雨音が、やけに大きく感じた。
グラスに残ったウイスキーの氷が、カランと鳴る。
──「完璧すぎるの。翔太って。安心できない。」
そう言い残して、彼女は去っていった。
“普通”の幸せが欲しい。俺にはそれが足りなかったらしい。
部屋に戻ってスーツのままソファに沈んだ俺は、ただ天井を見つめていた。
こんな日は、テレビの音すら煩わしくて、静寂に身を委ねるしかない。
けれど、その夜。
マンションの入り口で、“何か”が俺を待っていた。
段ボールだった。
捨てられた子猫かと思った。けど、違った。
「……おい、大丈夫か?」
濡れた髪。長いまつ毛。
まるでモデルみたいな顔をした男が、丸まって眠っていた。
ゆっくりと瞳を開けたその男は、朦朧とした声で言った。
「ん……寒い……泊めてくれない?」
正気か?
このご時世、男が男にそんなこと言って来るか?
けれど、気づけば俺は傘をさしかけていた。
「うち、そんな広くないけど……来る?」
──そして、今。目の前には、キッチンで俺のマグカップを使ってココアを入れる“その男”がいる。
「ありがとう。温かい飲み物、しみるね」
微笑む彼は、どこか無防備で、犬みたいだった。
犬…それでもたぶん超高級ロイヤルな犬。
「名前、聞いてなかったな」
「うーん、じゃあ……なんでもでいいよ」
「は?」
「ご主人様が名前つけてくれるなら嬉しいな」
「なななっ////」
「嘘。涼太って呼んでよ」
茶化すように笑うその目は、まるで甘える子犬。
俺の中で、何かが少しずつ音を立てて崩れていった。
俺の部屋に、男が一人。
そして今、その男は“飼ってくれ”と笑っている。
こんな非現実的な夜が、
これからの日常になるなんて──
その時の俺は、まだ知らなかった。
―――――――――――――
目を覚ますと、部屋に漂うだしの匂いが鼻をかすめた。
ここは──俺の部屋だ。だけど、いつもと違う。
キッチンの奥に誰かの気配。
そっと起き上がってリビングへ向かうと、薄いパジャマの背中がそこにあった。
「おはよう、翔太。朝ごはん、できてるよ」
振り返ったその人──涼太は、まるで昨日のことなどなかったかのように微笑んでいた。
白いシャツの袖をまくって、味噌汁をそっとよそう手つきは妙に慣れている。
「……なんで、そんなに普通にしてんの?」
思わず漏れた言葉に、彼はくすっと笑った。
「だって、お願いしたでしょ?飼ってって。了承したの、翔太くんだよ?」
「半分冗談だったんだけどな……」
「でも俺、本気だったよ?」
そう言って座る涼太は、俺の真向かい。
湯気の立つ味噌汁の向こうで、まっすぐに目を合わせてくる。
人と住むのは久しぶりだった。
しかも、こんなにも自然体で距離を詰めてくるやつは初めてだった。
会社に出る前、スーツのネクタイを締めながらふと後ろを向くと、涼太が立っていた。
「いってらっしゃい、翔太くん。ちゃんと帰ってきてね」
なんでもない一言。
けれど、その声が、昨日までの孤独に優しく染み込んだ。
俺は思わず笑ってしまった。
「……おまえ、ほんとに不思議なやつだな」
「うん。でも、もうここが俺の居場所だから」
そう言って笑う彼の姿が、妙にしっくりきてしまうのが悔しい。
——まさか、“飼ってる”はずの俺の方が、
少しずつ依存していくなんて、このときの俺は思ってもいなかった。
――――――――
帰りの電車の中、スマホの通知を見て思わず吹き出しそうになった。
涼太からのLINE。
「ご主人様、今日の夕飯は照り焼きチキンです。食べる前に帰ってきてね」
誰がご主人様だ。
最近やたら砕けたメッセージが多い。……でも、それがちょっとだけ、嬉しい。
玄関のドアを開けると、鼻をくすぐるいい匂いとともに涼太の声がする。
「おかえり、翔太。手洗いうがいしてきてね」
エプロン姿で顔をのぞかせる涼太は、完全に“家の人”の顔だった。
それが妙に自然で、俺は「ただいま」としか返せなかった。
テーブルには、綺麗に盛りつけられた料理。
鶏肉の照り具合が、店で出てくるレベルで完璧だった。
「……涼太、どこでこんな技術覚えたんだよ」
「好きだったんだよ、誰かのために作るの。褒められると、嬉しくてさ」
ちょっと照れたように笑う涼太が、なんだか犬っぽく見えてしまう。
いや…キラキラしたロイヤル犬?
