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そのとき、視線の端でこちらを見ているステラに気づき、体勢を変えた拍子に——バケツが傾いた。
ばしゃり、と水が床に広がる。
「あっ」
声が漏れた瞬間、胸が跳ね上がった。
やってしまった、という感覚が一気に押し寄せる。
床に染み込んでいく水を見つめ、ノワールは固まった。
喉がひくりと鳴る。
——怒られる。
——やっぱり、邪魔だった。
反射的に布を掴み、水を拭こうとする。
手が焦って、動きがぎこちない。
「……大丈夫」
すぐ近くで、落ち着いた声がした。
ノワールはびくっと肩を震わせる。
恐る恐る顔を上げると、ステラがしゃがみ込んでいた。
叱る様子はない。
困った顔でもない。
「誰でも、あるわ」
そう言って、反対側から一緒に床を拭き始める。
ノワールは言葉を失ったまま、ただ布を動かした。
胸の奥が、じんと熱くなる。
「……ごめん」
ようやく絞り出した声は、小さかった。
ステラは手を止めずに、首を横に振る。
「謝ることじゃないわ。手伝ってくれてるんだもの」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ緩んだ。
——失敗しても、ここにいていい。
——役に立たなくても、追い出されない。
水気のなくなった床を見つめながら、ノワールはそっと息を吐いた。
ステラは立ち上がり、濡れた布を受け取る。
「次は、ゆっくりでいいわ」
その背中を見送りながら、ノワールは小さく頷いた。
新しい布を持って戻ってきたステラが、ノワールに声をかけた。
「次は、棚を拭ける?
廊下は今ので、すごく綺麗になったから」
その言葉に、ノワールは一瞬だけ目を見開いた。
——できた。
——ちゃんと、役に立てた。
胸の奥が、きゅっと温かくなる。
「……うん」
短く答えて、受け取った布を両手で握る。
今度はさっきよりも、力を入れすぎないように気をつけた。
棚の前に立ち、背伸びをしながら布を滑らせる。
木の匂いが、ほんのりと立ち上る。
ステラは少し離れたところで、作業を続けている。
時折、視線が合うと、何も言わずに小さく微笑んだ。
それだけで、ノワールはまた背中を伸ばす。
——見られている。
——でも、責められていない。
棚の上段に手を伸ばそうとして、つま先が少し浮く。
届かない。
ノワールは一瞬、どうするか迷ってから、椅子を持ってこようと周囲を見回した。
その様子に気づいたステラが、声をかける。
「無理しなくていいわ。下の段だけで大丈夫」
ノワールは首を振った。
「……できる」
言い切る声は小さいけれど、はっきりしていた。
椅子を引き寄せ、慎重に上に乗る。
布を動かす手は、さっきよりも落ち着いている。
——ここで、ちゃんとやりたい。
拭き終えた棚を見下ろし、ノワールは小さく息を吐いた。
ステラは近づき、棚を一度だけ確かめる。
「うん、綺麗」
その短い言葉に、胸の奥がふわりと軽くなる。
名前は、まだ呼べない。
それでも——
この場所で、こうして一緒にいる時間が、確かに増えていく。
────────
昼の鐘が、教会の空気をゆっくりと震わせた。
低く、穏やかな音が、壁や床に染み込んでいく。
その余韻の中で、ステラが顔を上げる。
「ノワール。お昼の鐘よ。
お仕事は一旦、休憩にしましょう」
不意に名を呼ばれ、ノワールの手が止まった。
布を握ったまま、息をするのを忘れる。
ステラは微笑みながら、こちらへ歩み寄る。
そして、ためらいのない仕草で、そっと手を伸ばした。
ノワールは反射的に身をこわばらせる。
けれど、その手は掴もうとするでもなく、引っ張るでもなく——
ただ、そこに差し出されているだけだった。
「……」
視線が、伸ばされた手と、ステラの顔の間を行き来する。
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
——あのメイドを傷つけた僕の手で、
彼女に触れても、許されるんだろうか。
ほんの一瞬の逡巡のあと、ノワールは恐る恐る指先を動かした。
完全に握ることはできず、ただ、触れるだけ。
それでも、ステラは何も言わない。
指先が触れたことを確かめるように、ほんの少しだけ距離を詰める。
「よく頑張ったわ」
その言葉は、褒めるというより、
ただ事実を告げるような響きだった。
ノワールは俯いたまま、小さく頷く。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「……まだ、できる」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しい。
ステラは首を横に振り、優しく言った。
「休むのも、大事なお仕事よ」
差し出された手は、まだそこにある。
ノワールは一度だけ、深く息を吸い、
今度はほんの少しだけ力を込めて、その手に触れた。
昼の鐘の余韻の中で、
その手の温かさだけは、確かに現実だった。