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仕事の帰り道、偶然見かけた仁人に、柔太朗は声をかけるのを一瞬ためらった。俯きがちな表情は、いつもの仁人ではなかった。
「仁ちゃん……大丈夫?」
「ん、あぁ柔太朗か。おつかれ」
顔を上げた仁人の笑顔は、口元だけが笑っていた。柔太朗はその笑顔を知っていた。仁人が無理している時の顔だ。
「せっかく会えたんだし、一緒に帰ろうよ」
ビルの外に出ると冬の空気は刃のように鋭く呼吸のたびに肺の奥が痛んだ。行きつけのコーヒー店でテイクアウトを二つ買い、人気のないベンチに並んで座る。冷たく澄んだ空気が、夜空を一層輝かせていた。
長い沈黙のあと、仁人が掠れた声でぽつりと言った。
「振られたんだ。」
その声は、乾いた落ち葉のように脆かった。
「わかってたんだ。最初から、俺じゃないって。でもそれでもそばにいられるならって」
柔太朗は、胸の奥がちりちりと痛むのを感じた。この痛みを、彼は知っていた。柔太朗もまた、叶わぬ恋をしていた。
「俺も」
少し冷めて酸味を感じるコーヒーを一口飲む。
「俺も、ずっと片思いしてる。振り向いてもらえないって、わかってるから」
仁人が顔を上げ、初めてまっすぐに柔太朗を見た。黒い瞳が星の光を拾って揺れている。
「お互い、馬鹿だな」
「ほんと、そうだよね」
クスクスと笑い声が漏れる。すぐに夜の空気に吸い込まれて、跡形もなく消えた。
「聞いてくれてありがとう、柔太朗」
バレバレの強がりで、目の端を赤く腫らし泣きそうな顔で仁人は笑った。
──明らかに無理してる。
その今にも壊れそうな不器用な表情を見た瞬間、柔太朗の体は一人でに動きだし、仁人に唇を重ねていた。
同情なのか、はたまた一時の劣情なのか──自分でも分からない。ただ、この人を、この顔をこのまま見ていたくなかった。
仁人は、逃げなかった。
触れた唇は冬の寒さで別物みたいに冷えていた。苦いコーヒーの味が、唇の隙間から滲み込んできた。
「……うち来る?」
喉の奥から声を絞り出す。何かを期待したわけじゃない。ただ、この冷たい夜の中に仁人を一人で帰したくなかった。
仁人は、小さく頷いた。
部屋につくまでの間、2人の間に会話はほとんどなかった。
何も見えない暗闇の中で二人は身体を重ねる。カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、頼りない目印だった。
冷えた部屋のなかで、仁人の肌は温かかった。触れ合った部分からゆっくりと温もりが広がっていく。
仁人の吐息が柔太朗の耳元をかすめる。はじめ推し黙るようにしていたその呼吸は、段々と熱く、深い息へと変わっていく。
仁人の喉の奥から小さな声が漏れた。その声を聞くたび、柔太朗の頭の中から余計なものが削ぎ落とされていく。
何も考えられなくなる。考えなくてよくなる。
「仁人…」
もっと深く、強く。二人の身体がひとつになっていく感覚に、柔太朗はただ身を委ねた。仁人の息遣いが速くなる。柔太朗の手が仁人の背に回される。互いの体温が混ざり合い、汗ばんだ肌が密着し、快楽が思考の隙間を埋め尽くしていく。
気づけば、何も考えていなかった。片思いも、振られた痛みも、明日のことも。全部遠くへ消えていた。ただ今、この瞬間の感覚だけがあった。仁人の肌の温もり。重なる吐息。互いの鼓動。
今この瞬間だけは。
傷みを忘れて、慰め合う共犯関係にあった。
明日になればまたそれぞれの思いを抱えて別々の道をいく。そしてこの夜のことはきっとなかったことになるだろう。
でも、今だけは。
柔太朗は、仁人の名前をもう一度心の中で呼んだ。
コメント
2件
第2話、読み終えました……。冬の冷たい空気と、コーヒーの苦味、そして二人の沈黙がすごく生々しくて、胸がぎゅっとなりました。特に「お互い馬鹿だな」って笑い合うところ、痛いくらいに優しくて。傷をなめ合うっていうより、そこで初めて本音を預け合えたんだなって思いました。最後のシーン、温もりを確かめ合うような描写が切なくて、また読み返したくなります。続き、気になります……!