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プロローグ
オレの命について、目の前の三人が真剣に会議している。……しかも「殺す」方向で。
1
二時間前、スラム街の通りで揉めてるような声がした。
あゝヤダヤダ。どうせ女の子が盗みを働いて男達に追われている…ってところかなぁ。
まぁここではよくあることだ。帰ろうかな…
でも小柄な女の子に対して大柄な男が二人、さすがに可哀想かな…
それにしても奴ら、ここじゃ見ないような格好をしている。男の方は上等そうなスーツを着て、女の子の方もきちんと手入れされた桃色の髪は遠くからでもサラサラなのがわかった。ここの人間じゃないのか?
もしかしてお金持ち?じゃここで助けたら…
「あなたは私の命の恩人だよ」
って感謝されて、ふかふかのベッドに暖かい飯! スラム生活ともオサラバ――
よし、いける!
——そう思った瞬間、男たちはナイフを投げた。
「危な!」
しまった、声が出た。完全に見つかった。
心臓がドクンと跳ねる。逃げようと足に力を込めた瞬間——
男たちは倒れていた。
「これでおしまいなの?おじさんたち弱いよ。まぁ、いっか…帰ろ。せっかくだから財布もらって行くよ」
今のアイツがやつたのか……何者なんだ……
オレは気になって、女の子の後をつけてみることにした。
「ただいまっ!」
「おかえりなさい…ってユア、あなたつけられたわね」
「敵か?」
「いえ、わからない」
何を話してる?聞こえない…オレは外から中を覗いていると
「お前、誰ね?何してる?」
さっきの女の子が目の前に立っていた。
それにしてもさっきは遠くで分からなかったが、桃色の髪をした女の子はツインテで目が大きくちょい八重歯気味。結構、可愛い。
年齢はオレより下だろう。
「おい、聞いてるのか、どうして私をつけた?言わないと敵とみなして殺すから」
「は、何言ってるんだよ。敵?殺す?物騒すぎるだろ」
「じゃ、さっさと名前言うね」
そう言ってこいつはさっきより強く顔を枝で突っつき始めた。
「言うから、言うから。それやめろ。オレの名前はソラだ。スラム街に住んでいて親も知らないから苗字か知らない」
——冗談じゃね、なんでこんな奴に名前を言わなきゃなんねんだ。でもこいつ…マジで目が怖い。
「なんかごめん」
…驚いた。まさか謝られるとは…なんかむず痒くなって
「別にお前に同情される義理はねーよ。お前は?」
「ん?」
「名前だよ、名前。なんて言うんだ」
「あー。私は十六夜 ユア」
「何でお前は普通に名乗ってるんだよ」
部屋の奥から現れた男が、ユアの頭をぽんっと軽くチョップした。声のトーンも動きも、どこか力が抜けていて、完全に呆れ顔だ。
ユアは特に気にする様子もなく、肩をすくめて返す。
「だって……」
そのやりとりを聞きながら、パソコンに向かっていた女ふとつぶやいた。
「どうせ、あれでしょ。親がいないって不憫に思ったんでしょ。
……まあ、戦えそうには見えないしね。とりあえず、軽く縛っとく?」
画面から目を離さずに言うその声には“またか”って言う諦めがにじんでいた。
「まぁ、そうだな。じゃ悪いけどもうちょい、大人しくしとけよ」
男は女に賛成し、オレを縄で縛り上げた。オレは抵抗する間もなく捕まった。
——そして今に至る
「で、こいつ結局どうするね。殺すの?」
ユアの声がやけにあっさりしててゾッとする。謝ったり、殺そうとしたりほんと、感情が読めない奴だ。
「はぁーユア、お前さっきそいつに名乗ってじゃないか。お前は名前を教えた相手を簡単に殺すのかよ」
男がダルそうに頭をかきながら、めんどくさそうに言葉を吐き出した。オレも今のはその意見に賛成!!
「でもこいつ私をつけてきたね」
ユアがオレを指差して言う。
「それもつけられたユアが悪いでしょ。でも本当にどうする?こんなところシンに見つかったら、やば…」
「オレに何が見つかったら、ヤバいって?
紫月、それから、りくにユア、貴様らそこで何をしている?」
部屋に入ってきた途端、声を荒げる男に、今までパソコンをいじりながら、冷静に話してた女は突然、肩を
“ビクッ”と
させてキーボードを打ってた手を止め、恐る恐る後ろを見る。
「げっ…シ…ボス。おかえりなさい…あはは」
「げっとはなんだ。げっとは。紫月、貴様何を隠してる」
「いや、その……」
紫月は苦笑いをする。それに怒り隠せない男。
この男がボス?ムカつく程、整った顔だが、チビだった……
……まだガキじゃねぇか……
それより、こいつらが話し込んでる今のうちに逃げようとしたその瞬間——
バンッ!
鼓膜を裂くような音とともに、目の前の床が弾けた。
「ひっ!!」
「勝手にユアをつけてきた癖にはい、さようならって帰れるとは思ってないよなぁ」
一歩、前だったら確実に死んでいた。
……何も考えられなくなる……足が震える。息が詰まりそうになる。
ユアって言う奴といい、こいつといい、なんでそんなに簡単に命を奪おうとするんだ。ここは本当に、普通の世界なのか?
恐る恐る顔を上げてみると、さっきユアをチョップしてた奴だ。 というかこいつ、どこから銃を出したんだ。
そういえば、ここに来た時もなんですぐ気づかれんだ。オレは物音ひとつ立ててないし、そもそも中を除く前に気づかれた。なんでだ… 考えていると
「りく、貴様ここで発砲するなと何度言わせる」
「あ、わり」
「修理代は貴様の給料からだぞ」
「げっそれは困る。勘弁してしてくれ」
本当になんなんだ。こいつらは…
「まぁまぁ。シン、あなたも疲れたでしょ。とりあえず、お茶にしませんか?事情はその時に」
「あゝ、そうだな頼む」
「はい、かしこまりました。みなさんも座ってほら、あなたも」
2
「なるほど…つまりソラ、あなたはユアのことつけてここまでやってきたってことですか。シン、どうしましょう。彼は俺達のことを知りすぎました。このまま返すわけはいかないでしょ」
やっぱり、そう簡単には帰らせてもらえないのか。なんとなくわかっていたけど少し期待したオレを殴ってやりたい気分だ。
「貴様、歳は」
金髪のチビはオレの方をみて、言った。
え、もしかしてオレに尋ねてるのか。慌てて
「十八」
と答えると
「貴様はスラムの方住人だったな。親はいないって言ってたが貴様、一人で生活してるのか?」
「いや、育てのじいちゃんと二人。それがどうしたんだよ」
ったくなんなんだよ。オレがそいつを睨んでると
「貴様、確か…ソラと言ったな…ここで働く気がないか。給料いいぞ」
そう言いながら、紙を見せた。そこにはとんでもない額が記されていた。
“ふかふかのベッド”どころか、今の生活は雨風もしのげないボロ屋。じいちゃんも最近咳が止まらなくなってきた。
オレはその話に乗ることにした。
ここはオルカリブレと言うらしい
ボスは——鵜月 真 二十四歳
金髪でめちゃ整った顔。
女子にモテそうだが、態度はでかい癖に背は低い。
「シン、あなた本気で言ってるんですか?」
——大神 弓弦 二十六歳
黒髪でメガネをかけた背の高い奴。
最年長だが、口調は丁寧。経理担当らしい。ボスとは真逆の性格なんでこんな人が下にいるんだろう。
「シンは相変わらず子供に弱いから」
——水流 紫月 二十二歳
紫色の髪でショートヘアの背の低い女の子。
最初にオレを見つけた奴、どうやって見つけたんだろう。
「まぁいいんじゃねーか。一般のガキを殺すのは目覚めが悪い」
——神凪 陸 二十二歳
青髪で目つきが悪く。片耳に十字架のイヤリングをしている。
さっき逃げようとした時、撃ったじゃないか。どの口が言ってるんだよ。
「さすがボス、優しい」
——十六夜 ユア 十四歳
桃色の髪でツインテールの女の子。
十四なの?親はどうしてるんだろう?
1章 オルカリブレ結成
「はぁ。指名手配されている?何したんだよ」
訳を聞いて、数秒が過ぎた。
——シンがやっと口を開こうとした瞬間、弓弦が前に出た。
「それは俺から話しましょう。シンには兄はいました」
1
弓弦の静かな声が室内に響く。こいつは、いつもながら冷静で、混乱するオレの内面を沈めるように話し始めた。
あの日、震災の混沌の中でオレたちが見たもの、そして突然届いた謎の手紙。兄・誠が何も告げずに姿を消した。
恐怖と不安が積み重なり、どうにかなりそうだった時期となりに弓弦がいてどれだけ安心したことか。今も弓弦が代弁してくれることに心底ほっとしてる自分がいる。
弓弦がオレたちの家に来たのは、オレが六歳のときだった。兄の誠と同い年だったこともあり、二人はすぐに打ち解けた。
その時、一緒にもう一人、女の子も養子として迎えられていた。父さんが選んだ、家族だった。
ささやかだけど幸せだったのにあの一瞬でそれが壊れた。
「——震災の日、俺たちが見たのは、ただの混乱ではありませんでした」
(——なんだよ、いきなり怪談みたいな始まり方しやがって。)
ソラがなんか言いたそうに、こっち側を睨む。
弓弦の声も、少しだけ低くなる。
「突然、誠が……いなくなりました」
2
あの日、まるで世界が音を立てて崩れ落ちるようだった。震災の混乱の中、オレはただ一人取り残された感覚に襲われていた。ビルが倒れる音、叫び、そして消えかけた街灯の下で、ふとふと頭に浮かんだのは、兄・誠の無言の背中だった。
「兄さん、なんで…?」
オレの問いかけは、答えのない闇に吸い込まれていく。突然、ポストに投函された一通の手紙。その文字が、今も心に焼き付いている。
【あの日の混沌の中、我々は守られることなく彷徨っていた。だが、人類を進化へ導くため、異端の科学者・康成を止めてほしい】
誰が送ってきたのかもわからない。
何も言わずに去った兄に、差し出し不明の謎の手紙。
「何か理由があるはずだ」と考え、兄の行方と、その思想と真意を弓弦と探し始める。
康成の研究所には、きっと何かが隠されてる――
そう思ったオレたちは、潜入を決めた。
未来予知と綿密な準備で、一瞬だけ映像とデータを引き出すことに成功した。
「人為的異能力開発計画」と記されていた。
研究者の名前の中に、朝海康成、そして……オレの兄、鵜月誠の名前があった。
思わず息を呑んだ。なぜ、兄の名があそこにある? 何をしていた? 何を――知っていた……?
だが脱出直前、監視ロボットに気づかれ、研究員との戦闘で監視カメラにオレの顔がはっきり映り、研究所の警備AIにデータが残される。
幸いにも弓弦はなんとか逃げ切れたようだ。
数日後。
国家機関(もしくは康成が裏で操作している機関)から、「国家機密への不正侵入」「機密情報の奪取未遂」「武装しての暴行未遂」などの罪で指名手配される。
ニュースでは「未来予知能力を持つ異能力者・鵜月真、危険人物として逃亡中」と報道され、オレは“テロ予備軍”のように扱われるになった。
オレは逃亡者として闇に隠れている。しかし、この痛ましい記憶と共に、あの謎に立ち向かう覚悟は変わらない。兄への疑問、康成の計略、そして自分自身の未完成な思い。それら全てを、いつか必ず解き明かしてみせると誓い、裏社会で動く異能者や事情を持つ仲間を少しずつ集め、
“情報・戦力・影響力”を持つ組織―オルカリブレを作り上げる。
3
——現在——
「これがオルカリブレができた経緯です」
オレは頬杖突きながら弓弦の話を黙って聞いていた。
へーシンも大変なんだな。でもよくやるよ。兄ちゃんが姿を消したからって研究所に侵入するなんて…
もしかして、ブラコンなのか。
2章 戦う理由
「なぁ。どこまで連れて行くんだよ」
ったく無視かよ。
オレは目的地もわからない、今から何をするかもよく分かってない状況で言われるまま、シンについて行った。
——三十分前——
「ソラ行きたい場所がある。付き合え」
「あそこに行くんですか?」
「ああ」
シンは椅子から立ち上がりスーツを着ながら、オレに向かって言った。シンたちが出かけるなら言いたげにりくも椅子から立ち上がり言った。
「じゃオレはもう一眠りしてこよ」
「りく、あなたは俺の部屋に来てください」
穏やかで冷静な声。だけど、その内側に確かな怒気がこもっていた。
「あ?なんで」
りくが眉をひそめる。けど、弓弦は構わず言葉を重ねた。
「俺は今日の任務は三人でやれと言ったんですよ。それなのにユアだけに任務をやらせて、あなたは何をしてたんですか?」
……意外だった。今日会っただが、オレの中で弓弦はいつも笑ってるイメージだったけど、今の弓弦は、静かに、でも確実に怒ってる。
これは後から紫月に聞いたんだが…
——弓弦は普段は穏やかだけど、怒ると怖いよ。しかも、何を考えてるかわからないくせに、こっちの隠し事は全部見抜いてくるからタチが悪い。でも、頼りになる。間違いなく。
逆にシンは態度がデカいけど、実は根が甘くて、わりと騙しやすい——らしい。
「それを言うなら紫月もだろ……って、あれ?あいつは?」
りくがキョロキョロと周りを見渡してユアに尋ねる。
「さっき、コーヒー持って部屋に行ったネ」
「ッチ……自分だけ逃げやがって」
ちょっと不満げな声を出すりく。でも、弓弦の次の一言で黙った。
「ごちゃごちゃうるさい。さあ行きますよ」
その声は、柔らかいけど容赦がない。
「ソラ、気をつけて行ってきてくださいね」
オレを見て、いつもの優しげな笑顔を見せながらそう言う。けど、りくの肩を掴んで部屋へ引っ張っていくその手には、一切の甘さがなかった。
……うん。今の弓弦に逆らうのは、命取りだ。りく、お祈りしてる。
1
——現在——
「ついたぞ、ここが訓練所だ」
デカい建物。外壁にはひびが走っていて
ところどころ修繕の跡が見える。中に入ると、広い空間に何も置かれていないコンクリの床。工場跡地みたいな匂いがした。
「うわ……マジで訓練所かよ。なんか牢屋みたいじゃね?」
「お前の実力を測るにはちょうどいい。安心しろ、死なない程度には手加減させる」
シンはそう言って、壁際にあるコンソールを操作し始めた。天井が開き、カタカタと音を立てて何かが降りてくる。
——それは、人型のロボットだった。無骨な鉄の塊。肩のあたりに何かの砲口みたいなのがついてる。
「おいおいおい、なんで機械が出てくんだよ! まさか戦えってのか!?」
「模擬戦用の訓練兵だ。適度に痛いが、命までは奪わん」
「いやいや、だからって!」
言い終わる前に、鉄の兵士が動いた。ゴン、と地面を踏みしめて、まっすぐこっちに向かってくる。
「うわっ——!」
ギリギリで横に飛んで避けた。蹴りが地面をえぐった。こんなもん喰らったら絶対死ぬって!