食後。
ソファに座っていると、涼太が遠慮なく横に入ってくる。
「ちょっと寒いね」
「いや、近いから、暑いくらいだわ」
「じゃあ、もっとくっつく?」
「おい」
涼太はにやりと笑いながら、俺の肩にもたれかかってきた。
思わず息を止める。
やわらかい髪が首に触れて、少しくすぐったい。
「……こうしてると、安心する」
その声が、意外に真面目で。
冗談だと思ってた距離の詰め方が、ほんの少し、心の奥に入り込んでくる。
俺は何も言えずに、ただそのまま、涼太の体温に身を預けた。
しばらくして、彼がぽつりとつぶやいた。
「……ずっとここにいちゃ、だめかな」
「……別に勝手にどうぞ…」
「じゃあ、勝手にずっといる」
本当に──ずるい。
だけど。
この“ただいま”がある暮らしが、俺の日常になっていくのは、
きっともう時間の問題だった。
――――――――――
「おかえり、翔太」
「……ただいま」
部屋に入ると、照明は落ち着いたオレンジ色に落ちていて、
ダイニングテーブルには温かい味噌汁と、炊きたてのごはん。
俺の帰宅時間に合わせてご飯ができてる生活なんて、何年ぶりだろう。
スーツのジャケットを脱いでソファに腰を下ろすと、涼太が隣にちょこんと座ってくる。
「今日もおつかれ。大変だった?」
「……まぁ、いつも通り。忙しいだけだよ」
テレビから流れるニュースを眺めながら、なんとなく口が軽くなる。
「昔付き合ってた子にさ、『翔太は完璧すぎて、息が詰まる』って言われたことあってさ」
涼太がこちらを見る。
「へぇ。そんなこと言われたんだ」
「まぁ、俺なりに気は使ってたつもりだったんだけどな。
あんまり人に迷惑かけたくないし、変な顔も見せたくなかったし……」
「うんうん」
返事は軽いけど、ちゃんと聞いてるってわかる声。
俺の話に、あんなふうに茶々入れず耳を傾けてくれるやつ、案外いなかった。
ふと息をついて、言ってみた。
「……俺って、やっぱ完璧すぎるように見える?」
涼太は一瞬考えるふりをして、首をかしげた。
「完璧? うーん……確かに綺麗好きだけど、完璧とは程遠いよ、翔太は」
「……え?」
意外な返答に、思わず声が出た。
「だってさ、朝は寝ぐせちょっとついてるし、ソファで靴下脱ぎっぱなしだし、
コーヒーの飲み方だって、マグカップにやたら砂糖入れるし」
涼太は悪びれもせず、ひとつずつ数えながら笑った。
「そういうところ、俺は好きだけど。なんか……人間らしくてさ」
——人間らしい。
誰にも見せないようにしてた“抜けた部分”を、笑いながら肯定されるとは思ってなかった。
俺は一瞬、言葉が出なかった。
「……涼太って変わってるな」
「ありがと」
「いや、褒めてないけど?」
「でも嬉しいでしょ、翔太。顔に出てる」
そう言って、涼太が俺の頬を指でちょん、とつつく。
頬がほんの少し、熱を持つ。
顔に出てたのかもしれない。……いや、絶対出てた。
だけど今だけは、指摘されても嫌じゃなかった。
むしろ。
ちょっとだけ、そのままつつかれててもいいかもって、思ってしまった。
―――――――
「完璧とは程遠いよ、翔太は」
──その一言が、頭の中で何度もリピートされていた。
冷静を装ってコップを洗ってたのに、手が滑って水をこぼしそうになったくらいには、たぶん動揺してた。
ていうか、動揺っていうか……浮かれてた。めちゃくちゃ。
「人間らしくて好き」
そうも言われた。
いや、好きって。そういう“好き”じゃないってわかってるけど。
でも、言われ慣れてない言葉ほど、変に響く。
ソファに戻って、なんとなくぼーっと天井を見上げる。
完璧、か。
俺って、完璧だったのか?
