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いつだったかウーヴェが告げたように、安堵の笑みさえ浮かべているような穏やかな顔をしたゾフィーが教会に帰ってきたのは、そろそろ辺りが暗くなり出した頃だった。
棺を乗せた業者の車を先導するようにウーヴェのスパイダーが走り、教会の建物が遠くに見えだした時、教会前の歩道で立っている人の姿を発見し、ウーヴェがリオンに合図を送ると、助手席から意味の掴めない言葉と溜息が流れ出す。
「……マザー、待ってたんだ」
「そうだな」
彼女の娘が家である児童福祉施設を飛び出して何日が経過したのかを数えていないが、この間ずっとこうしてゾフィーの帰りを待っていたことを簡単に想像させる姿にリオンが助手席で膝を抱えて顔を隠すように項垂れる。
「やっと……帰ってくることが出来たな」
「…………うん」
その言葉に込められた思いを互いにしっかりと感じ取り、マザー・カタリーナの心配そうな、だが安堵していることも感じ取れるような顔が見える頃になるとリオンが顔を上げて己の頬を両手で叩いて気合いを入れる。
マザー・カタリーナの前でスパイダーを停め、そのすぐ後ろにバンを止めた業者が静かに車から降り立ち、後部のドアを開けて棺をストレッチャーに載せて誰かの指示を受けるために待ち構える。
「ご苦労様です」
リオンとウーヴェが車から降り立つよりも先にマザー・カタリーナが棺に駆け寄り、その表面を愛おしむように撫でた後、複雑な表情を浮かべる業者に一礼し胸の前で手を組む。
この業者はここの教会で葬儀を行うときに利用する業者だった為、当然ながらマザー・カタリーナのことは良く知っていた。
だが、ゾフィーのことはあまり良く知らず、彼女を見て初めて死亡したのが誰であるかに気付いたようで、被っていた帽子を手に取って胸に宛いつつ哀悼の意を伝えてくる。
その言葉に感謝の言葉を返した彼女は、わたくしの娘を礼拝堂に寝かせて頂けますかと頼んだ後、リオンとウーヴェに向き直る。
「ウーヴェ、仕事が終わって疲れているのに、ありがとうございます」
「いいえ」
先日よりは少しだけ顔色が良くなっている彼女に頷いた後、すべての感情をこの小さな身体で受け止めて昇華しているのかと思うと胸が痛み、思わず自らの母のように小さな身体を抱き締める。
ウーヴェのそれに少し驚いた顔になるマザー・カタリーナだったが、思いを感じ取って目を閉じ、ウーヴェの背中を優しく撫でて心配してくれてありがとうと伝え、今度はもう一人の息子を手招きする。
「リオン、ゾフィーを迎えに行ってくれてありがとう。あなたが行ってくれたのであの子も気を遣わずに帰って来られたのですよ」
「…………うん」
ウーヴェから離れた後にリオンの腕に手を重ね、そのまま身体を引き寄せたマザー・カタリーナにリオンも短く頷いて小さな吐息を落とす。
「マザー、向日葵とかマーガレットとかガーベラってさ、今頃花屋で売ってるかな?」
「え?向日葵は見たように思いますが…」
他の花については分からないと眉を寄せる彼女の頬にキスをし、ゾフィーの棺に入れてやりたいとリオンが伝えてウーヴェも頷く。
「お花は明日にでも買いに行きましょう」
ゾフィーが好きだった花を沢山持たせてあげましょうと笑う彼女に二人も頷くと、ウーヴェが遠慮がちにリオンを呼んで二人の視線を受けて苦笑する。
「葬儀は明後日か?」
「あー、うん、そうだよな、マザー」
「ええ。……やっと帰って来たのです。明日一日ぐらいわたくし達の元にいてもらうつもりです」
家出をしていた娘がやっと帰ってきたのだ、例えゾフィーの言葉が各々の思い出の中でしか語られなくても、彼女と話をしたい事は山ほどあるのだと言外に教えられて頷いたウーヴェは、自分はそろそろ家に戻るから葬儀の時間がはっきりと分かれば教えて欲しいと伝えて一礼するが、マザー・カタリーナがもう帰るのかと言いたげに目を瞠り、その横ではリオンの顔から一瞬にして血の気が失せて拳が微かに震えだしたことにも気付くと、いつもと全く変わらない落ち着いた声と表情でリオンに呼びかけて震える拳を両手で包む。