「冗談だろ!? なあシン、止めろって! 戦えねぇよこんなん!!」
「……本当にいいのか?」
静かに、シンが言った。
「お前はスラムで喧嘩もスリもやってきたんだろう。逃げるのは得意だ。だが、オルカリブレに入った以上、命の保障ができない。できなきゃ死んでもらう」
ったく、オルカリブレの奴らは簡単に人を殺そうとするな。まぁシンの状況を考えるとあそこが表向きに活動できないのはわかったが…
(クソッ……!やっぱ無理だろこんなん!)
なんとか兵士の背後に回り込んで、蹴りを入れる。……が、硬すぎる。まったく効いてない。再び殴りかかってきた拳を、ギリギリで避ける。息が乱れる。心臓がうるさい。
(どうすりゃいいんだよ……!)
その時だった。
——ドンッ!
兵士の拳が脇腹を掠めた瞬間、身体が勝手に反応した。
「うおおおおおっ!!」
叫びと同時に、足元から、突風が地を裂くように吹き上がった。巻き上げられた埃が視界を覆い、髪が逆立つ。
兵士の体が、まるで紙のように浮き上がり、後方へ吹き飛んだ。鉄の塊がコンクリの床に転がり、ガキンッと音を立てて止まる。
「……え?」
風が、止んだ。
床に立っている自分の足元には、小さな旋風の跡のように、埃が舞っていた。
「今の……オレが?」
手を開いてみる。風の気配は、確かにそこにあった。
驚くオレに向かって、シンはちょっと微笑んだ言った。
「気づいたか。お前に宿る力は、“風”だ。いい反応だったな」
「風……?」
「ああ。自由に流れ、すべてを穿つ力だ。——お前にはその素質がある」
オレは息を飲んだまま、自分の手を見つめた。
今まで気づかなかった何かが、体の奥から目を覚ましたような気がした。
2
訓練所を出たあと、オレたちは最寄りの駅まで歩き、無言のまま電車に乗り込んだ。
さっきの出来事がまだ頭の中でグルグル回ってる。
風の力。
自分の中に、あんなものがあったなんて——信じられない。
でも、あの時、確かに感じた。自分じゃない“何か”が、体の奥で暴れた気がした。
シンは黙って窓の外を見ていた。たぶん、オレの心の中を見透かしてるんだろう。
「なあ、さっきの……。オレ、本当にあんな力を持ってるのか?」
「さっき見ただろ。現実だ」
そっけない答えにちょっとムカつく。でも、返す言葉がなかった。
ガタンゴトンと、車体の揺れる音だけが車内に響く。
——その時だった。
突然、電車がキイィィッと耳障りなブレーキ音を鳴らして、急停車した。
体が前に投げ出されそうになる。何人かの乗客が悲鳴を上げた。
「な、なんだよ……?」
とっさに立ち上がろうとしたその瞬間、車内の照明がバツン、と音を立てて一斉に消えた。
代わりに薄暗い非常灯がポツポツと灯り、車内は一気に不気味な雰囲気に包まれる。
「えっ……なに?」
「停電? ねぇ、なんで止まったの!?」
「誰か非常ボタン押して! ねぇ!!」
乗客たちが一斉にざわめき出す。
誰かが悲鳴を上げ、スマホのライトがいくつも点灯する。小さな光が車内を揺らし、不安と恐怖が広がっていく。
「やだやだやだ……こんなの、どうなってんのよ!」
「ママぁ……こわいよぉ……」
「落ち着いて! 今は……とにかく……!」
パニックになった乗客たちが我先にとドアや通路に殺到し、狭い車内は一瞬で混乱状態に陥った。
そんな中、
「チッ……」と、シンが小さく舌打ちする。
その目は、車両の向こう、非常灯の明かりの下で揺れる“気配”を正確に捉えていた。
——敵、だ。
オレの足も自然と止まり、喉の奥がひとりでに鳴った。
その瞬間、シンが言った。
「ソラ。あれはお前に任せる」
「は、はあ!? 何言って——」
言いかけたオレの肩に手を置いて、シンは鋭く言い放った。
「乗客を優先する。ここにいるのは、何も知らない一般人だ」
そう、言い残し、パニックに巻き込まれて転びかけた女性と子どもをすばやく支え、シンは素早く人の流れを整理しはじめる。
「走るな!」「この先に出口はない!」「おい、君!その子を抱いてこっちに!」
冷静で的確な指示に、少しずつだが人々の動きが整っていく。
一方、オレの目の前には、非常灯に照らされた“何か”が、静かに姿を現しつつあった——
「えー。嘘だろ…」
呆然として口を開けるオレの前に立っていたのは、黒ずくめのコートを羽織った男だった。
非常灯の薄明かりの中で、その顔だけが不気味に浮かび上がる。
そいつは薄く笑った。
「滑稽だな。まさか、指名手配犯が一般市民を助けるなんて…正義感でも芽生えたか?」
「何がおかしい…」
オレはゆっくりと姿勢を整える。まだ膝が震えてる。けど——。
「少なくともこんなとこで襲ってくるお前よりは、よっぽどまともだよ」
「口だけは一丁前だな。だが…膝が震えてるぞ、戦闘経験はまだ浅い…いや、素人か?」
「……だったらなんだよ」
さて、どっすんかな?相手は戦い慣れてる。しかもこんなところで襲ってくる異常者。
対してオレは今日、自分の中に異能があると知った素人。
でもこいつが素直に見逃してくれるとは思えねー。そもそも目的は…オレたちだよな…
(だったら……やるしかねぇ)
怖い。でも、見てるだけじゃダメだ。
「今日知ったばっかでもな……!使えるなら、使うしかねぇだろ!」
オレは一歩前に出た。『集中、集中』と自分に言い聞かせた。
「へぇ。殺されるのが怖くないとは、やっぱりただのバカだな」
男が冷たく笑う。ああ、今日一日で何度も聞かされたそのセリフ――「殺す」もう、うんざりなんだよ。何回も殺されかけて、そのたびに必死で生き延びてきた。怖くないって言えば嘘になる。でも、今の俺は怖さをごまかすために、ただ開き直ってるだけだ。敵の動きを警戒しながら、せめて口だけでも余裕を見せようとする。
「じゃあ、見逃してくれるのか?」
目の前の男は、一瞬だけ黙り、そして首を横に振った。
「それは無理だな。俺も仕事で来ているもんでな。……お前は、どうして俺たちと戦う?」
どうして、って。正直、答えに困る。ただのなりゆきだった。それでも……少し考えてから、息を吐いた。
「こっち側につく気はないか? 俺はお前の度胸が気に入った。見逃す代わりに仲間になれ」
男はいやらしい笑みを浮かべる。ああ、わかる。ここで頷けば命は助かるってわけだ。安全が保証されるかもしれない。普通のやつなら迷わずうなずくんだろうな。
でも――
「嫌だね」
言葉が自然に口から出た。自分でも驚くくらい、はっきりと。
「さっきも言った通り、こんなところで平気で人を襲うお前らは異常者だ。
……確かに、オルカリブレに入ったのもなりゆきで、あいつらもぶっ飛んでるし、すぐ殺そうとしてくるし、めちゃくちゃだけどさ。
でも、無闇に命を奪ったりはしない。たぶん……いや、きっと。
それに、今やっと……戦う理由ができたんだ。
オレは、お前らを倒して金を稼ぐ。あのゴミ溜めみたいなスラムから抜け出して、じいちゃんと美味いもん食って、ふかふかのベッドで眠る。
――だから、人の命を平気で奪うような奴らとは、組めない」
言い終わった瞬間、体が少しだけ軽くなった。震えも、不思議とおさまっていた。
「へー、かっこいいじゃん。敵になるって言うなら、残念だけど殺すわ」
男が本気の殺気を纏った。さっきまで止まっていた震えが、また一気にぶり返して全身を襲う。
――くそ、今度は逃げられないかもしれない。
「……っ、やべぇ……!」
心の中で叫んだ。けど、不思議と後悔はなかった。
「ゴンッ」と鈍い音がして、電車の床が突然うねり出した。え、何だ――!
次の瞬間、金属の床が波みたいに盛り上がって、こっちに押し寄せてくる。
なんだよこれ、生き物かよ……!
反射的に風を放った。突風が鉄の波にぶつかって、勢いを少しだけ逸らす。でも、止まらない。波は崩れながらも足元を狙って迫ってくる。
やばい、止めきれね……!
金属のうねりが、まるで津波みたいに押し寄せてくる。さっき風で進路をずらしたはずなのに、勢いは全然落ちてない。真っ直ぐ、俺の体を押し潰そうとしてくる。
「っっ——!」
反射的に飛び退いた。すぐ目の前で床が爆ぜる音。破片が風と一緒に飛んでいく。転がりながら地面を滑って、何とか立ち上がる。——息が荒い。肩がジンジンしてる。
「おいおい、予想以上にやるじゃねぇか」
皮肉っぽく笑う男。あいつの目、まるで獲物でも見てるみたいに光ってた。
「名乗ってなかったな。俺の名前は磁条コウ。……“磁力”を操る異能者だ」
磁力。ようやくピンときた。電車が急停車した理由も、なんとなく読めた。
「だから……電車を止めたのか」
「正解。ようやく気づいたか」
その言葉と同時に、電車の天井がミシミシと音を立てた。骨組みが曲がり、鋼の針みたいなものがオレに向かって落ちてくる。
「チッ——!」
体が勝手に風を放つ。風が鋼をはじき飛ばす。けど、一発——肩にかすった。
「っ……!」
熱い痛みが走る。血がにじんだ。でも、今はそれどころじゃない。
(風は、自由に流れる。なら——)
意識を集中させる。空気の流れを感じる。金属が動く気配。そのすべてが、微かに“視える”気がした。視界の隅に、流れの線みたいなものが浮かぶ。
(感じろ……風の流れを……!)
コウが手をかざす。床がねじれて、鋼の槍が飛び出してくる——!
でも、もう怖くなかった。
「うおおおおおっ!!」
オレは風と一緒に踏み込んだ。風が足元を押し上げる。体が軽い。動きが自然になる。風がまるで、自分の一部みたいに思える。
槍を逸らす。避けるんじゃない。風で弾き飛ばす。そう、これが——
「へぇ……面白くなってきたな」
コウの目が細まる。完全に“試してる”目だ。
「そろそろ、終わらせてやる」
電車が唸り出す。金属が震え、磁力の波が広がっていくのがわかる。空間全体が、まるで生きてるみたいに動き出す。
(これはもう、ただの小競り合いなんかじゃない——)
異能と異能のぶつかり合い。
その中心に、オレは立ってる。
逃げるか? そんな選択肢、最初からなかった。
(逃げねぇよ。絶対……!)
風が、俺の背中を——力強く押していた。
その時、視界の端に、震えてる女の子の姿が見えた。逃げ遅れてる。
(マジか……!)
その瞬間、オレの中の風が、一気に荒れた。
(てめぇ……!)
怒りと一緒に、風が暴れ出す。何かが、はじけた。
「だったら……オレが、お前の鉄をぶっ壊す!!」
足元から突風が爆ぜた。
風が、うねり、爆発するように車内を駆けた。天井、壁、床……全方向から巻き起こる風が、オレの背中から広がる。まるで翼みたいに、風がオレを包んで、押し上げた。
そしてオレは、見た。
風の流れの中に、鉄の動きが——“視えた”。
(……見える。風と鉄の流れが、交差する“点”が)
風と一体になって、オレは空間を読む。金属の動きが、磁力の“うねり”が、風の中に浮かび上がる。
これが、風の“眼”かな
……見えた。
鉄が蠢く。レール、つり革、床、すべてが一斉に動くのを“視えた”。
その流れの中に、オレの風が滑り込む。
「そこだっ!」
俺の叫びとともに、風が突き抜ける。渾身の一撃を乗せた拳が、鉄の壁を割って——その奥の男、磁条コウの胸元に迫った。
一瞬、確かに奴の顔が歪んだ。驚き、そして——笑っていた。
「……やるじゃん、風使い」
呟いたその刹那だった。
——ドォンッ!!
