私が暁人さんと同棲し始めたのが、七月半ばだった。
まず、マンションの付近にある店など、土地に慣れてほしいと言われ、実際にホテルで働くのは八月頭からとなった。
それまでの間、私は散歩がてらにスーパーやコンビニ、郵便局などの場所を覚えた。
キッチンにも私がよく使う調理器具が増え、新鮮な食材も冷蔵庫に入り、調味料も使いやすい配置にセットされた。
彼も料理はできるらしいけれど、多忙を極めているから気が向いた時しかしないらしい。
だからキッチンのどこに何を置くかなども、私の好きにしていいとの事だった。
暁人さんと体を重ねた翌日の夜は、彼のリクエストでハンバーグを作った。
口に合うか緊張したけれど、「美味い」と言ってくれて安心した。
ちょっとしたこだわりだけれど、タネを形成する時に手に油を塗っておくと、焼いている時に中の肉汁が外に出ず、パンパンに膨らんだハンバーグができあがる。
食べる時は肉汁がドバーッと滝のように溢れるので、自己流ハンバーグの自慢ポイントだ。
他にも煮物やオムライスなどのベーシックな洋食、丼ものに中華などを作った時も、暁人さんはすべて「美味い」と嬉しそうに言って食べてくれた。
どうやら好き嫌いはないようで、そこも嬉しかった。
最初に『料理を作ってほしい』と言われた時は、プロ並みの腕を期待されているのかと思って不安だった。
それを伝えると、「子供の頃は母が作ってくれた料理を食べていたし、金持ちだからって家庭料理を食べない訳じゃないんだよ」と笑われてしまった。
暁人さんと一緒に暮らして分かった事だけれど、彼は思っていた以上に自然体の男性で、一緒に過ごすのがとても楽だった。
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やがて出勤日が訪れ、私は自転車で〝エデンズ・ホテル東京〟まで向かい、支給された制服に着替えたあと、指導員に挨拶をした。
私と暁人さんが同棲している事は、秘書や総支配人ぐらいしか知らないらしい。
だから『安心して勤務して』と応援(?)された。
仮に勤務時に暁人さんと遭遇する事があっても、〝面接で会っただけの副社長と社員〟として接すると決めている。
ホテルスタッフには、ドアマン、ベルスタッフ、フロント、清掃員の他に、キッチン関係、宴会担当、ブライダル担当の部門に別れている。
会社としては、他の会社のように営業や広報、人事、総務、経理などがある。
暁人さんは普段、神楽坂グループの本社ビルにいて、全国または海外にあるリゾートホテルなどにも出張に行き、現地の責任者やスタッフたちと確認、打ち合わせをしているようだ。
今は大体の連絡はリモートでできるけれど、顧客情報などネットで扱ってはいけないものもあるし、現地に行かないと分からないものは沢山あるので、彼は思っていた以上に頻繁に出張に行っている。
私は〝ゴールデン・ターナー〟で三年間フロントを勤めていた経歴を見込まれ、即戦力としてフロントに配置された。
けれど経験はあっても〝エデンズ・ホテル東京〟では新人なので、先輩フロントの様子を見ながら、当面の間は補助をメインに仕事を覚えていく事になった。
どんな仕事をするかを分かっていて、接客能力があるとしても、それぞれのホテルのやり方があるので、まずはそれを理解しなければならない。
特に私が元勤めていたホテルはアメリカのホテルなので、海外と日本の違いは大きい。
「三峯さん、NYのホテルにいたんですって? 格好いい! 近いうちに歓迎会があるから、その時にでも話を聞かせてください!」
休憩時間に話しかけてくれたのは、私より二つ年下の木下さんだ。
「ぜひ。……と言っても、あちらでフロントを務めていたのは三年なので、新人の失敗談が多いですよ。もう少し勤続できていたら、武勇伝をお話できたかもしれませんけど」
「あはは! 面白い! でも、失敗談も勉強になりますから、ぜひ聞きたいです」
「そう言ってもらえて嬉しいです」
フロントのメンバーは、木下さんの他に二十代の男性と、四十代半ばの女性がいる。
広々としたロビーにはコンシェルジュもいて、さりげなくこちらの様子を窺っては私の働きぶりをチェックしている。
(早く慣れて、皆さんの手を煩わせないようにしないと)
私は心の中で気合いを入れ、休憩のあとまたフロントに立ち、ロビーに入ったお客様に向かって丁寧に一礼した。
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