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◇◇◇◇
セレナは、気配を殺すようにして兵舎へと忍び込んだ。
夜の城は静まり返っている。だが、その静寂の中にも、見張りの足音や、遠くで交わされる声が微かに混じっていた。
見つかってはいけない。
特に、レオニスには。
そのために、隣を歩く男の存在は欠かせなかった。
フェンはセレナに呆れながら、廊下を先導する。
靴音を極力殺しながら、それでもどこか落ち着かない様子で、ひそひそと声を落とした。
「これが陛下にバレたら、俺、殺されるんじゃねぇかな」
「大丈夫よ。レオニス様は、こんなことで怒るような人じゃないわ」
セレナは小さく微笑みながら答える。
だがフェンは、納得していない顔をする。
「ほんとかよ。俺たち兵は、戦で負った傷をセレナに治させるなって、王命まで出たんだぞ」
「だから毎夜、自然治癒を助けるだけにしてるじゃない。完璧には治してないわ」
「屁理屈」
セレナはわずかに目を細める。
「それにこれはフェンにしか頼めないの」
「……ちっ。しょうがねぇな」
小さく吐き捨てるように言いながらも、足は止まらない。
兵の寝室は全部で十二。
そのうちの八つは、すでに回り終えていた。
フェンが次の扉に手をかける。
軋みを抑えるように、慎重に開き、中を覗く。
数秒の沈黙。
やがて彼は小さく頷き、廊下へ戻った。
「……よし、こい」
「はい」
セレナは頷き、静かに室内へと足を踏み入れる。
部屋の左右には二段ベッドが並び、それが奥へと続いている。
全部で八台、十六人が眠れる造りだった。
そのすべてが、埋まっている。
兵舎の中は、寝息だけが満ちていた。
規則正しく並んだ寝台の上で、男たちが深い眠りに沈んでいる。
鎧を脱ぎきれぬままの者。包帯を巻いたままの者。
疲労と痛みを抱えたまま、ただ眠りに落ちた身体。
セレナは、音を立てないように扉を閉める。
起こさない。
それだけを意識して、ゆっくりと部屋の中央へ進んだ。
視線の先、包帯の隙間から滲んだ血が目に入る。
「無理しすぎよ」
誰に届くわけでもない声。
セレナは胸の前で、そっと手を重ねる。
詠唱はしない。
強く願いもしない。
ただ、呼吸を整える。
その瞬間、空気が、わずかにやわらいだ。
セレナの手の奥に、かすかな光が滲む。
灯りのように明るいものではない。
月明かりが溶けて、空気そのものに混ざったような淡く、やさしい光。
気づかなければ見落としてしまうほどの微かな輝きが、静かに広がっていく。
床をなぞり、寝台を伝い、眠る兵たちをそっと包み込む。
荒れていた呼吸が、少しずつ穏やかになる。
大きないびきは静まり、こわばっていた眉間がゆっくりとほどけていく。
痛みは消えない。
これは治癒ではない。
回復する時間を、少しだけ早めるだけの、ささやかな奇跡。
セレナは目を閉じたまま、呼吸を合わせる。
朝になれば、ほんの少し楽になったと感じる程度でいい。
それが、この場で許される、唯一の魔法だった。
やがて、満ちていた光がゆっくりと薄れていくと、何もなかったかのように消えていった。
「……次、行きましょう」
目を開き、セレナは振り返る。
何も変わっていないように見える光景。
兵たちはただ、寝息だけが、少し穏やかになっていた。
「……これで、少しは」
小さく呟き、踵を返す。
扉に手をかけ、音を殺して開く。
外へ出ようとした、その瞬間。
「少しは……何だ?」
圧を帯びた声が、すぐ目の前から落ちてきた。
扉の影に、ひとつの影。
壁に背を預けるように立っていたのは、レオニスだった。
「陛下……」
「げっ……!」
セレナとフェンの声が、同時に漏れる。
声に反応して、起きるものはいなかった。
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#希望
#感動的