爆音が車体を揺らす。床が跳ね上がり、壁がきしみ、天井の一部がめくれて赤い火花が飛び散る。
熱と衝撃が一気に襲いかかり、体が浮いたような感覚に囚われる。
「っ……くそ!」
着地に失敗して、左膝を打った。風の流れが乱れて、“視えていた”ものが一瞬で掻き消える。
その中で——奴の声が、ノイズのように響いた。
「残念。いいとこまで来てたんだけどな」
煙の向こう、磁条コウが口元を吊り上げて笑っていた。不気味に、どこか楽しげに。
「爆弾?……お前、最初から仕込んでたのか……!」
問いかける声は、自分でも驚くほど怒気を含んでいた。
けれどコウは、ただ肩をすくめて言った。
「爆発ってのはさ、不意打ちに限るだろ? お前も、風ばっか見てないで、地面もちゃんと見な」
そして、もう一度笑う。今度は低く、喉の奥で転がすように。
「ま、次はもうちょっと上手くやってよ、“風使い”さん」
言い終えると同時に、足元のレールが震え、男の姿が煙の中へと沈んでいった。
磁力か、何かの仕掛けか——とにかくもう追えない。
「ソラ!!」
声が聞こえる。煙の切れ間から、シンが駆け寄ってくる。
「無事か!?」
「……コウが、時限爆弾を……あいつ、最初から逃げる気だった」
歯を食いしばる。膝の痛みも、悔しさにかき消される。
「それなら安心しろ! 今の、聞こえたか?」
俺の肩を叩きながら、シンが誇らしげに笑う。
気づけばスマホを耳に当てていて、どうやら通話中だったらしい。
「……電話?」
「紫月だ。爆弾の話、聞こえてたってさ。ほら、こんなこともあろうかと、状況は伝えておいた」
シンは自慢げに親指を立てる。
その向こう、スマホのスピーカーから余裕ある声が聞こえてきた。
『ったく人遣い荒いんだから。こっちも暇じゃないんだけど』
「どうせ、弓弦の説教から逃れ、優雅に映画でも見てたんだろ、丁度いい気晴らしになっただろ」
電話の向こうから文句を言う紫月に対してシンが彼女の行動を察したように言う。
『まぁね。はい、爆弾解除できたわよ。二人とも無事?』
「ああ」
「なんとか」
『そう、よかった。じゃ、早く帰ってきなさいよ』
そう言うと紫月は電話を切ってしまった。一応、心配してくれたのか?
これで終わったと思ったら腰が抜けてしまった。
辺り見渡すとさっきの女の子がうずくまっていた。その子に声をかけるとオレに抱きついてきた。少し驚いたが頭を投げてやることにした。
しばらくしてその子のお母さんがやってきた。別れ際、その子にお礼を言われた。
「初めてにしては上出来だな」
シンは鼻で笑う。
この力で、誰かを守れた。
その事実が、風よりも確かなものとして、オレの中に残っていた。
オルカリブレの奴ら
1
オルカリブレの拠点に戻ると、建物の中は静まり返っていた。
さっきまであんなにうるさかったのに、今はそれが嘘みたいに感じられた。
なんか……ココが静かだと、不思議な感じがする。
そう思っていると、背後から声がかかった。
「こっちだ」
振り向けば、シンがオレに手招きをしていた。
ついていくと、こいつは建物の表にある通りへとオレを連れ出した。
辿り着いたのは──一軒のカフェだった。
小さな看板が揺れ、窓からは柔らかな光が漏れている。中に入ると、ほのかにコーヒーと焼き菓子の香りが漂ってきた。
カウンター席に座っている小柄な少女が、こちらに気づいて身を乗り出す。
「遅い!!」
ユアだった。ツインテールを揺らして、足をぶらぶらさせながら、ぷくっと頬を膨らませている。
「ソラ、早くしろよ、待ちくたびれたネ。もう、お腹ペコペコ」
大げさにお腹をさすりながら言うこいつに、思わず苦笑いしてしまった。
さっきまでの緊張が、ふっとどこかへ消えていく──そんな気がした。
すると、カフェの奥から一人の女性が現れた。長い髪を後ろでまとめ、エプロン姿がやけに似合っている。整った顔立ちに、柔らかな笑みを浮かべながら、彼女は静かに言った。
……なんていうか、目を引く人だった。
赤茶の髪はまっすぐで艶があって、動くたびにさらりと揺れる。肌は白くて、目元は切れ長。どこか涼しげで、雰囲気は柔らかいのに、立ち姿には妙に目が離せない感じがある。
シンより背が高い。スラッとしていて、胸元も目立つ。全体的に線が細いわけじゃないのに、重たさはなくて、バランスが取れてるっていうか……。
ユアや紫月が“可愛い”って印象なら、彼女は“綺麗”とか“美人”って言葉がしっくりくる。
「いらっしゃい」
落ち着いた声が聞こえて、思わず視線が戻る。余計な飾りのない笑顔だった。
「さっき言ったろ。弓弦と一緒に引き取った女の子がいるって。彼女がそうだ。名前は風音っていう」
横でシンが言う声が聞こえる。
「……ちなみにそいつ、シンの女だからな。手ェ出したら、どうなるか知らねぇぞ」
突然、後ろから声をかけられた。振り返ると、いつの間にかりくが立っていて、ニヤついた顔でオレを見ていた。
「へ?」
思わず間抜けな声が出る。
「今度こそ殺されるでしょ」
追い打ちをかけるように、今度は紫月が毒っ気たっぷりに言葉を重ねてきた。こっちは腕を組んで、あからさまに呆れ顔だ。
「違う。誤解を招く言い方はやめろ」
茶化す二人に殺気を隠し切れていないシンが低い声で反論した。が、説得力があるかというと、ちょっと微妙だ。
「でも、まんざらでもないでしょ?」
そのタイミングで、奥から弓弦がカップを手に現れた。落ち着いた口調に、少しだけからかいの色が混じってる。
「風音のために、表向きはカフェにしたんだから。ここで引いたら、本気でソラに取られますよ?」
クスッと笑いながら、弓弦はさらっととんでもないことを言い放った。
我慢の限界だったのか、シンが低く呟いた。
「貴様ら、ここで死ね」
そう言って、腰に差していた剣を抜く。
……え? って思ったのはオレだけだった。剣、抜く? このタイミングで?
一瞬固まったけど、紫月もりくも弓弦も、誰一人動じずに会話を続けている。完全にスルーだ。たぶん、これがこいつらの日常なんだろう。
ツッコミを入れる気力も、もう湧いてこなかった。訓練に、実戦に、変な空気に……いや、もう全部のせだな。
オレはため息をひとつついて、カウンターで足をぶらつかせてるユアの隣に腰を下ろした。
「ソラ君はジンジャーエールでいいかな?」
ぼーっとしていたオレに、風音さんが優しく声をかけてきた。
「え、あっ……ああ」
慌てて返事をすると、彼女は微笑みながらグラスを手に取ってカウンターの奥へと向かっていく。その穏やかな背中を見ながら、ふと気になったことが頭をよぎった。
この人、シンのこと……どう思ってるんだろう?
何気ない好奇心だった。あんな空気でからかわれて、しかも本人の目の前で。もしオレだったら嫌でも気になる。だから、つい聞いてみた。
「なぁ、アンタはシンのこと……どう思ってるんだ?」
すると、隣でジンジャーエールをストローでくるくる回していたユアが顔を上げた。
「本当に店長のこと狙ってたのか? キモいネ」
「は? 誰がキモいんだよ」
「お前以外いないネ」
なんなんだこの小悪魔。オレはムッとしてユアを睨む。別に狙ってたとかそういうんじゃない。ただの興味だ。あんなやり取りを耳元でされて、当人はどう感じてるのか、ちょっと気になっただけ。
……けしてやましい気持ちはない。たぶん。
そんなオレたちのやり取りを見て、風音さんはふっと笑った。
「今日会ったばかりなのに、二人とも仲良しね」
「そんなことはない」
オレとユアが、息を合わせたみたいに同時に返す。
「ふふっ、やっぱり仲良し」
からかうような風音さんの言葉に、思わずユアの方を見ると、ちょうど目が合ってしまった。やべ、と思ってすぐに視線を逸らす。
すると、不意に風音さんが言った。
「好きよ」
「え?」
驚いて振り向くと、風音さんは少しだけ頬を赤らめながら、それでもまっすぐな目で続けた。
「私は、シン君のことが好き」
……意外と、はっきり言うんだな。少し驚いたけど、でもどこか納得している自分がいた。
――もし付き合い始めたらシンに
“彼女の方が自分より背が高いって、どんな気持ち?”
って聞いてやろうかと、オレはひそかにニヤリとした。
そんなことを考えていると、風音さんがふっと寂しそうに笑った。
「……でも、シン君はきっと、いつか遠くに行ってしまうような気がするの」
「え?」
思わず驚いて聞き返す。
すると、隣にいたユアが口を挟んだ。
「大丈夫ネ。ボスは誰よりも店長のこと、大事に思ってるヨ」
「ユアちゃん……ありがとう」
風音さんは微笑んで、それからぽつりと続けた。
「――でも、だからこそ。私を危険な目に合わせないように、遠くへ行ってしまうのよ。
ただでさえ、誠さんのことで辛いはずなのに……私のことまで気にかけて、守ろうとしてくれてる。シン君って、優しいから」
……ああ、なんとなく分かる気がした。
あいつ、口調も態度もデカくて、たまにウザいくらいの奴だけど――でも、誰かを見捨てたり、危険に晒したりするようなヤツじゃない。
昼間の電車でもそうだった。オレに敵を任せて、自分は一般人を避難誘導してた。自分の力が必要だと思った方に迷わず動いてた。
まっすぐで、ちょっと頑固で、融通の効かないタイプ。けど、自分の大切な人を守ろうとする意志だけは、誰より強い気がする。
「それでも好きなら一緒にいるべきネ。大人の考えることは難しい。
店長、泣かせたら、たとえボスでも許さないネ」
ユアが、真顔でそう言った。
……確かに。オレもそれに賛成だ。
大人の考えてることって、正直よくわからない。
やたら「誰かのため」だとか言うけど、結局のところ、それって自分を納得させるためなんじゃないかって思う。
本当に誰かを守りたいなら、隣にいることだって方法のはずだろ。
――ああいう大人には、なりたくないな。
そんなことを考えていたら、カウンターにシンがやってきて
「――なんだその顔。飯でも不味かったか?」
相変わらず空気を読まないというか、読んだうえであえて崩してくるタイプだ。
「別に、不味くはなかったよ」
「ふーん? ならよかった」
適当に受け流してから、シンは風音さんの方に視線を向けた。
一瞬、彼女と目が合って、風音さんはすぐに目を逸らした。ちょっとだけ、頬が赤くなってる気がした。
しばらく、沈黙が続いて
オレの肩に腕を回してきた細身の男。少し酔っているのか、昼間よりテンション高めのりくがだる絡みしてくる。
「おい、ソラ。紫月から聞いたけど、お前――初実戦で結構やったんだってな?」
「ああ、まぁ……なんとか」
「自信ついたか?」
「……うん、少しは」
シンはそれを聞いて、わずかに目を細めた。
「なら上出来だ。お前はこれからもっと強くなる。……まぁオレの読みどおりってわけだな」
いつもの調子でそう言って、オレの肩を軽く叩いた。
だけどその目の奥に、ほんの少しだけ、何かを背負ってるような影が見えた気がした。
やっぱり、シンは――誰よりも仲間を想ってる。けど、それゆえに、全部を背負い込もうとするんだろうな。
「……無理すんなよ、シン」
「は? どうした、急に?」
「いや、なんでもない」
オレはごまかすように、視線をユアの方へ向けた。
そしたら、こっちを見て、ちょっとだけ満足そうに笑ってた。
なんか、今日は色々ありすぎた。
でも――オレは、ちゃんと前に進めてる気がする。
2
彼は今、私の隣で軽口を叩きながら、ゲームに熱中している。
「ソラとユアは?」
「ソラは家に帰った。今夜はユアもちゃんと寝れたみたいよ」
自分から聞いておいて、彼は興味なさそうに「ふーん」と気の抜けた返事をして、すぐ別の話題を振ってきた。
「そういえば、今日、爆弾を解除したんだって?」
「ええ。そっちは? 弓弦の説教、どのぐらい続いたの?」
「そうだ、紫月、てめぇ……自分だけ逃げやがって——」
「よし、勝ったー。りくの負け」
「えっ、あっ……!」
気づけば、画面には勝敗がはっきりと出ていた。そう、これは会話に見せかけた作戦。ゲーム中に話しかけて、集中を乱した方が負ける。
「チッ……また、やられたか」
顔に出やすいところが、この男の面白いところだ。
りくは舌打ちしながら立ち上がった。
「どこ行くの?」
「タバコついでにパチンコ。お前も来る?」
「行かない」
「へいへい、じゃ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
3
夜はまだ肌寒い。
ポケットに手を突っ込みながら、タバコに火をつける。白い煙が夜気に溶けていく。
「……寒ぃな」
パチンコ屋へ向かおうと歩いていると、街灯の下に人影が見えた。
“あれ……弓弦?”
