクレス結界観測、イリヤ卵焼き報告」
士郎が言う。
「最後の、任務なのか?」
イリヤは真剣な顔で答える。
「任務だよ」
「そっか。任務なら仕方ないな」
凛は二本目の指を立てる。
「第二班、願録聖堂。私、メディア、玄礼の監視付き。送別頁と余白頁の安定確認」
メディアは湯呑みを持ちながら肩をすくめる。
「私は監査役というより、問題が起きた時の処理係ね」
「そうとも言うわ」
「素直でよろしい」
凛は三本目の指を立てる。
「第三班、衛宮邸周辺と桜の補助術式。桜、メドゥーサ。庭の芽の観察もお願い」
桜は静かに頷く。
「分かりました」
メドゥーサもその隣で頷く。
「サクラの負担が増えすぎないよう、私も確認します」
凛は予定表を叩いた。
「そして全員共通。異常が出たら一人で抱えない。必ず連絡すること」
その視線が士郎に刺さる。
士郎は苦笑した。
「なんで俺を見るんだよ」
凛、イリヤ、桜、メディア、メドゥーサ、ユイ、ミライ。
全員が士郎を見た。
士郎は黙った。
「……分かった。連絡する」
ミライが即座に記録する。
「衛宮士郎、一人で抱えない宣言。監視対象」
「監視対象って」
ユイが真面目に言う。
「大事」
イリヤも頷く。
「大事」
凛が満足そうに腕を組む。
「ほら、満場一致」
士郎は味噌汁を置きながら、小さくため息をついた。
けれど、嫌ではなかった。
止めてくれる人がいる。
それは、アーチャーが最後に言った言葉の続きでもあった。
一人で進むな。
その言葉は、まだ胸に残っている。
◆
柳洞寺地下へ降りる道は、すでに見慣れたものになりつつあった。
かつては神杯の根が這い、黒い願望炉へ続いていた場所。
今は、淡い金色の筋が壁を走り、願いの畑へ向かう通路として静かに息づいている。
士郎、イリヤ、ユイ、ミライの四人は、ゆっくり歩いていた。
イリヤの手には、今日の卵焼きが入った包みがある。
ユイは通路の壁を見つめながら言った。
「ここ、前より怖くない」
士郎は頷く。
「そうだな」
ミライが壁の光を観測する。
「願望種の休眠波長、安定。恐怖感応反応、低下傾向」
イリヤが笑う。
「ミライの言い方だと難しいけど、ここも少し落ち着いたってことだよね」
「肯定」
ユイが壁の光へ手を伸ばしかけて、止める。
「寝てるから、触らない」
「うん。えらい」
イリヤがそう言うと、ユイは少しだけ嬉しそうにした。
願いの畑へ着くと、ヘラクレスの守護結界がいつものように淡く光った。
巨大な樹影のような輪郭。
斧剣の形をした結界核。
土の下で眠る無数の願いの種。
イリヤは巨人の前に立つ。
「バーサーカー、おはよう」
光が揺れる。
イリヤは包みを開けた。
「今日の卵焼き。昨日よりちょっと甘さ控えめ。凛が“英雄王基準にしすぎ”って言ってたから」
士郎は思わず笑った。
ユイも卵焼きを見て言う。
「甘さ控えめ。成長?」
ミライが記録する。
「イリヤ料理技能、嗜好調整段階へ移行」
イリヤは少し得意げに頷く。
「料理って奥が深いね」
その時だった。
願いの畑の端で、小さな光が弾けた。
士郎は即座に振り返る。
「何だ?」
ミライが目を細める。
「願望種、一つ発芽反応」
イリヤの顔が強張る。
「芽吹いたの?」
ユイは胸を押さえた。
「起きちゃった?」
ヘラクレスの守護結界が淡く光り、畑全体を包む。
暴走ではない。
だが、確かに一つの願いの種が、土の中から小さな芽を伸ばしていた。
金色ではない。
薄い白。
朝霧のような、消えそうな光。
その芽の周囲に、小さな声が漂う。
『ただいま』
士郎の胸が、きゅっと締めつけられた。
声は幼い。
誰のものか分からない。
名前もない。
記録も薄い。
ただ、その願いだけがあった。
『ただいまって、言いたかった』
イリヤは息を呑む。
ユイが震える声で言う。
「この願い、誰の?」
ミライが解析する。
「所有者情報、欠損。神杯燃焼炉内で個体記録が摩耗。願望本文のみ残存」
「本文?」
「ただいま、と言いたかった」
イリヤは芽に近づこうとして、士郎がそっと手で止めた。
「待て。まだ分からない」
イリヤは立ち止まる。
でも、その目は芽から離れない。
「この子、帰りたかったのかな」
士郎は答えられなかった。
帰りたかった。
ただいまと言いたかった。
それは小さな願いだ。
けれど、神杯はそれを燃料にしていた。
今は種になり、そして初めて芽吹いた。
ミライが続ける。
「発芽原因、推定。昨日からの空席感情、送別頁、いってらっしゃい発話が願望種に共鳴」
士郎は眉をひそめる。
「俺たちが、いってらっしゃいって言ったから?」
「肯定。帰る、送る、戻る、ただいま。概念連鎖が発生」
