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名木沢が園香と別れたあとにいくつか用事をこなし松濤の自宅に帰宅したのは、午後十時丁度だった。
広い邸宅には、母と祖母が同居しているが、それぞれ好き勝手に生活している為、顔を合わす機会は少ない。
自分の部屋がある二階に上がるとそのまま自室に向かおうとした。そのとき。
「清隆さん、お帰りなさい」
思いがけなく声をかけられた。振り向くと妻の希咲が笑顔で佇んでいた。
彼女も帰宅したばかりなのか、華やかに着飾った姿だ。
名木沢は無意識に眉を顰めてから、視線を逸らした。
「……居たのか」
居ない方がよかったのに。心の中で無意識にそう続けていた。
酷い夫だと思うが仕方がない。
疲れて帰宅したというのに、疲労が溜まるだけの彼女との会話なんてしたくない。
「ねえ、どこに行っていたの?」
希咲が一歩近づいてきた。微笑んでいるが、その目は獲物を狙うかのように油断がない。
「仕事だ。何か用があるのか?」
「たまには夫をお出迎えしようかと思って。最近、妻の役目を果たしてないかなって気が付いたんだ」
「柄にもないことを」
名木沢は乾いた笑いを漏らした。
彼女が今日、冨貴川瑞貴と会っていたと知っているだけに、わざとらしいとしか思えない。
「清隆どうしたの? 機嫌悪くない?」
希咲が明るく言いながら清隆の腕を両手でつかむ。
まるで絡め取られたような、不快感が込み上げて、咄嗟に手を振り払いたくなったが理性で堪えた。
(冨貴川なら喜ぶんだろうな)
彼は希咲に夢中な様子だ。
自分の妻に離婚を告げられてもなお、希咲を何よりも優先しているくらいで、名木沢からすると馬鹿げた行動だ。
彼は希咲のどこに惹かれているのだろうか。
ふたりの不倫を知ったとき、名木沢の頭には浮かんだのはそんな疑問だった。
リスクを背負ってまで、彼女を求める気持ちが、名木沢にはまったく理解できない。
(彼女の方が、余程よい妻だと思うけどな)
脳裡に数時間前に別れた園香の顔が思い浮かんだ。
彼女に会うのは二度目だ。
事故で忘れていた記憶を取り戻したそうで、名木沢を見る目は、一度目よりも厳しくなっていたが、言動はしっかりしていたし気丈に振舞っていた。
名木沢は警戒されてしまっているが、本来は優しく穏やかな人だと思う。
(それにしても、彼女の態度は意外だったな)
記憶を取り戻したと言うのに、夫に対して非常に冷めた態度だと感じた。
夫の不倫に悩み、名木沢に電話をして来たときの彼女と、同一人物とは思えない。
(あのときの彼女は、混乱していて初めは何を言ってるのか分からないくらいだった)
あまりに要領を得ない話し方で、少し苛立ったのを覚えている。
妻と自分の夫が不倫をしていて困っていると初めに言われなければ、すぐさま通話を切りたいくらいだった。
忙しいのに厄介事を持ってこないで欲しい、そう思った。
けれど、震えた声で必死に訴える彼女の声を聞いているうちに、気持ちが変わっていった。
彼女は、名木沢が想像できない程に悲しんでいると気付いたからだ。
夫を深く愛しているからこそ、酷く苦しんでいる。
明らかに限界で、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
その原因は自分の妻にある。
放っておけないと思った。
だから会って話がしたいと言われて、了承した。
それなのに、彼女は約束の時間になっても現れず、キャンセルの連絡も入らなかった。
面識のない名木沢に会うのに直前で怖気づいたのか、または行動をする勇気がなくなったのか。
なんにせよ、名木沢に会う必要がなくなったのならよいことだ。
釈然としない気持ちもあったが、名木沢は園香のことを忘れて日常に戻った。
その後、園香の事故を知るまでは。
(あれから約半年か……)
夫への想いを割り切るのに半年という時間は十分なのだろうか。
名木沢は園香のように誰かを愛したことがないから、分からない。
それでも彼女の割り切り方は、不自然な気がしている。
(記憶喪失になったことが影響しているのか?)
考えに沈んでいると、苛立ったような女の声がした。
「ねえ、無視しないでよ!」
甲高い声が耳障りだ。
「いちいち叫ばないでくれ。それで何の用なんだ?」
「長くなるから部屋で話そうよ」
「それならリビングで待ってろ。すぐに行く」
「ええ~面倒だよ。清隆の部屋でいいでしょ?」
わざとらしく頬を膨らます希咲を、名木沢は睨みつけた。
「お互いの部屋には入らない契約だろ?」
「まだ、そんなこと言ってるの?」
希咲が、はあと大袈裟に肩をすくめる。芝居がかった馬鹿にしたような態度に名木沢は眉をひそめた。
「結婚時の契約すら守らない気か?」
希咲は時間が経つにつれて、なあなあで済ませるつもりのようだが、名木沢にそのつもりは一切ない。
「分かってるよ。私たちは愛のない契約結婚。お互い干渉はしないし、させない。でしょう?」
「そうだ。だから部屋に勝手に入ろうとしたり、俺を監視するような真似はするな」
希咲が今日に限ってこれ程絡んで来るのは、園香と会っていたことに気付いた可能性がある。
「監視って酷いなあ……夫の行動が気になるのは妻なら当然じゃない。契約結婚でもだんだん情が湧いてきて、本当の夫婦になったりするケースもあるんだよ?」
「俺たちに限ってそれはない。分かってるだろ?」
よく知らない者同士が、条件付きで夫婦になった訳じゃない。
名木沢と希咲が初めて会ったのは二十年以上前で、お互いを知るには十分な時間が流れている。
そのうえで夫婦として愛し合うことは出来ないと判断し、条件付きの結婚をしたのだから。
「はあ、清隆は本当に頑固」
「……話があるなら早くしてくれ」
これ以上、彼女の会話に付き合うつもりはない。
「もう、せっかちなんだから」
彼女はそう呟くと、表情を消して、名木沢を見据えた。
「あの人と何を話していたの? まさか離婚したいなんて言わないよね?」
名木沢は思わず顔をしかめた。
「監視しているのか?」
「やだ、そんな怖い顔しないでよ」
希咲は馬鹿にしたように吹き出した。
不快な態度だが、希咲がこういった態度を取るのは、何かを誤魔化そうとしているときだ。
不本意ながら、名木沢は希咲のことをそれなりに理解している。
(もしかしたら冨貴川瑞記が、自分の妻を監視しているのかもしれないな)
あの男は不倫をしながらも、自分が不利な離婚を避けようとしているのかもしれない。
名木沢は瑞記の人柄を直接知っている訳ではないが、以前連絡してきたときの園香の弱り方を思い出すと、ろくな夫ではないだろうと想像できる。
「ねえ、無視しないでよ」
希咲が名木沢の腕を掴んだ。払いのけたい気持ちを抑えて、そっと手を引いた。
「お互いプライバシーには干渉しないんじゃなかったのか?」
「基本的にはそうだけど、離婚となったら話は別でしょう?」
「……俺はそろそろ離婚を考えるべきだと思ってる」
「えっ?」
希咲が大きく目を見開く。
彼女のことだ。自分から離婚の話を振っても、心の底では名木沢は離婚出来ないと高を括っていたのだろう。