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両手ですくった湯をいとおしげに見つめると、ゆっくりと顔面に浴びせかけた。長旅で積もった油分を拭うと、ユミヨは満足げに吐息をこぼす。
ビヨグランデが誇る大浴場の隅っこで、ひっそりと入浴を楽しんでいたのだ。いったん勇者パーティと別れたユミヨは、記事の編集を済ませたばかり。ゆっくりと羽を伸ばせる大チャンス到来だ。
(フワァ~。体の後に頭を酷使して本っ当疲れた~。だけど、記者の仕事はやりがいあるなぁ。結構向いてるかも)
背もたれの岩の冷やっこい感触をも楽しむ。解放感が疲れを溶かしていくかのようだ。
海辺の源泉が海水を煮沸させ、適温に調整されている。湯船からは海を一望でき、観光客に人気のスポットなのだ。男性側の湯船とは複数の大岩で仕切られているが、隙間だらけで心許ない。周囲数名の女性入浴者は地元民の老婆で、物言わぬ彼女たちに守られている感覚だ。
(この世界にはシャワーもなく、水浴びも数日おき。不快感に身もだえしていたっけ)
夜明け前の薄暗い空を映す湯面を見つめ、心を静める。
(元の世界の私は寝たきり? それとも行方不明なのかしら……)
つと、元世界の自分に思いを致す。ここ数日の急展開で考える暇はなかったのだ。
(それだけじゃない。この体の元の人格はどうなったのかしら? 入れ替わりで日本に転移してたら大変だろうな)
思案の海に潜りつつも、自身の両頬をピシャリと叩く。
(焦ってもどうにもならない。今できる最善を尽くして、元の世界に戻らなきゃ)
曙光の明るみを感じ、ユミヨは立ち上がった。遥か海原の地平線に目を這わせると、金色の幻影が浮かんでいる。それは近代ビル群、現実世界の蜃気楼だった。
***
リディオパークの商店街がざわついている。八百屋や魚屋の店主も道端に集い、何やら雑談に興じている。
「号外号外! 勇者レカーディオがついに魔法力に目覚めたぞ」
ハンチング帽をかぶった新聞記者がペラ物の新聞を撒くと、店員と客が入り乱れて群がる。その一枚を手に取った八百屋の店主が内容を検める。
『勇者覚醒! 伝説の黒き雷が蘇る。魔王との決戦に死角なし』
極太のゴシック体で書かれた見出しに驚嘆した野次馬たちが声を荒げる。
「あの頼りないガキが戦力になるときが来たか。これで、とち狂った親父を始末できるかもなぁ」
「ハルヴァード王も、息子の言う事には耳を貸すかもしれん。戦わずに済むに越したこたぁねぇぜ」
オープンカフェの隅に座っていたサネが、椅子に引っかかっていた新聞を手に取る。裏面最下部に目を落とすと、そこには担当記者としてユミヨの名前が記されていた。
「あの子やるじゃん。出世街道まっしぐらかよ」
感心したサネが、片眉と口角を同時に上げる。
「サネちゃん、いつまでこっちいるの?」
化粧が濃い恰幅マダムがサネに尋ねる。彼女は茶屋の店主だった。
「買い出し終わったんで、今からテントに戻るわ。日が落ちる前に到着しなきゃ」
「道中魔物には気を付けな。最近野生種も活発化しているからねぇ」
そう言うと、手慣れた様で葉巻をくゆらす。分厚く塗られた口紅から、満足げに吐息を漏らす。
「相変わらず心配性だな。来季はチーズケーキも作るから、楽しみにしといて」
#ファンタジー
畳んだ新聞を膨らんだバックパックに差し込むと、サネは席を立った。
***
魔王と呼ばれる老齢の王は、はめ殺しの窓から眼下の風景を眺めていた。堅牢な城門へ続くなだらかな坂道のそこここに、簡易武装した魔物の番兵が配備されている。
「難攻不落として知られるゾナーブルに、ここまで厳重な警備は不要だろう」
魔王が窓を向いたまま語ると、広間の隅で何者かが蠢く。
「人間どもを侮り召さるな。あなた様の首を虎視眈々と狙っております」
王宮の隅、床にへたり込んだ老婆が応える。しゃがれた声は独特の音響をもって広間に響く。
骨格が透けて見えるような痩身に、だぶついたローブを被っている。その顔には眼球がなく、落ちくぼんだ眼窩には漆黒の闇が広がっていた。
「そうよ、特に成長著しい若者には注意を払うべき。こんな風にね」
突然姿を現したビリーディオが紙飛行機を投げつける。受け取った魔王がそれを開き、内容を検める。それは先ほど街中で撒かれていた一枚刷の号外だった。
「わざわざ手の内をさらす愚者共を気にかけろと?」
「実の息子に対して酷い言いようね。人間やめて正解かも」
魔王に肉薄したビリーディオが、仮面に映したニヤケ面で煽る。招かれざる客に対して、地べたの老婆が静やかに杖を振るう。
魔力で生成された光線をすんでのところでかわした道化が、そのまま低空に浮遊する。
「ご挨拶だなぁ。あたしに敵意はないって、そろそろ解ってほしいのに」
「失せろ。伝書鳩なら、余計な真似をするな」
魔王が鬱陶し気に片手を払う。
「また来るわ。あなたの癇に障るニュースを仕入れてね」
ピエロはうやうやしく一礼すると、自身のマントの中に姿を消した。
魔王が号外を裏返し最下段に目を移す。ユミヨの名前を指でなぞると、わずかに口角を上げた。
「この世界に降り立っていたのか……。これで役者は揃ったわけだ」
酷薄な笑みを浮かべた魔王は、号外を黒炎で燃やし尽くした。