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もう、もう、もう……っ! めちゃくちゃ良かった……!! 「恋人になった翌朝は思ったより普通だった」って入りからもうグッと来たんだけど、名前を呼び合うことが二人の絆を確かめる行為になってて、しかもそれが「失われても探す」って強さに繋がってるのが最高に刺さったわ。アストルフォが「名前、呼んで」って言うとことか、衛二が「呼びたかっただけ」って返すところ、心臓がきゅーってなった。欠名花のエピソードも美しすぎる…。次も絶対読みます🔥
第十六話 失われた名を、恋人はもう一度呼ぶ
恋人になった翌朝は、思ったよりも普通だった。
空は晴れていた。
遠坂邸の庭には冬の光が落ち、台所からは味噌汁の香りがしている。
廊下には士郎が食器を並べる音が響き、凛がリビングで新聞をめくる気配もある。
世界は変わっていない。
時計は同じように時を刻み、窓の外では鳥が鳴き、冬木の街はいつもの朝へ向かって動き始めている。
けれど、遠坂衛二の胸の中だけは、昨日とは少し違っていた。
恋人。
その名前が、まだ新しい。
口に出すと照れくさい。
思い浮かべるだけで、胸の奥が少し熱くなる。
アストルフォは、俺の恋人。
そう考えた瞬間、衛二は自室のベッドの上で顔を片手で覆った。
「……破壊力があるな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
昨日、屋上で言った。
アストルフォに、自分の恋人になってほしいと。
アストルフォは答えてくれた。
ボクも、エイジの恋人になりたい。
その声を思い出すだけで、胸の奥に桃色の光が灯るようだった。
恋人になったからといって、急に何かが劇的に変わるわけではない。
昨日の夜、二人でそう確認した。
怖い時は怖いと言う。
手の力加減を確かめる。
嬉しい時もちゃんと伝える。
守りたいからといって縛らない。
隣にいてくれることを、当たり前にしない。
それらは、恋人になる前から二人で積み重ねてきた約束だ。
でも、名前がついた。
それだけで、同じ約束が少しだけ特別に見える。
扉が軽く叩かれた。
「エイジ、起きてる?」
アストルフォの声。
衛二の心臓が跳ねた。
昨日まで何度も聞いた声なのに、今朝は違って聞こえる。
恋人の声だ。
そう思った瞬間、また顔が熱くなった。
「起きてる」
「入っていい?」
「ああ」
扉が開く。
アストルフォが顔を出した。
桃色の髪が朝の光を受けて柔らかく輝いている。
彼はいつものように明るい笑顔を浮かべようとして、しかしすぐに少し照れた顔になった。
「おはよう、エイジ」
「おはよう、アストルフォ」
そこで少しだけ沈黙が落ちる。
昨日までなら、何の迷いもなく近づいてきただろう。
だが今日は、二人とも一瞬だけ間合いを測ってしまう。
恋人になった。
それは嬉しい。
でも、その名前の力にまだ慣れていない。
アストルフォが自分の手を見てから、衛二を見る。
「手、握っていい?」
衛二は少し笑った。
「昨日も聞いてたな」
「恋人になったからって、勝手にしていいわけじゃないもん」
その言葉に、衛二の胸が温かくなる。
そうだ。
名前がついたからといって、相手の自由を奪っていいわけではない。
#異能力バトル
聖杯
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聖杯
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恋人という名前は、許可を省略するためのものではない。
大切にするための名前だ。
「いいよ」
衛二が手を差し出すと、アストルフォは嬉しそうにその手を取った。
