『お前の望みを叶えてやろう、漆黒の美しい獣よ』
『……誰? ……何処にいるの?』
『我はどこにでも存在する、待っているが良い、今すぐお前の所へ赴き助けてやろう…… 力を欲するのならば、我を受け入れるが良い』
秋日影は誰とも分からないその声に、縋(すが)るように頷いて、声の主を受け入れる事に決めるのであった。
同意の意思を深層で受け取った悪魔、モラクスはゆっくりと秋日影の精神へ侵食を開始した。
翌日、コユキが善悪に対して、偽メリーを気取っていた頃、秋日影は自我を保ちながらも、その内面は既にモラクスの魔力で満たされていた。
組合の家畜運搬車が横付けされた牛舎の中、秋沢明と組合員の二人が秋日影を移動させるために、肥育ゲージのパネルを開けた時に変化は起こった。
ヴァヴォォォォォ!
とても牛の物とは思えない、身の毛もよだつ様な怒声をあげ、秋日影だった物は立ち上がった。
四足では無く、後ろ足二本で人間の様に直立したのである。
驚いて、立ち竦(すく)む秋沢明の前で、徐々に姿を変化させて行く秋日影。
左右に伸びていた角は前方に向き直り、より長く鋭く形状を変えたそれは、まるで御伽噺(おとぎばなし)に描かれる鬼の角の様だった。
肉体は肥大化した筋肉に包まれ、漆黒の上半身は人型に近く、前脚は最早、腕と呼ぶのに相応(ふさわ)しく、蹄(ひづめ)も強靭(きょうじん)な爪を持った五指へと変化していた。
唯一牛のなごりが見て取れる所といえば、後ろ足の脛(すね)から先の部分、それ以外は尾を残すのみであった。
顔つきも、牛のそれとは大きくかけ離れ、一見人間に似てもいたが、赤く光る瞳と鋭く伸びた牙の存在が、両者は全く異質な物だと見る者を納得させていた。
何より人間とはサイズが違っていたのだ、優に三メートルを超えた巨体は、それだけで周囲に強烈な圧力を与え続けていた。
「秋沢さん、逃げんと!」
その場で小刻みに震え、逃げる事も忘れて立ち尽くしている明に声を掛け、牛舎の外へと逃げ出す男。
我に返った明もその後を追い、牛舎の扉を閉めようと振り返った時だった。
化け物の赤い瞳がこちらを凝視しているのが、はっきりと見えたのだが、それは見慣れた秋日影の人懐っこい物とは似ても似つかなかった。
そこから逃げ出しながら、彼、秋沢明は正しく理解した。
アレは秋日影が変化した物では無い、秋日影は既にアレによって奪われてしまった、変えられてしまったのだと。
逃げ出した先には、謎の巨漢、プロレスラーだろうか、がいた。
明は思わず叫んだ、
「ウチの牛が化け物にされちまったんだ! 秋日影が! 俺らも逃げるから、あんたも早く逃げなきゃ!」
すると、巨漢が落ち着いた口調で言葉を返してきた、
その子はアタシが助ける、と……
アイツを倒してね、と……
秋日影の命は助からないかも知れ無いし、助かったとしてもどの道出荷されるだけだろう。
でも、この太った人は言った。
秋日影で無く、アイツを倒すと。
恐らく、アイツとは秋日影を奪った相手の事だろう、そう明は感じていた。
せめて秋日影の体からアイツを追い出して欲しい。
ここまで頑張って来たアイツの二十四ヶ月を無駄にしたくない。
最後まで肉牛としての生を全うさせてやって欲しい、そう願った時、自然に言葉が出ていた。
「頼む。 あの子をアイツから解放してやってくれ」
その言葉に巨漢、コユキは進めていた歩みを止めると振り返り黙って明を見つめた。
その視線の意味を一瞬で理解した明は、コユキに向かって言葉を続けた。
「分かった! 無事出荷できたら、利益の一割、いや二割があんたの取り分だ! それでいいだろう?」
コユキはニヤリと笑って返した。
「そんなの、いらないわよ」
そう言い終えると向き直り、
「回避の舞い(アヴォイダンス)」
残像を残しながら化け物へと肉薄していった。
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