この日、愛理はスマホの画面を見つめていた。
この前見つけたインストの”M”のアカウントをフォローしたところ、フォローバックがあったからだ。これで、フォロワーだけが入れるグループにUPされた投稿も見ることが出来るようになった。
友達申請をした後、数日間は自分の捨てアカウントの更新をまめに続けた。アップするものは、道端の猫や花を背景も入れないように撮影したものだ。背景の街並みなどで、居住地域をさぐられる心配があるから細心の注意を払う。
捨てアカウントにこんなことまでするのは、面倒だけれど、何もアップしないアカウントでは、警戒される恐れがある。
その甲斐があって、疑われることなくフォローバックされたのかも知れない。
写真やコメントは、念には念を入れて、自分へと辿り着けないようにしたつもりだ。
他の人の興味のないアカウントも友達登録して、”M”のみを監視しているとは、バレないように色々と工夫を凝らした。
家に帰った愛理は、キッチンでビーフシチューが入った鍋をかき混ぜながら、インストアプリを立ち上げ、”M”のフォロワーだけが入れるグループでアップされた画像を追いかける。
”M”のアップした画像は、主に人気店のランチや有名ブランドのアイテムを買ったとか貰ったとか、人が羨むような写真が挙げられていた。
──結局、こういう写真を上げている人って、自己顕示欲と承認欲求が強い人なんだよね。きっと、不倫関係だと思っていても、淳を自分のものだと言いたくて仕方がないはず。
一番新しくUPされた写真には、有名ブランドのモノグラムバッグが大きく映し出されていた。バックルが南京錠のような特徴のあるデザイン。30万近くするバッグだ。
チェックした最新の写真や書き込みの中に、直接、淳に繋がるようなものなかった。
淳と会っている証拠を見つけられなかった事にホッとしている自分に気が付き、その感情に愛理は戸惑う。
──夫である淳が不倫をしているのは、ほぼ間違いがないのに、心のどこかでそれを認めたくないんだ。
結婚式の準備をしていたあの頃は、いっぱい話しをしていた。毎日が忙しくて、楽しかった。幸せになると信じていたのに、まさか、こんな未来が待っていたなんて夢にも思わなかった。
なんでこんな事になったのか。そして、いつまで続けなければいけないのか。
その答えが欲しかった。
こんな状態では、子供も望めない。
世の中高年齢出産が増えたとはいえ、安全な出産を考えたら、早いうちに子供を産んだ方が良いはず……。
出来れば20代のうちに子供を産みたい。でも、自分の他に女がいるような人の子供なんて欲しいとは思えなかった。
淳の母親を思い浮かべ、気鬱になる。
「早く孫の顔がみたいわ」と朗らかに言われると、悪気があって言っている訳じゃないとわかっているのに言われるたびにプレッシャーを感じた。
「淳のせいで子供ができません」って、言ってやろうかしら?
気さくな淳の母親とは、自分の母親より仲が良い。そんなことを言って、悲しませるのは本意ではない。
ただ、子供が出来ないのには、なにも女性だけに原因があるわけではない。男性にだって原因があるケースも少なからずあるはずだ。それなのに、子供が居ない夫婦に対して、世間は妻ばかりに冷たい目を向ける。それは、理不尽な気がした。
考え事をしながら、グルグルと悔しまぎれに鍋をかき混ぜていたのが良かったのか、ビーフシチューのとろみが良い感じになっている。
その事にクスリと笑う。
火を止めて、時計を見ると午後8時を回っている。
すると、玄関のドアが開いて、「ただいま」と淳の声が聞こえた。
良き妻の仮面をかぶり、パタパタとキッチンから顔を見せる。
「おかえり、ごはんできているよ。今日は早かったんだね」
と作り笑顔で迎えた。
そんな愛理に淳は「ん」と短い返事をして、目の前を通り過ぎリビングに入って行く。ネクタイを緩めながら、ソファーの背もたれに脱いだ背広の上着を放った。
「腹減った」
「今日は、ビーフシチューだよ」
愛理は、淳が脱いだ背広の上着を拾い上げ、皺にならないようハンガーへ通し壁に掛けた。世話を焼いてもらうのが当然という淳の態度に愛理は、苛立ちが抑えきれない。
「背広、皺になったら困るの淳だからね」
いつもは険悪になるのが嫌で何も言わなかったのに、つい口をついてしまった。
淳は、うるさいなとばかりに大げさなため息を吐く。
──自分が悪いのに注意すると不貞腐れる。面倒くさい人。
相手にしたくないから、キッチンに入って、出来上がったビーフシチューを器によそう。
サラダやカットしたフランスパンなどもトレーに乗せて、ダイニングテーブルに運ぶと既に腰を下ろしていた淳は、スマホを何やら操作している。
家に帰ってくれば、自動で食事が出てくるとでも思っているような態度。自分の存在意義は《《そこ》》なのかと、愛理の気持ちは重くなる。
トレーに乗せて来たものをテーブルの上に並べて、「いただきます」とわざとらしく声をだした。
それなのに淳はスマホに視線を向けたまま無言で食べ始めている。
── 私と会話をするのが億劫なら、夫婦として一緒にいる意味がないよね。
さっきまで美味しそうに見えていたビーフシチューの味が、途端に感じられなくなった。
虚しさが胸に広がり、自分の存在が否定されているようだと思った。
── 結局、淳は私に家政婦的な役割しか期待していないんだ。
諦めに似た気持ちで、スマホの画面に視線を向けたままの淳に話し掛けた。
「ねえ、淳のお母さん、もうすぐ誕生日でしょう? 今度の日曜日、淳の実家へ行く前にプレゼントを買いたいから16時出発でいい?」
淳は、スマホから目を放さずに煩わしげに答える。
「たかがプレゼントを買うのにそんなに時間掛かんないだろ。17時でいいよ」
プレゼントが決まっていて、買い物をするのと、出先で選ぶのとでは、掛かる時間が違う。それに自分の母親のプレゼントを《《たかがプレゼント》》の扱い。
──きっと、私の誕生日もそんな扱いだったんだ……。
今まで、目を塞ぎ耳を閉じて、気付かない振りをして来た物事が、淳の不倫がわかってから、鮮明に見え、聞こえ出した。淳にとって、自分がどういう存在だったのかが、見える度に気持ちが冷えて行く。
「あ、それと、私、金曜日、由香里たちと飲み会があるから遅くなるよ。夕飯どうする?」
「遅くなるなら、俺も会社の仲間と飯食ってくるから気にしなくていいよ」
淳は、スマホから視線を上げて答える。愛理は、久しぶりに淳の顔を見た気がした。
── 私が遅くなると聞いて、機嫌が良くなった。きっと、不倫相手と出かけるのに都合がいいからだよね。