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★2008年 新宿パル座 楽屋内──
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古びたソファに投げ出された衣装、散らかったペットボトル、誰かのカバン。楽屋の空気は乾いていて、ほんのり汗のにおいが混じっている。ライブを終えた芸人たちの興奮がまだ残っていて、あちこちで笑い声が弾けていた。
「お疲れ!いやーウケたな!」
「今日の客、めちゃくちゃノリよかったよな!」
どこかのコンビがハイタッチを交わし、賑やかに打ち上げの予定を話し合っている。
そんな喧騒のなかで、一人だけ輪に加わらず、楽屋の隅にいる男がいた。
やや猫背気味に長い前髪を伸ばした彼は、コーヒー缶を手に、壁際に寄りかかっている。 黒いパーカーに、灰色のジーンズ。地味な服装は、華やかな柄物を身につける俺とは対照的だった。缶を傾けるたびに、光の差さない黒い瞳がかすかに揺れる。
──寂しそうな目をしてるな。
知らず知らずのうちに、俺は視線を向けていた。
彼は最近少しずつ売れ始めた別事務所のコンビ「シンプルスター」の一人らしい。直接話したことはないけど、
俺と同じでネタを書いていると聞いたことがある。
「飯、どこ行く?」
「焼肉もいいけど、ラーメンとかもありじゃね?」
芸人たちがわいわいと打ち上げの話をしている横で、彼は相変わらず缶コーヒーを啜っていた。 誰とも目を合わせず、まるでそこだけ別の時間が流れているみたいに。
──なんでだろうな。 俺は、吸い寄せられるように彼の隣へと歩いていった。
「秋野くん」
俺がそう声をかけると、彼は驚いたように目を瞬かせた。楽屋のざわめきの中で、ぽつんと静かな空気を纏っている彼は、
まるで舞台袖の暗がりに佇む影のようだった。
「あ……笠木さん」
少し遅れて、控えめな声が返ってくる。この楽屋には何十人もの芸人がいて、みんなそれぞれの仲間とふざけ合ったり、打ち上げの予定を立てたりしている。その中で、彼だけがどこにも属さず、コーヒー缶を握りしめていた。
「なあ、よかったらさ飲み行かない?」
「え?」
彼の指が、無意識のうちに缶を強く握りしめる。 緊張したのか、それともただ驚いただけなのか──それは分からなかった。
「みんなで?」
「いや、俺と秋野くんでサシ」
そう言うと、彼の瞳が一瞬、迷うように揺れた。理由なんていくらでもつけられる。
俺と同じでネタを書いてるって聞いたし、どんなふうに考えてるのか話してみたいと思った。
でも、そう説明するのはなんだか違う気がした。ただ、なんとなく──このまま見過ごしたくなかった。
「……別に、いいですけど」
少しの間のあと、秋野くんは静かにそう返した。缶コーヒーを傾ける彼の横顔は、どこか無防備だった。
楽屋を出ると、外の空気はひんやりとしていた。新宿の雑多なネオンが滲む夜の街を歩きながら、秋野くんはちらりと俺の方を見てくる。
「なんで俺なんですか?」
「んー? なんとなく?」
俺の適当な答えに、秋野くんはふっと小さく笑った。微かに口元が緩むのを見て、俺は少しだけホッとした気分になった。
暖簾をくぐって店内に入ると、居酒屋特有の香ばしい匂いと、ざわざわとした賑やかな声が二人を包み込んだ。木目のテーブルと古びた提灯、壁に貼られた手書きのメニューが、どこか懐かしさを感じさせる。カウンター席ではスーツ姿のサラリーマンがビールジョッキを片手に談笑し、奥の座敷では若いグループが焼き鳥を囲んで笑い合っていた。 店員に案内され、二人は小さなテーブル席に向かい合って座る。テーブルの上にはすでに、冷えたおしぼりと湯気を立てるお通しが置かれていた。
「俺さあー…ネタいっぱい考えてんのにさあ、相方が俺任せで何っも考えてくんねーの。面白いっつってくれるけど、ほとんど俺任せっつーか。」
「それちょっとわかります」
「だよなぁー、つーか、秋野くんのネタ見たよ。むっちゃ良かった、俺すげー好みだわ」
「そうですか…?ありがとうございます、嬉しいです」
「いや、マジでいいセンスしてると思うんだよ」
ジョッキを置いて、俺は改めて秋野くんの顔を見た。
彼は少しだけ驚いたような顔をして、それから照れくさそうに視線を落とす。
「……そう言われると、嬉しいですね」
「もっと自信持てよ。お前のネタ、ちゃんと伝わってるって」
「でも、やっぱり相方とのズレとか、ありますよね……。俺の作るネタ、相方にはあんまりハマらないことも多くて」
秋野くんはグラスの縁を指でなぞりながら、ぽつりとこぼした。
