◇◇◇◇◇
『翔くん、ありがとう。弁護士から連絡があり、淳との連絡は弁護士を通してになりました。これで一安心です。今日は仕事も終わったので、これからお弁当を買ってホテルに戻ります』
愛理は、ホテル住まいを続けていた。下手に部屋を借りるより、身軽に移れる方が良いと思ったからだ。
そのホテル住まいを心配する翔へ、仕事終わりに安全アピールのLIMEメッセージを送った。
社員証をリーダー機にかざし、退勤手続きをして、足早に廊下を歩く。勤め先の株式会社AOAが入っているフロアからエレベーターに乗りエントランスホールに降りて来た。
そして、すぐに追跡アプリのWatch quietlyを立ち上げる。不倫の手がかりになればと、淳のスマホに入れたアプリだったけど、今は淳の位置確認用に使っているのだ。
勝手に人のスマホに追跡アプリを入れるのは、例え夫婦間といえどもプライバシーの侵害、違法行為に当たり、本当はやってはいけないことだ。
でも、淳の居場所がわかれば、避けて行動することもできる。ぬるいことを言っていたら自分の身を守れない。
ホテルから会社へ出勤するとき、会社のお昼休み、会社からホテルへ戻るときなど、愛理は不安感で建物から出るたびにアプリの位置情報を確認していた。
手にしたスマホの画面には、淳の位置情報を示す赤い点滅が映し出される。
それを見た瞬間、愛理は、ひゅっと息を飲み込んだ。
今居る、建物の近くに赤い点滅が表示されているのを確認して、ドキドキと心臓が早く動き出す。
地図を拡大すると、近くのコインパーキング付近だ。
すぐにでも裏口から出てタクシーを拾うか、それともこのまま建物から出ないで様子をみるか、その判断に迷う。
すると、スマホが振動し、着信音を鳴らし始める。
淳からの電話かも……。
そう思うと、愛理の心臓の鼓動は激しくなる。
スマホの画面を確認すると、非通知ではないけれど知らない電話番号だ。
でも、淳が新規の電話番号からかけて来ている可能性だってある。今、この状況で出る勇気は持てなかった。
弁護士から淳のところへ、離婚の意思とこの先の連絡方法について、話しが行ったはずだから、それで怒って、会社まで来たのかもしれない。
今後の生活を考えたら、会社で騒ぎを起こしたくないし、同僚にも知られたくない。
辺りをキョロキョロと見回した。建物裏口に近いところにある女子トイレを見つけ、そこへ避難する。
トイレの個室に入り、もう一度、追跡アプリのWatch quietlyを確認する。赤い点滅はビルの正面玄関へ移動しているように見えた。
勤務先の会社が入っているオフィスビルの1階には、コンビニとカフェがある。もちろんその部分は、一般にも開放されていて、フリーで入れる。
待ち伏せするとしたら、その付近に居るはずだ。
追跡アプリで確認をしていなかったら、正面玄関でいまごろ鉢合わせをしていただろう。
それにしても、自分の夫から逃げ回るような事態になるなんて、なんのために結婚したのか。
そんなことをふと思い、愛理は、ふぅーっと、大きく息を吐き出した。
付き合っていたころの淳は、行動力があり、誰とでも仲良く接していた。
少し強引で、引っ張って行ってくれる淳を、リーダーシップがあり、頼りがいのある男性だと思っていた。
けれど裏を返せば、強引というのは、自分の思い通りにしたい、自分の思い通りにならないと気が済まない、という子供っぽい面がある。
誰とでも仲良くできるというのも、自己肯定感が強く自分に自信があるから。それがいつの間にか、家庭での上下関係や不倫に繋がるなんて考えもしなかった。
愛情というオブラートが消えてしまった今は、いろいろなことが見えるようになっていた。
スマホの画面の赤い点滅は、エントランスから動いていないみたいだ。けれど、いくら最新のGPS機能であっても、建物に入ると、どこに居るかまではズレが出たりして、確実ではないこともある。
「どうか、このまま会わずにいられますように」と愛理はスマホの画面を見つめた。
