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その夜の東京は、やけに湿度が高かった。
舜太は三軒目の店を出たところで、自分がどこにいるのかすら曖昧になっていることに気づいた。ネオンの色が滲んで見えるのは、酒のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、もう区別する気力もなかった。
──浮気、してたの。もう終わり、別れて。
その一言を聞かされてから、まだ三日しか経っていない。三日前の自分と今の自分の間には、越えられない溝があるはずなのに、実際は何も変わっていなかった。会社に行けば普段通り仕事をこなし、後輩には「ありがとうな!」と笑いかけ、誰も舜太の内側で何かが壊れたことに気づいていない。
その平然とした自分自身が、一番信用ならなかった。
「壊れたなら壊れたって、ちゃんと分かる形で壊れたらええのに」
誰に言うでもなく呟いて、舜太は看板の灯りも消えかけた路地に足を踏み入れた。表通りの喧騒から一本外れただけで、急に世界が静かになる。その静けさが、今の自分にはちょうどよかった。
あてもなく歩いた先、古い雑居ビルの一階、木製の扉に小さな真鍮のプレートだけが下がっている店を見つけたのは、ほとんど偶然だった。看板には店名すら書かれていない。だが、扉の隙間から漏れる淡い光と、かすかなジャズの音色に、舜太は吸い寄せられるように近づいていった。
扉を押すと、乾いた音を立ててベルが鳴った。
カウンターだけの小さなバーだった。客は誰もいない。奥の棚には見たこともない銘柄の酒瓶が整然と並び、その手前で、一人の男がグラスを磨いていた。
舜太は最初、その男を見て単純に「綺麗な人だ」と思った。
儚げで、どこか浮世離れした美しさだった。細身の体を包む上品な装いは、王子様がそのまま夜の街に迷い込んできたようで、透き通るように白い肌が、間接照明の下でほのかに発光しているようにさえ見える。涼しげな目元はこちらを一瞥しただけで、すぐにまたグラスへと戻っていった。
「いらっしゃいませ」
低く落ち着いた声だった。愛想笑いというほどでもない、ただ事実を確認するような口調。
「……ここ、開いてますよね?」
「はい。でなきゃ、鍵は開けてません」
からかうような響きに、舜太は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。誰か知らない人間と話すことが、今はむしろ気楽だった。何を話しても、この先何かを引きずる相手ではない。そう思うと、自然と口が軽くなった。
「なんでも作れます?」
「一応、プロなので」
「じゃあ、一番強いやつ。今日はもう、ちゃんと酔いたい気分なんで」
男は片方の眉を軽く上げただけで、余計なことは聞かなかった。慣れた手つきでシェイカーを振り、静かにグラスへ注ぐ。透明な液体の中で氷が涼やかな音を立てた。
舜太はそれを一息に呷った。喉の奥が焼けるように熱くなって、ようやく少しだけ、現実の輪郭がはっきりしてきた気がした。
「……はぁ。効くわ、これ」
「効かせるために作ってるので」
そう言って、男は初めてかすかに口角を上げた。柔らかい微笑みだったが、そこには何か、こちらを観察するような色も混じっている気がした。舜太はそれに気づかないふりをして、二杯目を頼んだ。
「彼女に振られたとか、その手の話?」
「振られたっていうか……浮気されてただけです。俺、めちゃくちゃ大事にしてたつもりやったんですけどね」
「ふうん」
「ふうん、て。それだけですか」
「話したいなら聞くけど、話したくないなら聞かない。あなたが決めていいことだから」
その距離の取り方が、今の舜太には妙に心地よかった。同情も慰めも要らない。ただ隣にいて、酒を作ってくれる誰か。それで十分だった。
「柔太朗、っていいます。バーテンダーです。」
見ればわかることをわざわざ名乗られて、舜太も反射的に名前を返した。
「舜太です。……なんか、綺麗な人ですね」
「よく言われる」
悪びれもせず即答されて、舜太は思わず笑った。浮気されて三日、初めてまともに笑った気がした。
「今夜だけ、ちょっと付き合ってくれます? どうせもう、どうでもいいし」
投げやりな響きを隠すつもりもなく、舜太はグラスを掲げた。柔太朗は少し間を置いてから、静かにそのグラスに自分のものを軽くぶつけた。
「いいですよ。今夜だけ」
柔太朗にとって、これはただの気まぐれだった。荒れた人間を一晩だけ相手にするのは、この仕事では珍しいことでもない。ただ、少しだけ──ほんの少しだけ、面白いと思った。
その夜、二人は閉店まで、他愛もない話を交わし続けた。舜太は自分でも驚くほど、多くのことを話した。仕事のこと、アメリカにいた頃のこと、そして最後に、ぽつりと。
「俺、今夜だけはほんまに、何も考えたくなかったんです」
「じゃあ、今夜だけは何も考えなくていいんじゃない」
柔太朗はそう言って、最後の一杯を無言でカウンターに置いた。
窓の外では、いつのまにか雨が降り出していた。ガラス越しに滲む街の灯りを見つめながら、舜太は思う。──もう、どうでもよかった。この気まぐれな出会いも、この先どうなるかも。