テラーノベル
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二つの山地に挟まれた広大な桑の実野は歴史の記され始めた頃から常に不穏な気配を漂わせている。それは神秘と接する魔性や怪物の類などではなく、ひとえにその土地と種々の実り豊かな産物、取引にかかる租税や関税という世俗的な関心に基づく。すなわち天上を彩る美や季節の移ろいなどに微塵の興味も示さない強欲な者たちの争いによるものだ。
雄大にして肥沃なアルグリー野の覇権を得るべく、東の牝牛の飼い主の国と西の目を光らせる者の国は常に他方を出し抜く好機の到来を待ち、剣を磨き、神に祈り、備えている。そしていずれかに野心ある王の御世が訪れればアルグリー野は必ず戦火に覆われた。
ともすれば彼らは常に次の種火を探している。強欲な彼らとて、栄誉と名誉を蔑ろにすることはないからだ。つまるところ、理由なき侵攻を嫌い、収奪する権利を、剣を振るうための大義を求めている。
そのため西のボロネムは主力軍とは別に、斥候を専らとする鷹の目と呼ばれる兵団を組織していた。東のウェインカの動きを常に見張り、前の戦で定められた国境を巡回監視し、仮初の平和条約に背いてはいないか、鋭い目を光らせている。兵団の功績は都中に知れ渡り、不意打ちは叶わぬとウェインカに覚悟させていた。
彼ら鷹の目兵団は要所の国境付近に複数の駐屯所を任され、平時は分散して東に目を向けている。それらは決まって酒の豊富な集落だった。
森の縁という広く麦畑に囲まれた村がある。度数の強い麦酒を産する素朴な集落であり、古くは鹿追いの狩人とその技と共に西の山の向こうへ去って行った星見が興した土地だ。
鷹の目兵団の駐屯所のある集落には決まって酒場があり、それはほとんどの場合、村の衆の数よりも多くの椅子と村の衆には飲みきれぬ酒を備えている。斥候に酒が役立つはずもないが、だからといって鷹の目兵団が酔いに目を濁らせることはなく、戦火の種火を見逃したことはない。
夏の夜の短さを憂いて星々が多いに瞬き、木の洞から這い出てきた梟が音もなく飛び去る頃、昼の熱は古い沼の澱みのようにまだ辺りを漂っていて、酒場に集まる粗暴な兵士たちの酒も進んでいた。現を蕩けさせる酒の匂いと森の奥から夢を招き寄せる燭台の影の揺らめきがない交ぜになり、兵士たちのがなり声は影しか姿を見せない怪物の唸り声のようにどこか遠くから聞こえる。
光と影の曖昧な間に栄光という男と雄々しいという女がいた。共に栄光ある鷹の目兵団の若い兵士であり、優秀な斥候であり、例に漏らさず中流下流階級の出身だった。
ディミンは蝋燭の光の生み出す影のような男だ。微かに揺らめき、今にも形を変えそうだがそうはならない儚げな表情、ともすれば一息で消えてしまいそうな不安定な佇まい。
一方ゼオラの方はというと深く根を張った櫟のようで、その梢は貪欲に空へと伸び盛る。常に湛える笑みは陽光を浴びた青葉のようだ。
二人は顔を寄せ合い、昔の酔客が零した酒の染みが幾重にも重なった受け取り台にもたれかかって新しい酒を待っていた。
「ねえ、ゼオラ。一線を越えてるよ。ばれたらどうする」と黒曜石の瞳に知性を光らせるディミンは鼠のように忙しなく視線を方々に向け、早口で囁く。
「ばれやしないし、ばれたってどうってことはねえよ。酒飲みの団長への贈り物さ」
そう言って、砂漠の日差しのように溌剌と笑うゼオラは懐から陶器の小瓶を取り出し、無警戒に台の上に置く。
「これが例の毒?」とディミンは囁き、汚らわしいものでも見るような目つきで小瓶を見る。
その毒が空気中を漂って自分の元へ届くことを恐れるかのようにディミンは僅かに仰け反る。
「馬鹿言うな。ちょっと酔いが深くなるだけの薬だ」
そう言ってゼオラはディミンの脛を遠慮なく蹴り、悪戯を成功させた子供のように歯を見せて笑う。
ディミンは脛をさすりながらゼオラを睨みつけて言う。「そして高位団長は饒舌になる」
「そうだ」ゼオラの意気込む言葉には今にも盛んに燃え上がる熾火の如き力を内包している。「グマトー自身の口から秘密を聞き出して、利用してやる」
ディミンは今聞いた言葉をすぐさま体外に吐き出すかのように深いため息をつき、躊躇いつつも首だけ振り返り、グマトー団長の姿を探す。赤ら顔の人ごみに隠れていて見えないが、この広い酒場のちょうど反対側の壁際で酒を呷っているはずだ。