裏口から出てしまおうか、そう思った瞬間、再びスマホが振動し、着信音を鳴らし始めた。
驚きのあまり「ひっ」と声を上げてしまい、慌てて口を押える。
おそるおそるスマホの画面を確認すると、翔からの通話だ。
ホッと息を吐き出し、すぐさま画面をスワイプする。
『愛理さん、週末の予定を聞こうと思っていたんだ』
翔の明るい声がスマホ越しに聞こえて来る。淳がそばに来てることを言えば、きっと助けてくれるだろう。でも、また、この前のように淳が危害を加えたらと思うと何も言えなくなってしまう。
「……」
『愛理さん、どうしたの?』
「あ、あの……。ちょっと、電波が悪かったみたい」
『……これから、車で迎えに行くから、会社から出ないで、誰かと一緒に居て!』
何も言っていないのに、察したような翔の言葉に愛理は戸惑う。
「で、でも……タクシーで帰るから……」
『愛理さんに折り入って、話しがあるから、《《安全なところ》》に居て』
「私なら大丈夫だよ。後で電話す……」
言葉を遮るように翔の低い声が聞こえて来る。
『愛理さん、オレだって怒るよ。何かあってからじゃ、遅いんだ。いいかげん素直に話してくれてもいいんじゃない!? 』
「……ごめん、翔くん。淳が会社の近くに居るみたいなの」
『直ぐに行くから! 誰かと一緒にいて。着いたら連絡する』
通話が切れると、途端に不安になる。
誰かと一緒にと言われたけど、すでに会社のフロアから出て、1階のトイレの中だ。戻るのにエントランスホールにあるエレベーターを使わなければ上へ行けない。それなら、ここに居た方が安全そうに思える。
スマホの画面を追跡アプリに切り替えて、赤い点滅の位置を確認したけれど、正面玄関からは動いていなかった。
時間が経つのが、普段より遅く感じる。
時折、トイレを利用する人の足音が聞こえて来きて、女子トイレの中にいるというのに、過敏にビクッとしてしまう。そして、足音がコツコツと遠ざかり、ホッとする。
そんなことを幾度か繰り返し、スマホが振動を伝えた。
心臓の脈動が早くなる。
スマホの画面が通話に切り替わり、翔からの着信だ。慌ててスワイプする。
「もしもし」
念の為、口元を手で覆い、声をひそめた。
『愛理さん、今、会社の近くまで来たよ』
「建物の裏側に回れる? うん、いま裏口近くに居るの」
『わかった。裏口に回るよ』
トイレの個室から出て、手を洗う。水道のお水が思っていたより冷たくて、指先から体温を奪い、ゾクッと寒気が走った。
もう一度、スマホの画面に追跡アプリを呼び出す。淳の位置を示す赤い点滅は正面玄関のままだ。
エントランスホールから死角に当たるこの場所へ隠れたのは、正解だったかもしれないと、愛理は息をつく。
女子トイレから裏口へ続く廊下へ、用心深く顔を覗かせたけれど、幸い誰の姿も無くて、廊下へと足を踏み出した。
裏口のドアが見えて来る。
あと少し……そう思った。
「あっ⁉」
刹那、愛理の手首は大きな手に掴まれ、後ろへ体が揺らぐ。腰を抱き留められ、耳のすぐ横で声がする。
「愛理、探したぞ。電話も通じないとか、どういうつもりだ」
「淳……」
賑やかなエントランスホールから、死角になっているこの場所で、淳に会ってしまった。
例え誰かに見られていたとしても、他の人からは、倒れそうになった愛理を淳が後ろから支えているようにしか見えないだろう。
「何度も謝っているじゃないか。弁護士から直接連絡はするなとか、書類を送るとか言われて、意味がわからない。俺はお前が翔と別れるなら許すって言っているだろう。離婚なんかしないからな」
淳の中では、”愛理の浮気を許す良い夫”という図式が出来上がっているようだ。
自分のことは棚に上げて、翔とのことを引き合いに出し、許すと言われても、焦点が違うのだから話にならない。
でも、今ここでの言い争いは、悪目立ちになってしまう。この先の生活を考えたら、是が非でも避けたい。