ユイが芽の前にしゃがむ。
「ただいまって、言う相手がいないの?」
芽は小さく揺れる。
『ただいま』
それだけ。
イリヤの目に涙が浮かぶ。
「どうしたらいいの?」
士郎は考える。
燃やしてはいけない。
閉じ込めてもいけない。
無理に叶えることもできない。
持ち主が分からない願い。
帰る場所が分からない「ただいま」。
なら。
士郎はゆっくり芽の前に膝をついた。
「おかえり」
イリヤが士郎を見る。
士郎は芽を見つめたまま、もう一度言う。
「おかえり」
芽が、小さく震えた。
ユイも真似する。
「おかえり」
ミライも少し遅れて言う。
「おかえり」
イリヤは涙を拭って、笑った。
「おかえり」
芽の光が少しだけ強くなる。
それは、願いが完全に叶ったということではない。
持ち主が戻ったわけでもない。
帰る家が再現されたわけでもない。
でも、誰にも届かなかった「ただいま」に、返事があった。
おかえり。
その一言だけで、芽は暴走せず、静かに葉を開いた。
ヘラクレスの守護結界が温かく揺れる。
ミライが呟く。
「願望種、安定。発芽状態、維持。分類、帰還願望の応答芽」
ユイは芽を見つめた。
「この子、ここにいていい?」
士郎は頷いた。
「ああ。ここで見守ろう」
イリヤは卵焼きの包みをそっと近くに置いた。
「バーサーカー。この芽も守ってあげて」
守護結界が静かに光った。
願いの畑に、初めての芽が生えた。
◆
衛宮邸へ戻ると、凛たちはすでに願録聖堂から戻っていた。
凛は士郎たちの報告を聞くなり、宝石板を開いた。
「発芽?」
「暴走じゃない。安定してる」
士郎がそう言うと、メディアが興味深そうに目を細めた。
「なるほど。願いの種が完全な休眠だけではなく、応答によって安全に芽吹く可能性があるわけね」
凛は少し頭を抱えた。
「管理項目が増えた……」
イリヤが不安そうに言う。
「だめだった?」
凛はすぐに首を横に振った。
「違うわ。だめじゃない。むしろ、すごく大事な発見よ」
メディアも頷く。
「願いを眠らせるだけでは、いずれ畑が停滞する。安全に芽吹ける条件が分かったのは大きい」
ユイが言う。
「ただいまに、おかえり」
ミライが記録帳を開く。
「応答による安定化。願望本文に対し、支配でも記録でもなく返答を与える」
桜は静かに微笑んだ。
「願いにも、返事が必要なんですね」
凛はしばらく考え込み、それから宝石板に新しい項目を追加した。
「願いの畑、対応方針。発芽した願いは無理に摘まない。内容を確認して、必要なら返事をする。ただし、叶えようとしすぎない」
士郎は頷く。
「叶えようとしすぎない、か」
「大事よ。あんた特に」
また全員が士郎を見る。
「だから、何で毎回俺なんだよ」
メディアが淡々と言った。
「実績があるからでしょう」
凛も頷く。
「そういうこと」
士郎は反論できなかった。
◆
午後。
士郎たちは願録聖堂へ向かった。
今度は、芽吹いた願いをどう記録するかを決めるためだった。
鷺宮玄礼は聖堂の奥で、静かに待っていた。
凛が説明すると、玄礼は目を閉じて考え込んだ。
「ただいま、と言いたかった願いに、おかえりと返した」
「ああ」
士郎は答える。
玄礼はゆっくり目を開けた。
「それは、記録すべきです」
ユイの表情が強張る。
玄礼はすぐに続けた。
「ただし、固定ではなく、応答の記録として」
ミライが問う。
「応答記録?」
「はい。願いそのものを閉じ込めるのではなく、その願いへ誰かが返事をした事実を記す。願いの行き先ではなく、触れ合いの痕跡として」
凛は少し意外そうに玄礼を見た。
「……まともなこと言うじゃない」
玄礼は静かに答える。
「学習中ですので」
メディアが小さく笑う。
「自分で言うのね」
聖堂の中に、新しい頁が生まれた。
そこには、こう記された。
誰かが、ただいまと言いたかった。
誰かが、おかえりと返した。
願いは完全に叶ったわけではない。
けれど、ひとりではなくなった。
その下には、余白がある。
ユイは頁を見つめる。
「冷たくない」
ミライが頷く。
「温度あり」
イリヤは少しだけ笑った。
「よかった」
玄礼はその頁を見ながら言った。
「私は、願いを失わせたくなかった。だから記録しようとした。ですが、今日の記録は少し違う」
士郎は彼を見る。
「何が違う」
「願いそのものではなく、願いに誰かが応えた瞬間を記している」
玄礼は静かに続けた。
「願いは単独で保存するものではない。誰かに触れた時、形を変える。その変化こそ、記録すべきなのかもしれません」
凛は腕を組む。
「まだ“記録すべき”って言い方が固いけどね」
「癖です」
「直しなさい」
「努力します」
少しだけ空気が緩んだ。