別に自分ではそんなつもりない。ただ、余計な波風立てずに、周囲に迷惑かけないようにしてきただけで。
それが“完璧”に見えるなら、なんか世の中ってややこしい。
……てか、完璧って、なんなんだ。
「……っしょ」
ふと聞こえた水音と、洗濯機の回る音。
洗面所のドアが少し開いてて、涼太の横顔がちらりと見えた。
袖をまくって、黙々と洗濯物を分けてる。
白いシャツと黒いTシャツをきっちり分けて、洗剤を計量スプーンできっちりすくって、まるで日常のプロみたいな手つき。
俺よりずっと家事できて、食事は毎日おいしいし、感情表現は素直で、誰とでもすぐ打ち解けて、
なんなら“ご主人様”ってノリすら笑顔で受け入れちゃう柔らかさまである。
……え、完璧じゃん。涼太のほうが。
それに何より、俺の“ダメなとこ”を見ても嫌な顔ひとつしない。
むしろ笑ってくれる。
「なに見てんの、翔太」
いつの間にか気づかれていた。
涼太がこちらをちらっと見て、洗濯かごを小脇に抱えながら首をかしげる。
「……別に。なんでもない」
「ふーん。じゃあ、さっきの続き、あとでちゃんと聞かせてね」
「続き?」
「完璧すぎるって言われた話。あれ、気になってる」
そう言って、涼太はそのまま洗濯機のスイッチを押して、軽く口笛なんか吹きながら戻っていった。
俺はその背中をぼーっと見送りながら、
思ってしまった。
──こいつ、もしかして完璧なのは“俺”じゃなくて“涼太”の方じゃないか?
でも。
それを本人に言ったら、きっとまたあっけらかんと笑って、
「俺なんか全然だよ」って言いそうで。
……その笑顔がまた、完璧で、腹立つくらい。
けど、なんだろうな。
それに気づいた自分が、ちょっと嬉しかった。
「あ、そうだ。さっきの話、続き聞かせてくれる?」
週末の昼下がり。
コーヒーを片手に涼太が隣に腰を下ろしてくる。
昨日の“完璧じゃない”話の続きなんて、正直もうどうでもいいくらい心は落ち着いてたけど──
まあ、彼の前ではなんとなく話せてしまう気がするから、不思議だ。
「……いや、もう別にオチもないし、たいした話じゃ──」
「あのさ」
涼太がすっと、俺の顔をのぞき込む。
「ほんとは、その話の続きってのはちょっとした口実で……今日、ちょっと出かけたいんだよね」
「は?」
「買い物付き合ってほしいの」
言いながら、涼太はわざとらしく両手を合わせてみせる。
なんだその“お願いポーズ”。
「ネットで済ませばよくない?」
「それだと選ぶ楽しさがないじゃん。ほら、たまには外出ようよ、翔太」
その“翔太”の言い方が、やけに優しくてずるい。
しかも、ちょっとだけ上目遣いになってるのも、わかってやってる。
「……何買うの」
「翔太のパジャマ」
「……は?」
「最近さ、スーツの上にそのへんのTシャツとか着て寝てるでしょ。あれ絶対肩こるよ。ちゃんとした部屋着、買おうよ」
「あれ別に寝る用じゃないけど……」
「だから。ちゃんとしたやつ」
にこにこと言い切るその顔を見てると、断る理由を忘れる。
というか、どっちが“飼われてる側”かわからない。
「……わかったよ。ちょっとだけな」
「やった!」
満面の笑みで立ち上がる涼太は、まるで散歩に連れてってもらえる犬のようだった。
こいつがこうして俺の隣にいることが、最近はなんか、
“日常”ってより“日々の癒し”に変わってきてる気がする。
わかってる。
この感情は、きっとただの同居人に向けるものじゃない。
でもまあ、今日は深く考えず、
ただ一緒に歩くことにしてみよう。
涼太が隣にいる週末ってだけで、
少し空が広く見えるから不思議だ。
「翔太ー、準備できた?」
リビングから涼太の声が飛んでくる。