「大袈裟なんだよ、ゼオラは。団長は、その、つまり優秀だってだけだ。そして君は、新人ながら一気に出世した団長に嫉妬している」
ゼオラは忌々し気に舌打ちをし、ディミンの脛を蹴ろうとするがかわされる。
「んなわけないだろ。ただの才能なわけがねえ。たったの数か月で庶民の花形たる鷹の目兵団の頂点だぞ。ありえねえ。縁故でなけりゃ裏金か何かに決まってる」
「それこそ馬鹿々々しい話だよ。僕らは庶民だけど軍事の人事は鷹の目兵団も例外なく全て王侯貴族が握ってるんだ。庶民の出せる袖の下で動くもんか」
ゼオラが舌打ちをして吐き捨てる。「じゃあ魔法か何かだ」
「僕らだって魔法を備えてる」
ゼオラは馬鹿にしたように大口を開けて笑った。「おまじないと御守りと? あとはなんだ? 気休めにもならねえよ」
「君は兎足の呪術が使えるだろ?」
「ここじゃあ使えない奴の方が少ないんだよ。お前はお前の心配してろ。あたしが団長ならお前はずっと前にくびになってるぜ」
もう話は打ち切りだという風に、ゼオラはディミンから体を離し、小瓶を再び懐へ仕舞う。
まったくもってゼオラの言う通りだ、とディミンは痛感していた。何とか鷹の目兵団に潜り込めたものの、生来慎重な気質は斥候向きのようにも思えたが、肝心なところで踏み出せず、グマトー団長やゼオラのような功績を得られないでいる。何も起きないのが一番だ、と慰めてくれる同僚さえも上昇志向を隠してはいない。
そこへ老いてなお逞しい山羊のような酒場の主が杯になみなみと注がれた黄金色の液体を両手に持ってくる。この酒場の秘蔵の酒だ。鷹の目兵団の団長は喜んで飲み干すことだろう。もはやグマトー団長には酒依存症の気があり、時には仕事の最中に呑んだくれていることもある。それでいて確たる仕事をするものだから、さらにゼオラの神経を逆撫でするのだ。
「ディミン、今日はまだ全然飲んでいないようじゃないか?」と酒場の主が不思議そうに言う。
「ああ、まあ、これからだよ」とディミンは愛想笑いを浮かべて答える。
「ゼオラ、あんたは飲めるようになったのかい?」と酒場の主が揶揄う。
ゼオラはばつが悪そうに答える。「どっちも団長の酒だよ」
ゼオラに促され、ディミンは酒場の主から杯を受け取る。人ごみに潜り込むまでにはその杯に邪な滴が一つ垂らされた。
グマトーという男には兵が身に備えるべき威厳というものがない。まるで弟子についたばかりの吟遊詩人のような若い優男だ。行き交う人々を引き留めるような派手な衣装を身につけているわけではないが、その手振り身振りは細やかで、無機質な都の通りに迷い込んだ蝶のように人目を惹きつける優美な才がある。しかし斥候とて戦いに臨まないわけではない。敵の意気をくじくようなはったりも必要だろう。もしも彼を戦場に見出したなら槍持ちの小姓と思われかねない。戦場でなければ花畑で竪琴でも弾いていそうな線の細さだ。
それでいてその平凡な体の内に確かな力を備えているのだと知られている。監視や追跡を主な生業とする斥候はむしろ突発的な遭遇戦に見舞われることが多く、常に判断力と決断力、そして選択を実現する種々の力が求められる。それらの、斥候として十分以上の才能をグマトーは発揮する。その細身に膂力もまた十分に隠していた。
店の奥でグマトーはただただ酒を飲んでいる。食事も会話もほとんどなく、ただ一心に酒を飲んでいる。ディミンが持ってきた、この店の奥殿も、受け取った次の瞬間には喉の奥に消え失せた。
それからはずっとゼオラが話しかけている。グマトーが答えるのは杯が乾き、再び満たされるまでの僅かな間だ。が、グマトーは確実に少しずつ深みへはまっており、その口が滑らかになっていく。
ディミンの方は強いだけで味のしない安い酒を呷っていた。
「そりゃあ、あなた、わたしはしあわせもんだよ。さけをのめて、ちからをえて、いさおしをえて、こうしてさけがのめる。それよりしあわせなことってある? ないでしょ? あるの? ないよね?」
その視線はどこに向けられるでもなく、見えない何かを追うように左右へ上下へ揺らめく。
「力ですか。確かにグマトーさんは凄いですよね」ゼオラはらしくない世辞を言う。「この前なんか関所に近づいてくる行商人の人数を数えて当ててみせた。まだ地平線の上だったのに。あれって魔法なんですか?」
