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朝の光が、窓ガラスに細長い筋を描いていた。
目を閉じていても、その筋がまぶたの裏でチクチクする。
ギターを抱えたまま寝落ちした感覚がまだ残っていて、
右手の指先が少しだけ痺れている。
昨夜の疲れは思ったより深かったけど、嫌な疲れじゃない。
むしろ、満たされた疲労感だった。
布団から這い出すと、台所からチャプチャプと水の音がした。
若井が朝飯を作っているらしい。
あいつは昔から料理が得意ってわけじゃないけど、手際だけはいい。
僕らの同居はまだ自然になりきれていないところもあるけれど、
こういう朝のルーティンがあると、「家」って言葉に空気が入る気がする。
キッチンに行くと、若井が無造作にエプロンをして、フライパンの前に立っていた。
髪の毛は寝癖のままで、そこが妙に人間臭くて安心する。
皿には焼き目のついた卵とベーコン、簡単なサラダが盛られている。
「おはよ。食うか?」若井が皿を差し出す。
「おはよ。ありがと」僕は黙って箸を取る。
その間にも、若井はテレビをチラ見しながら、顔をこちらに向ける。
「昨日、最後のサビでお前が変な顔してたの見えたぞ」
「余裕ぶっこいてただけだよ」僕は少し照れて言う。
若井は満足そうに鼻を鳴らした。
テーブルの端、涼ちゃんは湯気の立つカップを片手に座っていた。
金髪が朝日に溶けて、いつもより柔らかく見える。
彼は「おはよう」とだけ言って、僕の隣に軽く頷いた。
彼の「僕」はほんとうに落ち着く。
朝食を急いで済ませて、家を出る。
校門をくぐった瞬間、空気がスッと冷たくなって、胸の中の何かが引き締まる。
文化祭までの日数が何だか重くのしかかるけれど、
同時にそれが燃料になっているのも確かだ。
教室では、若井が早速絡んでくる。
「なあ、今日の放課後、機材点検だ。お前、指先大事にしとけよ」
「うるせぇよ」でも、若井の言葉は僕にとっては命綱みたいなものだ。
幼馴染のくせに、一番分かってくれてる人。
授業中、ノートにメロディの断片を書き留める。
頭の中では昨夜のフレーズがまだ旋回している。
放課後にもう一回、涼ちゃんと合わせられるかもしれない——
その思いだけで、授業の退屈も少し柔らかくなる。
昼休み。
教室の窓際でサンドイッチをかじっていると、
喉の奥に異物感があることに気づいた。乾いた感じ。
飲み物をゴクンとやると、一瞬声が出にくい。
嫌な予感が胸を横切る。
昨夜、ずっと声を出して笑ったり、集中して弾いたりしたせいかもしれない。
放課後のチャイムが鳴ると、胸のあたりがざわつく。
僕は深呼吸を一つして、ギターケースを背負った。
涼ちゃんはすでに音楽室前で待っていてくれた。
彼はにこりと微笑んで、「大丈夫そう?」と控えめに聞く。
僕は大丈夫のふりをして首を縦に振る。
最初の機材点検は順調だった。
アンプの音量調整、シールドの接続、
ピックの予備確認——若井と二人で手際よく作業を片付けていく。
だけど、合わせに入ると、やっぱり喉が引っかかる。
フルートの音が耳に入るたび、
自分の呼吸がいつもより遅れるのが分かった。
「ちょっとさ、喉、やばくないか?」
若井が終わったフレーズの合間に囁く。
「大丈夫だって」僕は無理やり笑う。
けど、その笑顔は割れやすいガラスみたいに薄い。
涼ちゃんは譜面台の前で静かにこちらを見ている。
「本当に大丈夫?」その声は心配そのもので、
僕を甘やかすわけでも、励ますわけでもない。
彼の視線はまっすぐで、僕の言葉の嘘を見破るのに十分だった。
「ちょっと、水飲む?」涼ちゃんが差し出す水筒を受け取り、
ひと口、またひと口と飲む。冷たい水が喉を滑っていく。
ホッとするのと同時に、小さな恐怖が胸を冷やす。
声が出しづらいと、ギターのボーカルや細かいニュアンスで迷う。
音楽は身体全体でやるものだ。声もその一部だ。
若井が「休むか?」と言いかけて「いや、でも本番まで時間がねえ」
と自分で言葉を呑み込む。
彼だって焦っているのだ。
幼馴染として、
先に進まなきゃいけないというプレッシャーを感じているのが分かる。
僕は葛藤した。休むべきだと頭では分かっている。
けれど、ここで抜けることは幼馴染や涼ちゃんに迷惑をかけるという思いも、
胸の奥にくっきりとある。
孤独だった頃、体調を崩しても誰も来なかった夜を思い出す。
あのときの自分は、今の僕を絶対に責めるだろう。だから、今は諦めたくない。
「俺、行くよ」小さな声でそう言った。
決意でも、負け惜しみでもない。単純に、音を出したいんだという欲望が勝った。
合わせを再開する。最初の数分はぎこちない。
喉はまだ鈍く、声に力がない。
だけど不思議と指は動く。
フルートの息遣いに寄り添おうと、ギターの強弱を細かく調整する。
若井は目を細め、腕でリズムを示す。それを見て、僕は音を乗せる。
途中、誰かが拍手をした。小さな成功の合図。
胸の中にじんわりと温かいものが広がった。
だけど低音部で不安定な部分があり、ベースラインとのズレが生じる。
僕はそこをどう補うかを考え、コードの押さえ方を変えてみる。
若井がすぐ反応して、音色を変えてくれる。
涼ちゃんが微笑んでくれた。
練習が終わりに近づく頃、僕の喉はもう限界に近かった。
声帯がザラつく感じ、咳の予兆。
帰り道、涼ちゃんが僕の袖をぎゅっと掴んで小声で言った。
「無理しないで。明日はちゃんと休もう」
若井は何も言わなかったけれど、握った肩の力に意味があった。
「お前が無理する理由なんてねえよ」とでも言っているようだった。
家に帰って、僕は深く眠った。
夢の中でフルートの高音がずっと鳴っていて、若井と二人で笑っている。
明日の朝、喉がどうなっているか不安だけど、今日の音は確かに僕の中に残っている。
光はまた消えて、また飛んでいくだろう。
でも、その光を追いかけるのは、僕だけじゃないんだと実感した夜だった。