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「また私を女避けにしようとしたわよね?」
視線を交わさないように、うどんを食べながら聞けば、最近聞き慣れてしまった「さあ?」という返事が聞こえた。
「女は面倒なのよ。やめてよ」
多少の文句を言いたくて口を開けば、意外な返事が返ってきた。
「知ってますよ。だからやめたでしょ?」
その答えは、初めは女避けにする気だったと認めているようなものだ。
私の噂なんてろくでもないし、だからといって仕事で今さら何か困ることもない。
むしろ敵に回して困るのは向こうだろう。それを知っているから、面と向かって喧嘩を売ってこないわけで。
「いいように使うなら、私の口止めは絶対だからね」
念を押すように言えば、望月先生はじっと私を見た。そして不敵な笑みを浮かべた。
「昨日からずっと僕、眠ってないんです。口が滑らないように頑張りますね」
「ちょ!」
つい声を上げてしまい、私は慌てて口を閉じる。
冷静沈着と言われている私だが、彼の前では調子が乱されっぱなしだ。
「嘘です。昨日からずっと勤務だったんで、今日はもう上がりです。お疲れ様でした」
それだけを言うと、望月先生は足早にトレーを持って行ってしまった。
なんだかペースが狂いっぱなしだが、すっかりうどんを平らげていた自分に小さく息を吐く。
心配をしていた結衣くんの話を聞けただけよかったと思うと、私は仕事に戻った。
定時で上がれば、外はどんよりと雲が覆っていて、私は小さくため息がこぼれ落ちた。
なんとなく気持ちが落ち込んだ日ぐらい、天気がいい方がいいに決まっているが、そう思うようにはいかない。
梅雨時期のこの湿度の多い時期は、ただでさえ髪もぺったりとするし、気分も落ち込みやすい。
今日は早く帰って、一人でゆっくりしたい。
そう思いながら足を踏み出せば、目の前の車から男性が降りてくるのが見えた。
「千堂さん……」
ダークブラウンの髪をラフにセットしたその姿は、いかにも最前線で働くIT社長といった雰囲気だ。
大人の魅力全開のその人は、にこりと笑みを浮かべた。
「もう終わるころだと思って。俺も今日は早く終わったから」
「そうなんですね」
借りてきた猫のように、少し緊張して答えれば、くすりと笑われてしまった。
マッチングアプリで知り合って、会うのはまだ数回だ。いきなり約束もなく現れたその人にも、私は何も言えずにいた。
「ごめん、連絡もしなくて。迷惑だった?」
「いえ、そんなことは」
社交辞令のような言葉になってしまった私に、彼は特に気にする様子もなく、私の目の前にやってくる。
「食事に行こう」
口では気遣うような雰囲気だが、拒否をさせないようなその言い方は、立場のある大人の人特有なのだろうか。
まだ慣れていない私は、拒否する言葉が出てこない。一人で家でゆっくりしたかった。
そんなことを、五つも年上の千堂さんのような強い男の人に、反論するようなことは言えなかった。
「はい」
静かに返事をすると、慣れた手つきでエスコートされ、高級車の助手席に乗せられる。
連れてきてくれたのは、千堂さんが住んでいるタワーマンションと一緒に入っているホテルのレストランだった。
そこは住居となるマンションとショッピングモールやホテルなどの商業施設、オフィス棟がある巨大なビルで、私も何度か買い物に来たことはあったが、この高級ホテルに入るのは初めてで緊張してしまう。
それでも黒のワンピースを着ている日でよかった。
楽だからとジーンズで出勤する日もある。その日だったら、千堂さんはどうしていただろう?
