テラーノベル
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里美の心配が杞憂に終わるほど、その夜も次の夜も健治の帰りは遅く、私が就寝した後に帰って来る日々が続いた。そして、朝になると慌しさ中で、顔を合わせるだけのサイクル。
良い事も悪い事も、何も無い状態だ。
自宅ヘの帰りが遅い健治。仕事で接待をしているのか、元カノの野々宮果歩に会っているのか、分からないまま、ゆっくり会話をする時間も取れずに、問題を先送りにしている。
夜、一人でベッドへ入ると、隣の空いたベッドが気になった。今、この時間にも健治と果歩がどこかのホテルで抱き合い、お互いの熱を感じているのかと思うと胸の奥が重くなる。
優しく甘い言葉を投げかけてくれる健治が、浮気をしているなんて今まで考えた事もなかった。
接待の名目で、女性のいるお店に行く事も良くあるだろうと、甘い香りを身に着けて帰って来ても、気にしないようにしていた。
色恋に疎い女はさぞかし扱い易かっただろう。
健治は、果歩とベッドで戯れ、彼女の全てを今も知っているんだ。
映画女優のように綺麗な果歩の細い腰を抱き、あの胸に……。
健治は、私の事が1番好きと言っていたけれど、男性経験もなく、地味な私では、元カノとは比較にならない。
それに1番があるって事は、2番もあるって事。健治の言う「愛しているよ」が私だけのものではないんだ。と、ネガティブ思考に陥る。
そんなのは、私の妄想で健治は遅くまで仕事をしているのかもしれないのに……。
明日の誕生日のためにレストランを予約していてくれている。
浮いたり、沈んだりする気持ちを持て余しながら、クローゼットの扉を開けた。
明日のためにワンピースを選び、バッグも用意する。
明日は、いい日になりますように……。
今は、それだけを思っていた。
約束の日。
仕事の後、ターミナル駅で、健治と待ち合わせをして、案内されたお店は、メインの道より一本入った所にある一軒家。
こんな駅近に竹が綺麗に植え込みされ、敷石や石灯篭まである一軒家があるなんて、その上、案内されたのは個室のお部屋。確かに、”いいお店に”とは言っていたけれど、豪華すぎる。
「健治、スゴイお店だね」
「でも、個室だからマナーとか気にしなくていいだろう? 美緒の30歳、節目の誕生日だからフンパツしたんだ」
「ありがとう、嬉しい」
このところ、愛されているのか自信がなくて、心がざわつき気持ちも不安定だった。
こんなに素敵なお店を選んでくれていた事に ”大切にされている” ”愛されている” と感じて、少し不安が消えたよ気持ちになる。それに、マナーを気にしなくても良いように個室という気遣いも嬉しく思った。
先付けに蒸し鮑の旨出汁ジュレから始まり、お凌ぎに海老湯葉巻き真薯、椀物、お刺身と美しく盛り付けされた料理が運ばれてくる。芸術作品のように、キレイに盛り付けされたお料理に感激した私へ、健治が優しい笑顔を向けた。
「美緒が喜んでくれて良かったよ。普段仕事で忙しくて、夜も遅いし、家の事もみんなやってもらっているから、感謝の気持ちを込めて」
お互いの江戸切子のグラスにお酒を注ぎ合う。スパーリングタイプの日本酒がシュワシュワと優しい音を立てた。
「美緒、お誕生日おめでとう」
「ありがとう、本当に嬉しい」
健治が、私を見つめながら、グラスを持ち上げた。
「乾杯」
「乾杯」
お酒を口に流し込むと、舌の上でキリッとした中に甘味が広がり弾けた後、心地よく胃の中に流れていく。
「はー、美味しい」
「これ、プレゼント」
健治が優し気に微笑み、綺麗にラッピングされた小さな箱をテーブルの上に置いた。
「えっ? こんなに素敵なお店に連れて来てくれたのに、プレゼントまで用意してくれていたなんて……。ありがとう、開けていい?」
「ん、開けてみて」
赤いビロードのリボンを解き、ガサガサと包み紙を開ける。中から出て来たのは、有名ブランドのネックレスだ。
「ありがとう。大切にするね」
そう言って、ネックレスを自分で付けようと持ち上げた。
すると健治がスッと立ち上り、私の横に来ると手のひらを差し出す。
「つけて上げるよ」
髪を寄せ襟足を健治に晒すと、ネックレスチェーンのひんやりとした冷たさと、時折触れる健治の手の温かさを感じて、頬が熱くなる。
赤く染まった首筋から繋がるデコルテにチェーンに繋がれた一粒のダイヤがキラリと輝きだした。
「良く似合う」
「本当? 嬉しい、ありがとう」
健治が私の頬に手を添え、軽くキスを落とした。優しく見つめる瞳が柔らかいカーブを描く。
「改めて、お誕生日おめでとう。今度、ゆっくり温泉にでも行こうな」
「うん、楽しみにしてる」
このまま穏やかな時間が、ずっと続いて行くことを願っていた。
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