強すぎず。
弱すぎず。
いつもの力加減。
「今日の手、どう?」
アストルフォが聞く。
「少し緊張してる」
「ボクも」
「恋人二日目だから?」
「たぶん」
二人は小さく笑った。
アストルフォは繋いだ手を見下ろしながら、少しだけ頬を赤くする。
「エイジ」
「何?」
「恋人って、朝からすごいね」
「何が?」
「手を握るだけで、昨日よりもっと嬉しい」
衛二は目を逸らした。
「……分かる」
「分かる?」
「ああ。俺も嬉しい」
アストルフォの顔が一気に明るくなる。
「ほんと?」
「本当」
「じゃあ、朝の契約再確認していい?」
「もう?」
「恋人二日目だから!」
「理由になってるようで、なってない」
「なってる!」
アストルフォは少し背伸びして、衛二の額にそっと唇を触れさせた。
いつもの、額への軽い契約再確認。
昨日から、その意味は少しだけ変わった。
「契約、再確認」
アストルフォは柔らかく囁く。
「ボクはエイジのサーヴァント。そして、エイジの恋人。今日も自分でエイジの隣にいる。怖いことがあったら、ちゃんと言う。嬉しいことがあったら、もっとちゃんと言う」
衛二は目を閉じる。
胸の奥が温かい。
「俺も、アストルフォのマスターで、アストルフォの恋人だ。今日もアストルフォが選んで隣にいてくれることを、ちゃんと大事にする」
アストルフォの瞳がきらきら揺れた。
「恋人って言った」
「昨日も言っただろ」
「朝に聞くとまた違う」
「そういうものか」
「そういうもの!」
アストルフォは満足そうに笑った。
その笑顔を見て、衛二は思う。
この名前を守りたい。
いや。
守るのではなく、大事にしたい。
縛るためではなく、二人で選び続けるために。
◇
朝食の席は、昨日よりさらに温かく、そして少しだけ気恥ずかしかった。
凛は二人の顔を見るなり、新聞を畳んだ。
「おはよう。恋人二日目の二人」
「母さん」
「何?」
「言い方」
「事実でしょう」
アストルフォは真っ赤になった。
だが、否定はしない。
昨日までなら「えへへ」と誤魔化していたかもしれない。
でも今日は、少し照れながらもちゃんと頷いた。
「お、おはよう、リン」
凛は一瞬だけ目を細めた。
それから、少し柔らかい声で言う。
「おはよう、アストルフォ」
士郎は味噌汁をよそいながら微笑んでいた。
「二人とも、ちゃんと眠れたか?」
「はい」
衛二が答える。
アストルフォも頷いた。
「ボクも!」
凛がじっと見る。
「本当に?」
「ちょっとだけ、嬉しくてなかなか落ち着かなかったけど……でもちゃんと寝た!」
「それは寝たと言えるのかしら」
「寝ました!」
士郎が笑う。
「まあ、朝食をしっかり食べれば大丈夫だ」
ユイは二人を見て、穏やかに微笑んでいた。
ミライも、以前よりずっと自然な表情で食卓についている。
昨日、恋人の花が咲いた。
その報告を聞いた夜、ミライはしばらく黙っていた。
だが最後に、小さく言った。
名前が呪いではなく花になるなら、返事の庭はまだ変われる。
その言葉は、衛二の胸に残っている。
けれど、今朝の話題はそれだけでは終わらなかった。
ユイが湯呑みを置く。
「昨夜、沈黙冠が次の問いへ進んだわ」
食卓の空気が引き締まる。
衛二とアストルフォは自然に手を触れ合わせた。
テーブルの下で。
誰にも見えないように。
だが凛には多分ばれている。
ユイは続けた。
「名を得た想いは、失われた時に何を残す」
アストルフォの指が、ぴくりと動いた。
衛二はすぐに力加減を確かめるように握る。
強くしすぎない。
でも離さない。
「名を得た想い……」
衛二が呟く。
ミライが頷く。
「恋人という名前がついたことで、二人の関係は輪郭を持った。その輪郭は強さになる。でも同時に、沈黙冠にとっては触れやすい場所になる」
凛が言った。