「リーオ……俺も葬儀に参列させて貰う」
「…………分かってるよ……」
ここに泊まる訳にはいかないのだから我慢しろと伝える代わり、包み込んだ手の甲を押し戴くように軽く持ち上げてその甲にキスをする。
「マザーのお側にいるんだ、リーオ」
大丈夫だとマザー・カタリーナが仰るかもしれないが、きっと今ここでゾフィーの非業の死に悲嘆に暮れている人達にはお前の存在は必要不可欠なものだろうから今夜はここにいるんだと諭すと、かなりの時間躊躇ったような顔をしたリオンが最終的には頷かなければならないと分かっているように頷き、ウーヴェの背中に腕を回してきつく抱きしめてこれぐらいは許してくれと耳元で囁く。
「棺の中に入れる花だけど俺に用意させてくれないか」
「……オーヴェ?」
「一番きれいに咲いているものを用意して貰えると思う」
他の花については店で買うのが良いだろうが、向日葵だけは用意させてくれともう一度告げると、ハーロルトという呟きがリオンの口から流れ出し、ウーヴェも頷いて痩せてしまった背中を撫でる。
「ああ。ハーロルトに頼めば用意してくれる。……彼女の顔が少ししか見えないぐらい用意する」
ハーロルトに頼んで準備が出来次第運んでくることも伝え、抱えきれないほどの向日葵に埋もれて眠れば、顔の痣も一見するだけではわかりにくいだろうと気付いたリオンがようやく納得したのか頷いてウーヴェから身を離す。
「マザー、そういうことですので、明日向日葵が届けば連絡いたします」
「……お願いしますね、ウーヴェ」
涙を浮かべる彼女の頬にキスをしその手をしっかりと両手で包んだウーヴェは、ぼんやりしているリオンの頬を撫でて唇にキスをし、明日と明後日の段取りについて自分に出来る事であれば何でもするからすぐに連絡をしろとも伝えて踵を返す。
スパイダーの運転席に乗り込んでシートベルトをした時、窓がノックされて慌てて窓を下げると、リオンが窮屈そうに身体を折って窓の中へと顔を突っ込んでくる。
「……オーヴェ……っ……!」
今までならば絶対に見せなかったであろう、独りにするなと言いたげな顔で見つめてくるリオンに小さく溜息を吐き、本当は一緒に帰ろうと言いたいのをグッと堪えたウーヴェが頬を両手で挟んで額に口付けた後にもう一度唇にそっとキスをする。
このまま一緒に家に帰りたかったが、それをすれば本当に今リオンを必要とする人達が悲しむだろうし、何よりも礼拝堂で寝ている彼女が寂しがる恐れがあった。
間もなく訪れる姉と弟の永遠の別れ、その時間を邪魔してはいけないとの思いからあと少し堪えて欲しいとも伝えると、青い瞳が姿を消して意外と長い睫毛が微かに震える。
「――リーオ、これだけは言っておく」
「………………」
「お前はもう独りじゃない。独りで総てを背負う必要も秘める必要も無い」
「だったら……!」
今俺が何を言いたいのかが分かっているはずだと互いの瞳に互いの顔を写す距離で睨み合い、リオンが悔しそうに歯軋りをするのをじっと見つめていたウーヴェは、だけどと続けかけて口を閉ざし、今のリオンには正確に思いが伝わらないと気付き、コツンと額を重ね合わせて謝罪をする代わりにマザー・カタリーナに断りを入れてくるかと優しく囁くとリオンの気配が一気に明るくなる。
「断ってくるから車に乗っていろ、リーオ」
そんな貌をしているのを彼女に見せるのは嫌だろうと囁くとリオンの目が見開かれるものの、大人しくウーヴェの言葉に従う様に助手席のドアを開けて無言で乗り込む。
「……マザー、申し訳ありませんがリオンを連れて帰っても良いですか?」
リオンではなくウーヴェが戻ってきた事に驚きつつもこうなることは予測済みだと頷いたマザー・カタリーナは、息子をお願いしますと頭を下げてウーヴェにしっかりと頷かれて胸を撫で下ろす。
「わたくし達ではきっとあの子が胸に持っているものを出させることは出来ません」
ですがあなたならばそれが出来るでしょうと確信を込めて囁いた後にウーヴェとリオンの為に短く祈った彼女は、明日は一日礼拝堂にゾフィーを寝かせていますとも伝えてもう一度一礼し、ウーヴェも神妙な面持ちで頷いて踵を返すと運転席に乗り込むのだった。