それに、腰を抱き留められ、手首も掴まれたままになっている。
あまりにも近い淳との距離に、愛理は不安に駆られていた。
「……あの、落ち着いて話しをしない? どこかで、お茶でも、夕食がまだなら食事をしながらでも……」
ここで、騒ぎを起こしたくない愛理は、淳をなだめるように語りかけ、淳に寄りかかっていた態勢を立て直す。でも、淳の手は愛理の手首を掴んだまま放そうとはしない。
「ああ、家でゆっくり話をしよう。これからのことを話し合おう。もう、寂しい思いはさせない。だから、家へ帰るんだ」
「ま、待って⁉」
淳とふたりきりになったら何をされるのか……。
家へ帰るという誘いに愛理は、どうしても頷けない。
「歩きづらいから、放して……」
すると、淳の低い声が聞こえて来る。
「おとなしく家に帰るよな? 外に車を停めてあるから一緒に来るんだ。この前みたいに騒ぐなよ」
という言葉と共に愛理の手首を持つ手に力が入る。
裏口へ向かって淳は歩き出した。愛理は手首を掴まれたまま、背中を押されるように足を進めることしかできなかった。
建物の裏口から外へ出ると、肌を刺す冷たい風が吹き抜けた。すっかり日も落ち、街は闇に包まれている。
正面玄関のにぎやかさと違い、大通りから入った路地にあたる裏口は、街灯もわずかで薄暗く、それに人通りも無い。
近くに翔が来ているはず……。
視線を泳がせた愛理だったが、姿を見つけることはできなかった。
淳が車を停めたはずのコインパーキングまでは、まだ距離がある。
上着のポケットに入っているスマホが低い振動を伝え始めた。けれど、淳に手首を抑えられ通話に出ることが出来ない。
きっと、翔がどこかで自分を探してくれている。そんな希望を抱く一方で、このまま出会わない方が、翔がケガをするようなことにならず、良いのかもしれない。と、思ってしまう。
愛理は自分のせいで、淳と翔の仲がこじれているのが、ずっと気がかりだった。
「あの、お願いがあるんだけど……兄弟で傷つけ合うようなまねはしないで、大切な家族でしょう? 親だっていつまでも元気じゃないのよ。この先、何かあったときに頼れるのは、兄弟なんだから」
「はっ、バカ言うなよ。人のモノに手を出して、黙っていろと? その上、仲良くしろって? 夫に自分の男のお願いをするのかよ」
「翔くんとは、やましいことなんて、していないんだから! 翔くんは大事な家族なんだよ。このままだと年を取ってから、後悔することになると思う」
「家族なら俺にはお前がいるじゃないか。俺たち夫婦だろ」
先に夫婦の誓いを破ったのは、淳なのに今さら夫婦だと言われても、余計に心を冷やすだけだ。
「私は、淳の都合でいいように使われる”モノ”じゃない。弁護士から話しが出たと思うけど離婚は本気なの」
「俺は離婚するつもりはない!」
淳の言葉に愛理はため息をつく。心を尽くして言葉をかけようとも、話しは平行線のまま、何一つ解決しなかったのだ。
そして、とうとう車が停まっているコインパーキングまでたどりついてしまう。
淳が車に近づくと、カチリとロックが外れる音が聞こえた。
このまま車に乗せられ、家へ帰るかと思うと愛理は足を踏み出すことが出来ない。腕を掴まれたまま引きずられるように車の横まで連れて来られた。
愛理は淳の顔を見上げ、視線を合わせる。
「私……。家には帰らない」
「愛理、いい加減にしろよ!」
淳に掴まれている手首が、ギチッと痛み、車のドアが開けられた。
家へ帰るかと思うと、愛理の脳裏にあの時のタブレットに映し出された映像がよみがえる。大切にしていた空間を汚され、今までの大切な日々が消えた苦い記憶。
絶対に淳を受け入れるなんて出来ない。
最後の抵抗とばかりに声を張り上げた。
「いい加減にするのは淳の方でしょ。あの家へ帰って、私にあのベッドで寝ろというの? 私、知っているって言ったよね。不倫をしたのは私じゃなくて、淳、アナタなんだから! 私が不倫した証拠もないくせに、妄想で都合よく話をすり替えないでよ!」