スニーカーの紐を結びながら「こっちはとっくに」と返すと、
涼太が玄関までぴょこっと顔を出してきた。
グレーの薄手のパーカーに、ラフな黒パンツ。
シンプルなのにやたらと似合ってて、思わず目が止まる。
「じゃ、行こっか」と俺が立ち上がった瞬間。
「ねぇ、翔太」
「ん?」
「出かける時ってさ、ペットに首輪つけるのがルールじゃなかったっけ?」
ニコッと笑って、指で俺の首元をつんと軽くつついてくる。
「……は?」
「首輪、忘れてるよ? ご主人さま?」
にやにや笑ってる顔に、思わず目を細める。
「お前な……どっちがペットだよ」
「えー、だって最近は翔太の方が俺に懐いてない?」
「うるさい」
言いながら、つい口元が緩むのを止められなかった。
冗談なのはわかってるけど、その“からかい”がやけに優しくて、
まるで心のどこかに触れられるみたいだった。
玄関のドアを開けると、春の風がふわっと吹き込む。
靴を履いた涼太が、いつものように並んで歩き出す。
だけど今日は、さっきの言葉がずっと耳の奥に残ってた。
「どっちが似合うと思いますか?ご主人様」
ハンガーにかかったルームウェアを両手に持ちながら、
涼太がキラッキラの笑顔でこっちを見てきた。
……は?
「いや、やめろその呼び方」
「えー、でもそもそも俺ペットなんでしょ?さっき首輪の話もしたし」
「勝手に言ってただけだろ」
「はい、ご主人様、こっちのグレーとネイビー、どっちがいいと思いますか?」
まったく悪びれる様子もなく、服を差し出してくる。
店内の一角、他の客もいるってのにこのテンション。
まったく……
「……グレーでいいよ。落ち着いて見えるし」
「わかりましたっ、ご主人様のご命令通りに」
わざとらしくお辞儀までして見せるから、思わず吹き出しそうになる。
「やめろって言ってんだろ、ほんとに……」
小声で言っても、涼太はニヤニヤが止まらない。
「え、でも翔太さ、なんだかんだ楽しそう」
「は?」
「ちょっと口角上がってるし。ね?」
ぐいっと覗き込まれる。
たしかに、顔が緩んでる自覚はある。
……悔しいけど、こういうの嫌いじゃない。
というかむしろ、涼太が隣でこんな風にくだらない冗談言って、
そのたびに俺の反応を楽しんでるのが──なんか、いい。
「……お前さ」
「ん?」
「俺が甘いってわかってて、からかってんだろ」
「え、バレた?」
全然反省してないその顔に、つい肩の力が抜けた。
ああもう、なんだこれ。
たかが買い物のはずなのに、“一緒にいる”ってだけで、
いつの間にか心がくすぐられていく。
帰り道、袋を提げて並んで歩きながら、ふと思った。
──俺の“日常”って、いつからこんなにやわらかくなったんだろう。
横にいるこの笑顔のせいかもな。
そう思ったら、さっきまでの“ご主人様”ってふざけた呼び名すら、
少しだけ、悪くないかもって思ってしまった。
――――――
「ふー、歩いたな」
「ね、けっこう歩いたよね。楽しかったけど」
玄関で靴を脱ぎながら、涼太が嬉しそうに言う。
買い物袋を手にリビングへ向かいながら、俺はなんとなくその声に釣られて、笑ってた。
「とりあえずコーヒーでも淹れるか」
「うん、その間に着てみてよ」
「は?」
「部屋着。せっかく買ったんだし、サイズも見たいし」
なんでそんな目を輝かせてんだ。
とは思いつつ、せっかく選んでくれたわけだし、無視するのも変だ。
「……わかった」
渋々、袋からルームウェアを取り出して、寝室へ向かう。
──数分後。
リビングに戻ると、涼太がソファにちょこんと座って、こっちを見上げてくる。
「おお……」
「……何その反応」
「いや、似合ってる。めちゃくちゃ」
そして、例の笑顔がじわっと滲み出る。