「ああ? まほう? そりゃそうよ。じんじょうのにくがんでみえるもんですか。しりたいの? あなた? わたしのまほうをしりたいの?」
「まあまあ、飲んでくださいよ」と言ってゼオラは滝のように酒を注ぐ。
グマトーが自ら核心に迫ったにもかかわらずゼオラは酌をするだけで、さっきまでこの卑怯な作戦に反対していたのにディミンはやきもきしてしまった。
グマトーは数十年ぶりに雨の降った砂漠の如く一息で飲み干す。「わたしのまほうはわたしのまほうであって、わたしのまほうじゃないの。だからだれにも、あんたにもおしえられない。おわかり?」
「そうですか。一兵卒としてもっと活躍したい気持ちはあるんですが、残念ですね」とゼオラは悪びれもせず言う。
グマトーは蕩けた目で同情するようにゼオラを見つめて言う。「あなたはしごとねっしんだものね。たすけてあげたいけど、わたしもまたさらにうえをのぞんでいるからゆずれはしないの」
ゼオラはさらに酒を注ぎ、グマトーは飲み干す。その後、それ以上グマトーはまともな言葉を発せなくなり、深い眠りに就いた。
「おい、ゼオラ! いくらなんでも――」
ディミンの鋭い言葉を遮り、「一線はもう越えたんだろ?」とゼオラは不敵な笑みを浮かべて言った。
眠りに就いた駐屯所の宿舎は冬の墓場のように静まり返っている。墓守は眠っており、二人の弔問客ないし墓荒しはある一室へとやって来ていた。鷹の目兵団団長に与えられた執務室兼寝室だ。歴代の団長においても、特に独り身の者はこの部屋を仮住まいとする傾向にあり、グマトーも例外ではなかった。
深く眠りに就いたグマトーからゼオラが鍵を盗むのは容易いことだった。それこそすぐそばにいたディミンにすら気づかれない早業だったのだ。
「そもそも一体何を盗もうっていうんだ?」
ディミンの問いかけに応えず、ゼオラは躊躇うことなく開錠し、薄暗くどこか酒臭い執務室へと侵入する。一歩を踏み出さなかったディミンの前で扉が閉じ、乾いた音が廊下に響く。
ことによれば処刑も免れ得ない重大な罪だ。ゼオラの飽くなき出世欲にディミンはただただ呆れた。しかしディミンもまた意を決してしまった。グマトー団長はまだ酒場で深く眠っている。これは危ない橋ではない。と自分に言い聞かせてやっとのことだが。
扉を開けて中へ入るとすぐ目の前でゼオラが待ち受けていてディミンは息を呑む。
「お前こそ一体なんだってこの部屋に入ってきたんだ?」とゼオラは囁いて、嘘を見抜こうとする目でディミンを睨みつける。
揶揄いではない。試されているのだ。己の共犯者に値するかどうか。そして同時に出世の邪魔をする気じゃないかと疑ってもいる。
手を汚すほど欲深いか、あるいは手のひらを返すほど欲深いか。
「心配だからに決まってるだろ? 僕の座右の銘は『火から目を離すな』だ」
ゼオラは馬鹿にしたような笑みを浮かべ、「好きにしな」と言って星明り頼りの家探しを始める。
「だいたい何を探すんだ? 魔法がそこら辺に落ちてるのか?」ディミンはゼオラの背中に問いかける。
「そうさ。グマトーの野郎が言ってたろ? 『譲れない』って。きっと魔法の道具に違いない」
「教えられないとも言っていた。そもそも酔っ払いの言うことだ」
「本人の言うことならいくらか信憑性はあるだろ」
ディミンもまた、ただ待っているだけでは暇だし、早く見つけたならすぐに帰れるから、という言い訳を思いついてゼオラに続く。
ゼオラは物置もある寝室へと入って頑丈そうな樫の櫃を漁っているので、ディミンは執務室の方を調べる。最初に目についた机の上の羊皮紙の束に目を通していると、それが求める物について書かれているのだと気づく。幸運なのだか不運なのだか分からない。ディミンはゼオラの勘の鋭さに舌を巻く。
「ゼオラ。確かに君の言う通りみたいだ」
ディミンの呼びかけにゼオラはすぐに戻ってくる。「それか? その羊皮紙がグマトーの魔法なのか?」
「いや、これ自体は魔法の研究、その記録みたいだね」読めもしないのに覗き込むゼオラを脇に押しやって、月明かりを頼りに精読する。「君の言う通り、団長は魔法道具を持っているようだ。札、だな。紙の札だ。それを体に貼ると力を得られるらしい」
「そういえば前に見たことがあるかもしれねえ。そうだ。奇天烈な刺青だと思ったんだ」ゼオラが悪態をつく。「グマトーが酔っぱらってる今が最大の好機だったんだ。酒場に戻って、奴をここへ連れ帰って体を探るか、いや、目立ちすぎるよな。真っ先に疑われる。酔いも醒めてるかもしれねえし。やっぱり改めて策を練り直すか。いつでも酔わせられる。次に休暇がかぶるのはいつだったかな」