リオンの自宅に帰ろうとウーヴェが提案をしたが、無言で首を振ってそれを否定したリオンが告げたのはオーヴェの家に帰りたいという一言だった。
行きたいではなく帰りたいと胸が締め付けられるような声で告げられてしまえば逆らえる筈もなく、俯くリオンの頭を抱き寄せてキスをした後、いつ以来になるのかすっかり忘れてしまったウーヴェの自宅へと二人で向かう。
ただ葬儀に参列する為に必要な黒のスーツを取りに戻る必要があった為、渋るリオンを説得してまずリオンの自宅がある古いアパートに向かい、リオンを車に残したままウーヴェが部屋に上がって手早くスーツやや置き去りにされていた警察手帳などを一纏めに手に戻って来ると、本来の持ち主の手にそれらを預けて今度こそ自宅に向けて車を走らせる。
道中どちらも口を開くことは無かったが、俯いたままのリオンが服の下から手を伸ばして来た為、シフトレバーに置いていた手に重ねろとだけ伝えて器用にシフトチェンジをこなしたウーヴェは、そうすることで安心するらしいリオンの横顔についつい自らも安堵の溜息を零してしまい、自宅に着いた時には互いの手の温もりで身体全体が温められているようだった。
エレベーターで自宅フロアがある階まで上がり、ドアを開けてリオンを招き入れたウーヴェだったが、廊下を少し進んだだけでリオンの足が止まったことに気付き、肩越しに振り返ると同時に短い距離を大股に踏み出した一歩で詰めてくすんだ金髪を抱き寄せる。
「――良く今まで我慢をした」
お前は本当に強い人だ、俺が自慢したい強い男だとも囁いたウーヴェは、足下に落ちていくスーツやや警察手帳を気に掛けつつも、今もっとも注意を払うべき存在へと己の全神経を集中させる。
「さっきは我慢させるようなことを言って悪かった」
こんなお前を残して帰ろうとして悪かったと謝罪をし、微かに震える腕が背中に回った事に気付くとしっかりとその身体を支える為に壁に肩から寄り掛かかろうとするが、リオンの足から力が抜けたようで二人揃ってその場に座り込んでしまう。
「オーヴェ……っ!」
「……ここにいる」
いつだったか、リオンが育った児童福祉施設に駆け込むようにやってきた少女が拳銃の暴発事故で命を落としたことがあり、その夜も今と似たような声で名を呼び、ベッドの中でも一晩中手を繋いでいて欲しいと懇願されたことを思い出すが、あの夜に比べると今夜は遙かに重篤な気がし、無言のまま顔を押しつけてくるリオンの頭を支えるように腕を回すと、いつもは陽気で元気な恋人の悲痛な叫びにも似たくぐもった声が流れ出す。
「……ゾフィー……っ!」
暴行の痕をくっきりと残しながらも愛する人達の元に帰れる安堵に笑みを浮かべた彼女の横顔を思い出し、聞くだけで胸が痛くなるような悲痛な声を上げるリオンの頭を抱く腕に力を込める。
くぐもった声はゾフィーの名前を何度も呼び続け、それに答えが返ってこないことに苛立ったリオンが口汚く罵る声も時折混ざるが、そんな中でも掠れた声がウーヴェを何度も呼んでいた為、その度にここにいる、もう大丈夫だと伝えていた。
時間にしてどれぐらいなのか、感覚が麻痺しだした頃にようやくリオンが顔を上げ、泣き顔を見られた羞恥にどんな言葉や態度が飛び出すかと危惧したウーヴェだったが、普段からは全く想像も出来ない無表情な顔に見つめられた瞬間、リオンの頬を両手で挟んで茫洋とする青い瞳をしっかりと覗き込みながら呼びかける。
「リオン、リーオ……もう良い。もう我慢するな」
ここには自分達しかいない、いつかも伝えたが二人きりの時にまで感情を堪える必要はない、何も我慢するなと、焦りを滲ませた声でウーヴェが口早に伝えるもののリオンの顔に表情は戻らず、思わず背筋を震わせて気付いてくれるまで根気よく呼び続ける。
このまま様々な感情を我慢させ続けると先日警察署で過呼吸の発作を起こした時よりももっと重篤な症状が身体に表れかねなかった。
人間の心は驚くほどの強さを発揮することがあるが、今はその強さがリオンを危険な方へと向かわせていることに危機感を抱いたウーヴェが額に汗を浮かべつつ何度も呼びかけていると、だらりと垂れていた腕が微かに動いて指先がぴくりと反応を示す。
