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第十三話 名前のない好きは、桃色の蕾になる
朝食の席が、妙に静かだった。
いや、食卓そのものはいつも通りだった。
衛宮士郎の味噌汁は今日も湯気を立てている。
焼き魚の皮はぱりっとしていて、卵焼きはふっくら甘い。
遠坂凛は新聞を読みながらも、衛二の魔術回路の気配をさりげなく確認している。
ユイは静かに茶を飲み、ミライは昨日より少しだけ自然な姿勢で椅子に座っている。
そしてアストルフォは、衛二の隣で箸を持ったまま、卵焼きをじっと見つめていた。
いつもなら。
「エイジ、卵焼きいる?」
「シロウの味噌汁すごい!」
「今日もエイジを褒める予定があります!」
などと、朝から明るさを撒き散らしているはずだった。
だが今日は違う。
アストルフォは時々、ちらりと衛二を見る。
衛二も、その視線に気づく。
気づくたびに、二人は同時に目を逸らす。
原因は分かっている。
昨日の夜、凛が言った言葉だ。
――まだ恋人でもないのに、やってることが重いのよ。
その一言が、二人の間にふわふわと残っていた。
恋人。
その名前は、昨日まで遠くにあった。
いや、遠くにあるふりをしていた。
好きだとは言った。
何度も言った。
手を握った。
抱きしめた。
怖い時は呼び合った。
隣にいると約束した。
名前がつく日まで逃げないと、衛二は言った。
だが、その名前を実際に口にすることは、まだできなかった。
アストルフォが卵焼きをつまみ、衛二の皿へそっと置いた。
「……はい」
「ありがとう」
「うん」
短い。
あまりにも短い。
士郎が少し不思議そうに二人を見る。
凛は新聞を畳み、ため息をついた。
「何その空気」
衛二が固まる。
アストルフォも固まる。
「空気?」
衛二が誤魔化すように聞き返すと、凛は容赦なく言った。
「昨日の話を引きずってます、って顔に書いてあるわよ。二人とも」
「母さん」
「何?」
「朝食中」
「昨日あなたも朝食中に沈黙冠と戦っていたでしょう」
「それはそうだけど」
反論できない。
アストルフォは箸を持ったまま、顔を赤くしている。
「リン、あの、ボクたちは別に、その……」
「別に何?」
「えっと……」
アストルフォが珍しく言葉に詰まった。
凛は少しだけ目を細める。
その顔は母としての心配と、遠坂家当主としての冷静さが半分ずつ混ざっていた。
「名前をつけるかどうかは、二人で決めなさい」
リビングが静かになる。
凛は続けた。
「ただ、名前をつけないことで楽になると思っているなら、それは違うわ。逆に、名前をつければ全部解決するわけでもない」
衛二は箸を置いた。
「……分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは断言しなさい」
凛はため息をつく。
だが、声は厳しいだけではなかった。
「衛二。名前を恐れるのは悪いことじゃないわ。名前がついた瞬間に、関係が変わることもある。責任も生まれる。失う怖さも強くなる」
アストルフォが小さく息を呑む。
凛は彼を見る。
「アストルフォも同じよ。明るく振る舞っているけれど、怖いのでしょう?」
アストルフォは少しだけ俯いた。
「……うん」
その小さな返事に、衛二の胸が痛んだ。
アストルフォも怖い。
名前がつくことが。
今のままでも大切なのに、名前をつけたことで何かが壊れたらどうしよう。
恋人になったことで、逆に離れる未来が生まれたらどうしよう。
そんな恐怖が、彼の中にもある。
ユイが静かに口を開いた。
「今日の返事の庭の問いにも、近いわね」
「好きに名前をつけることを恐れる願い」
ミライが続ける。
「名前をつけなければ、失わずに済むと思う願い。名前をつけた瞬間、その関係が壊れることを恐れる願い」
衛二は胸の奥が冷えるのを感じた。