スーツ姿の背中が、電話をしながら静かに立っている。こんな時間に誰と話してんだ。 まぁ女の一人や二人、いたっておかしくねぇ。
昼間はずっとシンに張り付いてるし、意外とそういうとこ抜け目ない奴だしな――と思っていたら、
「ええ、まだ誰も気づいていないみたいです。自分たちが、何故ここに入り込んだのかを。……ええ、わかってますよ」
低く、抑えた声が夜の静けさに溶けた。
足が止まった。
それは、女相手にかけるような甘い声でも、仲間に見せるような飄々とした調子でもなかった。
完全に、仕事の顔――それも、見たことがない“裏”の顔だった。
3章 絶対、殺してやる
「出かけてくるネ」
朝からテンション高めに、ユアがリビングのドアを開けながらそう言った。声も明るいし、目もキラキラしてて、いつも以上に機嫌が良さそうだ。
「え、どこに?」
と、つい聞き返すと、ユアはくるっとこっちを振り向いて、ちょっと得意げに胸を張る。
「前に木に引っかかってた風船を取ってあげたら仲良くなったネ。お兄ちゃんの陽太九歳と、妹のひな六歳
「へー。お子ちゃまにはそいつらと遊んでるのがお似合いかもね」
オレは机に突っ伏したまま、適当にそう言った。わざわざついていく理由もないし、朝から動く気力もない。
……なのに。
「ソラ、貴様も一緒に行け」
いきなり入ってきたシンの声が、部屋の空気を変えた。命令口調で、やけに圧が強い。
「あ?なんで」
顔も上げずに聞き返すと、シンはこっちを睨むようにして言った。
「いつ、狙われるか分からないだろ。ごちゃごちゃ言ってないで行け」
はいはい、分かりましたよって感じだ。
——めんどくせぇ〜。
ため息を吐いて、俺は渋々立ち上がる。
振り返ったユアは、オレが一緒に来るのがよっぽど嬉しいのか、ぱあっと笑ってた。
……ま、ちょっとだけなら、付き合ってやってもいいか。
「そっち、パス!」
陽太が声をあげ、軽快に蹴ったボールが、芝生を滑るようにユアの足元に転がる。
「んしょ……えいっ!」
ユアが真剣な顔でボールを蹴り返すと、それはふらふらとした軌道を描いて俺の方へ。どこを狙ってるのか分からない。というか、多分何も考えてねぇ。
「おいおい、ボールってのはこう蹴るんだよ、こう!」
オレは腰を落とし、スラムで鍛えた脚さばきでボールを受けると、そのまま陽太へとスルーパス。
「すっげー!ソラ兄ちゃん、プロみたい!」
「へへ、だろ?」
調子に乗ってニヤついてると、ひなが突如、横から突っ込んできた。
「ひなのシュートーっ!」
「うわ、マジかよ!?」
予想外のタイミングで足に当たったボールは、コロコロと転がって、空のペットボトルにカコンと命中。
「ゴールっ!!」
「やったー!」
両手をあげてはしゃぐひなと、その背中を叩いて笑う陽太。ユアはその様子を、少し後ろで嬉しそうに見つめてた。
風が吹いて、ひなのリボンがふわりと揺れる。
「……なあ、ユア。お前、結構うまくなってんじゃん?」
オレが声をかけると、ユアは少しきょとんとした顔で、
「でしょ」
と誇らしげにVサインをした。
なんだよ、それ。
でも――そうやって笑ってるの、悪くない。
少しだけ、平和ってやつに触れた気がした。
1
翌朝。昨日と同じように、ユアはそわそわしながら玄関で靴を履いていた。髪を結ぶリボンも、いつもよりピシッと整ってる気がする。
「今日も行くのかよ」
オレは呆れ気味に声をかけた。昨日、子どもたちと遊びすぎて足がだるい。普通、十代後半の男が小学生と一日中走り回るか?
「うん。っていうか、昨日私のこと散々お子ちゃまって言っておいて、自分だって楽しそうにしてたネ。お前だってお子ちゃまネ」
ユアは振り向きもせず、靴ひもを結びながら文句を言ってくる。その背中から漂うのは、完全に「勝ち誇ってます」って雰囲気だ。
「はぁ? オレはお前より四歳も年上だぞ。敬え」
声を張って反論してやると、ユアはチラッとだけこっちを見て、すぐに視線をそらした。
……無視かよ。
「今日は、昨日よりもっとドリブル上手くなる予定ネ。ひなにもちゃんとゴール決めさせてあげるし、陽太には昨日の『空き缶チャレンジ』のリベンジもあるネ。それから、おやつも持っていくと喜ばれるネ」
オレの言葉なんて完全に聞こえてないかのように、ユアは楽しそうに喋り続けてる。
昨日よりも少し高い声で、昨日よりも少し笑って。
……なんだよ、ほんと。お前、マジでただのガキじゃねえか。
歩く足を止めると、ユアはふと少し低い声で言った。
「陽太とひなの親は共働きで、昼間は大人が誰もいないネ。だから本当は寂しいと思うネ」
へぇ……そんなことまで考えてたのかよ。
……でも、二人いるなら、まだマシじゃね? 一人ぼっちよりはよっぽど。
「……なあ、お前、親はどうしてるんだ」
ふと気になって聞いてみた。
ユアって、やたら“親”ってワードに敏感だなって思ったから。
でもユアは、急に黙り込んだ。
無邪気に笑ってた表情は、音もなく消えていた。
やがて、小さく――それでも確かに聞こえる声で言った。
「……私のパパとママは……殺されたネ」
その言葉を聞いた瞬間、オレは固まった。
「パパとママは、研究所で働いてて、私もそこにいたネ。ある日、理由はわからないし、殺した奴の顔も覚えていないけど……
パパとママは、私の目の前で殺されたネ」
淡々と語られる言葉が、妙に冷たく感じた。
「……そこに、ボスたちがやってきて、私はオルカリブレに入ったネ。
ボスは……私を助けるために、わざと見つかって、指名手配犯になったネ」
ユアの声は震えていない。ただ、真っ直ぐに前を見つめていた。
「私は……パパとママを殺した奴を見つけて、絶対殺す。
そのためにオルカリブレに入ったネ」
そこにいたのは、やることなすことめちゃくちゃだけど、純粋に遊ぶことが好きで無邪気な女の子じゃなかった。
復讐だけを胸に抱いた、静かな怒りの塊だった。
獲物を仕留める瞬間だけを待ってる、狩人の目だった。
オレは、言葉を失った。
今まで感じたことのない、正体の分からない“怖さ”が背中を這った。
こいつ……こんな目をするんだ。
――初めて、心から、ユアを恐ろしいと思った。
2
公園についた瞬間、違和感が全身を包んだ。
……なんだ、この空気。
昨日まであんなに賑やかだったはずの場所が、まるで誰かが息をひそめてるみたいに静まり返っていた。笑い声も、ボールを蹴る音も、風の音さえない。ただ、不気味な沈黙だけが、そこにあった。
一歩、足を踏み入れた瞬間――鼻を刺す、生臭い匂いがした。
「……っ」
思わず息を止めた。視線の先に、血の海が広がっていた。芝生の上、べったりと広がった赤。中心には、大人の女性が倒れていた。ぐったりとしたその体は、小さな何かを庇うように丸まっていて……その腕の中に――
小さな手が、のぞいていた。
「あ……っ」
思わず声が漏れた。その横に、見覚えのあるものが転がっていた。昨日、陽太が背負っていたリュック。それと、ひなの髪留め。見間違えるはずがない。
「う、そ……だろ……」
膝から崩れ落ちた。足が力を失って動かない。内臓がひっくり返るような吐き気が込み上げてくる。
「……うっ、ぐ……」
まともに呼吸もできない。脳が理解を拒んでるのに、目が現実を突きつけてくる。
隣にいたユアは、一言も発さず、ただ立ち尽くしていた。まるで時間が止まったみたいに動かない。その表情は、見えない。
すると、突然。
「——あれ?君たちも遊びに来たの?」
軽やかで、無邪気な声が響いた。
その声は……あまりにも場違いで、不気味だった。
ゆっくりと顔を上げると、血の中に立つ“誰か”が、こちらを見ていた。
笑っていた。
気味の悪い仮面と、子ども服のような奇妙な格好。首をかしげながら、まるで友だちを出迎えるかのような口調で、そいつはもう一度言った。
「ねぇ、名前は? 遊ぶ前に、ちゃんとお名前教えてくれないと困っちゃうなぁ」
空気が、一気に凍りついた。
オレは、声も出せなかった。隣のユアも、まだ動かないまま。
でも――
ただ一つ、わかったことがある。
あいつは――こいつは、陽太とひなを殺した張本人だ。
そして、今。
ユアの中の“何か”が、音を立てて壊れようとしていた。
「お前だけは絶対許さない」
ユアの声が低く、震えていた。怒りで。悲しみで。そして、絶対に引けないという強い決意で。
次の瞬間、ユアの体から炎が噴き上がった。
——異能、舞焔《ブエン》。
体を包むように燃え広がるその炎は、まるであいつ自身の感情を写したかのように激しく、熱かった。地面が焼け、空気が揺れる。熱波がこっちまで届いて、思わず一歩引いた。
ユアは、炎と共に駆けた。
まるで踊るような動き。軽やかで、でも一切の迷いがない。真っ直ぐに、仮面の男――あの“化け物”に向かって。
男は……笑っていた。
なんだあいつ……? 防御の構えすら見せない。ユアの炎を目の前にしても、顔の仮面がわずかに傾いたまま、口元が歪んでる。
――ふざけてんのか?
直後、ユアの蹴りが決まった。
火花が散り、男の体がぐらついた。その勢いのまま、拳が振り下ろされる。炎が弾ける。男の体が焼け焦げる音が聞こえた。……ように、思った。
でも。
「っ――あ、ぐ……!」
悲鳴を上げたのは、男じゃなかった。
ユアだった。
「えっ……!?」
オレは思わず声を上げた。何が起きたのか、わからなかった。確かに攻撃は入った。ユアの炎が直撃したはずだ。それなのに――
ユアの肩が、震えていた。息が荒くて、歯を食いしばってる。体が、明らかに痛みに耐えている動きだった。
「ど、ういう……」
「んふふっ……いいねぇ、いいねぇ……!」
男が、楽しそうに笑った。甲高い、聞くだけで寒気がするような声。ゆっくりと首を傾け、まるで誰かに話しかけるみたいにユアを指差す。
「お姫さまは……“痛い”のが好きなんだねぇ? ねぇ、もっとやってよ? もっともっとぉ、ボクを“いじめて”よぉ……!」
空気が、歪んだ。
背筋がゾワッとした。……こいつ、やばい。何かおかしい。ユアが攻撃してるはずなのに、逆に痛めつけられてる……まるで、痛みが跳ね返ってるみたいに。
――まさか、攻撃されるたびに、相手に痛みを返してる……?
「ちょ……ユア、やめろ! 今のままじゃ……!」
オレが叫ぶより先に、ユアは再び踏み込もうとしていた。拳を握り、燃える瞳で前を睨んで――
でも、その体は、確実に“自分の攻撃”で傷ついていた。血が滲んでる。息が上がってる。
それでも止まらない。
ユアの目にはもう、「戦い」なんて冷静な言葉じゃ足りない、“復讐”だけが残っていた。
――このままじゃ、ユアが……自分で自分を、壊す。
ユアの炎が、再び噴き上がった。
けど――それでも、奴は笑っていた。
「ははっ、いいねぇ、その顔! そうそう、もっと見せてよォ……!」
狂気に満ちた声が、血まみれの芝生に響いた。九頭はナイフを舐めるように持ち上げると、にやりと笑った。
「俺の名前は九頭狂児。エクスタシア――それが俺の異能だよ」
その目が、まるで舞台役者のように見開かれる。
「俺はね、自分が攻撃されるたびに、“痛み”を相手に返すんだ。痛くしてくれてありがとォ、その分、いっぱい“ご褒美”をあげるね!」
ユアが拳を振り上げる。けれど、次の瞬間、ユアの体がビクリと震えた。
「っ……くっ……!」
肩から、血が噴き出した。何もされていないはずなのに、さっきの一撃の反動か……異能のせいで、ユアの体には九頭自身が受けたダメージと同じ“痛み”が返っている。
さらに追い打ちをかけるように、九頭のナイフが閃く。
「さぁ、“おままごと”の時間だよ――お姫さま!」
ナイフがユアの左腕を浅く切り裂いた。赤い筋が、炎に照らされてギラリと光る。
「……っ、ああっ……!」
今度は顔だ。頬にもう一筋、血の線が走った。ユアの身体がよろけて、そのまま――膝をついた。
「ユア……!」
思わず名前を呼んだ。走り出したかった。でも、足が動かない。空気が、灼けるように熱いのに、オレの身体は凍っていた。
九頭はその様子を、心底楽しそうに見下ろしていた。
「どうしたの? 終わり? ねえ、ねえ……それじゃあ、全然楽しくないよォ?」
ナイフを片手に、ゆっくりと近づくその姿は、まるで死神だった。
でも――
ユアは、顔を上げた。
その目は、もう完全に“怒り”しかなかった。
「……絶対、お前を殺してやる……」
あいつの肩が震えた。炎が、さっきとは比べものにならない勢いで噴き上がる。空気が悲鳴を上げて、地面が焦げる音がした。
「痛いのも、苦しいのも、全部……関係ないネ」
そして――ユアが立ち上がった。
その姿は、まるで火の精霊みたいだった。血まみれで、ボロボロで、それでも――怖いほど美しくて、恐ろしくて。
「お前だけは……絶対、許さないネッ!!」
炎が弾ける。
一瞬のうちに、九頭の視界を焼き尽くすような火柱が奴を襲った。
「なっ、なに――ぎゃあああああッ!!!」
九頭の叫びが響く。吹き飛んだ体が地面を転がり、黒煙の中に沈んでいく。もう動かない。
それでも、ユアは止まらなかった。
「……やめろ、ユア……もう、そいつは……!」
叫んでも、届かない。
ユアは、気を失っている九頭の顔を無言で殴り続けていた。拳に、血が跳ねる。音が、濁った音に変わっていく。
何度も、何度も。
オレは……一歩も、動けなかった。
その背中が、あまりにも――悲しくて、怖かったから。
3
白い壁。冷たい床。変な匂い。……いつも、鼻がツンとする薬品みたいな匂いがしてた。
ここはどこ?って何度も聞いたけど、誰も教えてくれなかった。
「パパとママは、何してるの?」
そう聞いても、ふたりはいつも笑って「大事なお仕事だよ」って言ってた。意味はよく分からなかったけど、その笑顔があれば、別にいいって思った。
……パパとママは、優しかったから。
誕生日には、大きなケーキを買ってくれた。いちごがいっぱいのってて、生クリームがふわふわで、パパがちょっと味見しようとして怒られてたネ。ママは笑ってた。
夜、ひとりで寝られないって泣いたら、ふたりで一緒に寝てくれた。パパの腕はあったかくて、ママの匂いは安心する匂いだった。あの時間が、ずっと続くと思ってた。
――でも、あの夜だけは、違った。
「ママ、寝れないヨ……一緒に寝て……」
小さく声をかけて部屋に入った時、なんか……変な音がしてた。びちゃ、って音。水じゃない。血の匂いがした。
部屋の床に、赤いものが広がってて。
その中に――パパとママが倒れてた。
動かなくて、目を開けたまま、こっちを見てた。
「……え?」
声が出なかった。足が動かなくなった。わけがわからなかった。
パパの腕が、おかしな角度に曲がってた。ママの服が、破れてた。床には、何かが転がってた。何か……ぬいぐるみだったかもしれない。
その向こうに、人影があった。誰かが、立っていた。そいつがパパとママを――そうだ、きっとそいつが――
「パパっ……!ママぁっ!」
駆け寄ろうとした時、誰かが、後ろから腕を掴んだ。
「だめだ、こっちだ」
顔は、覚えてない。声も……ちゃんとは、覚えてない。でも、その手はあったかったネ。
その後のことは覚えてないネ。
弓弦によると私は何もない部屋で立ち尽くしてたって……
その後、ボスは私と弓弦を逃すために……
……あの日、パパとママは死んだ。
あの夜のことだけは、絶対に忘れない。
忘れられるわけがない。忘れたら、私は“私”じゃなくなるから。
――だから私は、あいつを殺す。
パパとママを殺した“誰か”を。
そして今日、また……大切なものを奪われた。
——何か聞こえる
……誰かが呼んでいる?ユアって……誰のこと?……ッ……うるさい……でもなんか、落ち着くネ
4
ユアがあいつを一方的に殴って何分立つだろう。オレは情けなかった。こんな状況ても見てることしかできない。
このままじゃ……ユアは、九頭を殺してしまう。
焼け焦げた空気の中で、オレの鼓動がうるさく響いていた。
拳を振り下ろすたびに、九頭の身体は血を飛ばし、火花を上げて揺れる。もうとっくに気絶してる。反撃もできない。ただただ、一方的に殴られてる。
「……やめろよ……っ」
声が震える。叫んでも届かない。
ユアの顔は、感情のない仮面みたいだった。怒りと憎しみに染まりすぎて、何も感じてない。
それが、怖かった。
……こんなユア、見たくない。
オレが知ってるユアは、サッカーが下手くそで、変な語尾で喋って、陽太やひなのことを「大事な友だちネ」って言ってた……そんな、ただの女の子だ。
人殺しなんて……似合わねぇよ。
「やめろよ……! ユア……っ!」
焼ける手のひらの痛みなんて関係なかった。必死に叫びながら、オレは全力でユアを引き寄せた。
「お前まで……人殺しになるなよ……っ!」
お前は、無邪気に笑ってる方が、何百倍もいい。
普通の、女の子のままでいてくれよ……。
——何を、呑気に願ってるんだ。
ユアに普通の女の子でいてほしい?