「ほんとに、ご主人様って感じだね」
「またそれかよ」
思わず額を押さえる俺。
でも、涼太は嬉しそうにクスクス笑ってる。
「なんか、ちゃんと落ち着いた雰囲気出てるっていうか……なんだろ、安心感ある」
「服で安心感て……」
「うん。でもやっぱり、似合うよ。ご主人様」
肩をすくめながらも、俺は気づいてしまう。
こいつの「ご主人様」は、ただのふざけた呼び方じゃない。
どこか、俺のことを“自分の居場所”って言ってるような、そんな響きがある。
……勘違いだったとしても、それでもちょっと、悪くない。
「ありがとな」
「え?」
「服、選んでくれて。気に入った」
一瞬だけ驚いた顔をした涼太が、照れたように笑って小さくうなずいた。
「どういたしまして、ご主人──」
「それ以上言ったらコーヒー抜きな」
「……はいはい」
そんな他愛もない会話が、心地よくて、
この時間ごと、誰にも渡したくないと思った。
―――――――――――
「最近、渡辺さん雰囲気柔らかくなったよね」
コーヒー片手に同僚がぽつりとこぼす。
思わず「は?」と返した俺に、隣の先輩まで笑いながらうなずいた。
「いや、ほんとに。前はなんかこう…完璧主義でちょっと近寄りづらかったけど、今は自然に声かけやすい感じするし。笑うことも増えたしな」
「……そうか?」
「何かあった?いいことでも」
そう言われて思い浮かんだのは──
ソファに寝転ぶ涼太、冗談まじりに「ご主人様」って笑う声、洗濯物の匂い、
そして帰宅時に「おかえり」と言ってくれる誰かの存在。
「ま、いろいろな」
曖昧に笑ってごまかしたけど、胸の中はじんわりあったかかった。
仕事も順調だった。
次のプロジェクトもスムーズに滑り出し、
プレゼンの手応えも文句なし。
なんというか──毎日が噛み合っている、そんな感じだった。
そう、今日までは。
取引先のビルに入ったその瞬間、聞き覚えのある声に足が止まった。
「……翔太?」
振り返ると、そこにいたのは──
「……久しぶり」
「うん、まさかこんなところで会うなんて」
元カノ。
俺があのとき、無理をして、強がって、うまくやろうとして、結局こぼれ落とした人。
スーツ姿は変わらずきちんとしていて、
けれど俺を見上げるその目は、少しだけ柔らかかった。
「元気そうだね」
「そっちも」
一瞬、気まずさより先に、妙な安心が胸に広がった。
前ならきっと、息を飲んで、動揺して、
過去を引きずる自分に嫌気がさしてたと思う。
でも今は──大丈夫だった。
「雰囲気、変わった?」
彼女がぽつりと呟く。
「……そうかもな」
思わず口元が緩む。
「よかったら、このあと一杯だけどう?」
仕事終わり、ビルのロビーで再び彼女に声をかけられた。
断る理由はなかった。
──いや、本当はひとつ、ちらりと浮かんだ顔があったけど。
「……いいよ。一杯だけな」
そう返すと、彼女はふっと肩の力を抜いたように笑った。
入ったのは、落ち着いた雰囲気のワインバーだった。
照明はやわらかくて、グラスを置く音が静かに響く。
テーブル越しに向かい合いながら、最初は仕事の話をした。
取引先のこと、昔の同僚のこと、お互いの近況。
けれどグラスが半分ほど空いたころ、彼女がぽつりと切り出した。
「……あのときさ、私、変なこと言ったよね」
「え?」
「翔太のこと、“完璧すぎる”って言って……それがしんどくなったって、言った」
……ああ、あれか。
あの一言がずっと胸に刺さってた。
完璧じゃないといけないと思い込んで、
でも完璧であるほど、誰にも近づけなくなる──そんな自分をずっと責めてた。
「ごめんね。あの言葉って、なんかすごく勝手だったなって、今は思う」
そう言って、彼女はグラスの縁を指でなぞった。