それは、まさに自分のことだった。
アストルフォの手が、食卓の下でそっと衛二の手に触れた。
今度は勝手に握らない。
触れるだけ。
昨日の「手の芽」で見つけた距離。
衛二はその指先を見ずに、ゆっくり自分の指を重ねた。
握る。
強すぎず、弱すぎず。
ちょうどいい力で。
アストルフォの手が少し震え、それから安心したように握り返してきた。
凛はそれを見ていたが、何も言わなかった。
士郎が味噌汁を飲みながら、穏やかに言う。
「名前は、縛るためだけにあるわけじゃない」
衛二は父を見る。
「父さん?」
「名前をつけることで、守れるものもある。曖昧なままだと守れない約束もある」
士郎は少しだけ照れくさそうに笑った。
「でも、焦ってつけるものでもない。ちゃんと向き合って、ちゃんと選ぶものだ」
その言葉は、衛二の胸に深く落ちた。
ちゃんと向き合って、ちゃんと選ぶ。
命令ではなく。
恐怖でもなく。
流されるのでもなく。
名前をつけるなら、二人で選ぶ。
アストルフォが小さく呟く。
「エイジ」
「うん」
「今日、怖くなったら言ってね」
「アストルフォも」
「うん」
「名前の話から逃げたくなったら?」
アストルフォは少しだけ考えた。
「逃げたくなったって言う」
「俺もそうする」
二人は手を握ったまま、小さく頷き合った。
◇
穂群原学園は、冬の曇り空の下にあった。
宮原詩乃は今日も欠席。
柳洞悠馬は朝、衛二に会うと短く言った。
「今日は寺に来るんだな」
「ああ」
「俺も境内まではいる」
「分かった」
そこで会話は終わるはずだった。
だが柳洞は、なぜかじっと衛二を見た。
「遠坂」
「何だ?」
「お前、今日はいつもより落ち着かないな」
衛二は思わず目を逸らす。
「そうか?」
「そうだ」
柳洞の視線は鋭い。
魔術の才能とは別の意味で、彼は妙に人を見る。
「アストルフォさんと何かあったのか」
「……どうしてそこでアストルフォが出る」
「顔に出てる」
最近、いろんな人に同じことを言われている気がする。
霊体化したアストルフォが隣で小さく笑う。
『エイジ、顔に出てるって』
「うるさい」
小声で返すと、柳洞が眉を上げた。
「やはり話しているな」
「独り言」
「もう無理がある」
柳洞はため息をつき、それから少しだけ表情を緩めた。
「まあ、俺が踏み込む話じゃないなら聞かない。ただ」
「ただ?」
「大事な相手がいるなら、言葉を惜しまない方がいい」
衛二は虚を突かれた。
柳洞は淡々と言う。
「寺には、言えなかった言葉を抱えて来る人が多い。ありがとうも、ごめんも、好きも、行かないでくれも。言えなかった言葉は、残る」
その言葉は、返事の庭とあまりにも近かった。
「柳洞」
「何だ?」
「重いな」
「寺の息子だからな」
柳洞は少しだけ笑った。
「でも、急げと言っているわけじゃない。言うなら、ちゃんと自分の言葉で言えという話だ」
衛二は静かに頷く。
「ああ。覚えておく」
アストルフォは隣で黙っていた。
けれど、衛二には分かった。
彼もその言葉を聞いている。
好きも、言えなかった言葉になる。
名前を恐れ続ければ、いつかそれは未答の願いになるのかもしれない。
◇
昼休み。
衛二は屋上にいた。
隣にはアストルフォ。
今日は二人とも、いつもより少し静かだった。
弁当を食べ終えても、アストルフォはすぐに甘やかし予約を始めなかった。
衛二も、話題を探して空を見るばかりだった。
雲は厚い。
冬の空は、今にも雨を落としそうな色をしていた。
「エイジ」
アストルフォが先に口を開いた。
「朝の話、まだ考えてる?」
「ああ」
「ボクも」
「怖い?」
「うん」
アストルフォは素直に頷いた。
「名前がついたら、嬉しいと思う。すごく。でも、怖い」
「どうして?」
「名前がついたら、もっと欲張りになりそうだから」
衛二は彼を見る。
アストルフォは自分の膝の上に置いた手を見つめていた。