「はっきり言うわ。ここから先、沈黙冠はあなたたちの“恋人”という名前そのものを揺さぶってくる可能性が高い」
「名前そのものを?」
「ええ。名前があるから失う。名前があるから痛い。ならば最初から名前など持たなければよかった。そういう方向へ誘導してくる」
アストルフォが小さく息を呑む。
衛二は自分の中に怖さが生まれるのを感じた。
恋人になった。
それは嬉しい。
だが、その名前があるからこそ、失う未来を想像した時の痛みは深くなる。
昨日より怖い。
でも、昨日より強い。
それも事実だった。
士郎が静かに言う。
「名前を持つことは、失う痛みを増やす。でも、名前を持つことで残せるものもある」
「残せるもの?」
衛二が聞き返す。
士郎は少しだけ考えてから答えた。
「呼ぶことだ」
その言葉に、衛二は顔を上げた。
「名前があるから、呼べる。呼べるから、戻れることもある。たとえ離れても、たとえ見失っても、名前を呼ぶことで繋がるものがある」
アストルフォが衛二を見る。
衛二も彼を見る。
何度もそうだった。
エイジ。
アストルフォ。
互いの名前を呼ぶことで、二人は戻ってきた。
神杯の願いの声から。
沈黙冠の夢から。
失う恐怖から。
名前は痛みになる。
でも、道にもなる。
凛が頷く。
「今日の課題はそこね。沈黙冠の問いに対して、名前は失うためのものじゃなく、呼び続けるためのものだと示せるかどうか」
ユイが続ける。
「放課後、返事の庭へ行きましょう。灰色の花が芽吹いているわ」
「灰色の花?」
「失われた後に残る穴。欠名花、と呼ぶべきかもしれない」
欠けた名前の花。
その響きだけで、衛二の胸は重くなった。
アストルフォはテーブルの下で、衛二の手を握り直した。
「エイジ」
「うん」
「怖い」
「俺も」
「でも、言えた」
「ああ」
「じゃあ、朝ごはん食べる」
衛二は思わず笑った。
「そこに繋がるのか」
「怖い時こそ、シロウのご飯!」
士郎が嬉しそうに笑う。
「それはありがたい評価だな」
凛は呆れたように息を吐いたが、その表情は少しだけ柔らかかった。
◇
学校へ向かう道で、アストルフォは霊体化して衛二の隣を歩いていた。
恋人になっても、通学路は同じだ。
制服姿の生徒たちが行き交い、コンビニの前では誰かが朝食のパンを買っている。
信号が変わり、車が流れ、冬木の朝が進んでいく。
ただ、衛二にだけ聞こえる声がある。
『エイジ』
「何?」
『名前、呼んで』
「今?」
『うん。ちょっとだけ』
衛二は周囲を確認し、小さく囁いた。
「アストルフォ」
『うん』
アストルフォの声が、少し安心したように揺れる。
『ボクも呼ぶね』
「ああ」
『エイジ』
その名前が届く。
胸の奥に、温かい芯が灯る。
ただ名前を呼ばれただけだ。
でも今日は、その意味がいつもより深く感じられた。
名を得た想いは、失われた時に何を残す。
沈黙冠はそう問う。
ならば、今は呼ぼう。
失うことを恐れて名前を避けるのではなく。
名前があることを、今ここで確かめるために。
「アストルフォ」
『エイジ』
「アストルフォ」
『エイジ』
二人は小さな声で、何度か名前を呼び合った。
通学路の喧騒の中で。
誰にも知られないまま。
それは、恋人二日目の二人だけの小さな確認だった。
◇
昼休み。
屋上には少し冷たい風が吹いていた。
衛二とアストルフォは並んで弁当を食べている。
昨日、ここで恋人になった。
そのせいで、屋上の景色が昨日と少し違って見えた。
フェンス。
遠くの街並み。
校庭の声。
夕方ではなく昼の光。
すべてが同じなのに、胸に残る意味だけが変わっている。
「エイジ」
アストルフォが弁当を覗き込む。
「唐揚げ食べた?」
「食べた」
「ほんと?」
「食べたって」
「今日のエイジ、考えごとしながら食べるから」