「俺の相方もそう。俺が考えてる時は寝てるし、ツッコミのタイミングも合わねーし。でも、あいつがいなかったら舞台でウケないんだよな」
「……分かるかも。結局、一人じゃできないですもんね」
「そうそう。でもさ、お前、もっと前に出たほうがいいんじゃね?」
俺の言葉に、秋野くんは少しだけ眉をひそめた。
「……前に、ですか?」
「だって、ネタ書いてるのもお前で、センスもある。相方が目立つタイプなら、それを生かす形でやるのもいいけど、お前自身も光当たっていいと思うんだよな」
秋野くんはジョッキを傾けながら、少し考え込むように視線を落とした。
「……前に出るの、苦手なんですよね」
「いや、知ってるけどさ。でも、俺はお前のネタ好きだからさ。もっと見たいって思うんだよ」
「……そんな風に言われるの、初めてかもしれません」
秋野くんは静かに笑った。さっきよりも少しだけ、自然な笑い方だった。
「つーか敬語やめて。俺堅苦し〜の苦手」
「え?でも…笠木さんの方が先輩だから」
「どーせ俺たち多分2個ぐらいしか変わらねーから大丈夫だよ」
「……うーん、でもなあ」
秋野くんは少し悩んだように視線を落とし、ジョッキの縁を指でなぞった。
「いいから、ほら、試しにタメ口で喋ってみ?」
俺がニヤッと笑って促すと、秋野くんはますます困った顔をした。
「ええ……いや、でも……」
「今のも“ええ”とか言っちゃってるし。お前、普段どんな喋り方してんの?」
「いや……普通、かな」
「じゃあ、それでいいよ。それとも俺にだけ敬語やめんの嫌?」
「……別に、そんなことないけど」 そう言いながら、秋野くんはちらりと俺を見た。
俺がじっと待っていると、少しだけため息をついて、それからグラスを持ち上げた。
「……じゃあ……その……笠木、もう一杯飲む?」
ぎこちなくも、確かにタメ口になった言葉が出てきた。
「おお、いいじゃん。もうちょい自然にすれば完璧」
「なんだそれ……」
ぼそっと言いながら、秋野くんは口元を隠すようにジョッキを傾ける。
顔を隠すクセ、やっぱりあるんだなと思いながら、俺は笑った。
「なーんか、お前、意外と可愛いとこあるよな」
「え?」
「いや、冗談冗談。……で、俺たちもう友達ってことでいい?」
「……まあ、そうなるのかな」
秋野くんは少し考えてから、ふっと笑った。さっきよりも、また少しだけ自然な笑い方になっていた。
数時間後─。
「絶対ウケるって、マジで!」
俺はテーブルに肘をつきながら、勢いよくネタ帳をめくった。秋野くんも笑いながら、手を振って同意する。
酒のせいで、いつもよりずっと肩の力が抜けていた。
「ほんとにいけると思う!お前と組んだら、相方とのギャップもあって面白いし」
「いや、俺もお前とのコンビ、結構いけると思うんだよな。いつもと違う感じになるし、絶対新鮮だよ」
秋野くんもネタ帳を開きながら、少し興奮気味に話している。普段はどこか静かで控えめな彼が、こんなふうに前のめりになるのが新鮮だった。
「ちょっと待って、これさ、こういうパターンでもいけるかも。こういう役やってみてよ」
俺が提案すると、秋野くんは少し考えたあと、うなずいて演じてみせる。
「これ、かなりイケるな」
「だろ? お前、やっぱり面白いよ」
酒が回って、俺たちのやりとりがどんどん弾んでいく。ネタの方向性や掛け合いを考えながら、時間はあっという間に過ぎていた。テーブルの上には、いくつもの空いたジョッキと、食べかけの焼き鳥の串。
ポテトフライの皿には塩だけが残り、カウンター越しでは店員が忙しそうにグラスを洗っている。店内の照明はほどよく暗く、赤ちょうちんの柔らかい光があたりをぼんやりと照らしていた。
「でも、これ合同ライブやったら、かなりいい感じになるよな」
「そうだな。やるなら全力で行く」
「おう、じゃあ日程決めようぜ! 今度のライブで一緒にやろう」
二人でガッツポーズしながら、合同ライブの話で盛り上がる。 普段は寡黙な秋野くんが、こんなふうに熱を持って話しているのが嬉しかった。
「それじゃ、今度こそ本気で組んでみよ、楽しみだな、俺」
「うん、俺も。絶対ウケるネタ作ろう」
店を出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。通りは人もまばらで、静かな時間が流れている。街灯の柔らかな影が歩道に伸び、時おりタクシーがネオンを揺らしながら通り過ぎる。
「……楽しみだな」
「ほんとだよ」
ぽつりと秋野くんが呟く。その横顔をちらりと見て、俺も小さく笑った。夜空には、少しだけ星が見えていた─。