「今でも、エイジの隣にいたい。手を握りたい。ぎゅーしたい。エイジが怖い時に一番に呼んでほしい。エイジが嬉しい時も、最初に教えてほしい」
「うん」
「でも恋人って名前がついたら、もっと欲しくなりそう」
アストルフォの声が小さくなる。
「もっと近くにいたいって。もっと特別になりたいって。エイジの一番でいたいって」
その言葉は、衛二の胸を熱くした。
同時に、少しだけ痛くした。
なぜなら、衛二も同じだったから。
アストルフォにとって特別でありたい。
ただのマスターではなく。
ただの契約相手ではなく。
でも、それを口にすると、何かを縛ってしまいそうで怖かった。
「俺もだ」
衛二は言った。
アストルフォが顔を上げる。
「俺も、欲張りになるのが怖い」
「エイジも?」
「ああ。アストルフォの一番でいたいって思う時がある」
アストルフォの頬が一瞬で赤くなった。
でも衛二は続けた。
「アストルフォが誰かに笑いかけるのは好きだ。アストルフォらしいから。でも、少しだけ、自分だけに向けられる顔がほしいって思う時がある」
「……」
「そう思う自分が怖い。好きって気持ちが、いつかアストルフォを縛るものになりそうで」
アストルフォはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「エイジ」
「何?」
「ボク、嬉しい」
「今の話で?」
「うん」
アストルフォは照れたように、けれどまっすぐ衛二を見る。
「エイジがボクの一番になりたいって思ってくれるの、嬉しい」
「でも」
「でも、縛りたくないって思ってくれてるのも嬉しい」
アストルフォは手を差し出した。
朝と同じように。
握ることを強制しない手。
「名前がついたら、欲張りになってもいいんじゃないかな」
「いいのか?」
「うん。ただ、欲張りになった時に、ちゃんと話す。痛い時は痛いって言う。寂しい時は寂しいって言う。もっと一緒にいたい時は、そう言う」
アストルフォは少し笑う。
「力加減を覚えるんでしょ?」
衛二は息を吐いた。
そうだ。
昨日、二人で決めたことだ。
好きにも力加減がある。
守ることにも。
手を握ることにも。
名前をつけることにも。
恐れる必要がないわけではない。
でも、恐れたまま話し合えばいい。
衛二はアストルフォの手を取った。
「アストルフォ」
「うん」
「名前をつけるのは、まだ怖い」
「うん」
「でも、名前をつけたいって気持ちから逃げたくない」
アストルフォの瞳が揺れた。
「うん」
「いつかじゃなくて、ちゃんと近いうちに言う」
「近いうち?」
「ああ」
「待っていい?」
「待ってくれるか?」
アストルフォは、嬉しそうに笑った。
「もちろん」
それは、恋人になる約束ではまだない。
だが、そこへ向かう約束だった。
曖昧なまま逃げない約束。
衛二はその手を握りながら、胸の奥で思った。
名前を恐れる願いに、逃げない約束を返す。
まだ答えではない。
でも、確かな一歩だ。
◇
放課後の柳洞寺は、雨の匂いがした。
まだ降ってはいない。
けれど、空気が湿り、木々の葉が重く揺れている。
鐘楼の下には、昨日までの黒い手形がほとんど消えかけていた。
代わりに、石畳の上に新しいものが現れていた。
文字だ。
黒い墨で書かれたような文字。
しかし、それは言葉になっていない。
好き。
嫌い。
大切。
怖い。
そばにいて。
離れないで。
忘れて。
それらが途中で途切れ、重なり、塗り潰されている。
まるで、書こうとして、最後まで書けなかった言葉の残骸だった。
ユイがしゃがみ込み、指先を近づける。
「名前になれなかった言葉ね」
ミライも見つめる。
「返事の庭では、これを未名言葉と呼んでいた」
「未名言葉?」
衛二が尋ねる。
「名前をつける前に止まった感情。好きと呼ぶには怖すぎたもの。愛と呼ぶには重すぎたもの。友情と呼ぶには近すぎたもの」
アストルフォの手が、衛二の手に触れる。