「愛理!」
イラつきを隠せずに淳の表情が険しくなる。そして、空いている方の右手が高く上がった。
”殴られる” 愛理は、ギュッと目をつぶり、とっさに身構えた。
「やめろっ!」
その声でハッとして、顔を上げた愛理の瞳に、後ろから羽交い絞めにされてた淳が映る。
翔が駆けつけ淳を抑えたのだ。
この寒さの中、翔の額には汗が浮き、肩で息をしている。自分を探し、駆けずり回ってくれたんだと愛理は思った。
「翔、てめぇ。放せよ」
「自分の思い通りにならないからって、直ぐに暴力を振るうなんて最低だ。今度、暴力振るったらマジで警察呼ぶからな! この前のも診断書取ってあるから、冗談抜きに警察へ突き出すぞ!」
翔の一言で、淳はあきらめたように振り上げていた手を下ろした。
それでも気持ちが収まらないのか、淳は翔に食って掛かる。
「お前こそ、人のモノに手を出して、どういうつもりなんだ」
「どういうつもり? オレは愛理さんに手を出していないし、愛理さんは兄キの《《モノ》》じゃないんだよ。それに取られたくないなら、なんで大切にしなかったんだ」
「大切に思っていたさ。これからだって、大切にするつもりだ」
「今さら何言っているんだか。兄キが愛理さんを大切にしているのを、最近見たことがないんだけど。それに、大切な人に手を上げるとか考えられない。前に警告したよな。大切にしないと捨てられるって」
「くっ、」
淳は反論できず、悔しげに唇を噛んだ。
「だいたい冷静になって考えろよ。何かにつけて、力づくで自分の思い通りにしようとしているけど、暴力沙汰で加害者として逮捕されたら、社会的にアウトだ。兄キは会社の看板も背負っているんだから、自分だけじゃなく周りの人の生活まで影響が出るってわかっているのか!? 経営を担う者としての自覚を持てよ」
その言葉に、淳は肩を落としうつむいた。翔は細く息を吐き出し、愛理へと顔を向ける
「愛理さん、遅くなって、ごめん」
翔に優しく声を掛けられ、緊張から解かれた愛理は、ヘナヘナと地面へ座り込んでしまう。
「怖かった……」
愛理は小さな声でつぶやいた。
心から出た言葉だった。
その言葉に淳は顔を歪めた。
「愛理さん、立てる?」
と翔に手を差し出され、その手を借りて愛理は立ち上がる。
「兄キ、愛理さんを大切にしたいと考えているなら、なんで怖がらせるようなことしかできないんだ。本当は、自分の支配下に置きたいだけなんだろ。そんなことをして、夫婦と言えるのかよ」
「違う、これからは優しくする。俺が悪かった。だから……帰って来てくれ、俺にはお前が……愛理が必要なんだ」
今までの高圧的な態度と違って、ポツリポツリとつぶやく淳が、ひとまわり小さく見える。けれど、愛理は、もう一度夫婦として、やり直す気持ちにはなれなかった。
「私……。また淳に殴られるんじゃないか、浮気されるんじゃないかと、おびえながら生活なんて出来ない」
記憶の中にあるいろいろな思い出が、胸の奥に降り積り、切なさで埋め尽くされていく。
愛理は大きく息を吸い込み、言葉を続けた。
「お願いだからこれ以上、淳のことを嫌いになるようなことをして欲しくないの。一緒に過ごした楽しい時間まで、イヤな事で上書きしたくない。好きで結婚したはずなのに……。嫌いになるために結婚したわけじゃない。だけど、やり直すのは、もう無理なの。淳のことが信じられないの」
押さえきれない感情が、愛理の瞳から涙が流れ頬を濡らした。
「愛理……」
淳は、力なくつぶやき、うつむいた。
それを見て、翔は哀れむように眉尻を下げる。
「今日は、愛理さんを実家に連れて行くから。兄キも思うことはあるだろうけど、落ち着いて話が出来る状況じゃないよな。日曜日に改めて話し合おう」
まだ、涙が止まらず泣きじゃくる愛理の様子を見るように、翔は少し屈んで優しい瞳で語りかける。
「愛理さんも日曜日で、いいよね?」
愛理は涙を拭いながら、うなずき「ありがとう」と小さく返した。