「翔太が“完璧”なんじゃなくて、私が勝手にそう見てただけで……怖かったんだと思う。
自分が不安定な分、隣にいる人が完璧だったら、自分が壊れそうで」
彼女の言葉は、昔の自分への答えのようだった。
それと同時に──
今の俺なら、きっとこう思える。
「……あの頃の俺、完璧どころか、余裕なさすぎて周りが見えてなかった」
「ううん、そんなことなかったよ。ただ……」
そこで、彼女はふと視線を上げた。
「今の翔太は、ちょっと違うね」
「……そうか?」
「うん。柔らかくなったっていうか、ちゃんと人に触れてる感じがする」
その言葉に、ふと頭に浮かんだのは──
ソファに転がってる涼太の寝ぐせ、
朝、トーストをかじりながら「行ってらっしゃい」って言うあの声。
洗濯機の音と、並んで歩く帰り道。
今の俺を作ってるのは、間違いなくあいつだ。
「……ま、変わったって言われるのは悪くないな」
「ほんとに、よかった。会えて」
彼女は少し寂しそうに、それでもどこかスッキリした顔でそう言った。
俺も──どこか、救われたような気がした。
「ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
それだけ言って、俺たちはグラスを置いた。
―――――――
タクシーを降りて、マンションのエントランスに立った時。
夜の空気が冷たくて、酔いが少しだけ醒めた。
──はぁ。
思わずひとつ、ため息をつく。
別に悪いことがあったわけじゃない。
元カノとの再会も、飲みの時間も、ちゃんといいものだった。
でも、やっぱり思う。
今の俺が帰りたい場所は、あそこじゃない。
ガチャ。
鍵を回してドアを開けると、
リビングからぴょこっと顔を出した涼太がこっちを見た。
「おかえり、翔太」
何でもないみたいに、自然に。
当たり前のように、そこにいて。
──その一言だけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
「……ただいま」
靴を脱ぎながら返すと、涼太が少し首をかしげた。
「遅かったね。飲んでた?」
「まぁ、ちょっとな。仕事関係で」
正確にはちょっと違うけど、嘘は言ってない。
「そっか。お疲れ」
「……ああ」
言葉少なにやり取りしながら、
涼太がキッチンに戻って、温かいお茶を淹れてくれる。
カップを受け取った指先まで、ほっとする。
こういうのが、
俺が“帰ってきた”って思える瞬間なんだろうな。
ソファに並んで腰掛けると、涼太がちらりと横目でこっちを見た。
「なんか、顔、優しくなってるよ」
「顔?」
「うん。いいことあった?」
小首をかしげる仕草が、
無邪気なのに、やけに心の奥に届く。
「……まぁな」
素直にそう言うと、涼太は「ふーん」とだけ返して、
俺の隣にもたれるみたいに、少し身体を預けてきた。
その重みが、たまらなく心地いい。
そっと、涼太の髪に手を置いて撫でる。
柔らかい感触と、涼太の静かな呼吸。
言葉はいらない。
この時間だけで、十分だった。
過去も、後悔も、
全部、乗り越えてここまで来たんだ。
──今の俺には、ちゃんと帰る場所がある。
そう思ったら、思わず笑みが漏れた。
涼太がそれに気づいて、ちらっとこっちを見る。
「なに?」
「なんでもない」
「ふーん?」
半信半疑な顔をしながらも、またそっともたれかかってくる。
それが妙にうれしくて、
俺はもう一度、涼太の髪を撫でた。
何気なく、その横顔を見ていて──
ふと、胸に浮かんだ疑問が言葉になった。
「なあ、涼太」
「ん?」
「最初さ、段ボールに入ってたじゃん……なんであんなとこにいたんだ?」
涼太の身体が、すっと固まったのがわかった。