衛二はその指先を受け止めた。
凛が黒い文字を睨む。
「沈黙冠が、かなりこちらの内側を突いてきてるわね」
「衛二くんとアストルフォの影響もあると思う」
ユイは静かに言った。
「二人の関係が、返事の庭の問いと共鳴している」
アストルフォが少し不安そうに衛二を見る。
「ボクたちのせい?」
「違う」
衛二は即答した。
「でも、関係はあるんだと思う」
「うん」
「だから、一緒に向き合う」
アストルフォは少し安心したように頷いた。
その時、黒い文字が一斉に動いた。
石畳から浮かび上がり、空中で絡まり合う。
好き。
怖い。
名前。
壊れる。
変わる。
失う。
言えない。
でも、言いたい。
それらの文字が、ひとつの蕾の形になった。
黒い蕾。
花弁が固く閉じている。
開きたいのに、開けない。
その蕾から、沈黙冠の問いが響いた。
――名前をつけた瞬間、失われるものがある。
衛二の胸が重くなる。
――ならば、名前をつけずに守ればいい。
黒い蕾が震える。
――好きと言わなければ、拒まれない。
――恋と呼ばなければ、失恋しない。
――特別と呼ばなければ、失った時に壊れない。
――名前をつけなければ、終わりも来ない。
アストルフォの手が震えた。
衛二は握る力を強くしそうになり、すぐに力加減を思い出す。
強すぎず。
でも、離さず。
ちょうどいい力で握る。
「エイジ」
アストルフォが小さく呼ぶ。
「怖い」
「俺も怖い」
二人は同時に言った。
その声が重なり、少しだけお互いを笑わせた。
「同じだね」
「ああ」
凛が宝石を構える。
「攻撃はしてこない。でも精神干渉が強いわ」
士郎が双剣を投影しつつも、振るうことはしない。
「斬る相手じゃないな」
ユイが頷く。
「名前を恐れる願いに、無理に名前を与えたら壊れる」
ミライが言う。
「でも、名前を与えないまま閉じ込めても、枯れる」
「じゃあ、どうする」
凛の問いに、誰もすぐ答えられなかった。
黒い蕾が、衛二とアストルフォの方へ向く。
蕾に目はない。
けれど、見られていると分かった。
沈黙冠の問いが、二人へ直接触れる。
――その想いに名前をつけるか。
衛二の喉が詰まる。
アストルフォが俯く。
今ここで恋人だと言えばいいのか。
違う。
それは違う。
恐怖から逃げるために急いで名前をつけるのは、誠実ではない。
沈黙冠の問いに追い詰められて言う言葉は、二人で選んだ名前ではない。
だが、言わないまま逃げるのも違う。
衛二は深く息を吸った。
「まだ、つけない」
アストルフォの手が少し震えた。
衛二は続ける。
「でも、逃げるためにつけないんじゃない」
黒い蕾が揺れる。
衛二はアストルフォを見る。
桃色の瞳が、不安と期待で揺れている。
「俺は、アストルフォが好きだ」
アストルフォの頬が赤くなる。
けれど衛二は、言葉を止めなかった。
「ただの契約相手としてじゃない。サーヴァントとしてだけでもない。アストルフォが笑うと嬉しい。怖い時に声が聞きたい。隣にいてほしい。アストルフォにとって、俺が特別でありたいと思う」
周囲が静まり返る。
凛も、士郎も、ユイも、ミライも、何も言わなかった。
衛二は続けた。
「でも、その気持ちに名前をつけるのは、沈黙冠に迫られたからじゃなくて、自分の言葉で言いたい」
アストルフォの瞳が潤む。
「エイジ……」
「だから、今はまだ名前をつけない。でも、名前をつける日からは逃げない」
衛二はアストルフォの手を握り直した。
「近いうちに、ちゃんと言う。二人だけの言葉で」
アストルフォは目を伏せた。
泣きそうだった。
でも、笑っていた。
「うん」
彼は小さく頷く。
「ボクも、エイジが好き」
その声は震えていた。
「マスターだからじゃない。契約してるからじゃない。エイジがエイジだから好き。怖がりなのに前を向くところも、すぐ一人で背負いそうになるところも、ちゃんと戻ってきてくれるところも、ボクの手を取ってくれるところも」