「リーオ、もう良いんだ」
ここにはお前と俺しかいない、だからもう堪える必要はないと伝えて目を覗き込むと光が戻って来るが、両の手を握りしたかと思うとウーヴェの背後の壁に両手を叩き付ける。
「――ァ……っ……!」
ウーヴェの顔を挟むように手を着いて項垂れるリオンの口から固形化したような呼気が零れ落ち、震える声と一緒に唾液も服に落ちるが、ウーヴェがリオンの頬を挟んでその激情すら受け止めると態度で伝える。
「アァ……アア――ッ!!」
ウーヴェの言葉が届いている筈なのに感情を解き放った証の涙ではなく悲痛な叫びだけが流れ出すことに疑問を抱いたウーヴェは、もしかすると物心ついた時からリオンは泣いたことがないのではないかと思い至り、その可能性が非常に高いことを耳元に聞こえる呻き声とも悲鳴とも取れる声から察すると、リオンの頬を挟んでいた手に力を込め顔を上げさせて視線をぶつける。
「リーオ……お前は姉を、大切な家族をもっとも信頼していた仲間に殺された。悔しいし許せないだろう。だけど今は、今だけは彼の事を考えるな。今はゾフィーを喪った悲しさだけを考えろ」
どれ程強い人であろうとも己の感情を完全に押し殺したり胸に納め続けていると必ず何処かにその歪みが現れることをウーヴェは痛いほど知っており、子どものような心と陽気さを持つ奇跡のような存在のリオンにはそんな歪みを抱えて欲しくない一心で強い口調で命じると、負けず嫌いの心がその言葉に反論するように目に力を宿すが、ウーヴェの口調とは裏腹に総てを受け止めてくれる優しい顔を見いだすと全身から力が抜けようになり、ウーヴェの腿に上体を伏せてしまう。
「オー……ッ……! く、る……し……っ!」
「大丈夫だ、リーオ。今だけは何も心配するな。何も背負うな」
幼い頃からの環境で涙を堪えてしまうのだろうが、本当に今だけはもう我慢する必要はないと震える頭に手を宛がうと、ウーヴェのスラックスがぎゅっと握りしめられて皺を作り出す。
「マザー・カタリーナの息子、シスター・ゾフィーの弟、素行は誉められはしないが仕事には熱心な刑事。色んな顔を持っているが……」
お前を示す肩書きや形容詞はいくつもあるが、俺にとってお前は太陽だなと笑み混じりに告げたウーヴェは、びくりと肩が揺れたことに目を細め、くすんだ金髪に口付けるように顔を寄せる。
「――俺の、リーオ」
肩書きも形容詞も何も必要としない、飾らないお前の顔を俺にだけ見せてくれとも囁くと、ウーヴェの足の上で一際大きく肩が揺れると同時に、胸が張り裂けてしまいそうな悲哀の滲んだ声が廊下中に響き渡る。
リオンですら自覚したことはないだろうその声をしっかりと受け止め、ああ、お前は本当に強い男だと何度も囁くと、狂ったようにリオンがウーヴェを呼び続ける。
「ここにいる。大丈夫だ。俺は何処にも行かない」
お前が俺を嫌いになったとしてももう二度と離れないし独りにしないと誓うように囁き、喉が嗄れても良いとばかりに叫び続けるリオンの背中を撫でて護るように上体を伏せる。
耳を塞ぎたいがそれでも初めてリオンが見せた顔を愛おしむように護るようにそのまま背中を抱きしめ続けたウーヴェは、シスター・ゾフィーやマザー・カタリーナらでさえももしかすると見た事がないかも知れないとひっそりと呟き、名を呼ばれる度にここにいると伝え、独りにはしないことも一緒に伝えるのだった。
どれ程悲しみが深くてもいつまでも人は泣き続ける事は不可能で、いつかその涙も止まり顔に笑みが浮かぶ日が必ず来る。
その日が少しでも早く穏やかな形で訪れることをリオンとその家族の為に祈ったウーヴェは、まるで一生分の泣き声を上げたかのように激しく咳き込むリオンの背中を慌てて撫でると、苦しそうな息の下から今度は不安で仕方がない声がウーヴェを呼ぶ。
「どうした?」
問いかけつつリオンの顔を覗き込もうとすると顔を逸らされてしまい、今度こそ今の顔を見られたく無いと察したウーヴェは、立てるかと問いかけて頷かれた為、リオンを支えつつ立ち上がり、床に落ちて皺が寄りそうになっているスーツと手帳を拾い、顔を背けたまま立ち尽くすリオンの腰に腕を回して引き寄せると、顔はそのままで身体だけは素直に引き寄せられてくる。