「じゃ、日曜日に。他に人が居た方が冷静に話しが出来るだろうから、実家でいいよな。兄キも今までしてきたことを振り返って、考えをまとめて置いて」
「……ああ」
と、短い返事をした淳は、思いつめたようにうつむいたまま、地面の一点を見つめていた。
「愛理さん、歩ける?」
「もう、落ち着いたから大丈夫」
そう言って、愛理は翔へ笑顔を向けた。けれど、心配をかけまいと無理に笑っているせいか、唇が震えている。
それに気づいた翔は、困ったように微笑んだ。
今すぐにでも愛理に「自分の前では無理に笑わなくていいよ」と抱きよせ、優しくなぐさめたい。けれど、淳の前で愛理に触れれば、またあらぬ疑いを招き、火に油を注ぎかねない。
「愛理さん、行こうか」
と、抱きしめる代わりに、そっと背中に手を添える。
薄暗いコインパーキングに淳を残し、ふたりは歩きだした。
「翔!」
追いかけるように翔を呼び止める声がした。
淳の声で振り返った愛理の瞳に、街灯の仄かな明かりの中、鈍く光る物が見えた。
危ないと思った瞬間、愛理の手は動いていた。
「つうっ……」
翔と淳の間へ差し入れた左腕が熱く感じる。
痛みを感じてうつむくと、灰色のアスファルトの上に、ぽたりと落ちた血の色を見て「刺されたんだな」と愛理は理解した。
「愛理さんっ!」
翔はネクタイとハンカチで即座に止血を始める。
「つっ……だい……じょうぶ」
「あっ……」と、淳は、いまさら自分の犯した罪に気づいように後退った。
「この野郎! いい加減にしろって、言ってんだろ!」
唸るような翔の声がして、足が素早く動く。
高く上がった足が、淳の|鳩尾《みぞおち》へめり込む。淳は「うっ、」と声を漏らすと耐え切れず、後ろへ腰から倒れた。翔は攻撃を緩めずに、ナイフを持ったままの手を踏みつける。ボキッと鈍い音がして、淳の手からナイフがこぼれた。
すかさず、それを遠くへ蹴り上げ、勢いがついたままの足で、淳の胸をガツッと踏みつける。
荒い息のまま、上から淳へ睨みをきかせ、胸の上に乗せた足にグッと力を込めた。
「救いようのないクズだな。身内だなんて情けないよ」
翔は、悲し気につぶやいて、表情を曇らせた。
「翔くん……」
「愛理さん、ごめん。今、救急車呼ぶから」
その言葉に愛理は辛そうに眉を寄せたまま、首を横に振る。
「傷は、たいしたことないから、この前の病院に……」
「なに言っているんだよ」
「事件にしたくないの、お願い。それに淳も治療しないと……」
いくら自分を守るためとはいえ、警察沙汰にすれば、不動産リフォーム樹に影響が出るだろう。
今はちょっとしたことでも情報が拡散される恐れがある。次期社長とその弟との三角関係などと、揶揄されて、面白おかしく騒がれるかもしれない。
そんなことになれば、信用を失い会社が傾く恐れがある。
それに淳も負傷している。下手をすれば、過剰防衛として翔まで罪に問われる可能性だって捨てきれない。
愛理は自分だけが助かって、他の人たちを泥船に乗せるような選択は出来なかった。
正義感の強い翔は納得がいかないというように、なにかを言いかけた。けれど、言葉を飲み込み、大きく息を吐き出す。
「わかった。愛理さんの決めたことに従うよ」
そう言って翔は、地面へ横になったまま折れた手を抱える淳へ声をかける。
「聞いていただろ。病院へ連れて行ってやる。愛理さんに感謝しろよ。車の鍵は?」
「ポケット……に入っている」
弱々しい声で答え、淳はのろのろと体を起こし、ポケットから鍵を取り出した。そして、片膝をついて車へ寄りかかると、ポツリとつぶやく。
「お前に愛理を取られると思ったら……。カッとなって……悪かった」
淳から差し出された鍵が、翔の手へ渡る。
「謝るぐらいなら、感情に流されるなよ。今回のことは謝って、許されるようなことじゃないんだ」
「ああ……そうだな……」
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