考えをぶつぶつと呟きながら部屋をぐるぐると巡るゼオラを尻目に、ディミンは魔法の札について書かれた羊皮紙を読み続ける。
魔法の札は自身に貼れば力を得るが、他者に貼れば貼った者が支配できるらしい。記されている通りならばとても強力な魔法だということが分かる。千里眼の力などその一端に過ぎず、暗闇の中にあっても鼠一匹見逃さず、記述によれば音や臭いですら目で見ることができるという。どころかどれほど鍛えられた敵兵の素早い動きでも見逃すことはなく、まるで亀の歩みを防ぐが如く先回りできるそうだ。
まさに斥候を生業とする鷹の目兵団のために作られたかのような魔法だ。確かにこれがあれば瞬く間に団長の地位を得ることも可能だろう。それどころか上手く使えば、庶民では望むべくもないより高い地位に、より安全確実にたどり着くことができるはずだ。
ふと月明りも星明りも雲に隠されたその時、勢いよく開いた扉から誰かが飛び込んできた。何者かはすぐそばにいたゼオラに飛び掛かり、もみ合いになる。
「ゼオラ! お前だったか! こそ泥は!」
線の細さに似合わないその怒鳴り声はグマトーだった。加勢すべく飛び掛かろうにもディミンは躊躇する。どちらに勝ち目があるかといえばグマトー団長だ。しかしもしも裏切れば、当然ゼオラは裏切り者を告発するだろう。グマトーを助けたところで罪が減じるとは思えない。
そんな逡巡の間にディミンの選択とも決断とも無関係に決着はつき、立っていたのはゼオラだった。グマトーは這いつくばり、嗚咽し、吐瀉している。酒が勝負の分かれ目になったらしい。
再び射した月明りの下、ゼオラの首筋にさっきまでなかった札が貼られていることにディミンは気づいた。扇形の札に遠眼鏡を覗き込む麒麟の絵が描かれている。
ディミンはもう一度羊皮紙を読む。魔法の札は自身に貼れば力を得るが、他者に貼れば貼った者が支配できる。ゼオラが自ら貼ったのか、グマトーに貼られたのか、ディミンは目にしていなかった。
「うわ! 何だお前!」ゼオラが薄暗闇の虚空に向かって言った。
ディミンはそこにいないかのように息を殺したまま耳をそばだてる。札の魔法が何かしらの力でゼオラに働きかけているらしい。何が起きているのか、これから何が起こるのか分からない。ゼオラの言葉に耳を傾ける。
「お前が力の正体なのか? ……ほう? じゃあ酒を飲んでいたのはお前か。……お前に頼らなくても力は使えそうだが? ……知恵、ねえ。ああ、ちょっと待て」
ゼオラがグマトーの顎を蹴って黙らせる。どうやら勝ったのはゼオラだったらしい。
ディミンは一安心し、背中を向けたゼオラが空中に話しかけている様子を見る。力は本当にあるようだ。つまりグマトーは陥れられ、ゼオラが新たな団長となることだろう。
ディミンは心の内で囁く。ゼオラは勝った。グマトーに勝っただけでなく、己の人生に打ち勝ったのだ。
ディミンは振り返る。ほんのちょっとの運命が二人の人生を分けたのだ。あのたった一枚の札を手に入れていたならば、そうしようという決断ができていたならば、より良い人生が待っていたのだ。
「あいつは下戸だからなあ」ゼオラは楽し気に笑い、既に見えない何かと打ち解けているようだった。「……まあね。お前が逆らわないなら何だっていいさ。……ああ、紙にこの札のことが書かれていたらしい。あたしの座右の銘は『てめえの欲しいもんはてめえで掴め』ってところだな。だが、それも悪くない。……酒? あたしは飲めねえよ? ……そうか。そりゃあ面倒くせえな」
ディミンは意を決し、ゆっくりと、静かに、ゼオラの背中に近づき、その首筋の、その札に、手を伸ばす。
「じゃあこうしよう」とゼオラは言って、ディミンより先に首筋の札を剥がし、ディミンの手の甲に貼り付けた。「あたしの部下として働け。功績はあたしのもんだ」
ディミンは札を眺めながら、「良いの? この、ディミンとかいう男は」と艶のある笑みを浮かべて言う。
「どうでも良いさ。元々役に立ちはしねえんだ」そう言ってゼオラは大きな欠伸をする。「ああ、だがそうだ。これからは酒をたらふく飲めるぞ。そいつは上戸だからな」
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