そうしてゆっくりと二人並んで長い廊下を進み、ベッドルームのドアを開けて中に入ると、リオンがウーヴェの手を振り払って縺れる足で何とかベッドに駆け寄り、靴を脱ぎ捨てただけでコンフォーターの中に潜り込む。
余程顔を見られたく無いのだろうがさすがにパジャマに着替えずに寝ることはあまり認めたくない為、手にしていた荷物をソファに置いてスーツをハンガーに吊したウーヴェは、急いでキッチンから水とグラスを持って戻り、人型に盛り上がったコンフォーターに寄り添うように横臥すると、肩と思しき膨らみを上下にゆっくりと撫でる。
「パジャマに着替えなくても良いけど、服だけは脱がないか?」
「…………」
「喉も痛いだろう?水を持ってきたからそれを飲んで着替えよう」
だから蓑虫みたいにコンフォーターに籠もるなと今度は腕らしき箇所を撫でるともぞもぞと人型が移動して離れていこうとしたため、ウーヴェが起き上がってコンフォーターを一気に引き剥がす。
「――っ!!」
「リーオ」
何もシャワーを浴びろと言っていないしパジャマも着替えなくて良いと言っているのだから大人しく譲歩しろと、ウーヴェが声に冷たさを滲ませると背中を向けたリオンの身体がびくりと竦む。
「……10数えるうちに起きなければどうなるか分かるな?」
その言葉は幼い子供に言い聞かせる時などに多用されるものだろうが、思わず恋人に対して口にしてしまって己でも驚くウーヴェだったが、前言は護る為に1から数えて9と言った瞬間にリオンが背中を向けたまま起き上がる。
その背中に溜息を吐いて水のボトルを差し出したウーヴェが目を丸くした後、小さく笑みを浮かべて後ろに差し出される手にボトルを握らせる。
今リオンが自然と正対しているクローゼットの扉は全面鏡張りになっていて、ウーヴェに背中を向けたリオンの表情がはっきりと鏡に映し出されていたのだ。
その事実に気付いているのかどうかは不明だが、決してこちらに顔を見せないリオンに苦笑しつつその背中に手と額を宛がって名を呼ぶ。
「リオン」
「……な、に……?」
「その水を飲んだらパジャマに着替えるか?」
「…………う、ん」
「分かった」
じゃあしっかりと水分補給をしろと伝えてベッドから降り立ったウーヴェは、クローゼットの扉を開けてリオンの衣服を納めている棚から夏物のパジャマを引っ張り出す。
このパジャマを着せるのも久しぶりだと呟きながらクローゼットから出たウーヴェは、深呼吸をした後にじっと見つめてくる青い瞳に気付き、ベッドに膝を突いてリオンの顔の傍に顔を寄せる。
「どうした?」
「…………ダンケ、オーヴェ」
「ああ」
何かに対する礼と言うよりは全ての事に対する礼だと受け止めて気にするなときれいな笑みを浮かべたウーヴェは、パジャマを差し出して早く着替えろと促し、自らもベッドの足下に置いてあったパジャマに着替えてほぼ二人同時にベッドに潜り込むと、今度はもう気にしないのかそれとも開き直ったのか、リオンがウーヴェのパジャマの胸元に顔を寄せるようにしがみついてくる。
「明日、俺は仕事だけどどうする?」
「……一緒に家を出る」
「分かった」
明日はまだ平日だからウーヴェは当然仕事があり、リオンもホームに戻って葬儀の準備をしなければならないだろうし、そして何よりも職場には一度顔を出さなければならないだろう。
いつまでもこうしていられる程二人は非社会的な人間ではなく、例え胸が張り裂けそうな悲しみに沈んでいても、身体の一部を何処か別の世界に持って行かれたような痛みを感じていても、留まることなく流れ続ける時に身を委ねなければならないのだ。
ゾフィーを喪った悲しみにいつまでも止まっていられないことにリオンも気付いていたが、葬儀が終わらなければそれを実感出来ないことにも気付いていて、小さな声でウーヴェにそれを伝えると理解し許してくれる優しさで背中を撫でられて安堵の溜息が出る。
「…………お休み、リオン」
今日は本当に色々あって疲れただろうからもうゆっくりと休めと囁いたウーヴェがリオンの額にキスをすると、リオンが大人しく目を閉じる。