そんなことを思いながら、恐縮しつつ案内された窓際の席へと腰を下ろした。
「ここでよかった?」
「こんな素敵なところ、私にはもったいないです」
少し周りを見ながら言えば、彼は小さく頷いた。
「そういう謙虚なところがよかったんだ」
「え?」
初めて聞くその言葉に、私は聞き返していた。
「君みたいに仕事はきちんとしているけど、控えめそうな子が結婚するならいいって思っていたから」
自分を選んでくれた理由をはっきり聞いたのは初めてで、私は「そうですか」とだけ答えていた。
こういう出会いをしたのだから、愛だの恋だのすぐに発展するなどとは到底思っていなかったが、嫁にするならそういう人と、条件だけで選ばれたことがなんとなくしっくりこない。
「でも、あの情報だけだったら、謙虚かわからなくないですか?」
問いかけた私に、メニューを見ていた千堂さんが顔を上げた。
「違うの? 一番おとなしそうに見えたし、顔もタイプだったから」
さらりとこういうセリフを言える人なんだと思う。きっと女の人には困っていないのだろう。
確かに婚活の担当の人に、おしとやかに見られた方がいいと、清楚そうなベージュのワンピースの写真を登録してある。
「君だって、結婚するために条件で選んだだろ?」
そう言われてしまえばそうだ。結婚をしたい人が登録をしているのだから、むしろこんな人に選んでもらえたことに感謝をしなければいけない。
そう思い直すと、私はキュッと唇を噛んだ。
「そうですね」
肯定すれば、その返事に彼は満足そうに頷いた。
当たり前のように慣れた様子でワインを頼み、目の前で完璧な所作でソムリエが赤ワインを注いでくれる。
本当はフルボディの赤ワインは苦手だが、それを伝えることができなかった私は、乾杯をするとそれを流し込んだ。
喉の奥に渋みとアルコールが広がる。こんな場所と、目の前の余裕すぎる人に、私はアルコールを自分の許容範囲以上に飲んでいたようだ。
「結婚したら仕事はやめてもいいって書いてあったよね」
登録するときにそう書いたことを思い出す。あの頃は確かにそう思っていた。
「今は楽な場所にいったんだよね? これから時間は作れるんだよね?」
楽な場所という言葉に、少しイラッとしてしまう。確かに外来の方が夜勤などがない分、時間の都合はつきやすいが、命を預かっている仕事という意味では、どちらが楽とかそういったことはない。
自分で招いたことなのに、どうしてもなぜか落ち着かない気持ちになってしまい、美味しいはずの料理もあまり味がわからず、酔っている自分をなんとか制御しつつ食事を終え、ホッとする。
「行こうか」
そう言われ立ち上がれば、少しふらつくような気がしたが、なんとか平静を装う。
「大丈夫か?」
「はい」
支払いをいつしていたのかもわからない手際の良さに感心しつつ、私はお礼を言って失礼しようとした。
「今夜はありがとうございました。失礼します」
頭を下げた私に、彼はかなり驚いたような表情をした。
「今なんて?」
「え?」
言われている意味がわからず、私は聞き返す。
「今なんて言った?」
やはり聞き間違いではないとわかり、もう一度彼の目を見ながら口にする。
「今日はありがとうございました」
「その後だ」
そのあと? 何かいけないことを言っただろうか。
内心バクバクとしつつ、私はキュッと唇を噛んだあと、ゆっくりと頭を下げた。
「それでは失礼します」
彼の家は同じ場所なのだから、この場で別れるのが正解だろうと思っていた私は、くるりと踵を返した。
「待て! 本気か?」
え? 後ろからいきなり手を引かれ、私は驚いて振り返った。本気とはどういう意味だろう。
「家に行きたいとか言わないのか?」
「え?!」
家に行く? それはもしかしなくても夜の誘いだろうか。こうして出会ったら、すぐにそういう行為に及ぶのが当たり前なのだろうか。
ただ契約のような結婚かもしれないが、それでも……。
いきなりこの人と身体を重ねるなど到底想像ができない私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あの、きちんと結婚するまでは、そういうことは……。あの、失礼します」
後ろから止める声が聞こえたが、私はちょうど来たエレベーターに乗り込んだ。
何か言っていた気がするが、もう私は家に帰りたかった。
ホテル前に停まっていたタクシーに乗り込み、大きく息を吐く。
今頃酔いが回ってきた私は、自宅の住所を伝えると、背もたれにもたれて目を閉じた。
何をやっているんだか……。
自分のしていることがなぜか滑稽に思えてきて、急激に心が冷えていく。
私が外来に異動したことも、婚活を始めたのも、すべてあの人のせい。
思い出したくない過去が頭をよぎった。
美希みなみ