「見られてる」
「恋人だから見ます」
アストルフォは堂々と言ったあと、自分で赤くなった。
衛二は笑いそうになる。
「自分で言って照れてる」
「まだ慣れないんだもん」
「俺も慣れない」
「でも、嬉しい?」
「嬉しい」
アストルフォは幸せそうに笑った。
「ボクも」
その笑顔を見るだけで、衛二は恋人という名前をつけてよかったと思った。
怖さはある。
けれど、それ以上に嬉しさがある。
アストルフォは箸を置き、少し真面目な顔になる。
「ねえ、エイジ」
「何?」
「もし、ボクの名前が分からなくなったらどうする?」
衛二は一瞬、息を止めた。
今日の問いに関わること。
アストルフォもそれを考えていたのだ。
「分からなくなるって?」
「沈黙冠が、ボクの名前を隠したり、消したりしたら」
「……」
「エイジがボクを見ても、ボクの名前を思い出せなくなったら」
想像するだけで、胸が冷える。
アストルフォが目の前にいるのに、その名前を呼べない。
桃色の髪も、明るい声も、手の温度も分かるのに、名前だけが抜け落ちる。
それは、ただの記憶喪失ではない。
関係の輪郭を奪われることだ。
衛二は少し考えた。
「多分、怖い」
「うん」
「すごく怖い」
「うん」
「でも、名前を思い出せなくても、探す」
アストルフォの目が揺れる。
「探す?」
「ああ。声とか、手の温度とか、一緒に食べた弁当とか、契約再確認とか。名前そのものが隠されても、名前に繋がるものを辿る」
衛二はアストルフォを見る。
「それで、もう一度呼ぶ」
アストルフォの瞳に、少し涙が浮かぶ。
「もう一度?」
「ああ。何度でも」
衛二は手を差し出した。
「俺は、アストルフォの名前を一回呼んで終わりにしたくない。今日も、明日も、何度でも呼びたい」
アストルフォはその手を取った。
「エイジ」
「うん」
「ボクも、エイジの名前を何度でも呼ぶ」
「名前を忘れたら?」
「忘れたくない」
「もし隠されたら?」
「探す」
「どうやって?」
アストルフォは少し考えた。
それから笑った。
「エイジの手を握る。シロウのご飯を一緒に食べたことを思い出す。怖い時にボクを呼んでくれた声を思い出す。屋上で恋人になったことを思い出す」
彼は衛二の手をぎゅっと握った。
強すぎない。
でも、確かに。
「それで、もう一回呼ぶ」
衛二の胸が温かくなる。
「うん」
「エイジ」
「アストルフォ」
二人は屋上で名前を呼び合った。
恋人という名前を得た二人が、互いの名前をもう一度確かめるように。
◇
放課後。
柳洞寺の境内には、灰色の影が落ちていた。
空は晴れている。
夕日も差している。
それなのに、鐘楼の下だけが色を失ったように見えた。
石畳に、灰色の花弁が散っている。
本物の花ではない。
霊的な残響が形を取ったものだ。
ユイはそれを見て、表情を険しくした。
「欠名花の影響が地上まで漏れている」
ミライが花弁を見つめる。
「名前を失った願いが、庭の外へ出ようとしている」
柳洞悠馬は宗真と並んで鐘楼の前に立っていた。
今日は彼も緊張した表情をしている。
「今朝から、寺の古い過去帳の文字が一部読めなくなっている」
「過去帳?」
衛二が聞く。
宗真が頷いた。
「亡くなった方々の名を記したものです。すべてではありません。数名分だけ、墨が滲んだように読めなくなっていました」
名前が読めなくなる。
沈黙冠の問いは、すでに地上へ影響し始めている。
柳洞が静かに言った。
「父は朝から、その名前を思い出そうとしていた。読めないだけで、忘れたくないと」
宗真は穏やかに頷く。
「名は、ただの文字ではありません。呼び、祈り、覚えているための道です」
衛二はその言葉を胸に刻む。
名は道。
失われても、辿る道。
アストルフォが衛二の手に触れる。
「行こう、エイジ」
「ああ」
