テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
俺は外で簡単な食事をして自宅に戻った。最近、真白の食事に舌が慣れてしまったのか、外食はどれも味気無かった。
ネクタイを外して書斎の机に向かい、チェアに座る。
口直しに缶ビール片手に新書の『要件事実手引き』を読むことにした。
訴訟類型毎に要件事実を端的にまとめられたもので、著者は裁判官。
だからだろう。参考文献や関連判例が非常に充実していて興味を持った。
先に風呂に入っても良かったが、今日は真白か悠馬から必ず連絡がある。
見過ごさないようにスマホを机の上に置いて、パソコンを立ち上げてリヒテルのピアノ演奏。シューベルトを流した。
静かな部屋にぱらりと、紙を捲る音を響すのも嫌いじゃないが、今日はこれからの事を思うと、穏やかな曲を掛けていても良いと思った。
「俺の真白は誘いなんかに乗らない」
声に出してみてもすぐに頭のどこかで『本当に?』と聞き返す自分自身の声が煩わしく。
ページを捲り。ビールを一口飲んで口の中に広がる、ほろ苦さと本に集中する。
暫くそうしていると、スマホからメッセージ受信の着信音が聞こえた。
手に取ってみると真白から悠馬に偶然出会い、カフェで取材を受ける旨が記されていた。そのメッセージの末尾に。
『浮気とかじゃないからね! 私が好きなのは絢斗君だけ。だから明日合うのが楽しみ。絢斗君とまたカフェに行きたいな。じゃ、後で連絡するね』
と、締め括られていた。
悠馬の真白への接触は上手く行ったのだろう。最初の滑り出しは順調と行ったところか。スマホを机の上に戻す。
「悠馬が真白を誘うと《《知っていても》》、妬けるな」
言葉に出すと舌に残った苦味が増したような気がして、またビールを一口煽り。
新たなる苦みとアルコールで、自分の気持ちを誤魔化した。
そのままビールを飲んでも、さほど心地よい酩酊感を覚えることはなく。
スマホを見つめ。真白にメッセージを送り返したくなるのを我慢して本の文字を追う。
真白からのメッセージには、何もやましい事はないのが分かった。
しかし。
「俺は真白が近くなればなるほど。肌を触れば触るほど、真白がいなくなってしまいそうで怖いんだ」
最近、真白は何か言いたげな態度を取ってソワソワしていた。
それを俺に告げる事はなかった。
すると真白と出会って間もないときの感情が、ずしりと。心に重々しくのし掛かった。
それは最初に抱いていた感情。
真白が過去に誰かと大恋愛していてそれを忘れられないとか。俺が知らない真白の過去の暴露があるのではないか。
はたまた、過去の俺との事を思い出して、このまま関係を続けるのに躊躇いを感じたとか。
そう言った類の──言いようのない不安が俺の胸の中に渦巻いていた。
そんなのは今の真白を見ていれば過去は関係ないと、自分でも割り切って未来しか興味が無いと思っていたのに。
「今の幸せを手放したくない。それを揺るがすモノなんか何一ついらない。どうやったら、真白は盲目的に俺を愛してくれるか分からない……」
文字を追うことに珍しく、集中出来なくなり。背もたれに深く背を預けると、きしっとチェアが軋みを上げた。
真白が俺の近くにいたらこんな不安は消える。何をバカなことを考えているんだと、一蹴出来る。
しかし、離れて仕舞えば途端に胸を掻きむしりたくなるほどの不安が強襲する。
家に帰れば真白が俺を出迎えてくれる。
料理を一緒に楽しみ、一緒のベッドで眠る。
それだけで何物にも代えがたい幸福を感じているのに、どうやってもこの不安を打ち消すことは出来なかった。
真白を強く思えば思うほど、真白の動向が気になって仕方なかった。
真白が何かを迷っているだけで不安になった。
今まで従順に俺の側にいたから余計に気になる。
なんとなく──移動式遊園地で見せた、迷いの種がここに来て開花したように見えた。
「真白は何を思っているんだろうか」
本人が居なければこのようにスルスルと疑問を口に出せるが、真白が目の前にいたら疑問もどこかに消えて、ひたすら抱き締めることや可愛がることに夢中になってしまう。
だからこんな不安は無用。
さっさと取り除くべき。
真白が今の俺を選んでくれたら、それで満足出来るはず。