誰も殺してほしくない?
笑わせるな!
オレは、オルカリブレに入ったんだろ?
戦う理由ができて、それが夢になった。
あの日助けた女の子に守れて感謝されて自信がついた。
それなのに目の前で、壊れそうなユアを……
見てるなんて……オレが止める。
絶対、ユアを人殺しにさせない。
オレの足は……動かない。
心臓がバクバクと音を立てて、胸がきつい。さっきから、震えが止まらない。だけど……。
——行かなきゃって、思った。
脚が言うことを聞かなくても、這いつくばってでも……オレは、ユアのそばに行く。
「ユア! やめろ……まじで、そいつ死ぬって……!」
叫んだけど、ユアには届かない。
暴走した炎の中、こいつの顔はまるで誰かを殺す機械のようだった。瞳の奥にあるのは、怒りと悲しみ、そして……ぽっかりとした虚無。
オレはユアの腕を、力いっぱい掴んだ。
「っ……あ……ッツ!!」
思わず叫んだ。手のひらが焼けるように熱い。ユアの体温はもう、人間のものじゃない。けど、それでも……
——そんなこと、今はどうでもいい。
「もう、やめろよ……ユア……っ」
それでも、必死にオレは叫び続けた。
このままじゃ、ユアが壊れる。……こいつ自身が。
「兄ちゃん、姉ちゃん?」
……え?
聞き覚えのある声が、炎の轟音の中からぽつんと届いた。
オレは反射的に振り返った。
そこに立ってたのは――陽太と、ひなだった。
「お前ら……生きて……たのか……?」
言葉が、うまく出てこない。目の前の光景が信じられなかった。確かにあの時、血の中にいたのは……けど――
ひなは、少しだけ頬に傷をつけて、でも無事だった。陽太は泥だらけの手で、妹の肩を抱いて立っていた。ふたりとも、震えてた。泣きそうな顔で……でも、ちゃんと生きて、そこにいた。
「知らないおばさんが、かばってくれたんだ……僕たちを……」
陽太が、俯いて言った。唇がかすかに震えてる。
「それで、隠れてた。……怖くて、出てこれなかった……でも、姉ちゃんの声がしたから……」
オレは何も言えなかった。言葉が、喉に詰まって出てこなかった。ただ、目の前がにじんだ。
……よかった。生きてたんだ。こいつらは、ちゃんと……生きてる。
「……ユア……」
気づけば、ユアの身体を抱きしめるようにしていた。
その背中に、今伝えなきゃいけないことがあった。
「ユア、陽太も……ひなも、生きてる。……守れたんだよ、お前の大事な人たちを。……もう、終わったんだ……」
オレは、震える声でそう言った。
それでも、ユアはすぐには反応しなかった。肩はまだ上下してて、拳には血がついたまま。それでもさっきよりも、ほんの少しだけ、力が抜けてる気がした。
「……うそ……」
かすれた声で、ユアが呟いた。
「そんなの……うそネ……」
ふら、と炎の熱が揺れる。ユアの手が、ようやくゆっくりと降りた。彼女の視線が、ゆっくりと後ろのふたりへ向く。
「……ひな……陽太……?」
陽太とひなが、怯えたままでも小さくうなずいた。
「……生きてる……ネ……?」
「守れたんだよ、お前が……」
「……よかったネ。生きてて……」
その瞬間、ユアは気を失った。
オレは焦ったが、寝息が聞こえた。
どうやら眠ったらしい。
それぞれの想い
ユアの燃え尽きたような寝息を背中に感じながら、オレは陽太とひなを家まで送り届けた。
玄関前で見送ったあの小さな手を、もう二度と血に染めさせたくない。そう強く思った。
それから、眠るユアを背負ってオルカリブレに戻ってきた。
歩くたびに、ユアの体温がじんわりと背中に染みてくる。どこか心地よくて、でも少しだけ、重かった。
「ユアは?」
部屋に入るなりそう聞くと、ソファに腰掛けていた紫月が顔を上げた。
「まだ眠ってるわ。しばらくは起きないでしょうね」
穏やかだけど、どこか硬い声だった。
他のメンバーも部屋にいた。なのに、妙に静かだった。
シンも、弓弦も、りくも、紫月も……誰も口を開こうとしない。
空気が、重い。
オレは黙っていられなくなった。胸の奥でずっと、燃え残ってた想いをぶつけた。
「あいつ……ユアは、親を殺したやつを絶対許さないって言ってた。絶対、殺すって……」
その言葉を口にするだけで、あのときの炎と血の匂いが蘇る。
「でも……オレは、あいつを人殺しにはさせたくないんだ」
もうあんな……苦しそうなあいつを
数秒の沈黙のあと、りくがぽつりと口を開いた。
「……それは、ソラ……お前の勝手な理想だ」
その言葉は、静かな部屋に小さく響いたのに、胸にドスンと落ちた。
「そいつを押し付けるなんて……傲慢じゃねーのか?」
「でも……オレたちは仲間で……」
喉の奥が詰まるような思いで、そう言った。
自分でも、説得力がないのは分かってた。
りくの言葉は正論だ。ユアの怒りも、痛みも、オレには全部は分かんない。分かるフリしかできない。
それでも――黙って見てるだけなんて、できなかった。
けど。
「仲間だから何?」
冷たい声が、部屋の空気を裂いた。
紫月だった。
その言葉は、鋭くて、刺さるようで……妙に静かだった。
「私たちにユアをどうにかすることなんてできないわ。
復讐なんて、誰かが望んでるからやるんじゃない。 自分を満足するためにやるものよ」
……心臓を握り潰されたみたいだった。
ユアの怒りを、ただの“自己満足”だって言われたみたいで。
でも、言葉が出なかった。反論できる自信なんてなかった。
「紫月!」
弓弦の声が、静かに響いた。紫月をたしなめるような、けれど鋭い声だった。
「……今のは言い過ぎた。……ごめん」
紫月はすぐに目を伏せた。感情を押し殺したような顔で、ぽつりと謝った。
そして弓弦が、ゆっくりと言葉を重ねた。
「でも……俺たちにどうすることもできないのも、事実でしょう。
ユアが選ぶ道を、俺たちが変えることなんてできません。
それがたとえ……破滅の先だったとしても」
弓弦のその言葉が静かに落ちた瞬間、部屋の空気が一気に冷え込んだ。
みんな黙った。誰も何も言わなかった。
でもオレの中でだけ、何かがグラグラと揺れてた。
胸の奥で、火がついたみたいに。
ずっと我慢してた感情が――一気に、爆発した。
「なんで……」
最初は、絞り出すような声だった。
「なんで……お前ら、そんなに冷てーんだよ!!」
一気に声を張り上げた。
震えた。怒りと悔しさと悲しさがごちゃ混ぜになって、言葉が止まらなかった。
「今は、正しいとか、できないとか、そういうの聞きたくねぇんだよッ!!」
拳が勝手に動いて、壁に叩きつけた。鈍い音が響いたけど、痛みなんか感じなかった。
「あいつは……ユアは、まだ十四のガキだぞ!?
誰かを殺すだの、復讐だの、そんなもん背負っていい年じゃねぇだろ……!
守られて当然の、ガキなんだよ……!」
言ってて、自分でも情けなくなった。でも止まれなかった。
そして――沈黙を貫いたままの、ある人物に向かって、視線を向けた。
「……シン、お前だよ。
さっきからずっと黙ってるけど……お前、ボスなんだろ?
“オルカリブレ”の、ボスなんだろ……?」
その目を睨みつけながら、吐き捨てるように言った。
「一般市民は守るくせに、仲間は守んねぇのかよ!!」
声が枯れるほど叫んで、オレはまた壁に拳を打ちつけた。
息が荒くなって、頭がぐちゃぐちゃで、それでも止まらなかった。
……オレは、守りたかっただけなのに。
あいつが壊れるのを、止めたかっただけなのに。
それでも――シンは、黙ったままだった。
オレの言葉にも、怒鳴り声にも、壁を殴った音にも、微動だにしない。
その沈黙が、何よりもオレの神経を逆なでした。
「……もういい」
怒りとも悲しみともつかない感情が胸を締めつけた。
「お前には……ガッカリだよ」
吐き捨てるように言って、オレは部屋を出た。
ドアを閉めようとした、その瞬間。
ぽつん――と、低く呟くような声が耳に届いた。
「……ユアをオルカリブレに入れたのは、間違いだったのかもしれない」
思わず、手が止まった。
あれほど無口だったシンの声が、どこか……壊れそうで。
だけど――
「いえ」
静かに、けれどはっきりとした声が、そのあとに続いた。弓弦だった。
「あなたがユアを助けなければ、彼女は……どうなっていたか分かりません」
その声には、怒りも慰めもなかった。ただ、 事実を語るように、まっすぐな響きがあった。
オレは何も言えず、そのままドアを閉めた。
背後に残るのは、重たい沈黙と、まだ消えない炎の匂いだけだった。
その場から少し離れた路地の影。
一人の男が、スマホに映る映像を見つめながら小さく呟いた。
「身長一七〇前後、水色の髪、シャツの上にパーカーの男……へぇ。アレが、オルカリブレの新人ってわけか」
口元が、ゆっくりと笑みを刻む。
風が吹き抜ける。
4章 私の償い
1
「殺して」
――まただ。
夢の中で、あの声が響く。
「……嫌だ」
「ねぇ。お願い……苦しいのは嫌なの」
その声は、震えていた。痛みと、恐怖と、私への信頼で。
目を開けた瞬間、心臓が早鐘のように鳴っていた。息が浅い。額には冷たい汗。
「……夢、か」
私はそう呟いた。けれど、それが夢ではないこともわかっている。あの光景は、私の中に確かに刻まれている。
あの出来事を――私は、いつかみんなに話すことができるのだろうか。
2
「今日のターゲットはこいつだ。こいつから情報を聞き出せ」
シンの声が聞こえた時には、すでに彼の手元から一枚の写真が滑り出し、テーブルに置かれていた。
視線を落とすと、若い女の顔。ぱっと見、ただの子ども。
でも、シンがわざわざ指名してくるってことは、見た目に騙されるなって意味だろう。
「こいつは変身の異能を持ち、顔は頼りにならん。だから今回は紫月とりくに任せる」
“なるほど、そういうタイプか”
心の中で軽く納得しつつ、隣のりくを見ると、彼は特に表情を変えなかった。
「作戦は任せるが、くれぐれも情報を聞き出す前に殺すなよ?」
私は写真を見つめたまま、軽く頷いた。
「了解」
3
人混みに紛れながら、私は波心を研ぎ澄ませていた。
“殺気を帯びたオーラ”――それは人の中に紛れても、波の濁りとして浮かび上がる。
探すまでもなく、違和感のある“音”が、すぐに見つかった。
——見つけた。
向こうも、こちらを探している。
ターゲットの視線が、ふとこちらを掠めた。
気づかれる前に、私は路地の角へと歩を進める。
視線を誘導し、音を、波を、読んで誘き出す。
人の流れが切れたタイミングで、静かに一人の影がついてくるのを確認した。
――掛かった。
私は立ち止まり、わざと隙を見せる。
案の定、背後から気配が跳ねた。襲撃の前兆。
だけど。
振り返った瞬間、私は息を呑んだ。
目の前にいたのは――見覚えのある顔。
「……嘘」
その姿も、声も、仕草までもが、私が知っている“彼女”だった。
私が殺したはずの、親友。
「久しぶりだね、紫月」
その声は、あの日と同じ、優しい響きで。
……なんて嫌なやつ。
本当に、最低なやつだ。
――パンッ!