凛が念を押す。
「二人とも、名前を呼び合い続けなさい。沈黙冠が名前に干渉してくる可能性が高い」
「分かった」
「アストルフォ、衛二の様子が少しでもおかしくなったらすぐ呼び戻すこと」
「うん!」
「衛二、アストルフォの名前が曖昧になったら、無理に力で取り戻そうとしない。手がかりを辿りなさい」
「手がかり……」
凛は頷いた。
「あなたたちが積み重ねてきたものよ」
衛二はアストルフォを見る。
アストルフォも衛二を見る。
積み重ねてきたもの。
手の温度。
契約再確認。
弁当。
屋上。
怖い時の声。
好きが増えるという言葉。
恋人になった夕方。
それらが、名前への道になる。
一行は石扉を開き、返事の庭へ下りていった。
◇
返事の庭は、灰色の霧に覆われていた。
白い花々は咲いている。
だが、その花弁の一部から文字が消えていた。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
その言葉の中に、ところどころ空白がある。
誰にありがとうを言いたかったのか。
誰へごめんと返したかったのか。
誰を忘れないと誓ったのか。
名前だけが、抜け落ちている。
黒い丘の根元には、恋人の花が咲いていた。
桃色と蒼の花。
だが、その周囲に灰色の花が芽吹いている。
中心に穴のある花。
欠名花。
花弁には何も刻まれていない。
ただ、名前を失った後の空白だけがある。
沈黙冠の問いが響く。
――愛した名が失われた時、人はその名をどう呼ぶ。
灰色の霧が揺れた。
瞬間、衛二の手の中からアストルフォの温度が薄れた。
「っ……!」
衛二はすぐに横を見る。
アストルフォはいる。
桃色の髪。
宝石のような瞳。
いつもの服。
心配そうな表情。
いる。
いるのに。
名前が、喉の手前で止まった。
「……」
呼ぼうとした。
だが出ない。
衛二の胸が冷たくなる。
アストルフォが目を見開いた。
「エイジ?」
その声は聞こえる。
でも、衛二は彼の名前を言えなかった。
喉の奥に、灰色の霧が詰まったようだった。
凛が叫ぶ。
「始まったわ!」
ユイが言う。
「欠名花が名前を隠している!」
アストルフォが衛二の両手を包んだ。
「エイジ、ボクを見て」
「見てる」
「ボクの名前、呼べる?」
衛二は息を吸った。
呼びたい。
呼べるはずだ。
何度も呼んできた。
なのに。
「……っ」
名前が出ない。
アストルフォの瞳が揺れる。
怖い。
でも、彼は逃げなかった。
「大丈夫」
アストルフォは言った。
「探そう」
その一言で、衛二ははっとした。
昼休み、二人で話した。
名前が隠されたら、手がかりを辿る。
衛二はアストルフォの手を握った。
この手。
何度も自分を呼び戻した手。
契約記念のぎゅー。
旧音楽室での抱擁。
冬木大橋地下で縛られた時、こちらを呼んだ声。
屋上で、恋人になりたいと答えてくれた涙。
桃色。
明るい声。
すぐ褒める。
甘やかし予約。
最高のサーヴァント。
恋人。
衛二は一つずつ辿った。
灰色の霧が濃くなる。
沈黙冠の問いが囁く。
――名がなければ、関係はほどける。
違う。
衛二は心の中で答える。
名前が隠されても、そこへ至る道は消えない。
彼の笑顔。
彼の声。
彼の手。
そして。
衛二は思い出す。
初めて召喚した夜。
桃色の髪の騎士が、明るく笑って言った。
ボクのマスターに乱暴するのは禁止。
あの瞬間の眩しさ。
名前。
名前。
名前。
衛二は息を吸った。
「アス……」
霧が震える。
「アスト……」
アストルフォが衛二の手を握る。
「うん。ゆっくりでいい」
衛二は目を開け、彼を見る。
恋人。
自分で選んで隣にいてくれる人。
「アストルフォ」
言えた。
その瞬間、灰色の霧が裂けた。
アストルフォの瞳から涙がこぼれる。
「うん!」