それでも俺は続けた。
「いや、別に責めたいとかそういうんじゃなくて。ただ……」
涼太が何も言わないから、言葉を探しながら話す。
「俺、涼太のことちゃんと知りたいって、最近思うんだよな。生活も慣れてきたし……“ペット”って言ってるけど、それだけじゃなくて」
その時だった。
涼太が、ゆっくりと俺のほうを向いて言った。
「翔太、そういうの──あんまし聞かないで」
声は静かだったけど、はっきりと拒絶の色があった。
「……なんで?」
「だって俺、ペットだから。過去とか、事情とか、そういうのいらないでしょ?」
「いるよ。俺には」
思わず言い返した。
でも涼太はふっと鼻で笑って、目をそらした。
「翔太、そういうとこよくないよ」
「それ、どういう──」
「“知ってあげよう”って思う時点でさ、やっぱり翔太のほうが上からだよ」
「……っ」
言葉が詰まる。
そんなつもりじゃなかった。
けど、そう聞こえてしまったなら──俺の伝え方が、間違ってたのかもしれない。
涼太は立ち上がって、キッチンのほうに向かう。
その背中が、少し小さく見えた。
「俺、別に過去を話して受け入れてもらいたいとか、そういうのないから。
ここで、こうやって“ただいま”と“おかえり”があれば、それでいいと思ってた」
静かに、でもどこか必死に吐き出すようなその声に、
胸がぎゅっと締めつけられた。
「……ごめん」
ようやく出せたのは、それだけだった。
涼太は振り返らなかったけど、
その背中がほんの少し、揺れた気がした。
――――――――
それから数日、
俺たちは“いつも通り”の空気を保とうとしていた。
けれどそれは、“わざと”そうしているのが明白で──
ほんの少しの距離が、妙に気になって仕方がなかった。
朝、俺が「行ってくる」と言うと、涼太は「いってらっしゃい」と微笑む。
夜、「ただいま」と言えば、「おかえり」と返ってくる。
変わらない言葉。でも、そこにあったぬくもりが、どこかぎこちない。
目が合っても、すぐにそらされる。
ふと触れそうになった手も、自然と引っ込めてしまう。
涼太は、必要以上に喋らなかった。
家事はきちんとこなして、部屋も以前と変わらず整っている。
でも、静かすぎるんだ。
涼太らしくない──あの、ソファで無意味にゴロゴロしてた自由さが、ない。
俺はというと、聞かなきゃよかったのか、それとも聞くべきだったのか、
その境目でずっと足踏みしていた。
言い訳のように、「知りたかっただけだ」と繰り返して、
でも、それがどんなふうに涼太を傷つけたのかまでは、
まだちゃんと分かっていなかったのかもしれない。
週の半ば、遅くまで仕事が長引いて、
終電ぎりぎりで帰った日のこと。
部屋の電気はついていて、涼太はリビングのテーブルで本を読んでいた。
「ただいま」
声をかけると、顔を上げる。
「……おかえり」
それだけだった。
けれど、その返事には、
どこか安心したような響きがあった。
俺が帰ってきたことで、
なにか張りつめていた糸が、ほんの少しだけ緩んだような。
それでも、すぐには戻らない。
お互いに、何かを待っている。
言葉にしてしまえば壊れそうで、それでも何かが足りない気がして──
触れたいのに、触れられない。
そんな夜が、静かに続いていた。
気になる二人の恋の続きはこちらからどうぞ。
笑って、キュンとして、時々じれったい──
あなたのお気に入りのカップリングが、ここにきっとある
続きはこちらから
https://note.com/clean_ferret829/n/n25367effe8c2
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