乾いた銃声が響く。
敵の肩が弾け、叫び声を上げて崩れた。
視線を向けると、少し離れた屋根の上にりくの姿があった。
「動くな!」
冷めた声に、現実へ引き戻される。
私は小さく息を吐いて、彼のもとへ歩み寄った。
「りく、あんた雑すぎ。顔に血が飛んだじゃない」
「知らねーよ。お前がこの作戦立てたんだろ」
気の抜けた口調に、少しだけ肩の力が抜ける。
「……それにしても、もっとスマートな方法あったでしょ」
じっと睨むと、りくはわずかに目を細めて、私を見返してきた。
「それより、紫月。お前ちょっと様子変だっただろ」
その一言に、胸がドクンと鳴った。
視線をそらす余裕もないまま、彼の顔を見る。
――この男は意外と観察力に長けてる。
「なんでもない。気のせいじゃない?」
私はそう言って、軽く笑ってみせた。
その笑みが、ちゃんと形になっていたかどうかは、わからなかった。
敵は肩を押さえながら、私を睨みつけていた。
目の奥には憎しみと、もう一つ、焦りのようなものが混じっている。
「……どうしてわかったのよ。完璧に“彼女”になりきってたはずなのに」
その声も、語尾の抜き方も、確かにそっくりだった。
——だけど
「オーラは嘘をつけない。あの子は、そんな“揺れ方”しなかった」
私は淡々と答える。感情を挟む余地はない。
今の私は、任務を遂行する側の人間だ。
ポケットから端末を取り出し、画面にいくつかの情報を並べながら尋ねた。
「あなたの組織はどこ?どうやって私たちを探ってる?」
敵の表情が、再び固まった。
その目には、恐怖ではなく、どこか強がるような色が浮かんでいる。
……まだ、黙るつもりか。
「……」
一拍置いて、後ろから靴音が近づく。
「言え。今のうちに」
りくの声はいつも通り淡々としているのに、どこか重い。
彼の存在が圧になるのを、私は知っている。
威圧でも暴力でもなく、ただ“逃げられない”と悟らせるような、静かな気配。
敵の肩がわずかに揺れた。
――波が、折れた。
その瞬間、敵の唇が、ようやく開いた。
「……私は、霧島 柚葉」
その声は、さっきまでの演技が嘘だったかのように低く、落ち着いていた。
彼女の身体が淡く揺らぎ、変身は解け、元の姿が現れる。
表情も声音も、まるで別人のようだった。
「……“支部”があるの。旧地下鉄の廃路線沿い、北区の分岐ポイント……コード名は“潜熱”。そこで、集められた異能者のデータが保管されてる」
「それって……」
その言葉に、私は思わず口を挟んだ。
昔、シンたちが侵入して何かを見たという――あの場所?
柚葉は何か続きを言おうとしていた。
けれど。
ピキッ
空間が裂けるような、耳障りな違和感が走った。
――波心が、乱れた。
「……ッ!」
柚葉の身体がふらりと前に傾く。
首筋から細く、一筋の赤が流れた。
ふと顔を上げると、路地の先に立っていた男と目が合った。
まるでそこに“最初からいた”かのように自然な立ち姿。
整えられた前髪と、にこやかな笑み。
「はじめまして、かな? 日向 縁です」
その名と共に、私の中に小さな戦慄が走った。
彼の“波”は整っていた。整いすぎていて、逆におかしかった。
恐怖も、怒りも、殺意すらもない。
ただ、何もない――真っ白なノイズのような感情の断絶。
「柚葉ちゃん、あんまり喋りすぎは良くないよ? そういうの、君たちも困るでしょ」
私たちを責めるようでもなく、かといって擁護でもない。
まるで、“どちらでもいい”と言わんばかりの無関心さ。
「りく」
小さく声をかけた瞬間、彼はすでに銃を構えていた。
けれど、縁はまったく動じない。
「おっと、いけない。少し喋りすぎた。……追ってきてもいいけど、オススメはしないよ?」
りくが引き金に指をかけるよりも早く――
彼の姿は、ふっと空気に溶けるように、そこから消えていた。
「……断層、か」
私が呟いた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
一瞬の沈黙が降りたあと、りくが銃を降ろし、柚葉の亡骸を一瞥した。
「行こう。ここじゃ、もう何も拾えねえ」
4
私たちはオルカリブレに戻ることにした。
結局、大した収穫はなかった。
情報は寸前で断たれ、命だけがそこに残った。
――それにしても、柚葉は彼女の姿で現れた。
なぜ? 私のことを事前に調べていた?
交友関係まで把握していたとしたら……どこまでが偶然で、どこからが仕組まれていた?
彼女の様子からして、そこまで緻密な人物には思えなかった。
だとすれば――“誰か”が情報を与えていたということになる。
その“誰か”が、日向 縁なのだとしたら……
そして彼は、最後にこう言った。
――「追ってきてもいいけど、オススメはしないよ?」
あれは私たちを挑発したのか、それとも……警告だったのか。
どちらにせよ、もう隠せないだろう
5
部屋の中には、タバコの煙が薄く漂っていた。
火はもう落ちていて、煙だけが、ゆっくり天井に向かって立ちのぼっている。
俺はソファにもたれながら、ぼんやりと窓の外を見ていた。
……帰り道のことを思い出していた。
紫月は、あの日にしては妙に静かだった。
いや、いつもそれなりに静かなやつだけど――
その時の“静けさ”は、どこか違っていた。
言葉の間に、息の深さに、目線の揺れに。
こいつの中で、何かが押し出されようとしてるのがわかった。
ぽつり、と。
窓に水の音が落ちた。
ああ、雨か――
まるで、こいつの心に降り出したみたいに、タイミングが良すぎる。
「……りく、話さなきゃいけないことがある」
その声は、いつもの紫月とは違っていた。
抑揚はあるのに、どこか平坦。
客観的に振る舞おうとしてるのに、重く沈んでいる。
俺は何も言わず、ただこいつの言葉を待った。
少しの間を置いて、紫月は言った。
「私……人を殺したの……」
その声はかすかに震えていた。
雨音に紛れて、聞き逃しそうになるくらいに。
けど、はっきりと耳に残った。
“人を殺した”と。
こいつの言葉が空気の中で揺れて、
煙と雨と、全部まとめて胸の奥に沈んでいく感じがした。
何かを返すべきかもしれない。
でも、この時ばかりは――俺はただ黙って、目を閉じた。
紫月の罪も、その声の揺れも、すべてこの雨の中に溶けていくような気がしたから。
5章 もう、あの日常には戻れない
一番古い記憶は、でっかい建物から逃げてる場面だった。
赤ん坊を背負って、小さな女の子の手を引きながら、誰かが必死に走ってた。
その“誰か”が誰なのか、今でも分からない。
……もしかしたら、あれがオレの母さんだったのかもしれない。
そこからの十七年間、オレはじいちゃんと一緒にスラムで暮らしてた。
まぁ、暮らしてたなんて言っても聞こえはいいけど、実際はゴミみたいな生活だった。
盗みは日常茶飯事。
見つかればその場でボコられて、
屋根なんてあるわけねぇから、夜は凍えるほど寒い。
でも、それでもオレは思ってた。
じいちゃんと一緒なら、なんとかなるって。
あの頃のオレは、変な自信に満ちてたんだ。
何が起きたって、オレたちは生きていける。
そう、信じて疑わなかった。
……ほんと、馬鹿みたいにさ。
1
風音さんのカフェの、いつもの席。
オレはテーブルに突っ伏していた。顔も上げたくないし、考えたくもない。
だけど、隣ではまったく空気を読まない奴が――いつも通り、元気そうに座っている。
「暇ネ。よし!ソラ、特訓するネ」
「……ヤダよ、お前手加減知らねーもん。訓練でも大怪我覚悟しなきゃいけないとか普通に考えて嫌だろ」
「お前が弱すぎるネ。私は異能使ってないネ。そんなじゃいつか、殺されるネ」
「実戦の前にお前に殺されるわ……」
冗談みたいに吐き捨てて、でもすぐに……気づいた。
――あ。
“オレは、ユアを人殺しにさせたくない”
あのとき、確かにそう言った。涙が出るくらい必死に。
それなのに今、隣にいるこいつは、何事もなかったみたいな顔で笑ってる。
……どうなってんだよ、マジで。
「ソラ?どーしたの?」
ユアが不思議そうに、首をかしげてこっちを見る。
相変わらず、読めない奴だ。いつも通りすぎて、逆に腹が立つくらい。
「……何でもねーよ」
そう言って、また顔を伏せた。
ったく、調子狂うぜ。
――と、カウンターの奥から、のんびりした声が飛んできた。
「ふふっ。朝から賑やかねぇ。うちは静かにくつろぐ場所だよ、ユアちゃん、ソラくん」
穏やかに笑いながら顔を出したのは、風音さんだった。いつも通り、優しくて、どこか気だるげな空気をまとってる。
「二人とも何か飲む?」
そう聞かれて、オレが口を開きかけた瞬間――
「ああ、じゃ、オレジンジャー……」
「私、りんごジュースネ!」
横から、ユアが当然のように割り込んできた。
……おい。
「ソラくんはジンジャーエールで、ユアちゃんはりんごジュースね!ちょっと待っててね」
そう言って、風音さんが軽くかがんだ瞬間、チラッと胸元が見えた。
……やべ、見てねぇ見てねぇって。
慌てて目を逸らそうとしたその先には、バッチリこっちを見てるユアの顔があった。
「……なんだよ」
喧嘩腰に言うユアに対して
「は、別になんでもねーよ!」
なんか空気がピリッとした気がして、つい声が大きくなった。
すると、カフェのドアが勢いよく開いた。
「貴様ら、外まで声が聞こえてるぞ!」
けたたましい声が店内に響く。……来た、シンだ。朝からテンションがやたら高いというか、声のボリュームの調整ができないというか。おかげで眠気が吹き飛ぶわ。
「シンの声が一番うるさい……頭に響く」
そう言って頭を押さえるのは、紫月。
「……まだ十時じゃーねぇか。眠い」
りくまでダルそうな声でボヤいてる。髪も寝ぐせのままだし、完全に布団から引きずり出された感。
「……なんか、二人ともいつもより……機嫌悪くね?」
ついポツリとこぼしたオレに、弓弦が小さく笑いながら答える。
「二人とも朝は苦手ですからね」
マジかよ、もう十時だぞ? 普通に活動時間だろ……どんだけ寝る気だ。
「いらっしゃい」
風音さんが穏やかに迎えると、四人はそれぞれ空いてる席に腰を下ろした。
するとすぐに、弓弦がすっと手を挙げて言う。
「風音、こちらにコーヒー四つください」
「はーい、ちょっと待っててね」
そう言って風音さんが奥へと戻っていく。
コーヒーを待ちながら、みんながそれぞれ気だるそうに、でもなんとなく落ち着いた雰囲気で椅子に沈んでいく。
ユアは手持ち無沙汰にストローをいじってるし、りくは腕を組んで目を閉じたまま寝る気満々。紫月はテーブルに肘をつきながらスマホをいじってる。シンは相変わらず腕を組んで眉間にしわを寄せてるけど、さっきよりは少しだけ静かになった。一方、弓弦は手元の分厚い本に視線を落として、静かにページをめくっていた。
なんてことない日常が、ここにはあって。少し気だるくて、適度にうるさくて。オレはその中にいる。
それだけで――なんか、少しだけ呼吸がしやすくなる。
ジンジャーエールのグラスを一口、口に運んで、ふう、と息を吐いた。
2
「さて、情報を整理する」
シンがコーヒーカップを音を立てずにテーブルへ置いた。その声と仕草で、さっきまでののんびりした空気が一変する。紫月もスマホの画面を閉じ、弓弦は本にしおりを挟んで静かに閉じた。りくも寝ぼけ眼のまま、しぶしぶ体を起こす。
全員の視線が、自然とシンに集まる。
「昨日の件だが――変身能力者、霧島柚葉。彼女から聞き出すはずだった“裏の名簿”の情報は、未回収のままだ」
柚葉――昨日の任務で接触した敵。能力は“変身”。情報を握っていたはずだったのに、あのとき……。
「接触の寸前、別の何者かに“処理”された。紫月たちの証言通りだ」
シンは紫月とりくを一瞥する。紫月は無言でうなずき、りくも「ああ」と小さく返す。
「……その“処理したやつ”、分かってるのか?」
オレが思わず口を挟むと、紫月がパソコンを開いて言った。
「名は――日向 縁。異能名はわからないけど
時間や動きの“連続性”を一時的に断ち切る能力を持つ、非常に厄介な男ね」
すると一拍置いだと思ったら曇った顔で
「柚葉は……喋ろうとしていた」
ぽつりと、紫月が呟く。りくはそんな紫月見た。
……何かあったのか?この二人
なんとなく、違和感を覚えた。
「そういう相手を、あの男は“タイミングごと消す”。会話も、動作も、息も……切れ目を突かれて止められる」
弓弦が続けるように口を開いた。
「この先、柚葉が持っていた“名簿”の出所を辿るには……日向縁と直接接触するしかないでしょうね」
「まためんどくさそうなやつ出てきたネ……」
ユアがやや不機嫌そうに口をとがらせる。オレも思った。なんだよ、時間を“断つ”って。
「接触するのは……誰が行くんだ」
りくが聞いた。誰もすぐには答えない。
だけど、空気がひりつき始めていた。