彼は衛二を抱きしめた。
「聞こえた。エイジ、呼んでくれた」
「アストルフォ」
「うん」
「アストルフォ」
「うん、ここにいるよ」
衛二は何度も呼んだ。
呼ぶたびに、名前が手の中へ戻ってくる。
欠名花の一輪が、灰色から白へ変わりかけた。
だが、沈黙冠はそれで終わらない。
今度はアストルフォの表情が変わった。
彼の瞳が揺れる。
「……あれ?」
「アストルフォ?」
「エイジ、待って」
アストルフォが衛二の顔を見る。
目の前にいるのに。
彼の唇が震える。
「ボク、エイジの名前が……」
衛二の胸が凍る。
今度は、アストルフォから衛二の名前が隠された。
「大丈夫」
衛二はすぐに言った。
「探そう」
アストルフォは頷く。
でも、明らかに怖がっている。
名前が出ない。
恋人の名前が、喉に引っかかっている。
アストルフォは衛二の手を握る。
「手……」
「ああ」
「この手、知ってる」
「うん」
「怖い時、握ってくれた。強すぎたら、ちゃんと緩めてくれた。ボクに選ばせてくれた」
「うん」
「シロウのお弁当、一緒に食べた。屋上で、ボクを恋人にしてくれた」
「うん」
アストルフォの声が震える。
「ボクのこと、最高のサーヴァントって言ってくれた」
「言った」
「恋人って、呼んでくれた」
「ああ」
アストルフォは涙をこぼしながら、衛二の胸に手を当てた。
「ここにいる」
「うん」
「ボクが好きな人」
「うん」
「ボクが選んだマスター」
「うん」
「ボクの恋人」
衛二は静かに待った。
アストルフォが自分で辿るのを。
アストルフォは顔を上げる。
「エ……」
霧が揺れる。
「エイ……」
彼は歯を食いしばる。
「エイジ!」
その名前が、返事の庭に響いた。
衛二の胸が熱くなる。
「ああ。ここにいる」
「エイジ!」
「アストルフォ」
「エイジ!」
「アストルフォ」
二人は名前を呼び合った。
何度も。
何度も。
灰色の霧が薄れていく。
欠名花の花弁に、少しずつ文字が浮かび始めた。
名前そのものではない。
だが、名前へ続く言葉。
呼ぶ。
探す。
覚えている。
もう一度。
ユイが震える声で言った。
「名前を失っても、呼び直す道を返した……」
ミライが頷く。
「名前は、消えないものではなく、呼び続けるもの」
凛が宝石を構える。
「いいわ。今なら灰色の霧を押し返せる」
士郎が双剣で霧の流れを断つ。
凛の宝石魔術が欠名花の周囲に光を流す。
ユイとミライが返事の庭の花々を安定させる。
だが中心にいるのは、衛二とアストルフォだった。
二人は手を繋ぎ、互いの名前を呼び続ける。
「アストルフォ」
「エイジ」
「アストルフォ」
「エイジ」
呼ぶたびに、恋人の花が強く光る。
桃色と蒼の光が、欠名花へ届く。
灰色の花は完全には白くならない。
名前を失った痛みは、消えない。
だが、その中心の穴に小さな光が灯った。
失われた名を、もう一度呼ぶための光。
欠名花は、その形を変えた。
中心に穴を持ったまま、その縁に淡い光を宿す。
穴をなかったことにはしない。
けれど、穴の周りに道を作る。
沈黙冠が大きく震えた。
――名を失ってなお、呼ぶというのか。
衛二は答えた。
「呼ぶ」
アストルフォも言った。
「何度でも呼ぶ」
「忘れたら探す」
「隠されたら辿る」
「失った痛みを、なかったことにはしない」
「でも、名前まで沈黙に渡さない」
二人の声が重なる。
「もう一度、呼ぶ」
その瞬間、灰色の霧が大きく晴れた。
◇
返事の庭の奥で、新しい花が咲いた。
灰色の花。
中心には小さな穴がある。
けれど、その穴の縁には、桃色と蒼の光が巡っている。
花弁に刻まれた言葉は。
――もう一度呼ぶ。
それは、失われた名への返事だった。
完全な救済ではない。
名前を失った痛みが消えるわけではない。
呼べなかった時間が戻るわけでもない。