今の現状に確かなものをもう一つ増やしたい。
だから、悠馬に交渉して真白を口説くように持ちかけたのだった。
リヒテルのシューベルトからブラームスに音楽が変わり。新書も気になるところは読み終えた。
ビールも残り少なく。缶一つでは今日は酔うのは無理だなと思ったところ。
スマホが震えた。それは悠馬からの連絡だった。
音楽のボリュームを下げてから、スマホを手に取る。
「悠馬か。俺だ。どうだった?」
『どうもこうも、言われた通り真白ちゃんを口説いたぞ! さぁ、早く報酬を寄越せ! 今、追っている事件の情報の為とは言え、とても後味が悪い。しかし、それもネタのため。ってか、こんなこと二度としないからなっ。絢斗の変態が!』
堰を切ったように喋る悠馬になにも口をはさむ事が出来なくて、深く椅子に背を預けたまま耳を傾ける。
それに──変態とは心外だと思った。
しかし、反論するとこの様子じゃ火に油を注ぐと思い。
そのまま悠馬の声を聞くことにした。
スマホの向こう側からすうっと、息を吸い込む微かな音がして悠馬が口火を切る。
『そもそも真白ちゃんが可哀想だろうがっ。無駄に振られた僕はもっと可哀想! まぁ、どうせ振られるのがオチだろうと思って、引き受けたと言うのもあるが。はっ。もしかして僕は二人のそー言ったプレイに巻き込まれただけなのかっ!? 『口説かれたお仕置きだよ』とか、そー言ったプレイが目的なのかっ!? 絢斗、お前ならやりそう、』
このままだと話がズレそうだったので、声を発した。
「悠馬。そこまで。目的は言わないと言ったはずだ。その様子だと真白は誘いに乗らなかったのは良く分かった。で、悠馬は真白をどんなふうに口説いた? 先にそれを教えてくれ。その後に報酬はちゃんと伝える」
スマホ越しから、深いため息が聞こえたあと。
『えっーと。最初は真面目に取材をさせて貰って、その流れで普通にホテルに誘った。で、断られた。真白ちゃんはどう見てもお前一筋だ。しかも誘った僕のことを無下に扱うようなことは無かった。よく出来た子だよ。全く』
──真白は俺を選んだ。俺は真白に選ばれた。嬉しい。とても嬉しい。
今、悠馬から真白を口説いた内容と結果に偽りはないだろう。
嘘だったら今頃は連絡など出来ない。
第三者から真白との仲を認められると言うのは、今まで感じたことがない充足感で、確かなものを感じた。
こんなことは頼むべきでは無いとは分かってはいたが、悠馬の話を聞き終えて先ほどまで抱えていた重苦しい胸の重みが軽くなった。
真白の思わせぶりな態度は俺の気にしすぎかもしれないと、やっと思えることが出来た。
そんな爽快とも言える気持ちで、口元が緩みそうになるのを堪えて会話を続ける。
「真白の様子も分かった。これで気が済んだ」
『それは良かったな! バカップルに巻き込まれた僕のぶんまでお幸せにっ。それはそうと、真白ちゃん大事にしてやれよ。次、同じことがあったら全力で口説いてやるからな! はぁ。我が親友ながら変なヤツ過ぎる。それはそれとして──|報酬《ネタ》を貰おう。俺が今、新たに『Kミート』の食品偽装問題を追っているの知っているだろう』
電話越しでもやれやれと言った様子から、キリッと記者の顔付きになる悠馬が想像出来た。
「あぁ、知っている。少し待ってくれ」と答えてパソコンを片手で操作する。
画面には牛のマスコットキャラがシンボルの『Kミート』のホームページが表示された。
『Kミート』は大手、精肉加工会社。
最近、役員交代や大規模リストラがあった。それはニュースにも報道されるほどだったが、事前に悠馬が属する記者クラブにタレ込みがあったそうだ。
それは食品偽装問題が世間に明るみになる前に、証拠隠滅が計られた。
役員交代、リストラはその為。その闇を暴いて欲しいと言う、元社員からのリークがあり。他の記者達はその元社員にインタビューをしようと群がったが。
悠馬はリストラにあった『Kミート』の長年顧問弁護士を勤めていた、その人物から探ることにした。
しかし元顧問弁護士は何かを警戒しているようで誰とも接触を拒み。取材がままならない。
悩んだ挙句、悠馬が俺に相談してきた。
そして──その元顧問弁護士は偶然。
俺の知り合いだった。その元顧問弁護士を紹介する代わりに、真白を口説いて貰うように交渉したのだった。