その時だった。
「宅配便です」
店の入り口から、やけに軽い声が聞こえた。風音さんが「あ、はーい」と返して、カウンターの奥に向かっていく。その手に抱えられたダンボール――妙に濡れてる。配達員の男は軽く頭を下げたが、その瞬間、口元がわずかに釣り上がったように見えた。
……なんだ、あいつの笑い方。気味が悪い。
「あれ?」
ダンボールを見下ろしていた風音さんが、不思議そうに首を傾げた。
「どうした? 風音」
「うん……これ、差出人も宛先も書いてないの。何も」
風音さんの声が少しだけ揺れていた。違和感を感じたシンが、静かに立ち上がって彼女のもとへ歩いていく。その後ろを、オレたちも自然とついていった。
近づくと――ダンボールの底が、赤黒く滲んでいた。
……液体だ。しかも、見慣れた色じゃない。
シンは眉間にしわを寄せ、慎重に箱のガムテープに指をかける。ほんの数秒の沈黙の後――
バサッ、と蓋が開いた。
「見るな!!」
怒鳴り声が店内に響いた。シンが咄嗟に風音さんの体を抱き寄せて、その目を覆うようにする。その動きはあまりにも速くて、思わず息を呑んだ。
りくがすぐにオレの前に立ち、片手でオレの視界を遮ろうとする。だが――
もう、遅かった。
視界の隅に映った、“それ”は――
ダンボールの中、血の底に沈んでいた。
生首。
そして、それが誰なのか、オレは見間違えるはずがなかった。
「……じい……ちゃん?」
口から、自然と声が漏れた。
喉が詰まって、息ができなかった。
鼓動の音がうるさい。だけど、それ以外の音は、全部遠ざかっていった。
膝が抜けたように、力が入らなくなって、そのまま床に崩れ落ちた。胃の奥からこみ上げてくる、吐き気。喉が焼けるみたいに熱くて、けど体は氷みたいに冷えていた。
……なんで。
なんで、こんな形で――。
「弓弦、警察を呼べ」
シンの低く、鋭い声が響く。張りつめた空気を貫くように。
「はい」
弓弦がすぐにスマホを取り出す。
「りくはソラを、紫月は風音とユアを頼む」
「……ああ」
「……ええ」
それぞれが動く。その姿は落ち着いてるように見えたけど、みんな、どこか顔が強張っていた。
……世界が、変わっていく。
目の前にあった日常は、もうどこにもなかった。
オレの大切な人が――こんな形で、いなくなった。
誰かが、奪った。
オレから、全部――。
3
キッチンに立つ彼女の背は、どこか小さく見えた。
痩せた肩にエプロンの紐が食い込んでいる。温かい湯気の立つ鍋の前に立つその背中が、少し揺れているように感じた。
「風音、顔色が悪い。お前も、もう少し休め」
シンの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。無理もない。あれ以来、風音はほとんど休んでいない。眠れても、きっと浅い眠りだっただろう。
「……大丈夫。それより……ソラくんは?」
風音はそう答えたが、その声に張りはなかった。返事よりも、問いかけの方に力が入っている。彼女の気持ちがどこにあるのかは、明らかだった。
あれから三日。
ソラは――何も食べていない。
……無理もない。
“家族”をあんな形で失って、心が正常でいられる人間なんて、いるはずがない。
あの日、警察への対応は俺が行った。
……本来なら、あれはシンの仕事だったはずだ。でも、彼は今も指名手配されていて、警察の前には立てない。
紫月は、その間にソラの“養い親”を殺した犯人の情報を洗っている。
りくはソラの様子をずっと見ている。何か、間違ったことをしないように。
ユアも、時折不安そうな目でこちらを見ていた。
――誰もが、それぞれに動いている。
けれど、その中心にいるソラだけが、時間の中に取り残されていた。
「ご飯できたけど……ソラくん、食べるかしら」
風音の手が、そっとお盆の縁に触れる。その指先も、ほんの少し震えていた。誰もが言葉を飲み込んだ。その沈黙が数秒ほど続いた。
その時――
「……私が、持っていくネ」
そう言って前に出たのは、ユアだった。
意外だった。
いや……正確に言えば、全員が少し驚いていたはずだ。
けれど、ユアの目は真っ直ぐで――その決意に、誰も反論することはできなかった。
「……頼む」
シンがぽつりとそう言い、風音も頷いた。
……あの日、誰よりも深く怒りに呑まれかけた少女。
その彼女に託すことは、きっと意味があるのだろうと、俺は思った。
言葉にできない想いを、彼女はきっと、届けに行くのだろう。
4
じいちゃんとの日々は、妙に断片的にしか思い出せない。
でも、どの記憶も、やけに温かくて、腹が立つくらい優しかった。
「おいソラ、寝るときは靴脱げ。布団が汚れる」
「いや布団じゃねぇじゃん、段ボールだし」
「それでも寝床だ」
くしゃくしゃに笑って、ボロボロのパンを半分こして。
殴られて帰ってきたオレの頭を無言で撫でて――
……全部、もう、ねぇんだよ。
あの日、箱の中に入ってた“それ”は……間違いなく、じいちゃんだった。
なんの意味も理由もなく、ただの見せしめみたいに、殺されて、送られてきた。
頭が真っ白になった。息ができなかった。
でも、泣けなかった。叫ぶ余裕もなかった。
あれから三日、オレは何も口にしてない。
……なんか、もう
生きるのめんどくさくなっちゃったな……
何もかも失って、オレの中に残ったのは、ただの“空っぽ”だった。
復讐だとか、怒りだとか、そういうエネルギーすら湧かない。
心が折れるって、こういう感じなんだなって、妙に冷静に思った。
もう、どうでもいいや。
このまま、いなくなっても――
それが一番、楽かもしれない。
ぼんやりと天井を見上げていた時。
トントン、と小さなノックの音が聞こえた。
……うるさい。
無視していると、ゆっくりドアが開く音。
足音が、一歩ずつ近づいてくる。
「ソラ」
声だけで、誰かすぐに分かった。
「……何しに来たんだよ」
布団の中から呟いた。顔も見たくなかった。優しさとか、そういうのが一番しんどいから。
「食べないと死ぬネ」
ユアの声は静かだった。けど、どこか強い響きがあった。
「……別にいいよ」
オレは顔も上げずに、布団の中でそう答えた。どうでもよかった。食べなくたって、寝てたって、起きなくたって。
「……ダメ。店長がせっかく作ってくれたんだから、ちゃんと食べるネ」
しつこい。なんでそんなにこだわるんだよ。胸の奥がざわざわして、どうしようもなくて。
堪えきれず、オレは布団から勢いよく身を起こした。
「うるせーな……お前に……お前にオレの何が分かるって言うんだよ!」
声を張っただけで、肺が痛んだ。三日間、何も口にしてない身体が、喉を焼くように軋んだ。
それでも、ユアは黙ってオレを見ていた。
じっと、真っ直ぐに。
なんだよ、その目は。
責めてるわけでも、哀れんでるわけでもない。ただ……受け止めようとしてる、そんな目だった。
「……わかるネ」
その一言に、オレは思わず言葉を詰まらせた。
「は? 何言って……」
「私だって……パパとママ、殺されたネ」
ユアの声が震えた。
次の瞬間、こいつの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
泣いてる。ユアが――。
「……悪い」
謝るしかなかった。胸の奥がきつく締めつけられるような感覚だった。こいつだって、同じように苦しんできたのに。オレはそれを、見ようとしてなかった。
でも、ユアはそれでも笑った。
泣きながら、柔らかく笑った。
「ソラ、聞いて。お前が復讐したいって言うなら、私は止めないネ」
その言葉に、オレはハッと息を飲んだ。
「お前は……おじいちゃんを殺した敵を、殺すって言うなら、好きにしたらいいネ。でも――お前の帰る場所はここネ」
ユアの声が優しかった。
「私たちは仲間ネ。どんな時でも、ソラの味方ネ」
そう言い切って、ユアは少し言葉を止めた。何かを噛み締めるように。そして、ゆっくり続けた。
「あの時――私が暴走した時。暗闇の中で、ソラの声だけが聞こえたネ。あの時、ソラの声があったから……私は戻ってこれたネ」
ユアの声が震える。でも、その目はまっすぐで、迷いがなかった。
「だから今度は、私が待つネ。お前がどんな決断をしても、私はここで待ってるネ」
――ああ、やっと分かった。
オレは、今までこいつのこと、何も分かってなかった。
ユアの弱さも、強さも、優しさも――全部。
「ユア……ありがとう」
気づけば、オレは言葉にしていた。
そして、そっと手を伸ばし、お盆の上のスプーンを取った。
一口、口に運ぶ。
冷めかけたスープが、喉を通って、胃に落ちた。
その瞬間、心が少しだけ温かくなった気がした。
6章 お前の帰る場所はここネ
1
じいちゃんが殺されてから、二週間が経とうとしていた。
オレはスマホの画面を見ている。
そこには、じいちゃんの映像が残っていた。
この組織に入る時、シンから「連絡が取れないのは困る」と言われて渡されたものだ。オレはスマホをもらったのが嬉しくて、ふざけてじいちゃんを撮った。些細なやり取りや、笑った顔。いま見返すと、そればかりが残っていた。
オルカリブレに入ったことを、じいちゃんは心から喜んでくれた。
それなのに、もう――いない。
オレは、人を殺すことに抵抗があった。
一線を越えたら、もう戻れない気がしてた。
誰かを殺してしまったら、もう普通に笑えなくなると思ったから。
だからユアにも、人殺しになってほしくなかった。
けど、オレは見誤ってた。
りくが言った。「それは傲慢じゃねーのか?」って。
その言葉が、ずっと頭に残ってる。
――あいつの言う通りだったんだ。
理想を振りかざして、自分の価値観を押しつけて、
結局、オレは覚悟がなかっただけだ。
誰かを救いたいと思いながら、奪うことから目を逸らしていた。
そのくせ、守るだなんて――都合が良すぎた。
2
紫月が黙ったまま、オレのことをじっと見ていた。
その目はまるで、オレの中を覗き込んでるみたいで、少しだけ背筋が寒くなる。
「……波心《ハシン》を使って見えたよ」
ぽつりと、紫月が言った。
「ソラの波の形は――風のように広がって、流れる。でも拡散しすぎる傾向がある。だから、接近戦よりも“流れを作る戦い方”の方が合ってる」
そう言いながら、手で風の軌道をなぞるような仕草をした。
「剣を使った方がいいんじゃね?」
そう言ったのはりくだった。
「お前、素手だと中の下だし」
え、酷くない?って思ったけど、否定はできなかった。事実、格闘は訓練でもずっとユアにボコられてる。
紫月はりくの意見に頷いた。
「そうね。風と剣は相性がいいし。斬る、流す、弾く……形を持たせやすい。剣術はシンに教えてもらえばいいと思う」
「なんでシン?」
思わず聞き返すと、りくが当然のように答えた。
「剣でシンより右に出るやつはいない。あいつ、元々の武器が刀なんだよ。単純な武力なら弓弦やユアだけど、剣術ならシンがダントツ」
なるほど、確かにシンのあの落ち着きと動きには、どこか斬るような鋭さがあった気がする。
……風と剣。
オレの異能、《疾風(しっぷう)》は、まだまだ未完成だけど――その使い道が、少しだけ見えた気がした。
3
訓練場の空気は、張り詰めていた。
オレは新しく手にした木刀を構えて、真正面に立つシンを見据える。剣なんて握ったのは生まれて初めてだったが、それでも風を“通す”手応えが、なんとなくこの形にしっくりきていた。
「もっと重心を落とせ」
「……こう?」
「違う、そうじゃない」
言葉と同時に、シンの木刀がオレの膝裏を軽く打った。バランスが崩れて前につんのめる。
「相手が強い時ほど、姿勢の乱れが命取りになる。構えで殺気を制せ。――もう一回」
シンの動きは、無駄がなくて静かだった。剣を構えているだけなのに、なぜか動けなくなるほどの圧を感じる。
これが“本物”か――。
その日の稽古が終わって、オレは一人で廊下を歩いていた。汗はまだ引いてない。呼吸も少しだけ荒いまま。
そのとき、背後から声がした。
「久しぶりだな」
……聞き覚えのある、最悪な笑い声。
反射的に振り向く。そこに立っていたのは、あの男だった。
「……テメェは」
木刀の代わりに背負っていた訓練用の剣に手をかける。けれど――
「おっと、動くなよ」
男――磁条コウは、ニヤニヤと笑いながら手をひらひらさせていた。
「別に戦いに来たわけじゃない。オレ、平和主義だからさ」
あいかわらず嫌な笑い方だ。
「……は。じゃあ、何しに来たんだよ」
「情報だよ」
その瞬間、オレの心臓が強く跳ねた。
「お前のじいさんを殺したやつの、情報を渡しに来たんだよ」
――なにを言ってやがる。
頭が一瞬真っ白になった。
「……お前は、そいつの仲間じゃねぇのかよ?」
思わず吐き捨てるように言った。オレのじいちゃんを殺したやつの仲間――そうじゃなきゃ、こんな場所にのこのこ現れる理由なんてない。