鷺宮玄礼もまた、完全ではない。
だが、余白に何かを書き始めている。
◆
夕方。
衛宮邸では、庭の芽の隣に小さな札が立てられた。
イリヤが書いた文字。
おかえりの芽
凛はそれを見て、少しだけ笑った。
「そのまんまね」
イリヤは胸を張る。
「分かりやすい方がいいでしょ」
ユイは札を見つめる。
「おかえりの芽」
ミライが記録する。
「命名完了」
桜は水を持ってきた。
「少しだけ、お水をあげましょうか」
メドゥーサが隣で見守る。
イリヤ、ユイ、ミライがしゃがみ込み、桜がそっと水を注ぐ。
小さな芽は、夕方の光を受けて揺れた。
士郎は縁側からその光景を見ていた。
凛が隣に座る。
「また一つ、守るものが増えたわね」
「ああ」
「大変よ」
「分かってる」
「本当に?」
士郎は少し笑った。
「たぶん」
凛は呆れたように笑う。
「そこはもう、恒例ね」
士郎は庭の芽を見る。
アルトリアがいた空席。
アーチャーがいた壁際。
帰っていった者たち。
残った者たち。
眠る願い。
芽吹いた願い。
すべてが、同じ家の中にある。
寂しさも、温かさも、これからの予定も。
それらを全部抱えて、明日へ進む。
◆
夜。
夕飯の後、ユイが士郎のところへ来た。
「士郎」
「どうした、ユイ」
「私、今日分かったことがある」
「何だ?」
ユイは胸に手を当てる。
「願いは、返事をもらうと少し変わる」
士郎は頷いた。
「そうかもしれないな」
「私は、消えないでって願いを燃やしてた。でも、たぶん本当は、誰かに聞いてほしかった」
士郎は静かにユイを見る。
ユイは続ける。
「消えないで、じゃなくて。ここにいるよって、誰かに言ってほしかったのかも」
士郎は胸が締めつけられた。
最初の器。
誰にも願いを持つことを許されなかった少女。
彼女が本当に欲しかったのは、願いの完全保存ではなく、ただ自分の声へ返ってくる言葉だったのかもしれない。
士郎は言った。
「ユイは、ここにいる」
ユイの瞳が揺れる。
「うん」
「ここにいていい」
ユイは小さく頷いた。
「うん」
ミライも近くに来ていた。
「私も?」
士郎は少し笑った。
「もちろん」
ミライは自分の胸に手を当てる。
「私は、ここにいる。未定だけど、いる」
イリヤが後ろから二人を抱きしめた。
「そうだよ。二人ともいるよ」
ユイは少し驚き、ミライは固まった。
けれど、二人とも逃げなかった。
士郎はその光景を見て、静かに思った。
願いは、返事をもらうと変わる。
なら、人も同じなのかもしれない。
誰かに呼ばれ、返され、受け止められて、少しずつ変わっていく。
◆
深夜。
願録聖堂に、新しい頁が浮かんでいた。
おかえりの芽。
その頁には、イリヤの文字がある。
ただいまって言いたかった誰かに、おかえりって言えた。完全に叶えられたわけじゃない。でも、少し温かかった。
ユイの文字。
返事があると、願いは冷たくない。
ミライの文字。
応答による願望変化を確認。今後の管理方針へ追加。
士郎の文字。
叶えられない願いにも、返事はできるかもしれない。
凛の文字。
管理項目追加。けど、悪い追加じゃない。
桜の文字。
芽が出た。影の中にも、芽は出るのかもしれない。
メドゥーサの文字。
見守ることも、守ること。
メディアの文字。
願いの畑は、予想以上に面倒で、少し興味深い。
鷺宮玄礼の文字もあった。
記録は結論ではない。応答の痕跡である。学習中。
頁の下には、まだ余白が残っている。
願いの畑では、おかえりの芽が静かに光っていた。
ヘラクレスの守護結界が、それを優しく包んでいる。
衛宮邸では、空席のある居間で、明日の予定表が置かれている。
神杯戦争、第三十夜。
願いの畑に、初めて芽が出た。
それは、誰かが言えなかった「ただいま」の願いだった。
士郎たちはそれを叶えきることはできなかった。
けれど、「おかえり」と返すことはできた。
願いは燃えない。
願いは閉じ込めない。
願いは眠る。
時に芽吹く。
そして、返事をもらって少し形を変える。
空席の朝を越えた先で、彼らはまた一つ学んだ。
叶えられない願いにも、寄り添うことはできる。
その返事が、次の芽を育てる。
第三十一話へ続く。
コメント
1件
ああ〜っ、もうこの回ほんとに好きすぎる😭💕 「ただいま」って言いたかっただけの願いに、みんなで「おかえり」って返すシーンが胸に沁みた…。 しかもユイが「消えないでじゃなくて、ここにいるよって言ってほしかったのかも」って気づくところ、彼女自身の成長も感じられてじーんと来たよ…!叶えられない願いにも寄り添えるっていう優しい答え、すごく響きました⋆♡ 次も楽しみにしてるね、聖杯さん!