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〜ファミレスでの間接キス〜
深夜のファミリーレストラン。安っぽいオレンジ色の照明が、ビニール張りのボックス席をぼんやりと照らしている。
窓の外を流れる車のライトを眺めながら、アキは手元の伝票に目を落としていた。
「……天使、お前それ、いつまで食べてるんだ」
アキが呆れたように声をかけると、向かい合わせで座っていた天使の悪魔は、山盛りのベリーパフェを咀嚼しながら視線だけを上げた。
「……甘いものは別腹、って人間は言うでしょ。僕、いま非常に効率的に幸福を摂取してる最中なんだけど」
そう言って、天使は最後の一口を名残惜しそうに掬い取った。
パフェの容器がカツンと乾いた音を立てる。甘味で満たされた充足感からか、彼は無意識に喉の渇きを覚えた。
「喉、乾いた……」
ぼんやりとした意識のまま、天使はテーブルの上に置かれたコップに手を伸ばした。
自分の席の右側にあった、氷がカランと音を立てたグラス。それを手に取り、何の疑いもなく一気に煽る。
その瞬間、天使の動きが凍りついた。
口の中に広がったのは、自分が注文したはずのメロンソーダの甘ったるい風味ではない。
どこか苦味のある、氷で薄まったアイスコーヒーの味。
「あ……」
天使の手が止まる。視線を落とすと、そのグラスはアキの目の前に置かれていたはずのものだった。
自分の飲みかけのメロンソーダは、その数センチ隣に、派手な緑色のまま手付かずで残っている。
「……っ!」
理解が追いついた瞬間、天使の白い頬が、パフェのベリーソースよりも鮮やかな赤に染まった。
それは、いわゆる「間接キス」という概念。
人間と共に暮らし、彼らの文化や羞恥心を知識として蓄えていたからこそ、その状況の意味が脳内を駆け巡る。
「……間違え、た……」
震える手でコップをテーブルに戻すが、一度口にしてしまった事実は消えない。天使は耳の先まで真っ赤にして、俯いたまま羽を小さく震わせた。
対するアキはといえば、タバコを一本吸い終えたような、いつも通りの淡々とした表情でその光景を眺めている。
「なんだ、そんなに喉が乾いてたのか」
アキは動じる風もなく、天使が戻したばかりのグラスを平然と手に取った。
「え、ちょっ……人間くんっ……?」
天使の制止も聞かず、アキは自分の飲みかけ(であり、今しがた天使が口をつけたばかり)のアイスコーヒーを、残っていた分まで一気に飲み干した。
喉仏が一度、大きく上下する。
「……あ」
天使は絶句した。
間違えて飲んでしまった自分も自分だが、それを目の前で見ていて、あまつさえその「続き」を平然と飲めるアキの神経が信じられない。
「……恥ずかしくないの?」
「何がだ。ただの飲み間違いだろう。……それより、行くぞ。もうすぐ夜勤の報告書を出す時間だ」
アキは伝票を掴むと、椅子から立ち上がった。
その背中には微塵の動揺も、からかうような意図も感じられない。彼にとってそれは、ただ日常の中で起きた些細なアクシデントに過ぎないようだった。
「……バカ。人間って、本当に無神経なんだから」
天使は熱の引かない顔を隠すようにマフラーを深く巻き直すと、足早に歩き出すアキの後ろを、不機嫌そうな足取りで追いかけた。
背後で揺れる彼の羽だけが、心臓の鼓動を映すように、いつまでも落ち着かなくパタパタと震えていた。
〜反撃の天使〜
ファミレスを出て、夜風にあたりながら駐車場まで歩く二人。
天使はまだ顔の熱が引かない。それどころか、あんなに平然としているアキの態度が、なんだか自分だけが意識しているみたいで無性に癪に障ってきた。
(……人間にあって、悪魔にないのが羞恥心だって? 嘘だね。僕の方がよっぽど人間らしい反応をしてるじゃないか)
天使は上着のポケットに入れていた、買い置きのミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
そして、前を歩くアキの背中を見つめながら、少しだけ意地悪なことを思いつく。
「ねえ、人間くん」
呼びかけると、アキが足を止めて振り返った。
「なんだ」
天使はわざとらしく、アキの目の前でペットボトルのキャップを開けた。そして、視線を逸らさずにその口元へ運び、ほんの少しだけ水を飲む。
喉を潤した後、唇についた雫を指で拭い、いたずらっぽく微笑みながらそのボトルをアキに突き出した。
「これ、あげる。喉、乾いてるでしょ?」
さっきのファミレスでの「お返し」だ。