アストルフォは衛二の手を見る。
「ボクも、名前をつけたい。でも、今ここで急いで言うんじゃなくて、エイジとちゃんと選びたい」
黒い蕾が震える。
沈黙冠の問いが弱まる。
名前をつけない。
だが、逃げない。
今すぐ答えを出すのではなく、答える日を約束する。
それは、名前を恐れる願いに対する新しい返事だった。
ユイが息を呑む。
「約束の蕾……」
ミライが呟く。
「名前になる前の約束」
黒い蕾の表面に、淡い光が走る。
完全には白くならない。
まだ花も咲かない。
だが、蕾の先端が少しだけ開いた。
そこから、桃色と蒼の光が漏れる。
アストルフォが小さく笑った。
「エイジ、蕾がちょっと開いた」
「ああ」
「ボクたちも、ちょっと進んだ?」
「進んだと思う」
「嬉しい」
「俺も」
その瞬間、黒い蕾から細い影が伸びた。
攻撃ではない。
問いの残滓。
それは衛二とアストルフォの間に入り込もうとする。
名前がないなら不安だろう。
約束は破られる。
近いうちなど曖昧だ。
言えないまま終わるかもしれない。
そんな囁き。
衛二の胸が揺らぐ。
だが、アストルフォが先に動いた。
彼は衛二の前に立つのではなく、隣に並んだ。
そして衛二の手を引く。
「エイジ」
「何?」
「一緒に言おう」
「何を?」
「逃げないって」
衛二は頷いた。
二人は黒い蕾へ向かって、同時に言った。
「逃げない」
声が重なる。
桃色と蒼の光が広がる。
黒い影はそこで止まった。
蕾は完全には開かない。
だが、枯れもしない。
その場に留まり、光を抱えたまま静かに揺れた。
凛が宝石を下ろす。
「なるほどね。今回の返事は、決着じゃなくて予約ってわけ」
「予約って言い方」
衛二が苦笑する。
アストルフォがぱっと顔を上げた。
「甘やかし予約と同じ?」
「違うと思う」
「でも予約!」
アストルフォは少しだけ元気を取り戻した。
その様子に、士郎が笑う。
「約束の予約、か。悪くない」
ユイは黒い蕾を見つめていた。
「返事の庭が、未完成の答えを受け入れ始めている。これは大きいわ」
ミライも頷く。
「今までは、答えにならないものを奥へ追いやっていた。でも今は、答えになる前のものを芽として残している」
返事になる前の行動。
待つための沈黙。
隣で止まること。
指先だけの接触。
選ばせる信頼。
そして、名前になる前の約束。
それらが、黒い丘の根元に芽として残っている。
沈黙冠の問いは終わらない。
だが、返事の庭は確かに変わり始めていた。
◇
柳洞寺の境内へ戻る頃、雨が降り始めた。
細い雨だった。
傘を差すほどではないが、髪や肩を静かに濡らしていく。
アストルフォは衛二の隣で空を見上げた。
「雨だね」
「ああ」
「エイジ、寒くない?」
「少し」
「じゃあ」
アストルフォは一瞬、抱きつこうとして止まった。
衛二はそれに気づく。
「どうした?」
「今、ぎゅーしていいか聞こうと思った」
「聞いてくれたら、いいって言う」
「ほんと?」
「ああ」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
「エイジ、ぎゅーしていい?」
「いいよ」
彼はそっと衛二を抱きしめた。
雨の中。
柳洞寺の境内。
皆から少し離れた場所で。
強くない。
でも、確かに温かい。
「エイジ」
「うん」
「今日の言葉、嬉しかった」
「俺も、アストルフォの言葉が嬉しかった」
「名前がつく日、待ってる」
「ああ」
「でも、怖くなったら言う」
「俺も言う」
「逃げない?」
「逃げない」
「ボクも逃げない」
二人は雨の音を聞きながら、しばらくそのままでいた。
恋人ではない。
まだ、その名前はついていない。
けれど、それは逃げているからではない。
ちゃんと選ぶために、少しだけ待っている。
その待ち時間に、二人は温度を置いた。
◇
遠坂邸へ帰った夜。