それでも、呼び直すことはできる。
探し直すことはできる。
名前へ続く道を、もう一度歩くことはできる。
ユイはその花を見て、静かに涙をこぼした。
「返事の庭が、欠落を抱えたまま咲くことを覚えた」
ミライが隣で頷く。
「穴があっても、花になれる」
凛は深く息を吐いた。
「また面倒で優しい答えを見つけたわね」
士郎は衛二を見る。
「よく呼び戻したな」
衛二はアストルフォの手を握ったまま頷いた。
「一人じゃ無理だった」
アストルフォが言う。
「ボクも、エイジが待ってくれたから呼べた」
二人は顔を見合わせる。
名前を呼ぶ。
それは、ただの確認ではない。
選び続ける行為なのだ。
◇
柳洞寺の境内へ戻ると、夕暮れの色が鐘楼を包んでいた。
石畳に散っていた灰色の花弁は薄れている。
完全には消えていない。
だが、そこには小さな光が混じっていた。
宗真がゆっくりと息を吐く。
「過去帳の文字が、少し戻りました」
「全部ではないんですか?」
衛二が尋ねる。
宗真は頷いた。
「はい。まだ読めない名もあります。けれど、滲んでいた墨の中に、線が戻り始めています」
柳洞悠馬が言った。
「父が、読めない名前を何度も辿っていた。思い出せなくても、忘れたくないと言いながら」
衛二は胸に手を当てる。
忘れたくない。
それも、名前へ続く道なのだろう。
アストルフォが小さく言う。
「エイジ」
「何?」
「名前、呼んで」
「アストルフォ」
「うん」
「アストルフォ」
「うん。ボクも呼ぶ」
彼は衛二の手を握った。
「エイジ」
「ああ」
「エイジ」
「ここにいる」
柳洞が少し視線を逸らした。
「境内で堂々とやるな」
アストルフォが赤くなる。
「ご、ごめん」
衛二も少し照れた。
「悪い」
しかし宗真は穏やかに微笑んでいた。
「よいのです。名を呼ぶ声は、寺にとって悪いものではありません」
その言葉に、アストルフォは嬉しそうに笑った。
◇
遠坂邸へ帰った夜。
リビングでは、欠名花についての報告がまとめられていた。
恋人の花。
欠名花。
もう一度呼ぶ花。
返事の庭は確かに変わり続けている。
だが、沈黙冠もまた形を濃くしている。
ユイは険しい表情で言った。
「沈黙冠は、もう問いを投げるだけの残響ではなくなりつつある」
「実体化する可能性がある?」
凛が問う。
ユイは頷く。
「おそらく。返事の庭が新しい答えを得るたび、沈黙冠もそれを否定するために輪郭を強めている」
ミライが言う。
「最終的には、返事の庭そのものを沈黙させようとするはず」
士郎が双剣の感触を確かめるように手を開く。
「次からは、問いだけでは済まないかもしれないな」
衛二はアストルフォの手を見る。
今日、名前が隠された。
それでも呼び戻した。
しかし次は、もっと深く来る。
恋人になったことで強くなった。
でも、弱点も増えた。
衛二はその両方を受け止める。
「アストルフォ」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「俺も」
「でも、名前は呼べる」
「ああ」
「呼べなくなっても、探せる」
「探す」
アストルフォは微笑む。
「恋人になってから、怖いこと増えたね」
「そうだな」
「でも、嬉しいことも増えた」
「俺もそう思う」
凛が二人を見る。
「その確認、毎回するつもり?」
アストルフォは元気よく言った。
「します!」
「即答ね」
「大事だから!」
凛は呆れながらも、少しだけ笑った。
「なら続けなさい。沈黙冠相手には、それくらいしつこい方がいいわ」
◇
夜。
衛二の自室。
アストルフォは隣に座っていた。
今日は二人とも、少し疲れていた。
名前を隠される感覚は、想像以上に怖かった。
目の前にいるのに呼べない。
名前が喉から消える。