自分が口をつけたばかりのものを渡せば、流石の早川アキも少しは動揺するか、あるいは「自分で飲め」と突き返してくるはず。天使は、彼が困ったように眉を寄せる顔を期待して、じっとその瞳を覗き込んだ。
だが。
「……ああ、助かる」
アキは短くそう言うと、躊躇する素振りすら見せずにボトルを受け取った。
そのまま迷いなく口をつけ、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲む。
「…………え?」
天使の期待は、一瞬で粉砕された。
アキは飲み終えると、ふぅ、と一息ついてボトルを天使に返してきた。
「……アキ、それ。僕が、いま、飲んだやつ……」
「知ってる。見てたしな。……なんだ、やっぱり自分も飲みたかったのか?」
アキは首を傾げ、不思議そうに天使を見つめている。その瞳はどこまでも澄んでいて、下心も、照れも、計算も一切ない。
ただ「喉が乾いていたから、差し出された水を飲んだ」という事実があるだけだ。
「そうじゃなくて……! 普通、ちょっとは、こう……間とか、あるでしょ……!」
「間? ……ああ、悪い。一気に飲みすぎたか?」
「もういい! 人間くんのバカ! 無神経!」
天使はひったくるようにボトルを奪い返すと、アキを追い越してスタスタと歩き出した。
能力がなくても、天使の悪魔は心臓がうるさい。
結局、仕返しをしたはずの自分が一番振り回されていることに気づいて、天使はまた顔を真っ赤にする。
「……なんだ? パフェが足りなかったのか?」
後ろから聞こえてくるアキの心底不思議そうな声に、天使は「うるさい、黙れ!」と叫びたいのを必死にこらえて、夜の闇に紛れるように足早に去っていった。
〜噛んだガム〜
アキの無神経(?)という名の鋼のメンタルは、天使の予想を遥かに超えていた。
ファミレスから少し歩き、二人は公園のベンチで一休みすることにした。
ペットボトルの作戦すら失敗に終わった天使は、いよいよ引き下がれなくなっていた。どうしても、あの澄まし顔を崩してやりたい。
天使は口の中で転がしていたガムを、指先で器用に取り出した。
「ねえ、人間くん」
「……今度はなんだ」
アキが少し面倒そうに視線を向ける。天使は確信犯的な笑みを浮かべ、あろうことか、自分の口に入っていたそのガムをアキの目の前に差し出した。
「これ、まだ味がするんだけど。あげる」
流石にこれは、人間として、いや衛生観念を持つ生き物として拒絶するはずだ。
「汚ねえだろ」とか「ふざけるな」とか、そんな当たり前の言葉を期待して、天使は挑戦的にアキの目を見つめた。
しかし。
「……味が残ってるなら、もったいないな」
アキは事も無げにそう言うと、天使の指からひょいとガムを受け取った。
そして、天使が絶句する間もなく、それをそのまま自分の口へと放り込んだ。
「………………は?」
天使の思考が真っ白に染まる。
目の前で、アキが淡々とガムを噛み始めた。クチャクチャと咀嚼する音が、静かな夜の公園に響く。
「……あ、人間くん……君、それ……僕が今さっきまで噛んでたやつ……」
「言っただろ、お前が。まだ味がするって」
アキは相変わらず、感情の起伏が見えない表情でガムを転がしている。
「いや、そうだけど! それは比喩っていうか、嫌がらせっていうか……! なんで普通に噛めるの!? 汚いとか思わないわけ!?」
「お前、さっきからうるさいぞ。同じ家で暮らしてて、今さら何を気にしてるんだ。……確かに、まだソーダの味がするな」
平然と感想を述べるアキを見て、天使はついに顔の赤さが限界突破した。耳まで真っ赤になり、熱を帯びた視界がチカチカする。
「変態……! 人間くんの変態!!」
「……ガムを受け取っただけで変態扱いか。悪魔の理屈はよくわからん」
アキは心底心外そうに肩をすくめると、また平然とガムを噛み続ける。
天使はベンチの上でうずくまり、自分の羽で顔を覆い隠した。
(……この男、絶対にわざとやってる。それか、本当に頭のネジが数本飛んでるんだ……!)
能力がない今の自分にとって、アキの「普通」はどんな武器よりも破壊力があった。
結局、どんなに攻撃を仕掛けても、最後に自分だけが恥ずかしさで爆発しそうになる。
「……もう、人間くんなんて死んじゃえばいいのに……」
「縁起でもないこと言うな。ほら、行くぞ。本当に遅れる」
立ち上がったアキが、当然のように天使に手を差し出す。
天使はその手を叩き落とそうとして――結局、震える手でその大きな掌をぎゅっと握りしめることしかできなかった。