口説いて貰った結果はとても満足出来るもので、さっと残りのビールを口に含むと。今日、初めてビールが美味しいと思えた。
喉を潤し、舌を滑らかにしてから報酬を伝える。
「悠馬ありがとう。では報酬を伝える」
ガサゴソと、慌ててペンを用意する音を聞いてから言葉を続けた。
「その元顧問弁護士。その御仁は俺と一緒でビリヤードが好きでね。俺が前まで通っていた、市内のビリヤードバー『アンセンス』で出会った。そこの常連。週末には必ず顔を出している」
『ほぅ。アンセンス、ね。そこに行けば話が聞けると』
「いや。行っただけでは話は出来ないだろう。その御仁はちょっと偏屈でね。ビリヤードが強い相手じゃないと、まともに会話してくれない」
『え』
悠馬の戸惑いの声を聞いてから、苦笑したくなるのを堪えて伝える。
「しかし、心を許してくれると滅法、気の良い人だ。身内かと思うほどに態度が軟化する」
『ビリヤードが強いって。まさか、絢斗並み?』
「そうだな。強さは俺と同じぐらいだった」
あの御仁は俺と同じように球の質感を気にすることはなく、しっかりと|撞《ひ》く事が出来ていた。シュートミスも少なく、良い勝負をした記憶がある。
悠馬は少しだけ沈黙してから。腹を括ったような声を出した。
『……ちょっと今から、ビリヤードの練習行ってくる。ビリヤードさえ出来たら、他の奴らよりネタをすっぱ抜ける。長年経営にも関わっていた元顧問弁護士。絶対何か知っているはず。コンタクトさえ取れたらこっちのモンだ。これで偽装問題に一歩近づける』
善は急げと、スマホ越しにバタバタと何処かに向かう足音を聞きながら。
パソコン画面のホームページの会社概要欄や経営理念などの項目をざっと見ると、旧経営陣の名前や顔ぶれがそのまま。
新役員の名前や画像に切り替わってないところを見ると、新しい顧問弁護士を迎えたか怪しい。
迎えていたとしても、この杜撰さだったら悠馬がまた真相に辿り着くのは容易だろうと思った。
これで通話も終わりかと思うと。
『なぁ、絢斗。一ついいか?』
悠馬のいつになく真剣な声に、少し姿勢を正して聞く。
「なんだ?」
『もし。万が一、真白ちゃんが僕とホテルに行っていたら、絢斗。お前はどうするつもりだった?』
ホームページから目線を離し、考える。
その時は今後、真白の行動に制限を付けるかもと思った。それは黙っておいてもう一つの本心を話した。
「真白が他の男に抱かれたとしても、俺の愛は変わらない。真白が何も言わないならそれでいい。それ相応の嫉妬はするが。別れはしない。俺はそのまま変わらずに愛するだけだ」
『それは、逃げているだけじゃないのか?』
「……逃げている?」
『それだけ好きだったら、ちゃんとぶつかる方がいい気がするけどな。それに言いたいことはちゃんと本人に言え。真白ちゃんのあの様子なら、ちゃんと受け止めてくれるさ』
「真白に……」
「まぁ、間違えないようにな。|依依恋恋《いいれんれん》でも、時には離れて見えることもあるってことさ。じゃ、そー言うことで。またっ』
ぶつりと、通話が切れた。そのままスマホを見つめていると真白からのメッセージが届いていたのに気が付いた。
『松井さんの取材は終わって今、家でゆっくりしているところ。明日、夕方ごろに家に行くね。何か食べたいものあったら言ってね。頑張って作るから。あ、お仕事忙しかったら返事は明日で大丈夫。お仕事お疲れ様』
そのメッセージの三分後に。
『おやすみなさい。絢斗君、大好き』
と言うメッセージが受信されていた。
眼鏡を外し。スマホを握りしめて、ふらりと書斎の壁にむかう。
壁の前には脚の長い、スタンディングの机が変わらず置いていて。
その上には流石にオレンジ色のブーケは飾っては無かったが、フォトフレームの横に真白を縛った金のリボンを添えていた。
壁には以前より、多くの大小の真白の写真やパネルを飾っており。
その中心には、真白の写真が増えて大型デジタルフォトフーレムを取り付けていた。
画面には絶え間なく真白の写真や、作ってくれた料理などが流れ続ける。
全て俺の宝。
それらを見つめながら。
「真白は全部、俺を受け止めてくれるのか……俺は……」
なんだか言葉に出来なくて、ただ真白の写真を見つめる。
しかし、写真の中の真白は明るく笑うだけだった。