テラーノベル
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王宮の大階段を、三人で並んで降りていく。朝日が、血の匂いを優しく溶かしていく。黒百合の旗はもう、誰にも降ろされずに風にはためいていたが、その下を歩く私たちの影は、もう敵じゃなかった。ヴィンセントは左肩を押さえ、それでも背筋を伸ばして、ゆっくりと歩いた。紫の瞳はまだ濁っているけれど、そこに宿るのは、もう復讐の炎だけじゃない。
レオンが振り向くとヴィンセントは無言だが確かに「ありがとう」と呟いた。この国の未来は、朝日のように眩く優しい光に包まれることだろう。
広場では、要塞の仲間たちが、リバーが、待っていた民たちが、静かに、私たちを迎えた。鐘が鳴る。八つ。新しい朝だ。私は深く息を吸って、空に向かって叫んだ。
「終わったよ!!もう、誰も死なせない!!」
その声に、広場に集まった人々が、最初はぽつり、ぽつり、やがて、大きな歓声となって応えた。涙と笑いと拍手が、王宮の石壁を震わせる。ただ、牢獄に繋がれたオルファ侯爵がどうなるかは、神のみぞ知る……だ。
天窓から差す一筋の陽光が埃を金色に染め、キラキラと舞う中を、深緑のフードを目深に被った背の低い老人がゆっくりと、一人の青年に手を翳す。腰が曲がり、黒いローブの裾が床を擦る……ロバ宰相だ。
右手に握られた古びた杖の先端には、大きなエメラルドが鈍く光っていた。
「こりゃ……またレオンに瓜二つだね」
担架を運んで来た男が小さく頷くと、老人は杖を握りしめたまま、ゆっくりと担架に近づいた。深緑のフードをわずかにずらし、皺だらけの顔を覗かせる。枯れた唇が動き、誰にも聞き取れぬ古い言葉が低くこぼれ始めた。
「……でた、ロバ爺ちゃんの魔法」
私は思わず呟いた。エメラルドの先端が仄かに緑の光を灯し、苦しげな呼吸、蒼白の額に杖を翳す。ロバ宰相の声が一段と低く、部屋の空気を震わせる。「アウルの森の精霊の、御心のままに」その瞬間、緑の光が口に流れ込み、苦しげな息がぴたりと止まった。王太子の替え玉だった青年の名はダントン。ダントンの苦悶の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「すごい……ロバ爺ちゃん、すごい!」
思わず声が飛び出した瞬間、バイキングの巨大な手が私の口を慌てて塞いだ。老人はフードを深く被り直し、杖に皺だらけの顎を乗せて、ニヤリと笑った。歯の欠けた口元が不気味に歪む。
「爺ちゃんじゃねぇ。ロバ宰相様って呼べって言ったろ?」
「……そうだった、ごめん」
ロバ宰相はゆっくりと杖を掲げた。先端のエメラルドが、ぴたりと私の額の前に止まる。冷たい緑の光が瞳に映る。老人は私の目をじっと覗き込み、にやりと笑った。
「お主……もう一人はどうした?」
「……は、はい!?」
一瞬、空気が凍った。
「もう一人の女がおらぬ」
私は両手で自分の頬をパチン!と叩いて、目を思いっきり見開いた。
「え……ええええっ!?」
ロバ宰相は「ふっふっふ……これは愉快じゃ、愉快じゃ」と低く喉を鳴らし、ローブの裾を床に引きずりながら、エメラルドの光と共に仄暗い廊下の奥へと消えていった。杖の音がトク、トク、トク……と遠ざかり、最後にぴたりと止む。ギィ バタン 扉の閉まる音が響いた。
「もう一人の女って何のことだ?」
バイキングが首を傾げて、角付きの帽子をがしがし掻いた。
「い……いやぁ、何のことかな?」
私は自分の胸に手を当てて、ドクン、ドクン、と鳴る鼓動を確かめた。……確かに、オランジェットの涙も、悲しみも今は静かに寄り添ってくれている。まさか……私、本当のオランジェットになったってこと!?私がパニックを起こしていると、足音が近づいた。
「オランジェ……ちょっと良いかな?」
レオンの手が肩に置かれた。私は、思わず彼の顔を見上げた。金色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。もう『影武者』でも『護衛騎士』でもない、アレクシス王太子として。王太子……身分の違いに距離を感じて切なくなった。
「えへへ……私、もうオランジェットじゃなくて、獅子頭橙子でもなくて……」
言葉が詰まる。
「でも、どっちでもないってわけじゃなくて……どっちも私で……」
レオンは静かに笑った。
「知ってるよ……君は、もう最初から“オランジェット”だった」
彼は私の手をそっと取り、指と指を絡めて、ぎゅっと握った。
「オランジェット伯爵令嬢」
私は、一瞬、息を止めた。朝日が街の石畳を金色に染め、風に乗って薔薇の香りが漂う中、レオン(アレクシス王太子)が、私の前で片膝をついている。金色の髪が風に揺れ、汗ばんだ手が、でも確かに私の指を包んでいる。
「……レーヴェンシュタインの王妃に、なってくれますか、オランジェット?」
その声は、もう王太子のものではなく、ただの、恋する青年の声だった。私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。オランジェットの涙も、獅子頭橙子の怒りも、全部が今は優しい鼓動に変わって「はい」と答えるのを待っている。私は、ゆっくりと、彼の前に跪いた。同じ高さで、同じ目線で、同じ笑顔で。
「……いいわ、レオン」
私は彼の手を両手で包み、額をそっと彼の額にくっつけた。
「ずっとあなたの隣にいさせて」
レオンの瞳が、涙で揺れて、でも、世界で一番幸せそうに笑った。そして朝の光の中、二人は初めてただの恋人同士として、静かに深くキスをした。
広場からバイキングの「うおおおおお!!」という歓声と、リバーの照れ臭そうな拍手と、みんなの笑い声が空高く舞い上がった。新しい王妃は、もう“完璧な令嬢”なんかじゃない。
泥だらけで傷だらけで、でも誰より強く、誰より優しく、誰より自由な、私のオランジェット・ドナーだった。
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