顔の痣もほんの少しだけ薄くなり、掌の傷ももう瘡蓋が剥がれたとしても傷口が曝されることは無くなっていたが、深く切りつけられ抉られたような傷を抱えた心から流れ出す血を止めるのは長い年月が必要になることを理解しているウーヴェは、これから二人でその傷を癒していこうとも囁くとくすんだ金髪が上下する。
「ああ、そうだ、忘れていた」
リオンが眠りに向かおうとする寸前にウーヴェが小さな声を挙げ、細めた視界で恋人を見つめたリオンは、鼻の頭同士が触れあう距離にあるターコイズ色が見た事の無いような優しい色に染まり、上がった手がくすんだ金髪を掻き上げたことに首を傾げるような仕草を取る。
「――お帰り、リーオ。俺の傍に帰って来てくれてありがとう。お帰り」
「――っ!!」
その言葉は先日も聞いたが、その時よりも静かに大きく重みを持ってリオンの心の中に沈んでいったかと思うと、心のもっとも深く暗い場所で流れることなく感情の波にゆらりと揺れる水面に沈み、そこから溢れた滴が青い瞳からも溢れ出す。
「オー……ヴェ……ッ……!」
「本当に良く帰って来てくれたな、リーオ。お帰り」
これからまたこうして同じベッドで夜を越えて朝を迎えようと笑い、鼻梁を伝って枕に染みこんでいく涙を指で拭いてやると、数えれば何日ぶりになるのか、またたった数日のことだが、こうしてまた一緒にいられるようになった事を素直に喜んで伝え、リオンの目から流れ続ける涙が今まで生きてきた中で目にした誰のものよりも純粋できれいなものに感じ、流れる涙と頬にキスをした後、近いうちにお前の部屋を用意しようかと笑いかけて青い目を見開かせる。
「こんな時だけど……、ここで一緒に暮らそう、リーオ」
ずっと待たせていて悪かった、今回の事件が終わって落ち着いたら引っ越しをしようかとも伝え、ぎゅっと閉ざされる瞼にも口付ける。
「俺の天国をこの家に持って来ても良いか?」
「……っ……ぅ、ん……」
「どの部屋が良い? 北側の部屋はあまりオススメしないけどな」
一人で暮らすには無駄に広すぎるこの部屋だが、二人になってもまだ広すぎる。お前の部屋は何処にすると問いかけ、じわじわと沸き上がってくる歓喜を押し殺している様な顔で頷いたリオンだが、バルコニーが小さな頃からの夢だったと呟いた為、バルコニーのある部屋となれば自然と決まってくることにウーヴェが気付いて笑みを浮かべる。
「そうしよう。じゃあお前の部屋はあそこにしよう」
玄関から入って南に伸びる廊下の先、バルコニーがこのベッドルームとも繋がっている部屋をリオンの部屋にしようと頷き、業者を呼んでドアの鍵を付け替えて貰おうとも伝えるが、驚いたように目を瞠るリオンに肩を竦め、天国がここに来るのにその鍵が使えないのでは意味がない、だからこの鍵に合わせたドアノブに付け替えると何でもない事のように片目を閉じたウーヴェにリオンが泣き笑いの顔で頷く。
「オーヴェ、それ、ヘン」
「この鍵を使いたいんだ、仕方がないだろう?」
そんなの絶対におかしいと笑い出したリオンにウーヴェが堂々と胸を張るように伝えればリオンの顔に明るさが増して笑みが浮かび、それを見たウーヴェが今度は息を飲んでしまう。
今回悲しい事件に巻き込まれた太陽が雨雲の向こうに姿を消していたが、ようやく戻ってきた事を実感し、頬に手を宛がってそっとキスをする。
「オーヴェ……?」
「……本当に、お帰り、リーオ」
「……うん」
お前の傍にやっと帰って来たと伝えてウーヴェのキスを受けたリオンは、引っ越しについてはアパートの部屋の更新やらがあるので落ち着いてから相談することを伝えられてもう一度頷き、その日を楽しみに、今己がやらなければならないことをするとも告げてもう一度目を閉じると、肩にコンフォーターを掛けてくれたようで、優しさと温かさに包まれて驚くほど穏やかに眠りに落ちるのだった。
穏やかな規則正しい寝息が微かに聞こえてきた頃、ようやく胸を撫で下ろしたウーヴェも安堵の吐息と安心の欠伸をし、サイドテーブルの目覚ましを確かめるとリオンを追いかけるように目を閉じるのだった。