それは、心の中に穴が開くようだった。
でも、もう一度呼べた。
衛二は隣にいるアストルフォを見る。
「アストルフォ」
呼ぶ。
アストルフォはすぐに顔を上げた。
「なあに、エイジ」
返事がある。
それだけで胸が温かくなる。
「呼びたかっただけ」
アストルフォは一瞬目を丸くし、それから幸せそうに笑った。
「じゃあ、ボクも」
彼は衛二の手を握る。
「エイジ」
「ああ」
「呼びたかっただけ」
衛二は笑った。
アストルフォも笑う。
その笑いは静かで、柔らかかった。
「今日、怖かったね」
アストルフォが言う。
「ああ」
「エイジの名前、出なくなった時、すごく怖かった」
「俺も。アストルフォの名前を呼べなくて怖かった」
「でも、探せた」
「ああ」
「名前って、ただ覚えてるだけじゃないんだね」
アストルフォは指先で衛二の手の甲をなぞる。
「一緒に過ごした全部が、名前に繋がってる」
「そうだな」
「シロウのご飯も、屋上も、ぎゅーも、契約再確認も、全部」
「甘やかし予約も?」
「もちろん!」
衛二は少し笑った。
「じゃあ、忘れられないな」
「忘れさせないもん」
アストルフォは少しだけ胸を張る。
けれどすぐに、柔らかい声になる。
「でも、もし忘れたら、一緒に探す」
「ああ」
「一人で思い出せなくても、二人なら辿れる」
衛二は頷いた。
「アストルフォ」
「うん」
「恋人になってよかった」
アストルフォの瞳が大きく揺れた。
そして、顔が一気に赤くなる。
「エイジ、急に」
「言いたかった」
「……うれしい」
「アストルフォは?」
「ボクも、恋人になってよかった」
彼は少し照れながら続けた。
「名前がついたから、怖いことも増えた。でも、エイジがボクの恋人って思うと、すごく嬉しい。ボクがエイジの恋人って言えるのも、すごく嬉しい」
衛二の胸が温かくなる。
アストルフォは少し身を寄せた。
「ぎゅーしていい?」
「いいよ」
アストルフォは衛二を抱きしめた。
衛二も抱きしめ返す。
今日の抱擁は、名前を確かめるためのものだった。
ここにいる。
名前がある。
呼べる。
呼び返してもらえる。
アストルフォは衛二の額にそっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
静かな声。
「ボクはエイジのサーヴァント。そして、エイジの恋人。もし名前を隠されても、エイジへ続く道を探す。手の温度も、声も、ご飯も、屋上も、全部辿って、もう一度呼ぶ」
衛二は目を閉じる。
「俺も、アストルフォのマスターで、アストルフォの恋人だ。アストルフォの名前が見えなくなっても、アストルフォへ続く道を探す。笑顔も、手も、甘やかしも、契約再確認も、全部辿って、もう一度呼ぶ」
アストルフォの腕が少し強くなる。
「力加減は?」
衛二が聞く。
「ちょうどいい」
「よかった」
「エイジも?」
「ちょうどいい」
二人はそのまま、しばらく静かに寄り添っていた。
◇
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
もう一度呼ぶ花が、恋人の花の隣で静かに揺れている。
灰色の花弁。
中心の小さな穴。
その縁を巡る桃色と蒼の光。
沈黙冠は、もはや揺れるだけではなかった。
黒い丘の上で、その冠はゆっくりと下降している。
まるで、誰かの頭上に置かれるのを待つように。
返事の庭全体が震える。
次の問いは、言葉ではなかった。
沈黙そのものが、庭に降りてくる。
名前を呼べるなら。
失った名をもう一度呼べるなら。
ならば。
声そのものを奪われた時、人はどう返事をする。
白い花々が一斉に沈黙した。
ありがとうも。
ごめんも。
聞こえたも。
忘れないも。
すべての返事が、一瞬だけ音を失う。
沈黙冠が、ついに庭へ降り始めた。