けどコウは、肩をすくめて軽く笑った。
「あー、俺、あの研究所から抜け出してきた」
「……は?なんで」
ふざけてるような口ぶりに、眉が自然と寄った。あいつは、命を奪った側の人間だ。そんなやつの言葉、簡単には信じられない。
「なんかさ、あそこもあそこでルールがあってよ。好き勝手やれねぇなら、いる意味ねーなって思ってさ」
軽すぎる。その態度も、言い方も。
怪しい。コイツ、何を企んでやがる――。
でも……。
コウが、オレの目を見て問う。
「いるの? いらねーの?」
静かな声。けどその奥に、何か試すような含みを感じた。
情報――じいちゃんを殺したやつの情報。
紫月も探してくれてる。でも、手がかりは少なすぎる。
行き止まりばかりの毎日に、オレたちは焦ってた。
なら――
「……話せ」
オレは、一歩だけ前に出た。
まだ信じてはいない。でも、逃すわけにはいかない。
その瞬間、コウの口角が、さらに不気味に吊り上がった。
「いい返事だ」
コウは気楽な調子でそう言って、ポケットから折れた紙切れを取り出した。折り目のついたその一枚を、オレの目の前にひらりと差し出してくる。
「……写真?」
オレは手を伸ばしてそれを受け取った。
写っていたのは、どこにでもいそうな男――でも、どこかで見た顔だった。
「こいつが……じいちゃんを?」
声が震えた。けど、コウはそれを気にする様子もなく、あっさり言った。
「高堂 晃司そいつが、お前のじいさんを殺した実行犯だ。オレはその現場を見たわけじゃねぇが、情報筋からの確かな話だ。間違いない」
高堂晃司。
聞いたことのない名前だった。でも――オレの中の何かが、静かにざわめいた。
「今、どこにいる」
唇が勝手に動いた。怒りと、何かもっと黒い感情が奥の方から湧き上がってくる。
コウはわざとらしく肩をすくめた。
「関東の北側。潰れた旧貨物ターミナルの地下に潜ってる。最近までは研究所の犬だったが、今は逃げてる身らしいぜ。ま、隠れてるつもりなんだろうけどな」
情報が本当なら――オレは、ついにじいちゃんの仇に手が届く場所まで来たってことだ。
「……なあ、なんで教えたんだよ」
オレが問い返すと、コウは不気味な笑みを浮かべた。
「……お前、面白ぇからさ。それだけ。……ま、せいぜい後悔しねーように、気をつけな」
その言葉を最後に、コウは身を翻し、闇の中に消えていった。
残されたのは一枚の写真と、胸の奥で燃え上がる、どうしようもない衝動だけ
4
鉄と錆の匂いが鼻を突いた。地下の空間は、外界と隔絶されたように静まり返っている。
その中心に、ひとりの男が佇んでいた。
「……高堂晃司か」
オレの声が空気を割った。男はゆっくりと振り返り、薄く笑う。
「よう、ソラ。随分と成長したな。あの時のガキとは思えねぇ」
その声に、胸の奥がざらつく。なぜ名前を知っている――問いは出さない。無駄だと直感でわかっていた。
「じいちゃんを殺したのは、お前か」
「さあな。俺、人の顔覚えるの、苦手でさ」
その言い草に、剣が先に動いた。
風が奔る。抜き放たれた刃に風が纏い、視界を裂いて晃司へ突き刺さる。
だが――晃司は動じない。右手をすっと横に払っただけで、空間が“裂けた”。
何かが通った感覚。オレは反射的に身を逸らす。頬に走る、薄い痛み。血が滲んだ。
「見えねぇ斬撃……!」
「俺の異能“断鋒”空間を、切るんだよ」
晃司が笑う。その目はどこか乾いていた。喜怒哀楽でも怒りでもない。ただ、獲物を見つけた捕食者の目。
風を脚に集める。爆発的な踏み込みとともに、オレは晃司の左側に回り込んだ。刃が閃く。空気が斬撃を引き寄せる。
晃司は避けた。避けたはずだった。けれど、風の“誘導”が刃の軌道をずらし、晃司の腕に赤が走った。
「……っは。上等」
笑った晃司の周囲が、細かく歪んだ。
次の瞬間、空間に“裂け目”が走る。縦、横、斜め――見えない刃が錯乱し、空間そのものが攻撃してくるかのような錯覚。
風を“盾”に変える。斬撃を逸らすため、空気の流れをねじ曲げる。だが、一つ一つの攻撃が鋭すぎる。肩、脚、腰――紙一重でかわしながら、風で受け流す。
ひとつ間違えば即死。
(当てるしかない……!)
風を集束。次の一手にすべてを懸ける。足元から風を爆ぜさせて一気に距離を詰めた。
剣が鳴る。刃と刃ではない。風と“断鋒”が、真正面から激突する音だ。
「疾風・翔閃《しょうせん》」
刹那の一閃。風を一点に集中させ、最速で繰り出された突き。時間が止まったような瞬間、剣が晃司の肩口を貫いた。
「ッ……ちぃ……!」
晃司の体が吹き飛ぶ。鉄骨に叩きつけられ、呻き声をあげながら崩れ落ちた。
剣を構えたまま、オレは一歩踏み出す。呼吸は乱れていない。風が常に肺を循環してくれている。むしろ、冷静すぎるほどだった。
「……じいちゃんを殺したのが本当にお前なら、もう一度答えろ。ここで終わりにする」
晃司は咳き込みながら、それでも笑った。
「やっぱ、面白ぇな……お前」
晃司が地面に崩れ落ちた。
肩で息をするオレの前で、血に染まった男が、口元を吊り上げて笑っていた。
「……なんだよ、お前もこっち側じゃねーか」
その言葉に、背中を撫でるような冷たい風が走った。
なんのことだと、返す気力もなかった。けれど、心臓が強く打った。何かを、見透かされたようで。
そのとき――ふと視界の端に、水溜まりがあった。
足元に広がる、赤黒く濁った水面。
そこに映っていたのは、剣を振り上げたオレの姿だった。
男の首筋に刃を当て、眉はひそめているはずなのに、唇の端は、わずかに吊り上がっていた。
――オレは、笑っていた。
5
オルカリブレの拠点に戻ると、建物の中は驚くほど静かだった。
でも、カフェの方へ足を向ければ――やっぱり、みんないた。
「おかえりなさい」
「お疲れさん」
「早くしろよ、お腹すいたネ」
ソファに寝転がるりく。パソコンに向かってる紫月。テーブルの上で菓子パンをかじるユア。いつもと何も変わらない、いつもの光景だった。
「……何も聞かないのか?」
静かな空気の中で、オレがそう訊くと、返事をしたのはシンだった。
「戻ってきただろ。貴様は」
相変わらずトゲのある口調。けど、その声は、どこか優しかった。
すぐに風音さんが微笑みながら言った。
「ふふっ。素直に『おかえり』って言ってあげればいいのに。シン君、ずっとソラくんの帰りを待ってたのよ」
「うるさい」
シンは顔を赤くしてそっぽを向いた。
「でもオレは……あの時……」
晃司の首に剣を下ろそうとしていた。あの瞬間、オレは確かに、殺そうとしていた。
しかも、どこかで――その衝動に、快感すら覚えていた。
だから、こんな場所に戻る資格なんて……。
そう思いかけたとき、弓弦が言った。
「でも、殺さなかった……んでしょう」
「ああ。でも――」
その先の言葉は、喉の奥でつかえた。
そんなオレに、シンが淡々と言った。
「何をしてる。早く座れ」
それだけだった。
思い出す。訓練中、シンがぽつりと漏らした言葉。
“オレはユアをここに入れたのは間違いだったかもしれない。だが、後悔はしてない。……だから見届けてようと思う。あいつが笑って前を向けるように”
……ああ、ようやくわかった。
これが、こいつらなりの優しさなんだ。
不器用で、めんどくさくて、でもまっすぐで。
偉そうなシンが集めた、この“仲間”たちがいるこの場所。
――オレは、戻ってこれたんだ。ここに。
ふと、視線をやった先に、ユアの姿があった。
あのとき――晃司の首に剣を振り下ろそうとした瞬間。
頭の中に、不意に響いた声。
“お前の帰る場所はここネ”
あの声が、オレの手を止めた。
ずっと、どこかであの言葉に救われたかったんだと思う。
だからオレは、剣を落とした。殺さなかった。
そして今、こうして――帰ってきた。
「……お前のおかげで、戻ることができたよ」
ぽつりと、そう呟くと、ユアがきょとんとした顔でこっちを見た。
まるで、自分がそんな大きなことをしたなんて思ってもいない、って顔だった。
でも――オレにとっては、あの一言が、すべてだった。
6
「結局、殺さないのかよ」
床に倒れたまま、オレは薄く笑った。体中が痛む。骨もいくつかいってるだろう。けど、まだ生きてる。
足音がした。軽い、飄々としたリズム。姿を見る前から誰かはわかっていた。
「うわ、ポロポロじゃん!!」
案の定、コウだった。口元を吊り上げて、楽しそうにオレを見下ろしてくる。
「あいつ、笑ってた?」
「ああ」
「でも殺さなかった」
「そうだな」
会話はそれだけ。妙に噛み合ってるようで、何ひとつかみ合っていない。けどそれでいい。こいつとは昔から、そうだった。
オレたちは、あいつ――ソラと同じスラムの出身だった。
オレは両親を殺された。コウは親に捨てられた。境遇なんて、そんなものだ。似たり寄ったりの傷を持って、似たり寄ったりの場所で出会って、気づけば一緒にいた。
名前も一文字違い。育った環境もろくでもない。自然と、馬が合った。
奪われて、奪われて――その果てに、奪うことでしか生きられないことを知った。
その頃にはもう、人を殺すことに何の抵抗もなくなっていた。
いや、むしろ快感すら覚えていた。そうしなきゃ、生きられなかった。
「……朝海ソラ」
コウがぽつりと呟く。
「あいつはいつ知ることになるんだろうな? 俺たちのボスが、自分の親父だってことを」
その口調はまるで、子供の悪戯を仕込んでいる時のように嬉しそうで、気味が悪い。
「さぁな」
オレは簡単に流して、目を細めた。
「……それよりお前、俺の情報をあいつに渡しただろ」
問い詰めるような声じゃなかった。責める気も、怒る気ももう失せていた。ただ、確認のために口にしただけ。
コウは笑った。
「悪かったって」
まるで悪びれた様子もなく、にこにこと、いつもの調子で。
そして――続ける。
「あいつに会ったら、昔のお前に戻るような気がしたんだよ」
猫も殺せない、ナイフを握っても震えてた、情けないオレのことを思い出すように。
「……俺の大好きな、あの頃のこうちゃんにさ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に、あの頃の風景がふと浮かんだ。
焼けた空き地。拾った缶ジュース。雨に濡れた段ボールのベッド。
どんなにみじめでも、あの時のオレたちは、笑ってた。
「……気持ち悪い」
オレはそう言って、目を閉じた。けれど、その頬はほんの少しだけ緩んでいたかもしれない。
7
「これは何のつもりですか?」
低くて冷えた声が響いた。けど、動じる様子はない。目の前の男――弓弦は、いつもの調子で背筋を伸ばして立っていた。
「お前、何を企んでる。毎日、誰と電話してやがる」
オレは銃口を弓弦の頭に押しつけた。冷たい金属がこいつの黒髪をわずかにかき分ける。
弓弦の顔が脳裏に浮かぶ。あの、何もかも見透かしたような薄笑い。
「嫉妬ですか? 意外と可愛いところがあるんですね
やっぱり、そう言いやがると思った。
ったく……。
「この状況で随分余裕だな。はぐらかすなよ」
「りく……あなた、俺に勝てるとでも?」
声は静かで、ただの事実を語るような調子だった。真っ暗な路地裏、顔ははっきり見えない。でも、確かにこの状況を“脅し”とも“危機”とも思ってないんだろう。
……こいつは、強い。
力だけじゃない。冷静で、洞察も鋭い。どこかで油断すればすぐに逃げられるし、逆に仕留められるかもしれない。だが、それでも――。
「さぁな。でもな、弓弦。お前が少しでも変なことしたら……オレが、いつでも撃つ」
銃口に力を込めた。言葉の真意が伝わるように。
そのときだった。
「りく、あなたは単純バカそうに見えて、案外勘が鋭い」
弓弦が小さく笑った。まるで、褒めてるようで、からかってるようで、そのどっちでもない響き。
「やはり……さすがあの兄を持つ者として、この弟、と言うべきでしょうか?」
「……テメェ、どこまで知ってやがる」
思わず顔をしかめる。無意識に、銃を押しつける手に力が入った。弓弦の髪が押しつぶされ、額の汗が路地の冷気で蒸発していく。
と、その時。
誰かの足音と声が聞こえた。
一瞬、気が逸れた。その瞬間――
「っ……!」
視界が反転する。気づけばオレは仰向けに転がされていて、空が、ビルの間から見えた。
すぐに起き上がろうとしたが、弓弦はすでにスーツのシワを伸ばしながら、すっかり冷めた顔で背を向けていた。
そして、歩き出す直前に――ふいに、振り返りもせずに言った。
「……期待してますよ。もし俺が道を誤ったら、その時は――りく、あなたが殺してくださいね」
言葉はさらりとしていたが、どこかに棘があった。
「シンに頼むのは、あまりにも残酷すぎますから」
そのまま、弓弦は店の扉を押し開け、中へと消えていった。