衛二の部屋には、雨の匂いが少し残っていた。
窓の外では、まだ細い雨が降っている。
アストルフォはベッドの端に座り、衛二の隣で膝を抱えていた。
今日はいつものようにすぐ抱きついてこない。
でも、距離は遠くない。
肩が触れるくらい。
衛二はその距離が心地よかった。
「アストルフォ」
「なあに?」
「今日、ちゃんと言えてよかった」
「うん」
「まだ名前はつけられなかったけど」
「でも、逃げなかった」
「ああ」
「エイジ、すごく頑張った」
「アストルフォも」
「ボクも?」
「うん」
衛二はアストルフォの手を取った。
「怖いって言えた。待つって言ってくれた。ちゃんと選びたいって言ってくれた」
アストルフォは頬を赤くする。
「エイジに褒められるの、やっぱり好き」
「じゃあ、もっと褒める」
「えっ」
「今日のアストルフォは、すごくかっこよかった」
アストルフォが固まった。
「かわいいじゃなくて?」
「かわいいもある。でも今日は、かっこよかった」
「……エイジ」
「隣に並んで、一緒に逃げないって言ってくれた。あれ、すごく心強かった」
アストルフォは顔を真っ赤にして、衛二の肩に額を押しつけた。
「ずるい……」
「今日も言われた」
「だって、かっこいいって言われるの、嬉しい」
「本当だから」
「もっと嬉しい」
衛二は少し笑い、アストルフォの髪を撫でた。
アストルフォは目を細める。
「エイジ」
「うん」
「今日の契約再確認、していい?」
「ああ」
アストルフォは顔を上げる。
そして、衛二の額へそっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
小さな声。
「ボクはエイジの隣にいる。名前がつく前も、ついた後も。怖い時は怖いって言う。欲張りになったら、ちゃんと話す。逃げない」
衛二は目を閉じた。
「俺も、アストルフォの隣にいる」
「うん」
「名前を恐れない。急がないけど、逃げない」
「うん」
「ちゃんと自分の言葉で言う」
アストルフォの瞳が揺れる。
「待ってる」
「ああ」
「ボク、待てるよ」
「俺も、言えるようになる」
二人は手を握った。
強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい力で。
雨の音が、部屋の外で静かに続いていた。
◇
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
黒い丘の根元に、新しい蕾が加わっていた。
まだ開かない蕾。
花弁の隙間から、桃色と蒼の光が漏れている。
それは、名前になる前の約束。
好きに名前をつけることを恐れる願いへ返された、未完成の答え。
沈黙冠はその蕾を見下ろしていた。
返事ではない。
完成でもない。
だが、逃避でもない。
答えになる前の約束が、庭に根を張った。
黒い冠の輪郭が、大きく歪む。
問いは次へ進む。
――ならば、互いに好きだと知りながら、それでも踏み出せない二人には、何を返す。
白い花畑がざわめいた。
それは、返事の庭に眠る願いの問いであると同時に。
遠坂衛二とアストルフォ自身へ向けられた問いでもあった。
物語は、名前を待つ蕾を抱えたまま、次の夜へ進む。
コメント
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第十三話、読み終わりました……! 名前をつけることへの怖さと、それでも逃げないと約束する二人の静かな強さに、胸がぎゅっとなりました。特に雨の中で「ぎゅーしていい?」と聞くアストルフォと、ちゃんと応える衛二くんの距離感が、もう本当に尊くて。桃色と蒼の光が漏れる蕾の描写も美しくて、何度も読み返しました。次の夜が待ち遠しいです🌷
涅槃
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